1 / 4
箱庭からの逃走
しおりを挟む墨を磨る音を響かせる都度、怯える自分がいる。硯の上で磨り減る墨は、溶けて消えゆくことを甘受して、あたしが握っていた右手から、静かに喘ぎ声を漏らしながら、漆黒の液体へと姿を変えてゆく。
「墨を磨る音は、女が気持ちいいと喘ぐ声に似ていると思わないか?」
このエロ親父は何を言っているんだろうと、当時のあたしは思ったけれど、今、こうして自分が心を落ち着かせて半紙に向き合う瞬間に走る感情は、紛れもなく、快感だ。
ハァ、ハァ、ハァ。
蕩けるような、喘ぎ声を代弁するように、墨はわが身を削ってまで、あたしの欲求を埋めようとする。恍惚とした表情で、あたしは磨りたての墨に、真っ白な毛筆を沈める。
闇夜に汚れた筆を手に、あたしは文字を、一気に綴る。
それを黙って見ていた師匠が、皮肉げに笑う。どこか陰湿で歪んだ笑顔で、あたしに近づいて。
自分の代わりに汚れた筆を、取り上げた。
* * *
均衡が崩れるのは時間の問題だと、諦観していただけに、自分がこのような反抗態度を選ぶなんて、と。
すべてが終わってから驚いた。
和室に拡がる鮮やかでありながらもおぞましい色彩を、あたしは「綺麗」と口ずさむ。
畳の上に飛び散った硝子の破片を拾って、自分の左手首の薄い膜を傷つけた。ちくり、と痛みが走ったのと、艶やかな赤が浮き出たのはほぼ同時。それだから、これが夢ではないという事実に打ちのめされる。
そして、もう、ここにはいられないと、確信して。
裸足のまま、ゆっくりと夜の庭に降り立つ。
ひんやり、夜風が身体を震わせる。
金魚鉢に入っていた出目金は、突然住処を失って、畳の上に放り出されている。
ごめんよ、君を巻き添えにするつもりはなかったんだけどと、心の中で呟くあたしに、出目金は容赦なく恨めしそうにあたしの前でびちびち跳ねた。
瑠璃色の矢車菊は夜に映える。浮かび上がった月の光に照らされて、どこか寂しそうな花々の姿は、今のあたしに近いものがある、そんな気がする。
周囲の民家の灯りは既に暗い。
行く当てなどないけど、あの家にいたくなかった。飛び出したあたしは出目金同様、呼吸ができなくなる瞬間まで、狭い世界でびちびち跳ねているだけのちっぽけな存在でしかないけれど。
それだから、足掻きたかった。足掻いて足掻いて足掻ききってみようと、思い立った。
それが、とりあえず家からの逃避であることに間違いはないので、あたしは裸足のまま田園地帯を歩く、歩く。
足掻ききれて華やぐ未来を手に入れることができるか、それとも墓場に片足突っ込んでそのままずるずる引きずられて堕ちていくだけか。今の状態では、なんともいえないからあたしは考える。
タイムリミットを決めよう。
そうすれば、あたしの迷いは強制的に終わる。そうすれば、歩きつづける無意味な行為を終わらせる妥当な理由を見つけられる。
そうすれば。
そうすれば、いい。
高揚した気分で、闇夜に浮かぶ上弦の月に挑む。
逃げ切れるとは、思ってないけれど。
明朝六時。
それが、あたしの、タイムリミット。
腕時計の、蛍光グリーンの文字盤を見据えて、あたしは誓う。
「あと、七時間」
* * * * *
家に戻るという選択肢もある。
あることにはあるがそれは最終手段であって、今すぐに行使する必要はない。
だからあたしは暗い暗い農道を裸足で歩きながら、しんと静まりかえった家々の間をすり抜けながら、前へ前へと進んでいく。
けして後戻りはせずに。
夜は墨より明るくて、黒と称するよりも藍と呼んだ方がしっくりするのではないかと思える。藍色の夜空に浮かぶ淡い山吹色の光を放つ星は邪魔されることもなく、堂々と己の存在を誇張している。
師匠はこんなあたしをバカだと罵るだろうか。女の子が一人でこんな時間に出歩くもんじゃないと怒るだろうか。
そう考えて、あたしはくすりと笑う。
師匠が見せた笑みに、あたしは応えることができただろうか。
笑ってくれたらいいなと、今は叶えられない願いを、何も知らずに瞬いている星にぶつけられたらいいのにと、結局あたしは漠然とした何かに祈らずにいられない。
0
あなたにおすすめの小説
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる