妄想恋愛しちゃダメですか?

橘柚葉

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第九話

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「真奈美さん。ありがとうございました」
「なんの、なんの。困ったことになったらいつでも相談しなさいね。特に、うちのバカ息子とバカ弟のこととかね」
 曖昧に笑ったあと、私は真奈美さんに手を振った。
 さすがに色んな事がありすぎて疲れた。朝の十時だが、もう一度ベッドに潜り込もうか。
 それにしてもマンションの隣に住む真奈美さんと翔くんが、澤田家と血縁者だと聞いてそれはもうビックリした。
 それは真奈美さんたちも同じだったらしく、私が澤田家と―――特に尚先生と ―――面識があることを驚いていた。
 私は、過去の出来事を思い出しながら部屋へと足を進める。
 真奈美さんと仲良くなったきっかけは、翔くんだった。
 あれは三年前の夏のボーナス前、六月だっただろうか。
 春ヶ山信用金庫では通常女性社員は営業に回らないのだが、ボーナス前は例外。
 重い紙袋を手に、私は一軒一軒営業に回っていた。
 とても暑くて日傘を持ってくれば良かったと後悔しながら、トボトボと歩いていたときだった。
 急に紙袋の底が抜けてしまい、中からパンフレットやらポケットティッシュが飛び出してしまったのだ。
「きゃー! どうしてこんなことになっちゃったの!?」
 暑くて倒れそうだというのに、これではますます営業に回れず、時間だけが過ぎていく。
 ツイていないときって本当どうしようもなくなってしまうものなのかな。
 半べそかきながら、道路に散らばってしまったチラシを拾っていると、頭上に大きな影ができた。
「ったく。とろくせぇな、アンタ」
「え?」
 驚いて見上げると、高校の制服を着た男の子が立っていた。それが翔くんだった。
 ブレザーを軽く着崩し、耳にはピアス、頭は茶髪。チャラい雰囲気の彼は、背格好も大きく、一瞬怖く感じた。だが、そう感じたのはその一瞬だけだった。
「それ広げて待ってろ」
「え? え?」
 彼から手渡されたのはエコバッグ。言われるがまま広げていると、その中に道路に散らばったチラシやパンフレット、ポケットティッシュを彼が入れていく。
「ありがとうございます」
 私も一緒に拾おうとしたのだが、それを翔くんは阻止してきた。
「邪魔。そこの木陰で座ってろ」
「でも……」
「つべこべ言うな。良いから座ってろ!」
 縮み上がった私を余所に、翔くんはすべて拾ってエコバッグの中に詰め込んでくれた。
「ありがとうございます。でも、このエコバッグ……」
「いいからやる。まだそれ持って回らないといけねぇんだろ?」
「そうだけど……」
 これは彼が使うつもりで持っていたものだろう。それを借りてしまうのは申し訳なさすぎる。
 しかしながら、紙袋の底はパックリと破れてしまっている。これにパンフレットを再び入れることは不可能だろう。
 困った、と手にしているエコバッグを見つめていると、翔くんはポケットからもう一つエコバッグを取り出した。
「心配するな、もう一つ持っているから大丈夫だ」
「え……」
「いつも母ちゃんが突然スーパー行ってこいって指令がくるから、いくつか常備してるんだよ」
 だから大丈夫だ、そういうと翔くんは踵を返し歩いて行ってしまう。
「ありがとうございました! 助かりました」
 背中に向かってお礼を言う私に対し、翔くんは振り返りもせずに手を振ってくれた。
 優しい高校生に出会い、心がほっこりした私はそのあとも頑張って営業に回った。
 そしてその数日後、実はその高校生は私が住むマンションの隣にある一軒家、但馬家の翔くんだと判明したのだ。
 その縁で翔くんのお母さんである真奈美さんとも出会い、ご近所づきあいが始まった。
 その頃だった。ずっとギクシャクしていた彼と別れたのは……。
 私が付き合っていた彼は古風なところがある人だった。古風といえば聞こえはいいが、頑固モノで女は出しゃばらず三歩後ろを歩くものという固定観念があった。
 初めて付き合う男性で、私も浮かれていたのは否めない。だからこそ彼の意識を自分に向けさせたくて、拗れた関係を戻したくて……私からキスをした。
