闇色金魚

ささゆき細雪

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赤い眼の彼との遭遇

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 赤い瞳を持つ少年と会ったのは、偶然という言葉で言い表すよりも、運命の星回りが導いたなんて陳腐な表現方法の方が似合うように感じる。
 あたしがひとり夜の田園地帯を裸足で歩いているように、彼も裸足でふらりふらふら風に揺られるように靡くように地に足をつけていた。

「どうしたの?」

 彼の声は澄んだ鳥の鳴き声よりも甲高く、まだ声変わりをしていない掠れ切ったボーイソプラノ。天使がいたら、こんな声を口から出しているのかもしれない。歌うように。疎むように。

「どうしたの? か」

 呼び止められて「どうしたの」はないだろうけど、気分が高揚していたあたしは、彼の問いを面白がって、口に出す。

 こんな時間に。こんな格好で。こんな場所で。こんな……どうしたの?

 裸足で何も持たずに家を飛び出して。混濁した色彩を宿した泥だらけの不審でしかない格好で。警察に見つかったらすぐに家に戻されそうなそんな普通の家出少女を見て、少年は尋ねたのだ。

「確かに、どうしたの、って言われそうな格好かも……だって」

 少年は顔を上げる。視線が交錯する。彼の瞳が赤いのは、寝不足で白目が充血しているからなのか、それとも染色体異常の持ち主だからなのか、そこまですぐに理解するほどあたしは賢くもないけれど。
 その双眸の奥で燃える赤があまりに美しかったから。


「だってあたし、逃亡中だから」

 そう、惑わせるように、呟く。


   * * *


 師匠がランプに似た金魚鉢を買ってきたのは、去年の秋祭りの頃。
 硝子でできた丸みを帯びた空っぽの容器を、彼は小さな世界と称して、あたしに箱庭を創れと命令した。

 師匠は人間国宝になりそうでなれない中途半端な書道家で、芸術家だったから、弟子であり娘であるあたしに、自分を超えろと常々語っていた。

 情操教育の一環だったのかもしれない。
 まぁ、十五歳のあたしに今更情操教育も何もないような気がするけれど。

 あたしの母親ははるか昔に他の男を愛して平凡な日常を選んで去っていった。

 それ以来あたしは師匠のことを父親とは呼ばないし、師匠もあたしのことを娘だと認識していない。
 だからあたしは小さな世界を創れと言われて、金魚鉢に出目金を入れた。

 百貨店の屋上で買い手がつかずに数年前から苔むしたプラスチックケースの循環した水の中で泳がされていた醜い真っ黒な出目金を一匹だけ買って。

 白い砂利を底に敷き、水を入れて、藻を植えて、出目金を放す。
 出目金……性別はわからないけど、あたしは「彼」だと思う……は、突然の人生の変化に驚くこともせず、悠々と金魚鉢の中の小さな世界の住人になった。

 ランプの形をした家のなかで、白い砂利の上を泳ぐ闇色の金魚。
 彼が悠久の時を知る賢者のように見えるのは、なぜだろう。

 金魚鉢はあたしのものになった。モノクロの小さな世界は、あたしを癒してくれる。
 だから、そこに朱が混じることを、厭ったのだ。


 そうなる前に、あたしは自分で創った小さな世界を破壊してしまったけれど……


   * * *


 我に却る。
 目の前にいた少年は、あたしがぼんやり虚空を見つめて過去を反芻していたことに気づいていたのかいないのかわからないけれど。
 そんなあたしを見つめて満足そうに微笑んでいた。

「誰から、どこから、どういう風に?」

 逃げる、と口にしたあたしへの質問。
 それを口にしたら、彼を強制的に平凡な人生から追い出すような気がしたけれど。
 もしかしたら彼はそれをあたしに求めていたのかもしれないと思い直して、あたしは小声で呟く。

 渋った表情だけは崩さないで。
 だけど、本当は誰か一人でもいいからあたしの決意を表明を聞いてと訴えたかったから、心の中で密かに微笑むんだ。
 喜びを添えて。

「……タイムリミットは午前六時、それまで一緒に逃げてくれる?」


   * * * * *


 黒い出目金が泳いでゆく。
 あたしの視界を遮って。
 どす黒い思考に染まることなく。

 水泡眼、スイホウガン、それがこの金魚の品種。
 目の下に風船のように膨らんだ袋がついていて、眼球の角膜のみが膨大化したものが、まるで大きな袋の眼に見えることから、名付けられたそうだ。

 師匠は変なことを知っている。
 金魚の品種なぞ知っても、人生に役に立つのかあたしにはわからない。
 だけど、彼が口にした中国語の音だけは、あたしの内耳から離れない。


「シュイパオユアン」


 水の泡に例えられた金魚の眼。
 中国でよく飼われている金魚。
 それが、和室で、金魚鉢の中で、一匹だけで、小さな世界で、何も知らずに泳いでいる。

 金魚にとって、ここが中国であろうが日本であろうがアメリカであろうがムー大陸であろうがきっと関係ないのだろう。
 そもそも金魚は人間が生み出した生物。
 江戸時代の人々が雌鮒を改良して、高貴な人々が愛玩するようになったと聞く。

 だから金魚にとって、愛玩されることは必然的なこと、なのかもしれない。


「シュイパオユアン」


 あたしは小さな世界の出目金をそう呼んで、暢気に泳ぐ彼を慈しむ。
 彼は知らないのだ。あたしの気まぐれで殺されるということすら。
 師匠はそんなあたしと彼の関係に、少しだけ嫉妬してくれた。

 だけど、あたしは知っていたのだ。
 あたしが彼を愛玩していると同時に、彼が愛玩していたのは、あたしそのものだったから。
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