闇色金魚

ささゆき細雪

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箱庭からの逃走

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 墨を磨る音を響かせる都度、怯える自分がいる。硯の上で磨り減る墨は、溶けて消えゆくことを甘受して、あたしが握っていた右手から、静かに喘ぎ声を漏らしながら、漆黒の液体へと姿を変えてゆく。

「墨を磨る音は、女が気持ちいいと喘ぐ声に似ていると思わないか?」

 このエロ親父は何を言っているんだろうと、当時のあたしは思ったけれど、今、こうして自分が心を落ち着かせて半紙に向き合う瞬間に走る感情は、紛れもなく、快感だ。

 ハァ、ハァ、ハァ。

 蕩けるような、喘ぎ声を代弁するように、墨はわが身を削ってまで、あたしの欲求を埋めようとする。恍惚とした表情で、あたしは磨りたての墨に、真っ白な毛筆を沈める。

 闇夜に汚れた筆を手に、あたしは文字を、一気に綴る。
 それを黙って見ていた師匠が、皮肉げに笑う。どこか陰湿で歪んだ笑顔で、あたしに近づいて。
 自分の代わりに汚れた筆を、取り上げた。


   * * *


 均衡が崩れるのは時間の問題だと、諦観していただけに、自分がこのような反抗態度を選ぶなんて、と。
 すべてが終わってから驚いた。

 和室に拡がる鮮やかでありながらもおぞましい色彩を、あたしは「綺麗」と口ずさむ。
 畳の上に飛び散った硝子の破片を拾って、自分の左手首の薄い膜を傷つけた。ちくり、と痛みが走ったのと、艶やかな赤が浮き出たのはほぼ同時。それだから、これが夢ではないという事実に打ちのめされる。

 そして、もう、ここにはいられないと、確信して。
 裸足のまま、ゆっくりと夜の庭に降り立つ。
 ひんやり、夜風が身体を震わせる。

 金魚鉢に入っていた出目金は、突然住処を失って、畳の上に放り出されている。

 ごめんよ、君を巻き添えにするつもりはなかったんだけどと、心の中で呟くあたしに、出目金は容赦なく恨めしそうにあたしの前でびちびち跳ねた。

 瑠璃色の矢車菊は夜に映える。浮かび上がった月の光に照らされて、どこか寂しそうな花々の姿は、今のあたしに近いものがある、そんな気がする。

 周囲の民家の灯りは既に暗い。

 行く当てなどないけど、あの家にいたくなかった。飛び出したあたしは出目金同様、呼吸ができなくなる瞬間まで、狭い世界でびちびち跳ねているだけのちっぽけな存在でしかないけれど。

 それだから、足掻きたかった。足掻いて足掻いて足掻ききってみようと、思い立った。
 それが、とりあえず家からの逃避であることに間違いはないので、あたしは裸足のまま田園地帯を歩く、歩く。

 足掻ききれて華やぐ未来を手に入れることができるか、それとも墓場に片足突っ込んでそのままずるずる引きずられて堕ちていくだけか。今の状態では、なんともいえないからあたしは考える。

 タイムリミットを決めよう。

 そうすれば、あたしの迷いは強制的に終わる。そうすれば、歩きつづける無意味な行為を終わらせる妥当な理由を見つけられる。

 そうすれば。
 そうすれば、いい。

 高揚した気分で、闇夜に浮かぶ上弦の月に挑む。
 逃げ切れるとは、思ってないけれど。

 明朝六時。

 それが、あたしの、タイムリミット。
 腕時計の、蛍光グリーンの文字盤を見据えて、あたしは誓う。


「あと、七時間」


   * * * * *


 家に戻るという選択肢もある。
 あることにはあるがそれは最終手段であって、今すぐに行使する必要はない。

 だからあたしは暗い暗い農道を裸足で歩きながら、しんと静まりかえった家々の間をすり抜けながら、前へ前へと進んでいく。

 けして後戻りはせずに。
 夜は墨より明るくて、黒と称するよりも藍と呼んだ方がしっくりするのではないかと思える。藍色の夜空に浮かぶ淡い山吹色の光を放つ星は邪魔されることもなく、堂々と己の存在を誇張している。

 師匠はこんなあたしをバカだと罵るだろうか。女の子が一人でこんな時間に出歩くもんじゃないと怒るだろうか。

 そう考えて、あたしはくすりと笑う。
 師匠が見せた笑みに、あたしは応えることができただろうか。

 笑ってくれたらいいなと、今は叶えられない願いを、何も知らずに瞬いている星にぶつけられたらいいのにと、結局あたしは漠然とした何かに祈らずにいられない。
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