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弐 その六
しおりを挟むいつの間にか、禅の姿は消えていた。自分が住まいしている堀川館へ戻ったのだろう。
あらためて、静はひとり思考する。
きっと、頼朝は静が河越庄へ逃げ帰ることを期待してはいないだろう。戻ってきたら戻ってきたでそれだけの小娘かと嘲られるのが落ちだ。
頼朝を平気でおっさんと呼び、義経の正妻の座につくことを面白がった静を見ている鎌倉の覇者はきっと……
「どっちにしろ、義経さまもわたしも危険視されているのだから今更敵陣へのこのこ顔を出すなんてできないし、できるわけがない」
「そうか」
静の呟きに重なるように、待ち人の低い声がつづく。
「……義経、さま」
「ただいま」
今の独り言を聞かれたのだろう、静は顔を赤くしたまま、小声で応える。
「おかえり、なさい」
「久しぶりだな」
にこっと笑いかけられると、いままで放っておかれた憤りも霧散してしまう。恨み言のひとつやふたつ、言ってやろうと思っていたのに。
どういう風の吹きまわしですか? わたしなんかより年頃の平家の姫君に慰められた方が満足なのでしょう?
女性として未だ不完全である静は、義経からしてみれば契りを結び、子を成す役目を担う妻という対象からは外れてしまう。
けれど、訪れないからといって、行為ができないわけではない。
義経がその気になればいいのにと、不貞なことを考えてしまう静は、咄嗟に返事ができず、俯く。
「はい」
それを拗ねているのだと理解した義経は、 子どもにするように、くしゃりとあたまを撫でて、ごめんごめんと口にする。
「不安にさせてるのはわかってる。俺が平家の姫君を囲ったはなしも、禅あたりが詳しく教えてくれたんだろ。まあ黙っておいても仕方がないから言っておくが、彼女との間に愛はないな」
勝手な男の言い分など、聞きたくもない。
けれど、平家の姫君を北の方と呼ばせ、囲っておいて愛がないなどとよく言えるなあと静は思わず呆れてしまう。
「なら、義経さまの求める愛は何処に?」
「そんなにすぐに見つかるものでもなかろう」
愛などという不確定なものを探し求めその手にすることの難しさ煩わしさを目の前の少女はまだ何も知らないのだと、義経は淋しそうに笑う。
「けれど、禅のことをお話になる義経さまは楽しそう」
「あいつも同じことを言ってた」
禅のことを口にするとき、義経はシズカとその名を呼ばず、必ず「あいつ」と呼ぶ。ふたりが同じ名前だから配慮したのか、それとも無意識に分類しているのか、たぶん義経さまのことだから後者だろうなと思いながら、静は義経の言葉のつづきを促す。
「……禅のところにも、ないのですか」
「易々と手に入るものではないな。愛してはいるんだろう、自分だけのものにしたい、他の男にとられたくない、そういった気持ちがいつもあいつの前で溢れるんだから」
慈しむような義経の声が、震えている。静は黙って、禅のことを愛していると口にした夫を見守る。
「けれど、あいつはそれじゃあいけないんだ。あいつは俺だけを愛することを許されない存在、白拍子なのだから」
歌舞の神に見初められた少女、禅。
彼女が愛するのは第一に舞で、義経はその次でしかない。
直垂、立烏帽子に白鞘巻の刀を差した男装の美姫はそれでも二番目に義経を選んでくれた。誰の愛妾にもならぬと公言していた彼女が放っておけないからとその手をひかりさす方へ導いてくれた、それだけで義経は良かったんだと呟く。
「月に手を伸ばしたようなものさ。あいつは傍にいるのに傍にいない月。それだから、虚しくなるんだよ」
禅だけを愛せたらどんなによかっただろうとそう言いたそうな義経。
きっと、義経は禅に嫌われたくなくて、必要以上に彼女を求めないのだろう。その代わりに方々で女に手を出して、それを莫迦正直に報告して、彼女を怒らせてみようと子どもみたいなことをする。
禅はそんなことじゃ動じないのに。
たしかに虚しくなるだろう。人肌恋しくもなるだろう。戯れで、同情で、本能で、義経は多くの女と関係を持っては、あらためて自分の虚しさを痛感するのだろう。
だからこうして女になりきれていない妻のもとへ、しょうもない話をしに帰ってくるのだ。いつかお前も俺にいっときの夢とその後の虚しさを与える存在になるのだと呪うように。
「もし、わたしが女になったら、義経さまは」
抱いてくださる?
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