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月が無くなる
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「緊急速報です。本日行われた国連安全保障理事会では、接近し続ける月に対する処置として、ロケットミサイルを用いた軍事攻撃により破壊することで決議が可決されました。月の接近に伴う生態系への影響および人類の心理衝動に伴う人的、経済的損失が年々大きくなり危険水域まで達していることが主な可決理由であると説明しています。常任理事国は破壊された月の残骸が地上へ落下しないように、各国へ迎撃ミサイルによる全面的な協力を求めるように要請しました」
ニュースキャスターは真剣な面持ちでテレビ越しに語りかけてくる。
何度も繰り返し伝え、すぐに緊急特番が始まった。各局、この日のために準備をしてきたのだろう。
ついに月が無くなる日が来たか。
社員食堂でエビ天丼を食べながら、俺は物思いに耽っていた。
「月は人類にとって様々な文化をもたらしたかけがえのない物だったんですけどね」
蕎麦を片手に持ち、目の前に座った同僚は物憂げだった。
「冷戦時代には月へ降り立つことで自国の技術力を示す一方で、宇宙への第一歩としてのロマンを感じていた。人類がたどり着いたけど、まだまだ遠い場所。そんな月が自分から近づいてくるのでは夢も希望のないさ。ましてや、最近は満月の日の交通事故が年間の90%を占めるようになり、殺人事件も20倍近くまで増加した。他の生物たちの異常行動も数え切れない。昔は迷信くらいに考えていたがここまで地球に対して影響を与えていたとは思わなかった。こないだの満月の日なんてうちの犬が一日中吠え続けた末に血を吐いて死んでしまった」
ああ、タロよ。お前の衝動を突き動かした物はもうすぐ消滅しようとしているぞ。
「その反面、婚姻届けの提出数も跳ね上がっています。悪いことばかりではないですよ」
「情動のままに結婚したカップルがダメになっていく様を見るのはとても辛いがな」
「確かにそうですね。離婚をきっかけに働きたいと尋ねてくる女性もかなり増えました。しかし、月を破壊するなんて本当にできるんでしょうか?」
「すでにアメリカ一国だけでも地球を木っ端みじんにするだけの軍事力を持っている。壊し損ねるなんてことはないだろう。むしろ、壊した後の月を失った世界がどのように変化するのかが気がかりだ。近づくだけでこれほどまでに地球に影響を与えている衛星だ。消し飛んだときの反動が怖ろしい」
「突然、すべての生き物が無気力になったりして。すべての生命活動の動力源だった可能性もありますからね。最も楽観的なのは現状の地球上生物の異常行動は、月が地球と接触するかもしれないという潜在的な恐怖によって引き起こされていると考えることでしょう」
「集団ヒステリーを起こしていると?」
「そうであれば、月がなくなればすべて解決です」
同僚は蕎麦湯を一息で飲み干すとさっさと食堂を出て行った。
さて、仕事に戻るか。こんな時でも職業案内所に足しげく通う人も多いのだ。月が無くなっても地球は回るしかない。
「次の方どうぞ」
呼びかけるとひとりの男が目の前に座った。
「よろしくお願いします」
男は非常に落ち込んだ顔つきをしていた。
目深にオレンジ色のニット帽をかぶっている。体格は立派でプロ野球選手のようにどっしりとした下半身とプロレスラーのような隆々した上半身をしている。怪我をしてスポーツを続けられなくなってしまったのだろうか。
「どのようなお仕事をお探しですか?」
男はため息をつく。
「これまでずっと役者やサーカスの仕事をしていたので自分でも何の仕事ができるかわからないんです。体力には自信があるので、ひとまず運送会社とか工事現場なんかがいいかと」
「失礼ですが、ご年齢は?」
「四十五歳です」
なかなか厳しい。まったくの素人では受け入れ先は見つからない可能性が高い。
「そうですねえ。あなたのご年齢からですと正社員雇用してくれる会社を探すのは大変かと思います。ひとまず調べてはみます」
俺はPCのモニターに表示される案件を見てがっかりした。やはり、0件。
「申し訳ないのですが、現状では中途採用の募集はないようです。俳優さんやサーカス団員をされていたのなら、そちらの知り合いから伝手を頼ってみてはどうでしょうか」
俺の提案に男は首を振った。
「それがダメなんです。伝手も何も自分の売りがもうなくなってしまうので。それに彼らは私の素顔など知りません」
男は頑なだった。
「しかし、長い付き合いでしょう。怪我をしたからといって、すっぱり切り捨てるなんて酷過ぎる」
苛立ちながらそう言った俺を、男は不思議そうな表情で見ている。
「怪我ってなんのことですか?」
「え? 怪我か病気で体を思ったように動かせないから引退するのだとばかり……」
男は悲しそうに笑った。
口元には大きな犬歯が光る。
「実は、私は狼男なんです」
男が帽子を取るとそこには尖った耳が生えていた。
俺は開いた口が塞がらなかった。
「この力を使って様々な映画や舞台に出演していたんですが、もうすぐ月が無くなるでしょう。今までそれ一本で食ってきたのでこの先やっていけるかどうか心配なんです」
「…そ、それは心配ですね」
俺は相槌を打つので精一杯だった。
月が無くなる弊害がこんなところに波及していた。