 しかし、それが彼の怒りに油を注いでしまったようなのだ。
 彼曰く、女から誘うということ自体がふしだらで淫らだと言う。
「そんな女だとは思わなかった。君はもっと慎ましやかで、大人しい、良妻賢母になるべく人だと思っていた」
「そんな……」
 私は少しだけ映画やドラマみたいな甘い恋愛を夢見ていただけ。
 毎回優しい言葉をかけてくれなんて言わない。ただ、優しく包み込んでほしい。それだけだ。
 付き合いだして以降、彼からの優しさを感じたことはなかった。
 彼のメンツを保つため、女がいないと恥ずかしいという彼の我が儘のために、お飾りとしての彼女がほしかったということなのだろうか。
 女の私から「好きだ」というと、顔を顰められたことがあった。
 そういうことは男が言うことで、女の私が言うべきじゃない。
 そう言われたときは「恥ずかしがって言っているのかな」なんて楽観的に思っていたが、彼からしたら本気で思っていたのだろう。
「とにかく幻滅した。別れてくれないか」
「え!?」
 キスひとつ。それも私からしたことが許せなくて別れるというのか、この人は。
 愕然とする私に彼は捨て台詞を吐いた。
「この尻軽女め。二度と俺の前に現れるな」
 私からの愛の行動は認めない。大人しく男の言うことだけを聞けばいい。そう言いたいのだろうか。
 そのあとのことは実はあまり覚えていなくて、降り出した雨にも気が付かず、ただ歩みを進めていた。
 あのとき、ずぶ濡れになっている私を真奈美さんが見つけてくれて介抱してくれなかったら、どうなっていたことか。
「どうしたの、タマちゃん。こんなにずぶ濡れになって……」
「真奈美さん、女は恋をしたら想いを言葉にしちゃだめなんですか?」
「え?」
「甘えたり、時には男の人に迫ったり。そういうことってしちゃいけないんでしょうか。ふしだらな女だって思いますか?」
 ワンワン泣きながら、真奈美さんに彼氏とのことを相談しながら私は心に誓ったのだ。
 もうリアルの恋なんてしない。
 現実には、胸がキューンとするようなシチュなんてなかなか訪れない。
 ドラマや映画、漫画や小説。周りには胸キュンしちゃうお話は溢れかえっている。
 それらを見て楽しんで、あとは自分の頭の中で色んな恋を思い描けばいい。
 真奈美さんは「そんな男は一握り。恋に積極的? 大いに結構。女からのキスに鼻の下を伸ばす男が多いっていうのに。天然記念物みたいな男ね」
 そういって蹴散らかしてくれたが、私の胸には彼の言葉が突き刺さったまま今に至る。
 だって楽だもの。脳内妄想恋愛機で胸キュンしていれば悲しい思いをすることも、辛い思いをすることもない。
 だから、私はもうリアルで恋愛はしない。そう誓っていたのだけど……。
 なぜだかここにきて私の周りが騒がしい。その筆頭が尚先生だ。
 昨夜の尚先生、今朝の尚先生。頭の中が尚先生でいっぱいになっている。
 一体どうしたっていうの、私の頭の中は。
 得意の妄想恋愛をして過去の出来事を払拭させたいのに。脳内妄想恋愛機の不具合に拗ねているとあることを思い出した。
「あれ、ちょっと待って」
 部屋にたどり着いた私は、ハタと気が付いた。
 今朝の尚先生の言葉だ。昨夜泥酔してしまった私を介抱してくれたのは紛れもなく尚先生だ。
 朝になってそのときの記憶がぶっ飛んでいることに気がついた私は、尚先生に問いかけた。昨夜、とんでもないことをしでかしませんでしたか、と。
 そうしたら尚先生は意味ありげに「秘密」だと言っていた。
「ちょっと待って。秘密だってはぐらかされてしまったけど、一体私は何をしてしまったの!?」
 尚先生はなんか怖いことを言っていなかっただろうか。
 昨夜しでかしたことをネタに脅迫めいたことを……。口外しないから私のモノになってくれなんて言っていなかったか。
「う、う、嘘だぁぁぁー!」
 私は慌ててクッションで顔を隠した。
 私はリアル恋愛はもうしたくないんだ。脳内妄想恋愛機だけで充分満足している。
 だから、だから、だから。誰も私のことに構わないでー!
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