電話の佐藤さんは悩殺ボイス

橘柚葉

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1巻

1-3

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 彼も私に気がついたらしく、ビックリしたような表情を見せる。
 しかし、すぐに佐藤さんは友人たちに連れられ、ひな壇の方へと歩いて行ってしまった。
 新郎新婦たちに、お祝いの言葉を言っているのだろう。
 彼らの様子を見ていると、仲がいいことがわかる。
 姉も佐藤さんを知っているようで、とてもなごやかに話していた。
 それが、どうしてかかんさわる。

(佐藤さん、私とお姉ちゃんとでは態度が違う気がする!)

 私の身近な人間が佐藤さんを知っていたという事実が衝撃的で、どこか嫉妬しっとめいたものを感じてしまう。
 姉の方が、佐藤さんに近いところにいたことが面白くない。なんだか、とっても面白くない。
 目の前に運ばれたステーキをナイフで切りながら、どうしてもイライラが隠せずにいた。
 どうしてそんなにいらついているのか。それがわからないからこそ、ますます苛立いらだってしまうのだ。
 なのに、依然いぜんとして私の意識は佐藤さんに向けられているのだから、救いようがない。
 だが、ふと我に返る。これはチャンスじゃないだろうか。
 デイキャンプでのことを謝罪したいと思っていたし、ウインドブレーカーも返したい。なんとかしなくてはいけないと悩んでいたところに、チャンスが巡ってきたのだ。
 披露宴が終わったら、なんとしてでも佐藤さんを捕まえて、話をしよう。
 その考えに至った途端、今度はドキドキと胸の鼓動こどうが速くなり、緊張し始めてしまった。
 身体が感情に素直過ぎて、自嘲じちょうしてしまう。
 そのあとは幸せいっぱいの新郎新婦を遠くの席で見守り続け、披露宴は無事に終了した。
「いいお式だった」と列席者たちが口々に言いながら出口へと向かっていく。
 私も慌てて席を立ち、すでに出口付近まで歩いて行ってしまった佐藤さんを追いかけた。
 だが、一斉に列席者たちが動き出したため、なかなか披露宴会場から出ることができない。
 やっとの思いで出たものの、人でごった返すフロアではなかなか佐藤さんを見つけられなかった。
 このまま見失ってしまったらどうしよう。そんな不安を抱えながら辺りをキョロキョロと見回していると、やっと彼の背中を見つける。
 話をするなら今しかない。私は勇気を振り絞って名前を呼んだ。

「あの! 佐藤さん!」

 私が声をかけると、佐藤さんの周りにいた男性たちが一斉に振り向く。
 驚いて立ち尽くす私に、彼らは近づいてくる。

「もしかして、吉岡ちゃんの妹さん?」
「あ、はい……」

 見知らぬ男性たちに囲まれてしまい、戸惑いを隠せない。
 用があるのは佐藤さんだけなのに、どうしてその周りにいた人たちが反応してしまったのか。それに、肝心かんじんの佐藤さんが見えなくなってしまった。
 どうにか抜け出そうとする私に、彼らは次々に話しかけてくる。

「これから二次会なんだよ。一緒にどう?」
「なぁ、吉岡ちゃん。妹ちゃん、連れて行ってもいいだろう?」

 盛り上がる面々に私はタジタジだ。
 近くにいた姉に救いを求めるが、ニマニマと笑っているばかりで、助けてくれそうにない。
 私がパニクっている状況を面白がっているのだ。

(あとで覚えておけ!)

 恨みがましい視線を姉に送っていると、周りの男性たちは私の背中を押してうながし始める。
 さすがに遠慮しようと口を開いたとき、誰かに腕を掴まれた。
 驚いてその人物を見て、また驚く。佐藤さんだったのだ。

「アンタは、俺に用事があるんだろう?」
「あ……えっと……」

 急な展開に頭が真っ白になってしまった。
 答えにならない言葉をつむぐだけで、肝心かんじんなことは何一つ言えない。
 何度もまばたきをして彼を見つめていると、佐藤さんは私の腕を掴んだままフロアを闊歩かっぽし始めた。