「でも、どちらかと言えば、私も月がなくなって欲しいんですよ。だんだんと近づいて来ているせいか、満月じゃなくてもこんな風に耳や歯が尖ってしまうので、生活し辛くって。変身せずに済むならそれが一番平穏でいいんです。だから早く新しい安定した仕事を見つけたい」
切実な元狼男の願いを俺はなんとか叶えてあげたいと思った。
ニュースキャスターは真剣な面持ちでテレビ越しに語りかけてくる。
何度も繰り返し伝え、すぐに緊急特番が始まった。各局、この日のために準備をしてきたのだろう。
ついに月が無くなる日が来たか。
社員食堂でエビ天丼を食べながら、俺は物思いに耽っていた。
「月は人類にとって様々な文化をもたらしたかけがえのない物だったんですけどね」
蕎麦を片手に持ち、目の前に座った同僚は物憂げだった。
「冷戦時代には月へ降り立つことで自国の技術力を示す一方で、宇宙への第一歩としてのロマンを感じていた。人類がたどり着いたけど、まだまだ遠い場所。そんな月が自分から近づいてくるのでは夢も希望のないさ。ましてや、最近は満月の日の交通事故が年間の90%を占めるようになり、殺人事件も20倍近くまで増加した。他の生物たちの異常行動も数え切れない。昔は迷信くらいに考えていたがここまで地球に対して影響を与えていたとは思わなかった。こないだの満月の日なんてうちの犬が一日中吠え続けた末に血を吐いて死んでしまった」
ああ、タロよ。お前の衝動を突き動かした物はもうすぐ消滅しようとしているぞ。
「その反面、婚姻届けの提出数も跳ね上がっています。悪いことばかりではないですよ」
「情動のままに結婚したカップルがダメになっていく様を見るのはとても辛いがな」
「確かにそうですね。離婚をきっかけに働きたいと尋ねてくる女性もかなり増えました。しかし、月を破壊するなんて本当にできるんでしょうか?」
「すでにアメリカ一国だけでも地球を木っ端みじんにするだけの軍事力を持っている。壊し損ねるなんてことはないだろう。むしろ、壊した後の月を失った世界がどのように変化するのかが気がかりだ。近づくだけでこれほどまでに地球に影響を与えている衛星だ。消し飛んだときの反動が怖ろしい」
「突然、すべての生き物が無気力になったりして。すべての生命活動の動力源だった可能性もありますからね。最も楽観的なのは現状の地球上生物の異常行動は、月が地球と接触するかもしれないという潜在的な恐怖によって引き起こされていると考えることでしょう」
「集団ヒステリーを起こしていると?」
「そうであれば、月がなくなればすべて解決です」
同僚は蕎麦湯を一息で飲み干すとさっさと食堂を出て行った。
さて、仕事に戻るか。こんな時でも職業案内所に足しげく通う人も多いのだ。月が無くなっても地球は回るしかない。
「次の方どうぞ」
呼びかけるとひとりの男が目の前に座った。
「よろしくお願いします」
男は非常に落ち込んだ顔つきをしていた。
目深にオレンジ色のニット帽をかぶっている。体格は立派でプロ野球選手のようにどっしりとした下半身とプロレスラーのような隆々した上半身をしている。怪我をしてスポーツを続けられなくなってしまったのだろうか。
「どのようなお仕事をお探しですか?」
男はため息をつく。
「これまでずっと役者やサーカスの仕事をしていたので自分でも何の仕事ができるかわからないんです。体力には自信があるので、ひとまず運送会社とか工事現場なんかがいいかと」
「失礼ですが、ご年齢は?」
「四十五歳です」
なかなか厳しい。まったくの素人では受け入れ先は見つからない可能性が高い。
「そうですねえ。あなたのご年齢からですと正社員雇用してくれる会社を探すのは大変かと思います。ひとまず調べてはみます」
俺はPCのモニターに表示される案件を見てがっかりした。やはり、0件。
「申し訳ないのですが、現状では中途採用の募集はないようです。俳優さんやサーカス団員をされていたのなら、そちらの知り合いから伝手を頼ってみてはどうでしょうか」
俺の提案に男は首を振った。
「それがダメなんです。伝手も何も自分の売りがもうなくなってしまうので。それに彼らは私の素顔など知りません」
男は頑なだった。
「しかし、長い付き合いでしょう。怪我をしたからといって、すっぱり切り捨てるなんて酷過ぎる」
苛立ちながらそう言った俺を、男は不思議そうな表情で見ている。
「怪我ってなんのことですか?」
「え? 怪我か病気で体を思ったように動かせないから引退するのだとばかり……」
男は悲しそうに笑った。
口元には大きな犬歯が光る。
「実は、私は狼男なんです」
男が帽子を取るとそこには尖った耳が生えていた。
俺は開いた口が塞がらなかった。
「この力を使って様々な映画や舞台に出演していたんですが、もうすぐ月が無くなるでしょう。今までそれ一本で食ってきたのでこの先やっていけるかどうか心配なんです」
「…そ、それは心配ですね」
俺は相槌を打つので精一杯だった。
月が無くなる弊害がこんなところに波及していた。
「でも、どちらかと言えば、私も月がなくなって欲しいんですよ。だんだんと近づいて来ているせいか、満月じゃなくてもこんな風に耳や歯が尖ってしまうので、生活し辛くって。変身せずに済むならそれが一番平穏でいいんです。だから早く新しい安定した仕事を見つけたい」
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