正しいアヤマチのおかし方

ささゆき細雪

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 出逢いは七年前、六年前には唇を許した。
 だけど未だ、自分たちは恋人ごっこの領域、腐れ縁のままだ。

 互いに年齢だけ重ねて、もうすぐ二十歳になるというのに、彼は一線を越えてくれない。周りの下世話な友人たちは、ひとりまたひとりと脱処女宣言をしている。酒の勢いでとか、誕生日にお願いしてとか、シチュエーションはひとそれぞれで、死にそうだったとか気持ちよくて失神したとか行為の際の痛みや快感もひとそれぞれで、未経験者の自分には想像できない話ばかりだった。
 興味深い初体験について耳年増になってしまった僕は、いつしか訪れるであろうそのときを今か今かと待ちわびている。
 けれども僕のことを大切だと言いながら降りしきる慈雨のように優しいキスをしてくれる嫁入は、自分のことも大切にしろと言って、なかなかキスから先のことをしてくれない。
 ずっと一緒にいるって約束だってしている。唯一の不安要素だって、三年前に取り除かれた。
 それなのに、彼はまだ、僕を処女のまま、傍においている。大切だから、傷つけたくないから。それでいて、他のオトコの手に触れないように、度重なる口づけで独占欲を主張する。僕のような面倒な女に惚れているのは君だけだと口にしたところで信じてもらえない。

 ――どうすれば、彼は自信を持って自分を抱いてくれるのだろう?

 チャンスはいくらだってあったと思う。お互いの進学先が別々になった卒業式の夜とか、独り暮らしをはじめた彼の部屋に遊びに行った大学一年の夏とか、ふたりで恋愛映画を観て思いっきり泣いた休日とか……
 彼の傍にいられるだけで幸せだと思ったこともあった。出逢ったばかりの頃は、それ以上望んではいけないと我慢してやりすごしていたのだから。
 初めての接吻をキスではないと一蹴したのもそこに起因する。あくまでもあれは人命救助、人工呼吸でしかないと。
 けれど、彼はそれでもいいと、お前が死んだら困ると笑って、親愛の証だと、なに食わぬ顔をして容易く唇を奪った。するっと舌先を口腔に滑らせて、歯列をなぞって。
 中学生だった僕はそんな彼の行為に驚いて、何も言えなくなってしまった。すきだと言われて、ボロボロの心臓が息の根を止めそうになった。そう、あのときの僕は死にかけていた。いまとは違って。
 彼と出逢ったことで、自分は手放しかけていた未来を取り戻す選択をする。そして高校二年の秋、完治という名の勝利を掴む。
 その報告を当たり前のように笑って受け入れてくれた彼を見て、自覚したのだ。

 この先もずっと一緒にいてくれる彼と子を成し、近い将来この腕で抱きしめたいと。


   * * *


 堅物な男の名は嫁入駿河。嫁入医院という内科診療所のひとり息子で、げんざいは隣の県にある私立医大で家業を継ぐため勉学に勤しむ生真面目な好青年だ。
 長身大柄で、高校の頃はハンドボール部に所属していた。あの頃から変わらない真っ黒な短髪は一度も染めたことがなく、清潔感を損なわない。顔立ちも端正で、僕よりもおおきな二重の瞳は黒曜石を彷彿させる美しさだ。中学生の頃はその瞳を分厚い眼鏡で隠していたが、眼鏡を壊して以来、コンタクトレンズを使っている。おかげで嫁入ファンクラブ、なんて黄色い声をあげる女子生徒たちが一時的に増殖したのもいまでは笑い話だ。

 きっかけはたしか、中高一貫の私立校に入学した際にクラスが同じだったから。仲良くなったのは、幽霊部員ばかりの鉄道同好会の部室で、よく一緒に模型を眺めながらたわいもない会話を飽きずにしていて、それが互いに心地よいものであったから。
 当時の僕は持病のせいか変わり者扱いされていて、同性の友人も片手で数える程で、ましてや異性と親しくなるなどできるわけがないと思っていた。
 けれど嫁入はそんな僕をあっさり受け入れ、医師の息子だったこともあり当たり前のように僕の持病とも向き合った。中二の冬に発作を起こして死にかけた僕を人工呼吸で救い上げてくれたのも彼だ。そこで見切りをつけてくれればよかったのに、何を血迷ったのかその後、すきだと告白してきたから――……
 僕は初めてのキスを、応急処置だと一蹴して逃げることしかできなかったのだ。

 あのときに拒絶して、彼を解放してあげればよかったと思ったこともある。それでも彼は僕の傍にいつづけたかもしれない。
 どっちにしろ、僕はその後も彼からの接吻を受け入れてしまった。傍にいるだけで幸せだと感じた青春時代は、キスだけで充分という自分の淡い恋心を通過して、いつしかそれ以上の貪欲な願いを孕ませるまでになっている。二十歳を前に、黒い知的好奇心で欲望まみれになった僕に、嫁入はきっと気づいていない。

 友達以上恋人未満な腐れ縁の関係。
 嫁入は「お前は俺のものだ。俺はお前を大切にするから、お前も自分を大切にしてくれ」とさんざん言い聞かせていたけれど、なぜか唇だけは例外だった。理由はわからない。ただ、そこから生命の息吹を吹き込まれた初めての記憶が、ふたりを繋ぐ唯一の架け橋だったのかなと僕は考えている。

