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彼氏の修羅場を目撃してしまいました。

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 猫が笑った。ような気がした。いや、そんなわけないチェシャキャットじゃあるまいし、と、奈桐は思考を切り替える。
 あっという間に仁嗣の誕生日がやって来た。きっと、あたしが濃紺の制服に彼が指定した黒のニーソックス履いて手作りのケーキを持ってくることを楽しみにしながら待っているんだろうなぁと奈桐、うきうきしながら校門を飛び出す。
 坂の上のアパートメント。白いカッテージチーズのような建物の二階。コンコンと扉をノックするのももどかしいからと、奈桐、鍵が開いていることを確かめて、思いっきり扉を開けて。ローファーを脱いで。

「お邪魔しまーす!」


   * * *


 ごめんなさいごめんなさいと、稜子が泣いていた。仁嗣が彼女を腕に抱いていた。
 それを見てしまった。
 奈桐には理解できない光景。
 いつ来ても生活感のなかったシンプルな部屋が、壊れている。稜子がいるだけで、こんなに部屋が変わるなんて思わなかった。
 陶器の破片が飛び散っている。甘い香りの紅茶が染み込んだカーペットはまるで血痕のよう。稜子と仁嗣の後ろで、イーゼルが倒れている。キャンバスは引っ繰り返っている。黒と白の絵の具は蓋を開けたまま、転がっている。パレットの上に盛られているのはかぴかぴに乾燥した絵の具のなれの果て。
 ……あたしの場所は、どこ?
 立ち尽くす奈桐。泣き続ける稜子。そして、困惑した表情を浮かべる仁嗣。

「う、そ」

 姉のように慕っていた稜子。稜子を頼りになる友人だと言っていた仁嗣。それを信じていた奈桐。いや、それを信じようとしていた奈桐。
 両手にしっかり持っていた紙袋。中には稜子に教わって、全部自力で作ったショートケーキ。それが、おっこちた。握っていた力が抜けたから。ぺちゃり。悲しげな崩落の音。
 見ていたくないと、奈桐、何か言いたそうな仁嗣を無視して、そのまま。逃げ出した。


   * * *


 アリスは白兎を追いかけて、不思議の国へ。だけど、現実はそうじゃない。アリスを追いかけるのは。追いかけるのは……
 泣いていた稜子、仁嗣の腕から逃れて、ケーキが入っているであろう紙袋を持たせる。

「行けばいいじゃん」
「稜子」
「あたしなんか置いて、早く追いかけて行けばいいの」
「……ごめん」

 稜子の気持ちに気づけなかったからか、それとも稜子の気持ちに応えられなかったからか、それとも……何に対する謝罪か理解できないまま、稜子は仁嗣を許している。

「ラストが夢オチなのは、物語の中だけで充分。だから早く行けって」

 稜子の泣き笑いが、仁嗣の背中を押す。これは夢じゃないんだからと。仁嗣は、頷いて弾丸のように飛び出していく。
 残された稜子は、これでいいんだと笑う。笑って笑って笑って、泣いた。
 キャンバスに描かれている、奈桐に、完敗だよと、笑って笑って笑って、泣いた。
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