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羽が生えてこなかった天使
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彼女のことを姉と呼ぶことに、あたしは反発する。
なぜなら彼女はあたしを妹扱いしなかったから。
だから、彼女のことを姉と言って紹介したのは諫早だけだ。
それ以前に、あたしに姉がいたことを知ってる人は、ここにいないのだ。
「明日の実習、横浜だって」
遅刻してきたあたしに、楓が言う。
「横浜?」
その地名に、あたしは思わず硬くなる。
「どした?顔色悪いよ」
「え、そんなことないって」
あたしが通っているのは、私立高校の看護科で、あたしはこうみえても看護婦の卵だ。
看護科に通う生徒は半分が寮生で、あたしや楓のように二人で一部屋を使用している。
三年間通って試験に受かれば准看護士の資格が得られる。
二年になって実習に連れだされることが増えた。今回は横浜の病院に行くそうだ。
退屈な数学の授業。
机に頭を乗せて空を見上げる。
……横浜。
三年前、彼女が死んだ場所。あれから行っていない。もしろ、行きたくもない。
思い出したくないのかもしれない。
彼女が、あんな風に死んだ場所のことを……
「横浜って、三年前にアレがあった場所でしょ?怖くない?」
「嘘、アレって横浜で起こったの?初耳ィ」
廊下で無邪気なクラスメートの声が響く。
そう、アレがあった場所。
口に出すのも憚られてしまう、おぞましい出来事が。
楓があたしの青白い顔を見て不安そうにしている。
「昨日寝てないんじゃないの?彼氏の家で」
「そうじゃないよ、心配しないの」
寮へ続く道を抜け、カッテージチーズのようにぬっぺりとした白い建物に入る。建物は三階建てで、見た目は狭そうだが、奥行きがある。
「何か悩み事? もしかして彼氏とうまくいってないとか」
「そうじゃないよ。彼とは順風満帆だもの」
諫早とは四年の付き合いだ。この歳にしては珍しく息が長いと自分でも驚く。多分、相性がよいのだろう。性格も、セックスも。
部屋の鍵を楓が開けて、一日振りの部屋に帰る。
「にしてはおかしいね。セリカ、顔に出やすいんだもの」
楓はじっとあたしを見ている。彼女の瞳は少しだけ灰色がかっている。先祖がアイヌだからだ。
そんな彼女の瞳に見つめられると、全てを話してしまいたくなる。
「楓の考えすぎだよ。ちょっと寝不足なだけよ、気にしない気にしない」
「本当?」
彼女の疑いの眼差しがあたしを射る。
楓は白衣の天使に見初められている気がする。患者の心理を隅々まで理解して、安らぎを自然と満たすような、胃の中のマシュマロみたいだから。
彼女にその話をすると、灰色の瞳を輝かせて否定するのだ。
胃の中のマシュマロだなんて、褒められてる気になれないわ。
でも、胃の中で蕩けるマシュマロに見えるのだ。
じんわり、あとから効いてくる腰痛の薬より、甘くて暖かな胃酸の黄色い液体に包み込まれるマシュマロの方が素敵だ。
セリカは変わってるわ。
楓はその話をするといつもそう言ってクスクス微笑む。
変わっているのだろうか?
「セリカってはじめて見たときから変わってたものね」
「だから今更心配する必要ないの」
「それ以上詮索するのは今日はやめてあげるわ。言いたくなったら言いな」
「考えとく」
楓は呆れて浴場に行ってしまった。彼女は大浴場がお気に入りらしい。
あたしは一人のんびり風呂に入るのが好きなので、夜にお湯が沸くようにこれからバスタブに水を張る。
淡い橙色の太陽が地平線に沈む頃。この時刻が好きだ。
夕暮れどき、よいこは帰る時間です。
あたしの頭の中で響く六時のアラーム。もうよいこじゃないのに。
だけど烏が鳴くから帰りましょうというフレーズだけがいつまでもリフレインする。
彼女が泣きわめくあたしの手を引いて、家に連れていったのがまるで昨日のように。
あの時なぜあたしは泣いていたのだろう?
それすら忘れてしまった。
夕陽は人恋しそうに沈んでゆく。可哀相なお日様。
やがて訪れるジェットブラックの空。見えない星を探すなんて意味もない。
彼女のことばかりが思い出される。夜は彼女の時間。
天女なんじゃないかと疑った子供のころ、彼女はあたしを嘲笑った。
「そうよ。芹夏は悪い子だから羽が生えてこなかったのよ」
だけど、天使にはなれる。白衣の天使……まだ卵だけど。
羽ばたくのに失敗なんかしたくない。だけど、彼女みたいに天を欺く勇気はない。
「セリカ、食堂行くよ!」
風呂上がりの楓があたしを引っ張る。
彼女の火照った手の感触が、溶けたマシュマロみたいだ。
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