私と林檎の休日

石谷 落果

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右回りするコーヒー

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 偶然を装ってしまったことを後悔していた。

 たった今、私は憧れだった先輩の向かいに座っている。

 望んでいたのは否定しないが、ここにいる理由は正直に答えられるものではなく、至って作為的で不純だった。

 薄暗く狭い喫茶店で、コーヒー豆の入った瓶がずらりと並ぶカウンターに椅子が5つ。テーブル席は2つしかない。明らかに道楽で店を構えているマスターはコーヒーを飲みながらカウンターの真上の電球を頼りに新聞を読んでいる。

「コーヒーが好きだったなんて知らなかったな」

 先輩は曇りのない笑みを浮かべている。同じ趣味の人間が『偶然』にも身近にいることに感動しているのだ。
 
 その気持ちはわかる。

 私も趣味は違うが機械仕掛けの時計を死ぬほど愛している。
 ムーブメントが露になったスケルトンの美しさの虜だった。友人はそれが理解できず、かわいい文字盤や男子から持て囃されるブランドを選ぶ。私はコストパフォーマンスと仕掛けのクオリティを評価基準に置いているが、彼女の前でそういうと異端だと指を突きつけられるか、悲哀の表情を浮かべる。
 本当は熱く語り合いたい気持ちを抱えているのに、情熱をどこにもぶつける術がなく、ひとり寂しくワインディングマシーンを眺める日々を送っている。

 それゆえに先輩が趣味を語らう喜びに高ぶっていることが痛いほど伝わってくるのだ。

 私はコーヒーではなく、あなたが好きなのだ。

 しかし、それを言い出すことができない。彼の目は趣味を爆発させることができる興奮で爛々としている。強烈な喜びがここに存在した。

「あの人、コーヒー好きだってよ」

 私が先輩のことが気になっていると相談した翌日に、友人が持ってきてくれた情報だった。私はあまり好きじゃない。わざわざ苦いものを摂取するのが理解できない。

「飲めなくても色々と調べて準備するの」
 そう言って雑誌やネットのURLを教えてくれた。

 どうやらコーヒーは大きく分けてドリップとエスプレッソの二種類があり、それらを派生させて様々な種類が生まれているのだそうだ。コーヒー豆も主流なのは二種類でアラビカ種とカネフォラ種だ。アラビカ種はコーヒー生産の70%を占めているそうなので、私の知っているコーヒーの味はこっちだろう。マニアックな種類のコーヒーを飲んだ記憶はない。中には動物のフンから採集した種類もあるらしい。奥が深すぎるし、ここまで行きつくとゲテモノ感が強い。他にも様々な情報が書かれているのだが、興味がないので目が滑っていく。情報が入ってこない。借り物の知識よりも熱意で示したほうがいい気がする。しかし、突然話しかけるのも不自然だ。

「それなら行きつけのお店に行ってみたらいいかも。もしかしたら偶然会えるかもしれないし。喫茶店ならコーヒー談義をするのはむしろ自然だわ」

 そうかな。

 しかし、なぜ友人はここまで後押ししてくれるのだろう。

「人の恋路は愉快なものよ」

 遊ばれているだけなのね。

「どうせ、恋愛に発展しなければお互い他人のまま卒業だしさ。当たって砕けても人生に実害はほぼないわ。切ない失恋の記憶が残るだけよ」

 それって致命傷ではないかな。

 とにかく、私はそんな友人のバックアップもあり、この喫茶店に漕ぎつけたのだ。

 店内は涼しいというのに額にはうっすらと汗をかいていた。

 照明のおかげでよく見えないのが幸いだった。きっと私の眼鏡も曇っていることだろう。

「君はこの店は初めて? 僕は週一で通っているんだ。不愛想なマスターだけど、抽出も豆の仕入れも一流だ。なんとなく店内の雰囲気でわかるだろ。道楽だよ、金儲けしようという気持ちがないから高品質なコーヒーを提供できる。豆の種類も豊富で自家製のブレンドもあるんだぜ」