「ちょ、ちょっと佐藤さん!?」

 慌てた私の耳に飛び込んできたのは、私を二次会に誘ってきた男性陣のブーイングだ。
 だが、佐藤さんはそれを無視して、私を式場の外へと連れ出した。
 そこはガーデンパーティーをするスペースのようだが、今朝雨が降っていたので足元が悪く、使われていない。
 いつの間にかすっかり雨も上がり、晴れ間が見えている。葉に残る水滴に光が反射し、緑がキラキラと輝いて見えた。
 今、ここの庭園には誰もいない。佐藤さんと二人きりという状況に、私はすでにパニック状態だ。
 なのに、目の前の佐藤さんは落ち着いている。
 私一人でテンパっているのが恥ずかしくて、ギュッとドレスのすそを握り締めた。
 デイキャンプのときの謝罪をしたい、ウインドブレーカーの礼を言って返したい。そう、心から願っていたはずだ。
 それなのに、いざ本人を目の前にすると、言葉がうまく出てこない。
 ふと、自分の右腕に目を落とす。未だに佐藤さんは私の腕を掴んだままだ。
 チラリと彼に視線を向けて、やっぱり格好いいと見惚みとれてしまう。
 今日の佐藤さんはネイビーのスーツを着ていた。ネクタイとハンカチーフはオフホワイト、その刺繍ししゅうや織り目がとてもキレイでセンスがいい。
 容姿もよくて声もいい。優しくて……その上、男の色気もあって、心臓はドキドキしっぱなしだ。
 私は佐藤さんの腕を振り払うことができず、ただジッと彼の手を見つめる。
 男らしい手だ。そこから伝わるぬくもりを感じ、身体が何故か火照ほてってしまった。
 挙動不審きょどうふしんな私を尻目に、佐藤さんは話しかけてくる。

「で? どうした?」

 佐藤さんはやっと腕を放してくれたが、私はぬくもりが遠のいてしまうことを寂しく感じた。
 そこでハッと我に返る。私には言うべきことがあるのだ。
 慌てて取りつくろい、コホンと一つ咳払いをする。グッと手を握り締めたあと、私は佐藤さんに勢いよく頭を下げた。

「この前は、すみませんでした」
「……」

 沈黙が苦しい。あまりに無反応なので恐る恐る顔を上げてみると、佐藤さんは目を見開いて驚いていた。
 なんのことだかわからないといった様子の彼に、私は慌てて説明をする。

「えっと、あの……この前のデイキャンプのとき、火元でボーッとしていた私を守ってくれたのに、お礼も言わなかったから!」

「ごめんなさい」ともう一度頭を下げると、先ほどまで驚いて固まっていた佐藤さんが私から視線を逸らして呟く。

「いや……。俺も言い方キツかったから……」
「……っ!」

 話し方はぶっきらぼうだったが、内容は優しい。私への気遣いが感じられた。
 声もいつものようにフェロモンダダれな感じではなく、照れているのがわかる。
 何よりも一番私が驚いたのは、彼の頬が赤く染まっていたことだ。
 デイキャンプ時の佐藤さんはない感じだったのに、今は頬を染めて照れているなんて。

(可愛い!! すっごく可愛い!)

 彼らしくないからこそ、意外な一面に胸がキュンキュンしてしまう。
 面と向かって佐藤さんに言ったら、絶対に顔をゆがめて怒るに違いないから口には出さないけど、可愛いものは可愛い。
 ギャップ萌えというヤツだろうか。何度も胸がキュンと鳴いてしまう。
 今までは電話での佐藤さんしか知らなかった。けれど、デイキャンプでプライベートの姿を知り、今日また彼の違う一面を垣間見て――
 もっともっと彼のことを知りたい。突然、そんな欲求が込み上げてくる。
 佐藤さんは照れを隠すように咳払いをして、話を切り替えた。

「そういえば、この前のデイキャンプ、楽しかったか?」
「はい!」

 私は大きく頷いたあと、あの日のことを思い出す。
 佐藤さんのギャップにショックを受けていたが、デイキャンプ自体は楽しかった。

「すごく楽しかったです。いい天気すぎて暑いぐらいでしたけど……でも、自然の中で食べるご飯ってなんであんなに美味おいしいんでしょうね! 小学校の遠足を思い出しました」
「フッ……遠足前には興奮して眠れないタイプだっただろう?」
「うっ、どうしてそれを」

 正直に答える私を見て、佐藤さんは声を上げて笑い出した。

(すごく優しい瞳で笑うんだ、この人)

 それに気づいて、胸がいっぱいになり言葉が出てこない。
 楽しげに笑っていた佐藤さんだったが、ふと笑いを引っ込めて私を見つめてきた。
 まっすぐな視線に熱が込められている気がして、私の胸がドクンと大きな音を立てる。
 キュッとドレスのすそを握り締めていると、佐藤さんが口を開いた。

