4 / 5
海亀姫と竜宮の魔女 4
しおりを挟む
「いまから七十年くらい前のはなし。陸の世界は戦火に包まれ、海は汚染され、陸も海も関係なく真っ暗闇……ちょうどキミが生まれたころじゃないかな、その戦争がはじまったのは」
そして、戦争は鎮まり、海は穏やかさを取り戻した。海のなかでも乙姫によって隔離された竜宮では、陸の世界で戦争が起こっていたことを知るのは容易いことではない。
「七十年……」
遊亀が陸で生まれ、人間に海へ戻してもらい、乙姫とともに暮らすようになって、七年。
けれどその七年は、陸上での七十年に相当するのだと、魔女は言い放つ。
竜宮と陸の世界では時間の流れが異なる。そんな話、乙姫は何も言っていなかった。でも、乙姫は知っていたに違いない。知っていて、遊亀を陸へ送り出したのだ……
「乙姫さまは」
「キミが願いを遂げることはありえないとわかっていて、夢を持たせてボクのところまで導いたんだから、タチが悪いよね。だけど、彼女を恨むのはお門違いだよ。彼女もまた、あの閉ざされた世界の犠牲者なんだから」
ザザザザ、と白波が砂浜を飲み込んでいく。そろそろ満潮の時間を迎えるのだろう。魔女は視力のない遊亀を護るように、震える肩を抱き寄せる。寒さだけではなく、真実に打ちのめされて震える、ちいさな肩を。
「乙姫さまも?」
「彼女はボクなんかが生まれるもっと昔から生きている。もともとは海神の花嫁として竜宮に迎えられた人間だ」
「海神さま」
名前だけは聞いたことがある。この海のすべてを統べる偉大なる神。乙姫は、その海神の妻だというのか。
「けれど、海神はお隠れになり、残された乙姫はひとり海を護らなくてはならなくなったんだ」
そんなときに、ウラシマという男が迷い込んできたのだと魔女は言う。
「迷い込む?」
「人間のなかにはときおり、異質なものとも通じ合うことができる能力を持つものがいるんだ」
ボクもそんな人間のひとりだったし、と言いながら、魔女はつづける。
「ウラシマは海神に去られてひとりぼっちになってしまった乙姫を可哀想に思いながらも、地上に残してきた家族のことが心配で、早く陸の世界に戻りたいと願っていたんだ」
「だけど、竜宮と陸の世界は時間の流れが違う……のよね」
「それが悲劇のはじまりさ。すべてを知りながら、乙姫は彼を淋しいから傍にいてと引き留め、毎日のように宴を開いた。ウラシマが陸のことを恋しがらないよう、ボクに引き留めるよう訴えたこともあった……でも、そんなことをしても、彼の故郷への想いは乙姫の恋慕より強かった」
根負けした乙姫は、ウラシマを陸へ戻すようそのとき使役していた亀に命じたという。
「乙姫はその際、ウラシマに玉手箱を渡したんだ」
「玉手箱?」
「ああ。竜宮と陸の世界の時間差をなかったことにできる箱があるんだ。残念ながら、時間を巻き戻すことはできないんだけどね」
けして開けてはならぬという玉手箱を、ウラシマは砂浜で開けてしまった。
「それで、どうなったの?」
「よぼよぼのおじいさんだよ」
二度と竜宮を訪れることも叶わず、彼は過ごした分の時間をその身に受けて、身を朽ちさせたのだと魔女は嗤う。
「そんな……」
悲しすぎると遊亀は顔を曇らせ、魔女を見つめる。潤んだ瞳を向けられた魔女は、怖がらせちゃったかなと遊亀の黒髪を撫でて、呟く。
「乙姫は、陸に憧れるものに嫉妬するんだ。人間に救われたと思い込んでいる遊亀のことも、彼女は愛しく感じながら心のどこかで疎んでいたはずだよ……だからボクに逢えと言ったんだろう。逢って、願いを叶えられるものなら叶えてごらん、って」
