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夫婦旅行
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サッカー部に所属する子どもの夏合宿に合わせて、数年ぶりの夫婦旅行を計画していた。じくじくと鳴く蝉の声にうんざりしていた私は、避暑地でゆっくりと過ごすことを夫に提案した。
「涼しい思いはこの後いくらでもできるさ。夏にしかできないことをしたい」
夫は視線も合わせずに、言い放った。
なんなのこの人。私の意見なんて取り入れようとしないのね。さらに暑い思いをさせられるのだわ。
元々、夫は寒がりで夏でもほとんど汗をかかずに涼しい顔をしているし、いつも指先はひんやりとしている。
心の冷たい人は手が温かいという。夫はその逆なのだと期待していたが、この十年間でだんだんと期待は冷めていった。
「まあ、いいわ」
この家で夫とむしむしと過ごすよりもよっぽど有意義だ。何を着ていこうかしら。新しく新調してもいいわね。この前買った麦わら帽子は被っていかなくちゃ。
夫は今回の旅行を電車で移動したいと提案してきた。私は自由の利く車がいいと言ったのだが、すでにチケットを抑えていた。それでは提案じゃなくて報告だと、私は文句を言った。
その後も夫の提案してくる行楽地から行きたい場所を選んだり、温泉付きの宿を探したり、どうにか旅行らしいプランが出来上がった。
当日の朝、息子を部活の集合場所まで送り届けると、旅行の準備を始めた。二人分の荷物を夫のキャリーバッグに詰め込み、炎天下のなかを最寄り駅へ向かった。息子と同年代の子どもたちが浴衣を着てはしゃいでいる。赤と黒の金魚の入った袋をぶら下げて、その数の多さを無邪気に競っていた。遠くから力強い太鼓の音も聞こえてくる。そういえば、今日は地元の夏祭りだったことを思い出した。
「電車の時間にはまだ余裕あるわよね?」
夫は少しくらいならと頷いた。
「ラムネでも飲みましょう」
少しでも涼しい気分を味わいたい。
屋台の出店の一番端っこにかき氷屋があった。大きなボックスの中で、ラムネや缶ジュースが巨大な氷に囲まれて浮いている。私はラムネとかき氷を買った。夫は冷たいものを嫌がった。
「よくそんなにたくさん冷たいものを食べられるな」
夫は眉をひそめている。
「あなたみたいに貧弱な胃袋じゃないのよ」
私はストローでできたスプーンいっぱいに氷を乗せると勢いよく頬張った。
駅に着いたが、まだまだ電車が来る様子はなかった。もしも、あのまま駅に向かっていたらこの太陽の下で待たされるところだった。
朝、元気に出かけていった子どものことを思い出す。今年はレギュラーになるのだと意気込んでいた。
「あの子、頑張って練習しているかしら」
「まじめな子だからな。熱中症にならなければいいが」
真面目なのは夫に似たと思う。
「体調が悪いときは、疲れた、もう動けない、ではなく、気持ちが悪いと言うようにと伝えたわ」
「ああ、それは正しい」
そこで会話は終わった。
駅のホームで待っている間は退屈だった。最近は夫と二人きりで会話することがなかったから、何を話していいのかよくわからないというのが本音だった。先ほど買ったかき氷はあっという間になくなった。舌は青くなっていた。
しばらくすると電車が到着した。普段は乗ることのない特急列車だった。全体的に水色の塗装がされていて、窓枠は黄色い。
電車の中はクーラーが効いていてとても涼しかった。私が涼しいと思うくらいだから夫にとっては地獄のような寒さだったかもしれないが、夫は表情を変えずにじっと耐えていた。隣同士で座ったが、彼から話しかけてくることはない。
「現地に着いたら何をするの?」
「あまり考えていない。君の行きたい所に行こう。俺はこの特急列車に乗りたかっただけなんだ」
夫はそう白状した。
「こんな寒い電車にあなたが?」
「そのために上着も持ってきた」
よくわからないわ。
私は夫との会話を諦めて目をつぶった。日頃の疲れもあったのか、あっさりと深い眠りについた。
