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第四章 消えた侍女
第五十三話
しおりを挟むベッドから上半身を起こして、市は窓の外を見た。桜色の空に、浅葱色の雲が広がっている。チグハグな色合いだけれど、銀色に光る太陽が桜色の空を明るく照らし、美しい。たまに空色が、無性に恋しくなる事もあるが、市は兄のいた戦国の世に帰ろうとは思えなくなっていた。
兄に会いたいのは、確かだ。うるさい侍女だと思っていたマツでさえも、恋しく思う。だが、市の心には、晧月が住み着いてしまった。彼の姿が、消えないのだ。目で追ってしまう。胸が高鳴り……傍に居たいと願ってしまう。
ーーお許し下さいませ、兄上様……。市はもう……織田家の駒にはなれませぬ……。
浅井長政との祝言など、出来ない。市は、もう帰れない。帰りたくない。晧月の傍で、彼と共に笑って生きたい。
白薔薇宮殿お抱えの医師により、市のコケていた頬には丸みが戻っていた。枝のようだった腕も、触れるとふっくら柔らかそうな女の腕だ。乾いていた唇は、赤く色付き、瑞々しい果実のように艶がある。あっと高い声を上げ、彼女は目を飴玉のように丸くした。白い頬を薔薇色に染め、キョロキョロと瞳を泳がせて長い睫毛を伏せる。
窓の外に、晧月が居た。太陽の光に反射して光る銀髪が眩しい。その整った甘い顔立ちに笑みを浮かべて、彼はいつもの様に、窓から市の部屋へと侵入してきた。
「やぁ、調子はどう?」
晧月の低いけれど、鼓膜を甘く震わせる声色が、市の頬を更に赤く染めた。窺うように見上げれば、晧月の月光に輝く瞳が、優しく見つめてくる。
「だいぶん、良くなりました……ここの医師は、とても腕が良いのですね。まるで妖術でも使われた気分です!こんなに短期間で回復出来るだなんて……」
「まぁ、白薔薇宮殿の医師は魔術を使える者が多いからね」
晧月は、市の頬に手を伸ばした。つるりとした頬は、押せば弾力があり、もっちりとしている。
ーー可愛い。
素直にそう思った。晧月は、市の頬をプニプニと押して、その感触を楽しむ。好きな子に、何でもいいから触れていたいという、男の自然現象である。
「君の頬は、お餅みたいだね」
「お、お餅……?」
「柔らかくて、触り心地がいい」
それは、褒め言葉と捉えていいのだろうか。市は、軽くショックを受けながらも、自身の頬に触れてみた。確かに柔らかいかもしれないが、女の子に言う言葉ではない。お餅だなんて、太っているという印象を受ける言葉なのだが、晧月は男女の駆け引きなどしない素直な男だ。本当に思った事がそのまま口に出るし、本人はこれで褒めているつもりなのだろう。
「良かった……本当に良くなったみたいだね。俺は、君の頬の感触を気に入っていたから……」
助け出されたばかりの市の頬は、げっそりとコケていた。その頃を思い出して、晧月は彼女の頬を両手で包み込む。
「もう、誰にも……何者にも攫わせない。触れさせない。二度と目の前で君を……失ってたまるものか」
こつんと、晧月の額が市のそれに触れた。鼻先同士が少しだけ掠めて、彼の尖った銀髪を肌に感じる。唇にかかる吐息に、市の心臓がドキリと高鳴った。
ーー近い……。
バクバクと鼓動する心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。首や耳まで赤らみ、彼女の漆黒の瞳がじんわりと濡れる。彼の甘い吐息を感じる度に、市の下腹がきゅうと締め付けられた。
「こ、晧月様……」
か細い声は、震えていた。市の様子に、晧月は頬を緩ませる。方頬に出来るえくぼ。桜色の唇から白い歯を覗かせて、彼は笑った。
「君は、ホントに可愛い」
彼の声が、いつも以上に甘さを含む。まるで、たくさんの砂糖を溶かしきったかのような甘さ。市の鼓膜から身までもが、彼の熱に溶けてしまいそうだ。
「聞いて、天使。俺は君の唯一になりたい」
額同士をくっつけたまま、彼は言葉を紡ぐ。
「どうか俺だけの、翼になって」
晧月は、市の赤い唇を指でなぞった。唇の感触を確かめるかのような触れ方に、市の瞳が羞恥に潤む。晧月は、彼女の照れを理解した上で、余裕たっぷりに笑みを浮かべた。銀色の瞳が、猛禽類のように鋭く市を見つめる。
「好きだよ、市」
その言葉に、市の体中が歓喜に震えた。喉の奥から込み上げる気持ち。彼に触れられた箇所が熱い。心臓は、けたたましく動き出し、落ち着かない。こんな気持ちは、初めてだった。晧月に出会うまで知らなかった。初めて、恋を知ったのだ。
「私も……」
彼は、静かに市の言葉を待っている。
「私も……晧月様を、お慕い申しております」
市は、幸せそうに微笑んだ。頬を薔薇色に染め、果実のような唇を緩ませて……。
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