 中学、高校とそんな風に過ごして、彼は当然のように医大を志望して、ストレートで合格した。僕は体調を考慮して、近所の女子大の人文学部に籍を置いた。はじめのうちは友人たちに「僕」という一人称を不思議がられたものの、バックグラウンドにある幼少期の病歴が人格形成へ影響をもたらしたのだと告げれば、誰もそれ以上突っ込んだことはきいてこない。
 素の状態でいるときは相変わらず「僕」と口にしてしまうが、社会にでているときは問題なく使い分けているため最近ではなかなか自分で自分のことを「僕」と呼ぶことはなくなっていた。こうして大人になるのかと思う一方で、いまでも僕を「僕」として受け入れてくれている嫁入のことを思うとこそばゆいものが込み上げてくる。

 友人たちのように「彼氏」と呼ぶには不確定で、だけど「セフレ」のように身体だけの関係でもない。嫁入のことは腐れ縁だと言って誤魔化しているが、彼女たちはきっと、僕が彼に恋していることなどお見通しなのだろう。
 そうでなければ、こんな穴だらけな計画を提案するものか。


「友人が不倫関係に陥っているかもしれない。確かめたいから尾行につきあえ」


 嫁入は素直に僕の頼みに応じた。たまたまバイトが休みになって暇になったのだという。見え透いた嘘つきやがってと糾弾される可能性もあったが、彼は「せっかく野原が誘ってくれたんだ、尾行でもストーキングでもつきあうさ」と喜んでついてきた。尾行もストーキングも同じ意味だということに彼は気づいているのだろうか。

 七月の雲ひとつない空の下で、紳士と若い女性のカップルの後姿をバレずに追いかけるという、スリリングなゲームは、僕の友人が仕組んでくれた。種を明かせばなんてことはない、父親と娘が繁華街の近くの映画館で映画を観に行っているというそれだけのこと。
 友人とその父親は散歩と称して繁華街周辺をぐるりとまわった後、僕たちが見失うようにクリーム色の建物の影に隠れてもらった。突然姿を消したカップルに驚く嫁入を前に、僕はきっとこのなかだと三階建ての建物を指差し、緑の植え込みと白い石を積んだ外壁によって目隠しされた入口に足を踏み入れた。

「おい、野原っ……ここ!?」
「しー。たしかにこっちに入っていったよね……」

 そ知らぬふりをして進む僕を見て、慌てて嫁入もついてくる。不倫を尾行すればラブホテルでの休憩に当たるのだ。エントランスにも『ファッションホテル ルナティックラブ』という文字がさりげなくライトアップされている。
 流行りのボタニカル柄のイラストが描かれた両開きの自動ドアを抜けたそこには、アイビーやパキラなどの観葉植物がアーティスティックに飾られた近未来的な空間だった。正面のパネルにはずらりと部屋の写真が並んでおり、空き部屋のマークが三つ灯っている。
 寒いくらいに冷房が効いていて、身震いする僕を前に、嫁入がむっとした表情で言い放つ。

「――帰るぞ」
「いやだ」

 ポチッ。
 手を伸ばして届いた二階の空き部屋のボタンを咄嗟に押して、僕は反抗する。
 目を丸くする嫁入を無視して、正面パネルの右隣にあるフロント窓から鍵を受け取り、さらに奥まった場所にあるエレベーターホールへ向かう。

「おい」
「……向うがしっぽりしている間、炎天下のなか待つわけにもいかないよ。ここなら冷房も効いてるし、休憩にはもってこいだと思わないかい?」

 あくまで尾行の途中経過だと言い放てば、彼も観念したのか一緒にエレベーターに乗ってくれた。けれど、不服そうな表情は変わらない。

「お前、ここがどこだかわかっているんだろうな」
「どこって、ラブホテルでしょ?」

 鍵を開ければすぐ目の前にダブルベッドが待っていた。
 靴を脱ぎ捨て、ベッドに向かってダイブする僕を見て、嫁入は乾いた笑みを浮かべている。

「――疲れたなら、寝てていいぞ」

 いかがわしいことなどする気もない、と呆れた表情の嫁入を前に、僕はムッとして起き上がり、彼の前へ立ちはだかる。

「寝るなら、嫁入と一緒がいい!」
「な?」

 仁王立ちして、訴えるように彼の瞳を覗き込めば、そこではじめて僕が望んでいることに気づいたのか、嫁入の顔色が赤くなる。

「大人の男女がラブホテルに入って何をするかなんて決まっているじゃないか」
「だ、だが」
「僕たちはずっと一緒にいるって約束した。将来を誓い合った男女がひとつのベッドをともにすることは別におかしなことではないだろう?」
「……正気か?」
「もちろん」

 慌てふためいて口をぱくぱくしている嫁入もまた、葛藤しているのかもしれない。
 ずっとキスだけの関係だった彼女が、ダブルベッドの前で自分を求めてくるこの状況に。
 だったら我慢しなくていいのだと、一言伝えればいいはずだ。
 だから僕は、カーディガンを脱ぎ捨てて、叫ぶ。


「大義名分は立ったぞ。さぁ、僕を奪いたまえ!」
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