「デイキャンプ、また行きたいか?」
「はい。また行けるなら行ってみたいです!」

 もし再び行けるなら、今度はもう少しゆったりとした時間を楽しみたい。
 前回はバーベキューをしたのだが、デイキャンプというのはまだまだ楽しみ方がありそうな気がする。
 ワクワクしながら頷く私に、佐藤さんは優しげに目尻を下げた。

「じゃあ、今度、二人で行ってみないか?」
「え……?」
「デイキャンプ」
「えぇっ!」

 まさか、まさかのお誘いに目が丸くなってしまう。
 目を何度もパチパチとしばたたかせていると、佐藤さんは私の顔を覗き込んできた。
 その瞳は「どうする?」と問いかけてきているように見える。
 嬉しすぎて声が出ない私は、慌てて何度も首を縦に振った。
 そんな私を見て佐藤さんは眉をひそめ、「きちんと言葉にしてくれ」と訴えてくる。

「行きたいです……佐藤さんとデイキャンプ!」

 つい大きな声で叫んでしまい、恥ずかしくて逃げ出したくなる。

(どうしよう、私、かなりがっついていない? 佐藤さん、引いちゃったかも!)

 自分でも何がなんだかわからない状態になってしまっている。

(佐藤さん、お願いだから何か返してください……!)

 懇願こんがんに近い気持ちで佐藤さんを見上げると、彼は目尻を下げて柔らかく笑っていた。

「アンタって、電話のときの印象とは違うよな。デイキャンプのときにも思ったけど」
「そ、それは……仕事ですから。でも、そう言う佐藤さんだって全然違いますよ!」
「ハハハ。そういえば、帰りの車でもそんな話をしたよな」

 クツクツと肩を震わせ笑う佐藤さん。私は、彼の笑顔に釘付けになってしまった。
 デイキャンプのとき、佐藤さんが私に向ける表情はしかめっつらばかりで、笑顔なんて見せてくれなかった。
 今にして思えば、あのときの佐藤さんは私のことを心配していたのだろう。だからこそのしかめっつらだったのかもしれないが、今は笑いかけてくれることが嬉しい。
 飛び上がって喜んでしまいそうなほどだ。
 ひとしきり笑った佐藤さんは、スーツのジャケットからスマホを取り出して画面を見せてくる。
 覗き込むと、通話アプリの画面だった。私も使っているアプリだ。

「このアプリ、やっている?」
「あ、はい」

 コクコクと何度も頷き、クラッチバッグからスマホを取り出して連絡先を交換する。
 佐藤さんの連絡先をゲットできたことが嬉しくて、思わず心が弾んでしまう。
 嬉々としてスマホの画面を見つめていたが、大事なことを思い出した。ウインドブレーカーのことだ。

「佐藤さん、ウインドブレーカー、いつお返しすればいいですか?」
「そうだな……。今度、デイキャンプに行くときでいい」
「は、はい……!」

 佐藤さんは社交辞令ではなく、本気で私をデイキャンプに連れて行ってくれるようだ。
 すごく嬉しくて浮き足だっている私に、佐藤さんは表情を曇らせた。

「デイキャンプにアンタを誘うつもりではいるんだが……」
「な、何か問題が?」

 やっぱりその場の勢いで口を滑らせただけなのだろうか。
 深刻そうな表情を浮かべる彼を見て、私は固唾かたずを呑む。

「この前みたいな格好じゃあ、ダメだな。連れて行けない」
「あ……」

 確かにあのときの服装はアウトドア向きではなかったかもしれない。
 佐藤さんがウインドブレーカーを貸してくれたのだって、それが原因だ。
 ダメ出しされても仕方がない格好だったことは否めない。
 どうしましょう、と佐藤さんに視線を向けると、彼は腕を組んで頷く。

「デイキャンプに行く前に、色々予習しておくか?」
「え?」
「アウトドアショップ、興味ある?」
「あります! 連れて行ってください!」
「よし、じゃあ今度一緒に行くか」

 その言葉通り、佐藤さんはその日のうちに連絡をくれて、アウトドアショップに行く日にちが決まる。
 トントン拍子に進むことに驚きを隠せないが、急速に佐藤さんとの距離が縮まっていく気がして嬉しかった。



