闇色金魚

ささゆき細雪

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金魚から魔女へお願い、恩返し

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「面白い人」

 あたしが彼の応えを聞いてつい口にしてしまった感想だ。
 それを彼は想定していたようで、自分でこくりと首を縦に振っている。

「面白いのは君も一緒」

 無表情で彼は呟く。どこか無理しているような、声の出し方で。

「……声、出ないの?」

 さっきからひゅうひゅうと、不気味な音が漏れている。音の発生源は、彼の喉元。
 彼は、あたしの訝しげな視線をそらすことなく、真摯に向き合い、必死に声を紡ぐ。

「違う。慣れてない、だけ」

 寂しそうな瞳が、あたしを射抜く。真っ赤に見えた瞳の色は、月影のせいか、充血がひいたせいか、焦茶色に変わっていた。
 赤く見えたのは気のせいだったのだろうか? だけど、彼の姿は、非現実的で、赤い瞳であっても問題ないように見えたから。
 少し残念な気持ち。
 ひゅうひゅう喉を鳴らしながら、彼は驚くようなことを口にする。

「もし、逃げ切れなかったら、僕を食べて」


   * * * * *


 こち、こち、こち、こち。

 古い柱時計が、遠慮がちに音を立てる。
 今も昔も変わらない時間という掴み所のないものを捉えるために。

「ヒオ」

 師匠に名を呼ばれて、あたしは振り返る。
 真新しい硯と墨を手渡され、「かけ」と命令される。
 何をどう「かけ」ばいいのか、あたしは彼の意地悪な問いに対して、何も言えず、渋々墨を磨りはじめる。
 真新しい硯にカツン、と当たる墨。四角かった墨が角を削られて、少しずつ小さくなっていく。
 そのときに生まれる、淫らな音。

 師匠はそれをあたしに聞かせて、欲情させる。
 そして、いつの日かあたしが、本当の願いを叶えるよう、呪うのだ。
 あたしはそれを知っていて、知らないふりをして、結局、無邪気に壊してしまう。

 呪詛返し。


   * * * * *


「いいよ」

 何も変わることのない未来というタイムリミットが訪れたら。
 あたしは素直に受け入れる。
 少年は嬉しそうに俯く。

「名前、教えて」

 あたしが問うと、彼は呼吸を整えてから、小声で呟く。
 彼はあたしが予想していたとおりの名で、あたしの名前を知っている人で、あたしが、何をしたかを知っていて受け入れてくれる貴重な……


緋魚ひお


 名前を呼ばれて、確信する。
 だからあたしは頷く。
 もしかしたら彼はあたしを裁きに来たのかもしれない。
 だけど彼はタイムリミットぎりぎりまで傍にいてくれることを選んでくれたから。


「行こうか、シュイパオユアン」


   * * *


 人魚姫、もしくは金魚の恩返し?
 信じられないことが起こるから闇夜は面白い。
 彼が本当に和室で悠久にも近い時を泳いでいた出目金であろうがなかろうがあたしには関係ない。
 だけどあたしの名前を知っていて、シュイパオユアンと名乗って、あたしが何をして家出したことを知っているのだから、彼が金魚から魔女にお願いをして人間になったと考えても不自然じゃない気がする。

 じゃあ魔女はどこにいたんだろう。
 あの小さな世界から飛び出したのは偶然だったのか必然だったのか。あたしが金魚鉢を落として壊してしまったことで彼は水の世界から陸の世界へ飛び出して、姿形を変えて、あたしを追いかけてくれたのだ。

 そう考えたらどんなに素敵だろう!

 酸素を取り込むのがヘタクソで、声を出すのも億劫そうにしている少年の正体が、あたしが愛玩していた金魚だなんて、誰が思うだろう?


「信じてくれた?」


 疑問系なのに抑揚のないシュイパオユアンの問いかけ。それがまたたまらなくいとおしい。

「当然」

 あたしは頷く。

「あり、と」

 彼は慣れないお礼を口にする。


   * * * * *


 何をどのように「かけ」ばいいのかわからなくて、あたしは結局師匠の前で真新しい筆を墨で汚して半紙に文字を書くことしかできなかった。
 描くことを求められていたのかもしれないというのに。

 その文字を見て、彼は笑った。
 どこか無理した笑い方だった。
 歪んでしまった笑い方だった。

 そして、あたしが握っていた筆を取り上げて、その文字を、壊した。
 緋色の魚、という名前を持つあたしが真っ黒な墨で書いたのは「水」という一文字。

 その上に、点が穿たれて、文字は「永」に変わった。
 それを見た瞬間、鳥肌が立った。

 陸に棲む魚であるあたしは、水に還ることをどこかで願っていたのかもしれない。もしかしたら叶わぬ願いだと絶望に打ちひしがれていたのかもしれない。

 だからそれを師匠に、最愛の、理解者だと思っていた彼に、拒否されて、おまけに。


   * * * * *


 箍が外れると、仕舞いこんでいた病んだ思考が雪崩れ込む。

「師匠は、怒った?」

 あたしが聞くと、シュイパオユアンは首を横に振る。

「そうする、暇、なかった」

 そう、とあたしが寂しそうに溜め息を漏らすと、彼は慌てて言い繕う。

「でも、もう、緋魚、怒られない」
「そうね」
「だって師匠」

 知ってる。この先は言わなくてもいいよ、あたしだって充分理解しているから。
 夢物語のように都合のいいだけのお伽噺じゃないことくらい思い知っているから。
 だけどシュイパオユアンが傍にいる事実だけは本当の夢と割り切って話すよ。


「だって、あたしが殺したこと、知ってるんでしょ?」
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