時間の流れが異なるのだからそんなことは無理だとわかっていて、乙姫は挑発したのだ。かつて、自分が焦がれた人間が陸に戻った現実に苦しみつづけたまま。
「いっそのこと、自分が海の泡になってしまいたい……でも、海神の役割を担う彼女は、消えることも許されない。だから遊亀が、ちょっとした暇つぶしの相手に選ばれたんだろうね。可哀想に」
たしかに、願いが叶わなければ自分は海の泡になって消えてしまうと魔女は言っていた。最初から乙姫は遊亀が海の泡になることを知っていたのかと思うと、怒りよりも複雑な気持ちになる。それよりも遊亀は、魔女がさらりと口にしたヒトコトが気になって仕方ない。
「――ちょ、ちょっと待って。いま、おかしなこと言ったよね? あたしが人間に救われたと思い込んでいるって……」
「ん?」
魔女は遊亀の言葉に首を傾げ、ああと首を振る。
「だって、遊亀は恩人がどんな姿をしているのか、細部まで覚えているわけじゃないだろ? なんせこの弱視だし」
瞼を指先でなぞられ、遊亀はくすぐったいと抗議の声をあげるが、魔女は構うことなく彼女の額に唇を寄せる。
「命の恩人である人間に逢ってお礼をしたい? 七十年も経ってそれはないでしょう? このままだと遊亀は乙姫の思惑通り、海の泡になって消えてしまうよ?」
ボクはイヤだな、と低い声で囁いて、遊亀の身体をきつく抱く。
「魔女……?」
「牡亀たちがキミに求愛したがる理由も、なんとなく理解できるな。だってキミ、放っておけないもの」
あのときちゃんと名乗っておけばよかったと、魔女は囁く。
「キミが生まれたとき、あの砂浜にいた黒い服の男」
――あれはボクさ。
そして、戦争は鎮まり、海は穏やかさを取り戻した。海のなかでも乙姫によって隔離された竜宮では、陸の世界で戦争が起こっていたことを知るのは容易いことではない。
「七十年……」
遊亀が陸で生まれ、人間に海へ戻してもらい、乙姫とともに暮らすようになって、七年。
けれどその七年は、陸上での七十年に相当するのだと、魔女は言い放つ。
竜宮と陸の世界では時間の流れが異なる。そんな話、乙姫は何も言っていなかった。でも、乙姫は知っていたに違いない。知っていて、遊亀を陸へ送り出したのだ……
「乙姫さまは」
「キミが願いを遂げることはありえないとわかっていて、夢を持たせてボクのところまで導いたんだから、タチが悪いよね。だけど、彼女を恨むのはお門違いだよ。彼女もまた、あの閉ざされた世界の犠牲者なんだから」
ザザザザ、と白波が砂浜を飲み込んでいく。そろそろ満潮の時間を迎えるのだろう。魔女は視力のない遊亀を護るように、震える肩を抱き寄せる。寒さだけではなく、真実に打ちのめされて震える、ちいさな肩を。
「乙姫さまも?」
「彼女はボクなんかが生まれるもっと昔から生きている。もともとは海神の花嫁として竜宮に迎えられた人間だ」
「海神さま」
名前だけは聞いたことがある。この海のすべてを統べる偉大なる神。乙姫は、その海神の妻だというのか。
「けれど、海神はお隠れになり、残された乙姫はひとり海を護らなくてはならなくなったんだ」
そんなときに、ウラシマという男が迷い込んできたのだと魔女は言う。
「迷い込む?」
「人間のなかにはときおり、異質なものとも通じ合うことができる能力を持つものがいるんだ」
ボクもそんな人間のひとりだったし、と言いながら、魔女はつづける。
「ウラシマは海神に去られてひとりぼっちになってしまった乙姫を可哀想に思いながらも、地上に残してきた家族のことが心配で、早く陸の世界に戻りたいと願っていたんだ」
「だけど、竜宮と陸の世界は時間の流れが違う……のよね」