 先輩の声は店内のムードを保とうと必死に声を押し殺しているが、早口で捲し立てるように話す。ここまでオタク気質な人だとは思わなかった。

 私が友人に時計の話をするときと似ている。

 だから、相手が自分の趣味を理解してくれていないと知った時の落胆ぶりも想像がつく。

「君は何を頼むんだい?」

 えーと、ドリップコーヒーがいいな。

「変な奴、ここはドリップしかないんだよ。俺はアマレロ。ここ最近はまっているんだ。仕入れ先が優秀なのか、特に甘みが特徴的でね。しっかりと完熟した実だけを手摘みして天日乾燥をしているようだよ」

 甘い?

「お、興味ある?」
 私は大きくうなずいた。

 苦くないならいける。これで先輩と楽しく話そう。

「マスター、アマレロを二つお願いします」
 マスターは新聞を折りたたむと作業に取り掛かった。ゆったりとしたモーションで丁寧に豆を挽き始める。

「いい音だよね」
 ミルがぐるぐると右回りする。心地いい音だった。この緊張感を解してくれる。こぽこぽとお湯を注ぐ音に遅れて、コーヒーの匂いに包まれた店内がより香ばしい世界へと変わっていく。徐々にコーヒーへの苦手意識が薄れていくのを感じた。

「さあ、飲んでみなよ」
 目の前に運ばれてきた二つのカップから白い湯気が立っている。糸状の香りが天井へ上っているように見えた。

 口元へゆっくりと近づける。

 いい香り。

 先輩は一口含むと口の中で転がすように味わっている。

 あまりにも美味しそうに飲むので私も釣られて一口。


 ……苦い。

 私はしかめ面になるのを必死に我慢した。

 甘い? 冗談じゃない。

「どうだ、甘みがあって香りもいい。毎日通いたいくらいさ」

 私は苦笑いをした。
 いくら他人だとしてもここまで感性が違うものなのか。

 考えてみたら先輩に好意を持つことと彼の趣味に興味を持つことは必ずしも必要十分条件ではない。もしも先輩が私の趣味に興味を持たなかったとしても、憧れの感情は変わることはない。

 しかし、頭ごなしに趣味を否定されたら感情には変化があるだろうと思う。どんな相手の一面も必ず、一度は受け入れるべきだ。

 違いを受け入れ、そしてかみ砕いて理解しよう。

 コーヒー自体はを受け入れた。しかし、このままコーヒーを飲むことはできない。私の楽しめる形に変形させなければならない。

 先輩は不意に立ち上がり、マスターの近くへと移動した。財布を持って行ったので、おそらく会計をしてくれるのだと思う。

 私はその隙をついてテーブルに置かれている角砂糖を5つ入れた。

 海外ではエスプレッソを飲むときに大量の砂糖を入れるとブログには書かれていた。ブラックのまま飲むのは日本人くらいだそうだ。つまり、私のしている行為に一切問題はない。しかし、心苦しい。先輩が美味しいと言うものを否定しているからだ。

 先輩は会計から戻るとこう言った。
「今日は一緒に飲んでくれて嬉しかった。君がコーヒーを好きだなんて知らなかったよ」

 嬉しそうに笑っている。罪悪感が心に打ち寄せる。

 これは人を騙してしまったことになるのだろうか。

 不純な動機は自分も苦しめる。

 私は苦しみから解放されようとした。

「……私は先輩が好きなんです。だから先輩が好きなコーヒーも好きになろうとしたんです」

 愛の告白と罪の告白。
 先輩から笑みが消えた。

「気を使わせて悪かった。別に恋人がコーヒー好きじゃなくてもいいんだ。君は何が好きなんだ?」

「私は時計が好きなんです」

「時計か、いい趣味だね。実はそろそろ買い替えようかと思っていたんだ」

 突然の誘いに私は動揺したが、同時に友人が協力的だった理由がわかった。

 私は赤い顔をして、ひたすらコーヒーをかき混ぜる。
 果たして砂糖を入れたコーヒーを、私は飲み干すことができるのであろうか。
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