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第一章 異界からの姫君
第十六話
しおりを挟むふわりと内臓が浮く感覚を味わいながら、落下する。晧月に抱かれて、スリルを味わう彼女は、髪の毛を乱れさせながらも、笑っていた。
「これ、楽しゅうございます!」
「落下するのクセになっちゃったの?」
なんとも妙なものを気に入ってしまったらしい。スタッと着地した彼は、相変わらず足への負担はないらしく、そのまま歩き出した。
「どこへ行くのです?」
「内緒」
彼は、しっかりと市の体を抱き直す。
「あの、私……自分で歩けます」
「そう」
スタスタと歩く彼に、市を降ろす気は無いようだ。恥ずかしそうな市に向かって、にっこりと笑いかける。
「でも、俺が抱いて行った方が早いし。このままでいいよね」
疑問符がつかないあたり、決定事項らしい。市はがっくりと肩を落とした。市としては、この体勢はなかなか恥ずかしいのだ。決して晧月の事が嫌な訳では無い。むしろ……。
ーー私は、この方にこうして触れて頂けて、嬉しいと感じているのだろうか。
相手がエイサフや、ザァブリオなら、市はきっと嫌がっただろう。嫁入り前の女に、気安く触れるだなんて、市の時代ではありえない。農民はどうか知らないが、姫である市にとって、会ったばかりの男にこうして抱かれることは、ふしだらであった。それなのに、どうして彼が相手だと、胸の奥が嬉しい気持ちで一杯になるのか。どうして、切なくも、甘い想いが溢れ出すのか。どうして、こうも……頬が熱くなってしまうのか。
「天使、見てごらんよ。美しい薔薇園だ」
思考の渦に陥っている間に、目的の場所へ着いたようだった。
そこには、市の見慣れない花が沢山咲いていた。赤、白、黄、青といった、様々な色どりの薔薇が、満開の状態で美しく咲き誇っている。そして、何だかいい匂いが市の鼻先を擽った。きっと、その薔薇という花の香りなのだろう。
「綺麗でございます……」
うっとしとした顔で、市は薔薇の香りに酔いしれた。そんな彼女の横顔は、やはり美しくて可憐だ。長くカールした睫毛に、赤い蕾のような唇。その白い頬は感動からか、ほんのりと上気している。それを晧月は、優しい眼差しで見つめた。彼を知る国の重臣達が見たら、頭でもぶつけたのかと晧月の心配をするだろう。皇子がそんな甘い顔をするなんて!……と。そのくらい、彼はなかなか黒い一面を持っているのだが、ここに来てからはなりを潜めている。
「女の子って、こういう花とか見るの好きだよね」
「まぁ、嫌いではありませぬ。とても綺麗ですもの。でも……兄が開いた相撲大会を見る方が、わくわくしました」
市は、悪気無く言った。聞くものが聞けば、薔薇園はわくわくしないのだと、言われたように感じるだろう。だが、そこは晧月である。いちいち細かい事を気にしない彼は、キョトンと目を丸くした。
「君、ほんとに変わったお姫様だね。相撲なんて、暑苦しいだけじゃないか」
「何をおっしゃいますか!男と男の熱いぶつかり合いは、迫力がありまする!みんな、己の信念を胸に、挑んでおりました。その姿の、なんと感動すること!」
兄の信長も、殿でありながら率先して、相撲に参加していた。市は信長の正室である、お農の方の隣で、よく兄を応援したものだ。その頃を懐かしく思いながら、市はどこか遠くを見るような目をした。
「お兄さんがいるんだ?」
「はい。姉もいて、24人兄弟です。会ったことの無い兄弟もいますが……」
平成出身の久実や里奈が聞いたら、びっくりする数である。だが、晧月は驚くこと無く「ふーん」と相槌をうった。
「若君には、兄弟はおりまするか?」
「実は俺、男兄弟いないんだよ。みんな妹……それも、10人もさ」
どこか、うんざりしたように晧月は言った。
「そのうちの5人は嫁に出たけど、あとの5人はまだ城にいてね。毎日きゃーきゃー騒いでるよ」
「楽しそうですね」
「男としては、肩身が狭いけどね」
晧月は、城での妹達の様子を思い出すと、頭が痛くなる思いだった。男遊びの激しい妹は、晧月の部下にまで手を出そうとするし。泣き虫な妹は、戦帰りの返り血を浴びた晧月を見て、声が枯れ果てるほど泣き叫ぶし。噂好きの妹のせいで、侍女達が晧月に不満を言ってくる。それに、双子の妹達は、毎日のように晧月の部屋まで突撃してくる。父と一緒に、男だけで肩身の狭い思いをしたことは数知れず。そのストレスが、彼の重臣達にぶつけられているのだが、晧月に自覚はない。
晧月はそっと市を降ろすと、彼女の手を握って歩き出した。
「あそこにベンチがあるんだ」
丘の上にポツンとあるベンチには、柔らかそうなクッションが置かれている。晧月はそこに市を座らせ、自分もその隣に腰かけた。クッションの柔らかさに、市が目を見開く。
「なんと!お尻が沈んでいきまする!」
おっかなびっくりといった様子に、晧月は笑いを零した。片手で口元を隠しながらも、彼の目は笑っている人のそれだ。
「……笑わなくても」
「だって、君の反応が面白いから」
市の頬が、ポっと赤くなる。それにまた晧月が、肩を震わせた。市から彼の顔は見えなかったが、これはきっと笑われているに違いない。
「もう!笑わないで下さいませ!」
「だって、君ってほんと……可愛いからさ」
二人は顔を見合わせて、口元を緩めた。片方は愛らしく頬を染め、まるで恋人と見つめ合っているかのように……幸せそうに。そして、もう片方も、同じように幸せそうに。それでいて、宝物でも見るかのような眼差しで、女性の頬に手を添えて……。
パキリと、枝を折る音が鳴った。だが、この時ばかりは晧月は気づくことが出来なかった。
「なんだ、あれは……。何なのだ……っ!」
大きな影が、わなわなと震える。青い髪を揺らし、エイサフは唇を噛み締めていた。包帯をまいた右手に、先程摘み取った薔薇の棘がグサリと刺さる。地面に赤い花びらと、彼の血が散った。その花は、市へと贈る予定だった。
ーーこの私が……らしくもなく、姫に、謝ろうと……!自ら薔薇の花を摘み取ったというに!なんという仕打ちか!姫よ……!
目の前が白くなる。彼の体が、狂おしいほどの激情に包まれる。まるで、自分の体ではないかのように。体が熱い!目の前が熱い!頭が熱い!ぐらぐらと沸騰した想いが、溢れ出し、体を焼き尽くす。
ーーおお、許さぬ……!私には、そんな眼差しを向けてはくれなかったではないか!そんな……女の顔をして……!何故、姫は私を苦しめる……!
右手の包帯が、真っ赤な血でぐっしょりと濡れた。だが、エイサフにとっては、そんなこと気にもならない。無残に散った薔薇の花を踏み締めて、彼の氷の瞳は、狂った愛の炎で赤く染まっていた。
「待っていろ姫よ……その身を抱くは私だ」
彼の尽きぬ黒い愛の炎に、気付くものはいなかった。
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