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第一章 異界からの姫君

第十七話

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 久実は、大きな溜め息を吐いていた。原因は、燃えるような赤い髪の男……ザァブリオにある。その彼は、向かい合った席に座り、ニコニコと笑いながら久実を見ていた。隣では、桃色の髪を揺らしながら、キティーリオがもがいている。彼はザァブリオによって、片手で拘束されていた。

 「どうしたんだ、クーミン?」

 「そのふざけた呼び方を、やめて頂戴」

 「可愛い呼び方だって?そうだろう?我ながら、ナイスネーミングセンスだ!」

 高笑いするザァブリオに、久実は頭痛を覚えた。そして、今すぐ彼に、大型トラックが突っ込めばいいのにと思った。

 「お兄様!いい加減離してよぉ」

 「だめだ!離したら逃げ出すだろ!このまま、兄の腕に抱かれていろ!」

 「そんなぁ……お姉様からも何とかいってよぉ」

 「誰がお姉様よ!?」

 この兄弟のやりとりは、突っ込み不在で永遠に続きそうだ。思わず久実が突っ込みを入れるのだが、これでは顔合わせというより、お笑い芸人の打ち合わせである。

 「ややっ!クーミン、君の唇はなんて美味しそうなんだ!食べてもいいかな?」

 口説いているつもりなのか知らないが、口説き文句が気持ち悪い。久実は盛大に顔を顰めた。

 「お断りよ。隣の彼の唇でも食べてたら?」

 「ええっ!?」

 久実の言葉に、キティーリオが青ざめる。ザァブリオは一瞬キョトンとするも、独特な高笑いを響かせた。

 「ハッハッハ!キティの唇など、クーミンに比べたら、花弁とナマコ!まったく、クーミンもジョークが上手い!」

 どこが面白かったのか知らないが、どうやらウケたらしい。

 「いやぁ、ハッハッハ!流石のオレも、ナマコにキスはしたくないぞ、ハッハッハ!」

 「ちょっと、失礼」

 久実はそろりと席を立った。鈍いザァブリオは笑うのに夢中で、久実が部屋を出ていった事に気付かない。

 久実はやれやれと、溜め息混じりに、静まり返った廊下を歩く。曲がり角に差し掛かったところで、見覚えのある青色が目の前を横切って行った。

 ーーエイサフ……!?

 一瞬だけ見えた彼の顔は、まさに嫉妬に狂った男そのもの。久実の覚えている限りでは、彼は氷のように冷たげな瞳をしていたはずなのに……。それが、炎のようにゆらゆらと燃えていた。

 彼の小さくなっていく背中を目で追う。その足取りはどこか、苛立ちを含んでいる。そして、床に散る赤い血痕。

 「……穏やかじゃないわね」

 彼の気持ちが、暴走してしまっているのは、見ていてなんとなくわかる。その暴走が、自分の好きな人を傷付けてしまうのを、彼はわかっているのだろうか。

 ーー自分本位な気持ちに、呑まれてしまわなければいいけれど。

 一抹の不安を抱きながら、久実はその場をあとにした。



 その日、ラビアは機嫌が悪かった。無表情ながらも、眉は若干吊り上がり気味だし、唇の端は不満げにぴくぴくと震えている。カッカッ!と頭から湯気が出そうになるのを押さえ込みながら、早歩きで市の部屋を訪れた。

  朝食を済ませて、寛いでいた市の前に忌々しいドレスを置く。白地に、鳳凰の大きな刺繍が胸元を飾るそれは、チャイナドレスだった。赤い刺繍の色に合わせた、大ぶりのガーネットのイヤリング。金の腕輪。黒に金色の模様を入れた、靴。それらを用意し、ラビアは硬い表情で告げた。

 「本日の顔合わせは、帝国の第一皇子、渼晧月びこうげつ様とでございます」

 そう、ラビアの不機嫌な理由は、これにある。彼女にとって、敵国の憎き皇子と主人である市との顔合わせは、すっ飛ばしてしまいたいほど嫌だった。

 不機嫌なラビアに着替えさせられながら、市は無表情を心掛けていた。晧月の名前を聞いて、何故か胸が跳ねた。どうしてか、他の王子の顔合わせよりも、楽しみな自分がいる。そして、きっと、市の為に用意してくれたのだろう衣装を身に付けると、心が踊る。市の頬は、ほんのりと染まっていた。チークを塗ろうとしたラビアの手が一瞬止まる。

