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Ⅶ 禍星の剣、月に架かる夜闇を断ちて * 4 *

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「瘴気が濃くなっていく……」
「それに、さっきの銃声」

 硝子の棺を挟んで、理破と由為は飛び込んでくる瘴気に戦々恐々としている。
 そんななか、一早く行動を起こしたのが優夜だった。

「朝庭、宝珠を取りに行ってくるから『月』の斎と一緒にいてくれ。樹菜が寄こした式神がいるからしばらくはもつはずだ。東堂」
「なんでしょう?」

 一般人である東堂はすでに気だるそうな表情で月架の棺に身体を寄りかからせている。見えない瘴気に戦う術もない東堂へ、優夜がひょい、と虚空から剣を差し出す。
 由為と理破は呆気にとられて何も言えなくなる。
 その、あまりに不自然な光景を平然とやってのけて、優夜は東堂の手に柄を握らせる。

「魔除けだ。これで月架を護れ」

 軽く一振りしただけで東堂を覆っていた瘴気がさぁっと消える。我に却った東堂は自分の手の中にある剣を見て目を瞠らせる。

「……これって三種の神器である生命を司る剣じゃないですか! 『星』の神器をなぜ」
「ジークが俺に持たせたがってたから借りてきただけだ。でも、月架のことは俺よりお前の方が知っているだろう? なんせ月架が自分で選んだ運命の相手だ」
「……自分で選んだ?」

 理破の怪訝そうな声が零れ落ちる。優夜はそれを無視し、東堂に詰め寄る。

「これは使い方次第で運命を変える剣だ。お前は知っているはずだ。最期に月架が願ったことを。なぜ、肉体を置いて逝ったのか」

 優夜も感づいていた。これは殺人者が施した呪いではなく月架自身が土地神のちからを利用して最期に願った結果なのだと。

「これを逃げだと罵ろうが知ったこっちゃない。俺はもう、月架の騎士に戻れない。東堂、頼む。月架の騎士として俺の代わりに葬送おくってくれ」

 月架いもうとが望んだ終焉を、愛するひとの手でくだせと、優夜は東堂に残酷な決断を強いる。
 東堂はふっ、と淋しそうに笑みを浮かべ。

「また殴りますよ?」

 そう言いながら、剣の柄をきつく握る。

Nitnekamuy悪しき神よ

 東堂が頷くのを見て、優夜は靄に向けて静かに声をかける。いまは亡き土地神が生きていた頃に使われていた古き民族の言葉をゆっくりと紡いで。
 雪のようにしんしんと降り積もっていく瘴気が、まるで待っていたかのように、人型を模っていく。

Iturenkur apakamuy愛されし斎神の中へ入りたまえ

 ぼんやりと浮かび上がる黒い人影は、眠りについていた月架の肉体へ導かれるように吸い込まれていく。
 東堂はその光景から目をそらすことなく、祈るように月架の前に膝をついている。理破は初めて見る優夜のちからに圧倒され、無言で彼の向こうの月架を見つめている。
 由為だけが、優夜が唱えた言葉を理解していた。これも、『夜』の斎としての能力なのだろうか。

 ――悪しき神よ、愛されし斎神の中へ入りたまえ。

 それは、止まっていた月架の時間を動かす呪文。
 抜け殻となっていた月架の身体を器に、瘴気が吸い込まれていく。東堂はその光景を目にして、初めて月架の死を肌で感じた。
 月架の身体が急速に衰えてきたのだ。眠りについていた肉体が、主の不在にようやく気づいて朽ち果てることに合意したかのように。
 花が萎れていくように、月架の体内にあった水分は蒸発していく。瘴気を取り込んで清浄な気へ変換する姿は、まるで光合成のよう。
 月架の変化がはじまると同時に、優夜は姿を消した。宝珠を取りに戻ったのだろう。
 気づけば降り積もっていた瘴気はすべて、月架のなかへ吸い込まれていた。真っ黒だった靄の残滓も、空気のように透過して無害なものになっている。
 やがて、しずかに硝子の棺は砕ける。
 すべての瘴気を浄化して、髪と骨と皮だけになった月架が、カラン、というもの淋しげな音を立てて、東堂の前に飛び出してくる。
 無残な姿となった恋人を前に、胸の痛みを隠して、東堂は優しく声をかける。

「月架」

 いますぐ駆け寄って抱きしめたい気持ちを抑えて、感極まった声で、呟く。

「最期まで、よく頑張ったね」

 もう、いいよ。
 椎斎の街を守る斎女神の大役、御苦労さま。

「ゆっくりおやすみ」

 生と死を隔てる剣を掲げて、東堂は瞳を見開いて月架の身体を一息で貫く。
 その瞬間、夜闇色の髪と淡い桃色の骨、白樺のような皮は純白のひかりに包まれ、霧散する。

 それはさながら、白い桜吹雪。
 カツン、と剣が床へ転がり、桜吹雪とともに溶けるように消えていく。
 それよりも、月架がほんとうに消滅してしまったことを目にした衝撃の方が強くて、三人とも何も言えなかった。

「……っは」

 愛する人を黄泉の国へ還した青年は、笑おうとして、涙を落とす。やがて、堰を切ったように流れる涙を肌で感じて、苦しそうに声を詰まらせながら、叫ぶ。

「――愛してる!」

 それは、慟哭と呼んで過言ではないほどの悲痛な愛の賛歌。
 なぜ、優夜がこの場から逃げるように去ったのか、いまになって由為は理解する。
 彼は本当の意味で、月架の騎士ではなかった。月架にとっての唯一の騎士は、一般人だった恋人の、東堂だけだったのだ。

 理破も由為も、口を閉ざしたまま、永遠の別れを告げる東堂の嘆きを見つめていた。
 月架の消滅をこの目に焼きつけ、流れる涙の滴を静かにハンカチで押さえる理破。
 そして、月架の最期を優夜に伝えるため観察していた由為は、いまにも溢れそうな涙を堪えながら、理破に囁きかける。

「でも、まだ終わってない」

 施設内の瘴気を浄化しただけで、『星』を封印したわけではない。上の階から聞こえた銃声の正体も気になるし、月架を殺した犯人のことも……
 涙を拭って理破も頷く。

「そうね。次は、あなたが『夜』の斎神になる番よ。月架に代わって」
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