「それが悲劇のはじまりさ。すべてを知りながら、乙姫は彼を淋しいから傍にいてと引き留め、毎日のように宴を開いた。ウラシマが陸のことを恋しがらないよう、ボクに引き留めるよう訴えたこともあった……でも、そんなことをしても、彼の故郷への想いは乙姫の恋慕より強かった」
根負けした乙姫は、ウラシマを陸へ戻すようそのとき使役していた亀に命じたという。
「乙姫はその際、ウラシマに玉手箱を渡したんだ」
「玉手箱?」
「ああ。竜宮と陸の世界の時間差をなかったことにできる箱があるんだ。残念ながら、時間を巻き戻すことはできないんだけどね」
けして開けてはならぬという玉手箱を、ウラシマは砂浜で開けてしまった。
「それで、どうなったの?」
「よぼよぼのおじいさんだよ」
二度と竜宮を訪れることも叶わず、彼は過ごした分の時間をその身に受けて、身を朽ちさせたのだと魔女は嗤う。
「そんな……」
悲しすぎると遊亀は顔を曇らせ、魔女を見つめる。潤んだ瞳を向けられた魔女は、怖がらせちゃったかなと遊亀の黒髪を撫でて、呟く。
「乙姫は、陸に憧れるものに嫉妬するんだ。人間に救われたと思い込んでいる遊亀のことも、彼女は愛しく感じながら心のどこかで疎んでいたはずだよ……だからボクに逢えと言ったんだろう。逢って、願いを叶えられるものなら叶えてごらん、って」
時間の流れが異なるのだからそんなことは無理だとわかっていて、乙姫は挑発したのだ。かつて、自分が焦がれた人間が陸に戻った現実に苦しみつづけたまま。
「いっそのこと、自分が海の泡になってしまいたい……でも、海神の役割を担う彼女は、消えることも許されない。だから遊亀が、ちょっとした暇つぶしの相手に選ばれたんだろうね。可哀想に」
たしかに、願いが叶わなければ自分は海の泡になって消えてしまうと魔女は言っていた。最初から乙姫は遊亀が海の泡になることを知っていたのかと思うと、怒りよりも複雑な気持ちになる。それよりも遊亀は、魔女がさらりと口にしたヒトコトが気になって仕方ない。
「――ちょ、ちょっと待って。いま、おかしなこと言ったよね? あたしが人間に救われたと思い込んでいるって……」
「ん?」
魔女は遊亀の言葉に首を傾げ、ああと首を振る。
「だって、遊亀は恩人がどんな姿をしているのか、細部まで覚えているわけじゃないだろ? なんせこの弱視だし」
瞼を指先でなぞられ、遊亀はくすぐったいと抗議の声をあげるが、魔女は構うことなく彼女の額に唇を寄せる。
「命の恩人である人間に逢ってお礼をしたい? 七十年も経ってそれはないでしょう? このままだと遊亀は乙姫の思惑通り、海の泡になって消えてしまうよ?」
ボクはイヤだな、と低い声で囁いて、遊亀の身体をきつく抱く。
「魔女……?」
「牡亀たちがキミに求愛したがる理由も、なんとなく理解できるな。だってキミ、放っておけないもの」
あのときちゃんと名乗っておけばよかったと、魔女は囁く。
「キミが生まれたとき、あの砂浜にいた黒い服の男」
――あれはボクさ。
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
秘密の館の主に囚われて 〜彼は姉の婚約者〜
七転び八起き
恋愛
伯爵令嬢のユミリアと、姉の婚約者の公爵令息カリウスの禁断のラブロマンス。
主人公のユミリアは、友人のソフィアと行った秘密の夜会で、姉の婚約者のカウリスと再会する。
カウリスの秘密を知ったユミリアは、だんだんと彼に日常を侵食され始める。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる