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木蓮屋敷5
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綾さまは身体が弱く外には出られないと言われていた。だが山口先生は前からその話に懐疑的で、よくちゃんとしたお医者様に見せるべきだと主張していた。綾さまは嫌がってきた。
「いいの。わたしはお外なんて出たくないから。一生この屋敷でいとと一緒にお花見をするの」
お花見と言っても屋敷をぐるっと囲んでいるのは桜ではなかった。綾さまのお祖父様がお好きだったからと植えられたのだという白木蓮がこの屋敷をぐるっと取り囲んでいる。一年のうちわずかに二、三日しか咲かないこの白木蓮が咲く日を綾さまは心待ちにしていて、その日は日の当たる南の座敷で過ごすのだそうだ。この屋敷は別名を木蓮屋敷というのだということは出入り業者の誰かから聞いた。野崎様、木蓮様、木蓮屋敷、などと呼ばれているらしい。その時期が近づいてくると山口先生は言った。
「毎年あの南側のお座敷で日に当たって過ごしてもなんともないのだったら、けして日に当たることが悪いなんてことありませんよ。医者の見立て違いでしょう。綾さまもお屋敷に閉じこもってないで少しはお外に御出になられたほうがよいのですよ」
綾さまは先生の言うことは聞き流した。お花見が楽しみでそれどころではなかったのだろう。
木蓮が咲き誇る数日間のお昼は、台所を取り仕切るきよさんが腕によりを振るったお花見弁当だった。それを二人で南の縁側でのんびり食べた。木蓮の香りはこんなに強いんだなと思った。すごく甘い香りが庭に充満していてそれだけで酔いそうになる。きよさんご自慢の甘酒の甘さ、花の香り、白くて大きな花びら、どれも今まで味わったことのない特別なものだった。綾さまもこの数日はずっと上機嫌で、熱を出すこともふさぎ込むこともなく、ずっと笑ってばかりいて、それを見ているだけでわたしは幸せな気持ちになれた。
天真爛漫な綾さまだったが、父上と兄上が屋敷に戻ってこられるという話が舞い込んできた折には顔を曇らせた。曇らせたというより怯えに近い。瞬時に身体を固くしたのをわたしは感じた。
「いつなの?電報が来たの?」
「夏だそうです。兄上は長くご滞在に。父上は時期は不明です」
「長いの…」
綾さまは黙り込んだ。その日はずっと沈んで過ごされていた。
ところが翌日、綾さまは満面の笑みでわたしに言った。
「いいことを思いついたの。とってもいいこと。いと、鎌倉の別荘に行きたくない?」
鎌倉?一体何のお話だろう。
「鎌倉にね、別荘があって小さい頃行ったきりなのだけど、この前も全くお熱でなかったでしょ?きっと身体も丈夫になってきていることだし、日差しだけ気をつけて移動すれば行けると思うのよ。お兄様と長い間顔合わせるのは絶対に嫌だし、向こうもきっと嫌だと思うのよ。お友達連れてきたり騒いだりやかましくするし本当に嫌なの。だから、お父様にお手紙を書いてその頃別荘を使わせてもらおうと思って。いとが付いてきてくれたら私だって家のことも身の回りのこともできるし、先生にももちろん一緒に来てもらうし、だから行きましょうよ」
それから鎌倉行きのことはとんとん拍子に話が進んだ。この町から出たこともなかったわたしが汽車に乗って鎌倉で夏を過ごしに行くなど、母が聞いたらどれほど驚くだろうか。いや母はわたしのことなど興味はないのだろう。仕送りをただ送るだけで母からは文の一度も来たことはないのだから。母は字が書けないのだが頼めば誰かかわりに書いてくれる者はいる。いや、そんなことを考えるのはよそう。わたしは行ったこともない鎌倉や別荘のことで胸が踊った。いつまでもこうして楽しいままの日々でいられたらどれほどよいだろう。
「いいの。わたしはお外なんて出たくないから。一生この屋敷でいとと一緒にお花見をするの」
お花見と言っても屋敷をぐるっと囲んでいるのは桜ではなかった。綾さまのお祖父様がお好きだったからと植えられたのだという白木蓮がこの屋敷をぐるっと取り囲んでいる。一年のうちわずかに二、三日しか咲かないこの白木蓮が咲く日を綾さまは心待ちにしていて、その日は日の当たる南の座敷で過ごすのだそうだ。この屋敷は別名を木蓮屋敷というのだということは出入り業者の誰かから聞いた。野崎様、木蓮様、木蓮屋敷、などと呼ばれているらしい。その時期が近づいてくると山口先生は言った。
「毎年あの南側のお座敷で日に当たって過ごしてもなんともないのだったら、けして日に当たることが悪いなんてことありませんよ。医者の見立て違いでしょう。綾さまもお屋敷に閉じこもってないで少しはお外に御出になられたほうがよいのですよ」
綾さまは先生の言うことは聞き流した。お花見が楽しみでそれどころではなかったのだろう。
木蓮が咲き誇る数日間のお昼は、台所を取り仕切るきよさんが腕によりを振るったお花見弁当だった。それを二人で南の縁側でのんびり食べた。木蓮の香りはこんなに強いんだなと思った。すごく甘い香りが庭に充満していてそれだけで酔いそうになる。きよさんご自慢の甘酒の甘さ、花の香り、白くて大きな花びら、どれも今まで味わったことのない特別なものだった。綾さまもこの数日はずっと上機嫌で、熱を出すこともふさぎ込むこともなく、ずっと笑ってばかりいて、それを見ているだけでわたしは幸せな気持ちになれた。
天真爛漫な綾さまだったが、父上と兄上が屋敷に戻ってこられるという話が舞い込んできた折には顔を曇らせた。曇らせたというより怯えに近い。瞬時に身体を固くしたのをわたしは感じた。
「いつなの?電報が来たの?」
「夏だそうです。兄上は長くご滞在に。父上は時期は不明です」
「長いの…」
綾さまは黙り込んだ。その日はずっと沈んで過ごされていた。
ところが翌日、綾さまは満面の笑みでわたしに言った。
「いいことを思いついたの。とってもいいこと。いと、鎌倉の別荘に行きたくない?」
鎌倉?一体何のお話だろう。
「鎌倉にね、別荘があって小さい頃行ったきりなのだけど、この前も全くお熱でなかったでしょ?きっと身体も丈夫になってきていることだし、日差しだけ気をつけて移動すれば行けると思うのよ。お兄様と長い間顔合わせるのは絶対に嫌だし、向こうもきっと嫌だと思うのよ。お友達連れてきたり騒いだりやかましくするし本当に嫌なの。だから、お父様にお手紙を書いてその頃別荘を使わせてもらおうと思って。いとが付いてきてくれたら私だって家のことも身の回りのこともできるし、先生にももちろん一緒に来てもらうし、だから行きましょうよ」
それから鎌倉行きのことはとんとん拍子に話が進んだ。この町から出たこともなかったわたしが汽車に乗って鎌倉で夏を過ごしに行くなど、母が聞いたらどれほど驚くだろうか。いや母はわたしのことなど興味はないのだろう。仕送りをただ送るだけで母からは文の一度も来たことはないのだから。母は字が書けないのだが頼めば誰かかわりに書いてくれる者はいる。いや、そんなことを考えるのはよそう。わたしは行ったこともない鎌倉や別荘のことで胸が踊った。いつまでもこうして楽しいままの日々でいられたらどれほどよいだろう。
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