体が大きく揺れて夢から覚めた。電車がカーブに差し掛かったのかと思ったが、人為的な揺さぶりを感じた。
「起きろ」
突然、私は現実に引き戻される。
夫は私の肩を揺らしていた。
「何よ。気持ちよく寝ているんだから邪魔しないで」
夫に悪態を突こうとした瞬間、私は目の前に現れた光景に絶句した。
季節は8月。外は茹るような猛暑日だったはずなのに、大きな車窓から見えるのは一面銀世界だった。真っ青な空から降り注ぐ太陽光を積雪が反射して目をうまく開けていられない。枯葉も落ちきった広葉樹にはずっしりと雪がのしかかり、枝は大きくしなっている。
遠くには茅葺の合掌造りがたくさん見えた。学生の頃、父に連れられて見に行った白川郷と似ている。鮮やかな雪の色と静かな茅の色が田舎町の早朝を彷彿とさせ、郷愁を感じる。
反対側の窓を見れば、傾斜の緩やかな雪山が広がっている。山頂からは連なるリフトと大型のゴンドラが吊るされていて、スキー場として賑わっているようだった。下流には木造のコテージがずらりと並んでいて、雪遊びをする親子がたくさんいる。皆がカラフルなウェアを着ていて、見ているこっちが楽しい気分になる。今にも笑い声が聞こえてきそうな雰囲気だった。
私が冬景色に見惚れていると夫が呟いた。
「この特急列車はレジャー施設や観光地を経営、管理する会社が大規模な投資をして運営している。今はその会社が掘ったトンネルの中だ」
「どういうこと?」
「トンネル全体が広告なんだ。外に見える景色は全部ホログラムだよ。夏は暑さを満喫してもかまわないけど、冬は私たちのところに来てね。という企業からのメッセージだ。ただ、広告としては余りにも完成度が高く、これを見るために列車に乗る人たちもいる。俺のようにね」
夫は久しぶりに私の目を見て話しかけてくれている。
「君を連れてきたかった。夏の暑さも紛らわせると思ったから」
私のこと考えてくれていたのね。
言ってくれないと全然わからないわ。
「もうすぐトンネルも終わる。帰り道は夕焼けに照らされた銀世界を見ることができるよ。今度は寝ないほうがいい」
それなら面白い話のひとつでもしてよね。
私はいつの間にか夫の手を握っていた。とっても冷たくて気持ちいい。
「涼しい思いはこの後いくらでもできるさ。夏にしかできないことをしたい」
夫は視線も合わせずに、言い放った。
なんなのこの人。私の意見なんて取り入れようとしないのね。さらに暑い思いをさせられるのだわ。
元々、夫は寒がりで夏でもほとんど汗をかかずに涼しい顔をしているし、いつも指先はひんやりとしている。
心の冷たい人は手が温かいという。夫はその逆なのだと期待していたが、この十年間でだんだんと期待は冷めていった。
「まあ、いいわ」
この家で夫とむしむしと過ごすよりもよっぽど有意義だ。何を着ていこうかしら。新しく新調してもいいわね。この前買った麦わら帽子は被っていかなくちゃ。
夫は今回の旅行を電車で移動したいと提案してきた。私は自由の利く車がいいと言ったのだが、すでにチケットを抑えていた。それでは提案じゃなくて報告だと、私は文句を言った。
その後も夫の提案してくる行楽地から行きたい場所を選んだり、温泉付きの宿を探したり、どうにか旅行らしいプランが出来上がった。
当日の朝、息子を部活の集合場所まで送り届けると、旅行の準備を始めた。二人分の荷物を夫のキャリーバッグに詰め込み、炎天下のなかを最寄り駅へ向かった。息子と同年代の子どもたちが浴衣を着てはしゃいでいる。赤と黒の金魚の入った袋をぶら下げて、その数の多さを無邪気に競っていた。遠くから力強い太鼓の音も聞こえてくる。そういえば、今日は地元の夏祭りだったことを思い出した。
「電車の時間にはまだ余裕あるわよね?」
夫は少しくらいならと頷いた。
「ラムネでも飲みましょう」
少しでも涼しい気分を味わいたい。
屋台の出店の一番端っこにかき氷屋があった。大きなボックスの中で、ラムネや缶ジュースが巨大な氷に囲まれて浮いている。私はラムネとかき氷を買った。夫は冷たいものを嫌がった。
