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彼氏は知らないうちに追い詰めていました。
しおりを挟む仁嗣の部屋に入るのは二度目だ。彼の誕生日のためにと奈桐が張り切って作ったケーキは、真心込めてラッピングされて、彼女の元で出番を今か今かと待ち受けているのだろう。稜子はわくわくしている奈桐のことを想像しながら、扉を開く。
奥で物音が聞こえる。仁嗣が作業をしているのだろう。慣れたアクリル絵の具の匂いがあたりに充満している。換気くらいしろよと思いつつ、稜子は部屋に入る。
「入るよ」
「おう」
絵筆を手に、背を向けたままの仁嗣。それを見て呆れたように、稜子が口を開く。
「また描いてるの?」
立てかけられたイーゼルの前で、首を縦に振る仁嗣。
「白取って」
頷いて、稜子は絵皿に白を出す。キャンバスに映るのは、古い廃墟の姿。黒い背景を塗りつぶすように、白い絵の具が流れ込む。それはまるで、空気を浄化するかのよう。
奈桐が好きだという浄化。稜子も仁嗣の描く浄化が好きだ。
……浄化だけでなく、仁嗣のことも。
「奈桐には内緒な」
うっすらと筆跡が見える。それは、ちっぽけな少女の後姿。その少女が、何を象徴としているのか、誰を示すのか、稜子は知っている。勿論、それが自分でないことも。
「完成するまで見せないの?」
「そういうわけじゃないけど」
言葉を濁らせて、仁嗣は絵筆を動かしつづける。稜子は時計の針が午後三時を示すのを見て、そろそろ奈桐が来るなと立ち上がる。
「もう帰るのか?」
「だって、そろそろ奈桐ちゃんが来るでしょ。せっかくの誕生日、かわいい恋人と二人で過ごしたいと思うし」
「お茶くらい飲んでいけよ。それくらいなら奈桐だって怒らないって」
鈍感。二人の仲を見せつけられたくないから帰ろうとしているのに。
腑に落ちなかった。どうして自分の恋敵が、中学生のガキなんだって。
でも、真っ向からそんなこと、言えるわけがない。仁嗣が、彼女を選んだのなら応援しようと、稜子は決めたのだから。
確かに、奈桐ちゃんはかわいい。ちいさくて、妹みたいだと思う。仁嗣だってきっと、妹のようにかわいがっているだけなんだと、最初は思った。けど。そうじゃないことくらい、わかる。
……二人は、本気だ。だから、悔しい。
「キッチンにティーポットあるから適当に紅茶いれてくれ」
ぼうっとしていた稜子に、仁嗣が指示を出す。もう少しだけ、彼と二人でいたっていいじゃないと、自分の中の悪魔が囁く。
ダージリンの缶が開いている。奈桐と二人で飲んだのだろうか、それとも他の女の子? 仁嗣が奈桐の前に付き合っていた女の子も、そういえば年下で、靴のサイズのちいさな守ってあげたくなるような妹みたいな存在だったなぁなんて、稜子は苦笑する。自分が、彼のことを想っているなんて知らないから、仁嗣はここまで残酷に、恋愛対象としては人畜無害で無関心なあたしを傍に置いておくことができるんだ。稜子が、どんなに想っても気づかない仁嗣は。
ティーポットに茶葉を入れる。お湯を注ぐ。透明なポットの中で、赤茶色の液体がじんわり、滲み出す。奈桐がアリスだとしたら、あたしはなんだろうと、稜子、考える。もしかしたらアリスのティーパーティに招かれざる客、なのかもしれない。そう考えると、惨めになる。焦る。指先が、震える。
陶器のカップを三つ、準備する。砂糖とミルクは使うだろうか。市松模様のトレイに、白い無地のカップが並ぶ。キッチンから漂う茶葉の甘い香りが、仁嗣の鼻孔に届く。
カタカタ、カップが揺れ動く。キャンバスに向かっている仁嗣は、稜子が紅茶を運んできたことに気づいて振り向く。
稜子の、焦点を定めていない瞳が、仁嗣を貫く。何か、おかしいと、気づいた時には。
キャンバスに描かれているアリス――奈桐に向けて、紅茶を。
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