 翌週の金曜日の夜。
「明日は休みだからゆっくりできるだろう」という佐藤さんの案で、今日アウトドアショップに行くことになった。
 佐藤さん行きつけのお店が金本スイーツの最寄り駅付近にあるということで、駅の改札で待ち合わせをする。
 ソワソワしながら待っていると、ホームから人が流れてきた。
 この人混みの中に佐藤さんはいるのだろうか。
 キョロキョロと改札を抜ける人たちを見ていると、探していた人物のシルエットが見えた。

「佐藤さん!」

 思わず大きな声で呼んでしまい、慌てて口に手を当てる。
 恥ずかしさで頬を熱くさせる私の前に、佐藤さんが立った。

「悪い。待たせたな」
「っ!」

 初めて佐藤さんを見たときにも、格好いい人だと思った。
 あのときは黒のポロシャツにスリムなカーゴパンツというラフな装いで、ワイルドな風貌ふうぼうにとても似合っていたことを思い出す。
 でも、今日の佐藤さんは仕事終わりということでスーツ姿だ。
 濃いグレーの細身のスーツに薄いブルーのシャツ、そしてネクタイは濃紺のうこん格子柄こうしがら
 清潔感あふれる装いだが、どこかあやしげな色気を感じる。
 姉の結婚式でも佐藤さんのスーツ姿を見たが、やっぱりステキだ。
 きっとAMBコーポレーションの女性社員たちから、熱い視線をしょっちゅうそそがれていることだろう。
 何故か心の中がモヤモヤして、どうしたものかと思い悩む。すると、佐藤さんは腰を曲げて私の顔を覗き込んできた。
 彼との距離が急に近くなり、私の身体は驚きのあまりピョコンと跳ねる。

「どうした?」
「い、いや……なんでもありませんよ? えっと、その……とにかくお店に行きましょう!」

 話を逸らした私を面白そうに見ていた佐藤さんは、目元に笑みを浮かべる。

「そうだな、行こう」
「はい!」

 佐藤さんに案内してもらってアウトドアショップへと向かう。お店は駅から歩いて五分程度の場所にあり、とても近くてビックリした。
 こんなに近くにあったのに、私はその存在すら知らなかったのだ。
 それだけアウトドアに関して興味がなかったということなのだろう。
 新境地と言っても過言ではないからこそ、踏み入れていい世界なのか躊躇ちゅうちょしそうになる。
 だけど、何事も経験だと思って、お店の中へ入っていく。

「まずは、服だな」
「はい……って、色々あるんですね!」

 店内にはアウターにトップス、ボトムスと、色々なデザインのものがオシャレに展示されていた。色も豊富で目移りしてしまう。

「あ、これなんて可愛い!」

 気になったものを片っ端から手に取ってみる。ショートパンツにレギンスを合わせるのも可愛いし、このリネンシャツも肌触りがいい。クロップドパンツは動きやすそうだ。
 アウトドアだけでなく普段使いにもできそうなくらい、デザイン性が高い。

「これだとUVカットもついているし、吸湿きゅうしつ性にも速乾そっかん性にもすぐれているから快適だ」
「へぇ」

 感心してあれこれ見ていると、ウインドブレーカーを見つける。
 身体に当ててみながら、佐藤さんを振り返った。

「これって佐藤さんが貸してくれたウインドブレーカーの色違いですよね?」
「ああ、そうだな。でもそれは今年の春モデルだ。俺のは数年前に買ったヤツだから」
「そうなんですね」
「防風、防水加工もしてあるし、体温調節するには、ウインドブレーカーは必需品ひつじゅひんだな」
「へぇ。じゃあ佐藤さんと同じのを買おうかなぁ」

 他の服も気になったが、このラインナップを見る限り、クローゼットの中にある服で代用できる。
 だけど、こういったウインドブレーカーは一着も持っていないから、手元にあれば何かと重宝ちょうほうしそうだ。
 それに、佐藤さんとお揃いのブランドだと思うと、嬉しくてウキウキしてしまう。

「形から入るタイプだな、アンタ」
「形だって大切です!」

 むきになってふてくされる私に、佐藤さんは目尻を下げて破顔はがんする。

「いいんじゃないか? 好きになる入り口はさ、人それぞれだから」
「っ!」

 ドクンと大きく胸が鳴る。顔がジワジワと熱くなっていくのが、自分でもよくわかった。
 私は誤魔化ごまかすように咳払いをしたあと、店の奥を指さした。

「あっちにある機械は何に使うんですか?」
「ああ。あれは調理器具だな。見るか?」
「はい!」

 大きく頷いて店の奥へと歩を進める。私は佐藤さんの後ろに回り、こっそりと自分の頬に手を当てた。
 顔が真っ赤になっていることに、どうか佐藤さんが気づきませんように。
 そんなことを祈りながら、私は見たことがないアウトドアグッズに視線を移した。


   * * * *


(ったく。無駄に可愛いんだよな、彼女)

 ふと手を止め、俺――佐藤亮哉は先日のアウトドアショップでの出来事を思い出す。
 彼女に貸したウインドブレーカーと同じブランドの物を身体に当て、『これって佐藤さんが貸してくれたウインドブレーカーの色違いですよね?』と言ったときの彼女の笑顔はとても可愛かった。
『俺と同じものが欲しい』と彼女は言っていたが、その言葉に深い意味はないのだろう。
 何気なにげない言葉に目の前の男が心おどらせていただなんて、彼女は知らない。

『今度はデイキャンプですね!』

 そう言って、俺とのデイキャンプを楽しみにしていると笑う彼女は、思わず抱き締めたくなるほどいとおしかった。
 思い返せば、彼女とは一年前に知り合った。と言っても、初めは声だけの付き合いだ。
 電話で話しているだけの頃も、彼女は好印象だった。真面目で、きちんと仕事をしているイメージだったからだ。きっと実際も、落ち着いていて大人っぽい人だろうと思っていた。
 彼女には言っていないが、実はデイキャンプで出会う数ヵ月前に、俺は金本スイーツ本社ビルで彼女を見かけたことがある。
 そのとき、彼女は同僚がコンタクトレンズをなくしたとかで、必死に捜してあげていた。
 それこそ事務服が汚れるのもいとわず、床にはいつくばって目を皿のようにして捜していた。

(自分も一緒に捜してあげようか)

 そう思って声をかけようとしたとき。

「あったぁぁ!!」

 突然そう叫び、くるりとターンを決めて喜ぶ彼女を見て、驚いたなんてものじゃなかった。
 しかも彼女のネームプレートには、いつも電話をくれる吉岡さんの名前が書かれていたのだ。
 彼女を真面目で落ち着いた人だとイメージしていた俺には、同一人物だとはとても思えなかった。
 けれど、あの可愛らしい声は間違いないと確信する。
 電話での彼女と実際の彼女。そのギャップにやられてしまうのに時間はかからなかった。
 彼女――吉岡奈緒子に興味を持った瞬間だった。
 俺は元々恋愛には淡泊たんぱくで、ここ数年恋人はいなかった。だが、彼女にだけは惹かれる何かを感じていたのだ。
 しかし、彼女と仕事で電話をする以外の接点は皆無かいむだ。
 まさか仕事中に口説くどくわけにもいかず、どうしたものかと考えあぐねていたときに、あのデイキャンプで会えることになったのだ。
 彼女が参加しているなんて思ってもいなくて、嬉しい反面、かなり緊張していたのは誰にも内緒だ。
 しかもひょんなことから再会し、近々デイキャンプに行こう、という約束まで取り付けた。

(そろそろスケジュールを合わせるか……)

 金本スイーツの発注書を手にそんなことを考えていると、「佐藤、ちょっといいか?」と部長に手招きされる。

「あ、はい」

 一体何の話だろう、先日提出したデータに間違いでもあったのか。もしかしたら、この前話していた新規の食堂参入についての話かもしれない。
 などと首をひねりながら部長室に入ると、何故か扉を閉められた。
 どうやら人に聞かれたらまずいたぐいの話らしい。
 気を引き締めて部長の前に立つと、ソファーに座るようにうながされた。
 警戒しつつ座る俺に、部長は感情が読めない表情で口を開く。淡々とした口調で伝えられた内容は、予想外のものだった。

「異動……ですか」
「ああ。お前の仕事ぶりを向こうさんも認めていてな。是非、うちに欲しいと言ってきた」
「……」

 部長が言う〝向こうさん〟とは、名古屋支社の製品管理部のことだ。
 最近、課長ポストが空いたと噂には聞いていた。
 名古屋支社の製品管理部を経て、本社に戻る――それがこの会社における出世コースのテンプレである。誰がそのポストに就くのか、話題に上っていたのは知っていた。
 そのポストに俺を、と言ってくれるのは正直嬉しい。
 だが、今の俺には、異動先の詳しい話を聞く余裕はなかった。


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