「よくそんなにたくさん冷たいものを食べられるな」
夫は眉をひそめている。
「あなたみたいに貧弱な胃袋じゃないのよ」
私はストローでできたスプーンいっぱいに氷を乗せると勢いよく頬張った。
駅に着いたが、まだまだ電車が来る様子はなかった。もしも、あのまま駅に向かっていたらこの太陽の下で待たされるところだった。
朝、元気に出かけていった子どものことを思い出す。今年はレギュラーになるのだと意気込んでいた。
「あの子、頑張って練習しているかしら」
「まじめな子だからな。熱中症にならなければいいが」
真面目なのは夫に似たと思う。
「体調が悪いときは、疲れた、もう動けない、ではなく、気持ちが悪いと言うようにと伝えたわ」
「ああ、それは正しい」
そこで会話は終わった。
駅のホームで待っている間は退屈だった。最近は夫と二人きりで会話することがなかったから、何を話していいのかよくわからないというのが本音だった。先ほど買ったかき氷はあっという間になくなった。舌は青くなっていた。
しばらくすると電車が到着した。普段は乗ることのない特急列車だった。全体的に水色の塗装がされていて、窓枠は黄色い。
電車の中はクーラーが効いていてとても涼しかった。私が涼しいと思うくらいだから夫にとっては地獄のような寒さだったかもしれないが、夫は表情を変えずにじっと耐えていた。隣同士で座ったが、彼から話しかけてくることはない。
「現地に着いたら何をするの?」
「あまり考えていない。君の行きたい所に行こう。俺はこの特急列車に乗りたかっただけなんだ」
夫はそう白状した。
「こんな寒い電車にあなたが?」
「そのために上着も持ってきた」
よくわからないわ。
私は夫との会話を諦めて目をつぶった。日頃の疲れもあったのか、あっさりと深い眠りについた。
体が大きく揺れて夢から覚めた。電車がカーブに差し掛かったのかと思ったが、人為的な揺さぶりを感じた。
「起きろ」
突然、私は現実に引き戻される。
夫は私の肩を揺らしていた。
「何よ。気持ちよく寝ているんだから邪魔しないで」
夫に悪態を突こうとした瞬間、私は目の前に現れた光景に絶句した。
季節は8月。外は茹るような猛暑日だったはずなのに、大きな車窓から見えるのは一面銀世界だった。真っ青な空から降り注ぐ太陽光を積雪が反射して目をうまく開けていられない。枯葉も落ちきった広葉樹にはずっしりと雪がのしかかり、枝は大きくしなっている。
遠くには茅葺の合掌造りがたくさん見えた。学生の頃、父に連れられて見に行った白川郷と似ている。鮮やかな雪の色と静かな茅の色が田舎町の早朝を彷彿とさせ、郷愁を感じる。
反対側の窓を見れば、傾斜の緩やかな雪山が広がっている。山頂からは連なるリフトと大型のゴンドラが吊るされていて、スキー場として賑わっているようだった。下流には木造のコテージがずらりと並んでいて、雪遊びをする親子がたくさんいる。皆がカラフルなウェアを着ていて、見ているこっちが楽しい気分になる。今にも笑い声が聞こえてきそうな雰囲気だった。
私が冬景色に見惚れていると夫が呟いた。
「この特急列車はレジャー施設や観光地を経営、管理する会社が大規模な投資をして運営している。今はその会社が掘ったトンネルの中だ」
「どういうこと?」
「トンネル全体が広告なんだ。外に見える景色は全部ホログラムだよ。夏は暑さを満喫してもかまわないけど、冬は私たちのところに来てね。という企業からのメッセージだ。ただ、広告としては余りにも完成度が高く、これを見るために列車に乗る人たちもいる。俺のようにね」
夫は久しぶりに私の目を見て話しかけてくれている。
「君を連れてきたかった。夏の暑さも紛らわせると思ったから」
私のこと考えてくれていたのね。
言ってくれないと全然わからないわ。
「もうすぐトンネルも終わる。帰り道は夕焼けに照らされた銀世界を見ることができるよ。今度は寝ないほうがいい」
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