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第四章 消えた侍女
第五十九話
しおりを挟むああ、忌々しい。あのケダモノめ!!ルビーは肩で息をしながら、自室の扉を乱暴に閉めた。激しい動悸に、胸を抑えながら、彼女はよろよろと壁にもたれ掛かる。
「あのケダモノは、私の正体に気付いている……?」
そんなまさか。ルビーは、姿見の前に立つ。どこからどう見ても、自分はただのちっぽけなルビーだ。特別なことといえば、青の一族であるが、瞳が菫色をしている事。だがこれも、母親がヘンタドリム大陸出身だと言えば問題ないはずだ。ふと、びっしょりとかいた冷や汗により、オリーブ色の肌が滲んでいることに気付く。
「しまった……!」
どうにかあの皇子には、気付かれていないだろうか。慌てて確認するが、この滲みなら大丈夫そうだ。あのままずっと皇子と居たなら、危なかったかもしれないが……。
ルビーは、布を何重にも巻き付けていた重い服を脱ぎ捨てた。頭にあるターバンを取れば、美しい菫色をした波打つ髪の毛がこぼれ落ちる。彼女はふくよかな頬に手を寄せて、顎からビリビリと皮膚を剥がした。すると、すっきりとしたシャープな輪郭が現れる。彼女の顔は、首から下の色と違い、雪のような白い肌をしていた。ルビーは、鏡越しに大きな瞳を吊り上げる。
「もう一度、念入りに支度をせねば……」
シャワーを浴びれば、首から下のオリーブ色の肌が、みるみるうちに白へと変わっていった。茶色い水が、ゴポゴポと排水溝を流れていく。タオルで髪の毛の水気をとり、体を包み込んだ彼女は、ルビーだった頃の面影などない。
シュッタイト人特有の、透けるような白い肌。波打つ菫色の髪に、アーモンド型をした同色の瞳。シャープな顎。スラリとした四肢。気弱というよりはクールな印象の彼女は、紛れもなく、かつて市付きの侍女だったラビアであった。
「目的の為ならば……私は何だって出来る」
そう自分に言い聞かせて、彼女は肌にクリームを塗り込んでいく。それは美しい白い肌をたちまちオリーブ色に染め上げた。
菫色という、特殊な色を変えることは難しく、髪の毛はターバンで隠すしかない。瞳の色はもはやどうしようもない。それならば、ラビアからかけ離れた体型に化ければ良いと考えた彼女は、太った女性のマスクを手に入れたのだ。そのオリーブ色に染まったマスクを、顔の輪郭に添わせて装着する。装着部分を粉でぼかしながら、眉をいつもより気弱そうに垂れさせた。
「私は……ただの、ちっぽけなルビー」
布を何重にも巻き付けた服を着れば、ポッチャりとした体型の侍女の出来上がりだ。どこからどう見ても、ラビアには見えない。マスクにより、視界が狭まるが、仕方がない。少しでも菫色の瞳を目立たなくするためだ。
ーーすべては……我が主君、エイサフ王子のため。
もう一度、彼に頭を垂れる事が出来るのならば、何でもしよう。
「その為にも、イチ様の部屋へ行かなくては……」
彼女は、新米侍女ルビーの皮を被って、ひっそりと自室を出て行った。
市は、目の前で忙しく動く侍女を見つめて、頬杖をついた。真面目なルビーは、休むことなく働いている。思えば、戦国の世での侍女、マツも生真面目な女であった。いなくなってしまったラビアもそうだ。つくづく自分に付く侍女は、真面目な奴が多いものだと、彼女は唇を尖らせた。
「のぅ、るびー。夕食も終え、湯浴みもした。もう後は寝るだけじゃ」
ネグリジェをつまんで見せた市に、ルビーが手を止めた。
「もう、お休みになられますか?」
「そうではない。ただ、仕事などそのくらいにしておいて、私の話し相手になってもらえぬか?」
「ですが……まだテーブルの上が汚れておりまする」
困った顔をするルビーに、市はムッと唇を曲げた。
「では、その机を拭いたらでよい。私の相手をせよ」
「はい……」
市はベッドに寝転がりながら、ルビーの背中を眺める。せっせとテーブルを磨きあげる丸い背中。市はいつしか、その背中を見つめるのが好きになっていた。ルビーは、市が寝る前に必ず、面白い話をしてくれる。それを待ち構えて、市はいつも彼女の仕事が終わるまで、その背中を見つめて待つのだ。
「お待たせ致しました、イチ様」
「苦しゅうない、そこへ座れ」
待ちわびたと言わんばかりに、椅子をベッドの傍へと寄せた。市が、ルビーの為に用意した椅子だ。ルビーはここの所毎日、その椅子に座って、市の傍で話をする。
「今日は、どのような話を致しましょう」
「何でもよい。そなたの話は、全部面白いから……」
市の眼差しに、ルビーは居心地悪く微笑んだ。彼女の瞳は、まるで姉を見つめる妹のようだ。それだけ、市がルビーを信頼して、懐いてくれているのだろう。ラビアだった頃には、決して向けられなかった瞳。それはきっと、ラビアがいつもエイサフの肩を持っていたことに、市が気付いていたからだ。
「そうですね……。では、私が育った国のおとぎ話をお話しましょう」
ルビーは、ゆっくりと言葉を紡いだ。それは、敵国同士の姫と王子の恋物語であった。姫と王子は、いつも秘密の逢い引きをしていたのだが、それがお互いの両親にバレてしまう。怒った姫の父親が、王子を殺してしまい、姫は嘆いた。美しい黒髪を振り乱し、黒い瞳からとめどなく溢れる涙を零しながら、姫は、王子の死体を抱き締めて自害する。姫の血を浴びた王子は、どういことか、息を吹き返した。
「何故、息を吹き返したかわかりますか?」
ルビーは、市に問いかけた。だが、市は何も答えない。否、答えられなかった。彼女は瞳を閉じて、すうすうと寝息をたてていた。市の寝顔を見つめて、ルビーは薄らと笑みを浮かべた。
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