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Prologue

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 朝、食べてきたばかりのトマトシチューを吐いてしまったのかと思った。
 由為ゆいは自分の口元に手を当て、吐いていないことを確認する。駅のホームは、ラッシュ時の混雑を上回る混乱が生じている。

 ……誰かがホームから落ちたらしい。まただ。このあいだも転落事故があったばかりだろ。いやあれは飛び込み自殺だ。今回のは転落事故だな。でも立て続けだぞここ最近、滅入るよなぁ……

 サラリーマンや学生のうんざりした溜め息と忌々しそうな声。ここ一か月くらいでこの街では妙に不審死が増えているのだという、暗い噂を思い出す。
 まさか自分がその現場に居合わせるなんて。
 しかも。由為はこの目で見たのだ。見てしまったのだ。
 命を散らした男性の背後にいた、黒いワンピース姿の少女が、白い手でぽん、と線路へ押し出しているところを。

 ホームの先頭で電車を待っていたサラリーマンは自分の身に何が起きたのか理解できないまま、宙を舞い、やってきた列車に轢かれ、動かぬ死体となっていた。
 それは一瞬の出来事。

「……やっぱ吐きそう」

 トマトシチューだと思ったそれは、さっきまで疲れた表情をしていたサラリーマンのミンチになった五臓六腑で、けして食べられるものではない。周囲では現場を目撃してしまった幾人かが既に嘔吐している。線路を染めた血の色と、吐瀉物に塗れた地面の色が交錯し、視界をどす黒く染め上げていく。
 由為は吐き気を辛うじて堪え、現場から背を向ける。それでも追いかけてくるかのように、ちいさな白い手によって男性が突き落される瞬間を思い出してしまう。

 ……どうして誰も気づかないの?

 これだけひとがいるのに、彼らはいま目の前で起きたできごとを事故の一言で片づけようとしている。
 これは事故じゃなくて立派な殺人になるんじゃないの?
 由為はたしかに見たのだ。白い手を。
 そして、彼女も由為を見たのだ。
 見られたことを知っても動じず、それどころか悠然と頭を下げて……それは、会釈?
 泰然と人を殺しておいて、なぜ会釈する必要があったの?

 ――そう、いま目の前で自分に向けて天使のような微笑を浮かべ、黙礼している彼女のように。

「ちょっと!」

 我に却って声を荒げると、由為の周囲からひとが散る。その中に、殺人者であろう少女の姿はない。
 周囲の怪訝そうな視線が痛い。由為は慌ててフォローすべく独り言を口にする。

「どうしてくれるのよ、これじゃあ入学式、遅刻しちゃうじゃない!」

 今日は四月七日。
 北海道椎斎しいざい市内にある私立鎮目しずめ学園高等部に入学すべく、朝庭あさば由為は後から来る母親より先に家を出たのだが……
 この様子だと、いったん家に戻って一緒に車に乗せてもらった方がよさそうだ。
 由為は踵を返し、全速力で家に戻ったが、時はすでに遅く、母親と車の姿はなかった。

「……最悪」

 由為が入学式に遅刻し、担任に目をつけられたのは、いうまでもない。
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