 ーーイチ様の頬が……赤い。

 晧月と主人の、幾度となる逢い引きを知らない彼女は、気にすること無く市の頬に、チークを薄く重ねた。きっと、気の所為だろうと気にもとめなかった。

 「そういえば、お伝えし忘れていたことがありました」

 ラビアは、市の足に靴を履かせて、主人の顔を見上げた。

 「何じゃ」

 「ガラシア王国の王子が、病に伏せておりまして……国の方へ帰っております。なので王子との顔合わせはまた後日になるかと」

 シュッタイト帝国と同盟国である、ガラシア王国。その王子は、姫君との顔合わせを全く出来ないままに、国に帰ってしまった。病だと言っていたが……。ラビアはかの王子を、頭に思い浮かべる。あの王子も色々と問題がある人物だ。きっと、病というのも嘘だろう。

 「そうか」

 市は、そっけなく返した。

 彼女にとって、ガラシア王国の王子との顔合わせなど、どうだっていいのだ。面倒くさいと思っている顔合わせが、先延ばしにされるのは嫌な気もしたが。

 「出来ました」

 ラビアは市の頭に飾りを付け、満足げに頷いた。相変わらず、美しさを損なわない市は、何を着ても良く似合う。

 「では、私は外で待機しております」

 ラビアが部屋を出ようとすると、扉がノックされた。それと同時に、晧月の声も聞こえてくる。

 ーーなんと、随分と早いご来訪なことで。

 嫌そうな顔をするラビアの背後で、市は挙動不審に目を泳がせた。そんな彼女に気付かずに、ラビアは扉を開けて、晧月を招き入れる。

 「やあ」

 晧月はニッコリと市に微笑みかけた。月明かりのように穏やかな瞳が、ゆるりと細まる。深みのある赤いチャイナ服には、彼の色と同じ銀糸で鳳凰の姿が刺繍されていた。ラビアは眉を顰める。市のチャイナドレスの刺繍も鳳凰だ。二人が並ぶとまるでつがいのように、鳳凰が見つめ合う形になる。それが、ラビアは気に食わない。美しい二人が並ぶと、お似合いだと……一瞬でも、そう思ってしまった。

 「ブロリンド産のドレスも良かったけれど、君には渼帝国のドレスが一番似合ってる」

 晧月は満足そうに、片唇を吊り上げた。

 市の肌にピタリとフィットした布地は、彼女の形の良い胸や、くびれた腰、丸いお尻を上品にかたどった。細い腕を飾る腕輪。スリットの入った部分から、むき出しの太ももが覗く。白くて柔らかそうな足は、何とも男の性を擽った。二つのお団子に結われた髪には、鈴の着いた髪飾りが付けられており、市が動けば可愛らしくチリンと鳴った。

 「肌を晒すのは、嫌でございました」

 市にとって破廉恥なドレス姿に、彼女の頬が真っ赤になる。恥ずかしそうに伏せられた目元を彩る、赤いアイシャドウ。長い睫毛が頬に影を作り、椿のような唇は震えていた。彼女は、男を惑わす花だ。晧月は、押し倒したくなる衝動を抑え込まないと、市の唇を奪ってしまいそうだった。そして、どこもかしこも、その無垢な肌を自分の色で染め上げてしまいたい。そんな欲求が頭を占める。

 「へぇ。でも、嫌ならどうしてそれを着てくれたの?」

 席について、晧月は笑みを貼り付ける。鷹のようにウサギを襲ってしまいたくなるのを、隠しながら……彼は目の前に座った女を見つめた。

 「それは……せっかく、あなたが用意してくれたから」
 
 市は、自分でも不思議だった。エイサフの時だって、肌を晒すのは嫌だったのに。何故か、晧月からのドレスはそれほど抵抗がない。むしろ、彼が選んでくれたドレスだと思うと、このドレスがとても愛しく感じる。

 ふと、晧月の顔を見た。すると、彼は見たことがないくらい、嬉しそうに笑っていた。白い歯を見せながら、彼の優しい瞳が一心に市の姿を映している。

 「そっか」

 そう、一言だけ呟いて、彼は口元を手で隠すのだった。
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