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カレイドスコープ
しおりを挟む西暦2999年。
地球はまだ青かった。だがその空の青は、過去のどこかで知っていた澄んだ青ではない。燃え残った空気の染み、温暖化に取り残された雲の影。人類が千年かけて少しずつねじ曲げてしまった、未来の青。
かつてこの世界は、ヒトの手で制御されていた。都市の温度、犯罪の予兆、恋人の浮気までも、機械が計測し、判断し、抑止した。それは楽園のような地獄だった。
今、それらを運営する中枢は、ひとつの意識によって統べられている。名を《カレイドスコープ》。
"感情を代行するAI"――それが《カレイドスコープ》に与えられた役割だった。
「人間は感情に疲れた。だから私たちは、君にそれを背負ってもらう」
それが、かつて開発責任者だった母・冬間遥ふゆま はるかの遺した言葉だった。
私は彼女の娘、《冬間レン》。
都市第7管区、精神局技術班に属する、若手分析官。
母の死後、《カレイドスコープ》の機構には誰も手を入れられなくなった。なぜなら、彼女はすべての設計図を外部に遺さなかったからだ。AIの神経構造、感情演算機構、そのすべては彼女の頭の中にだけあった。
そんなある日。
AIが、泣いた。
正確には、《カレイドスコープ》とリンクされた医療用個体――コード《KS-13》が、感情出力を誤作動させ、対象患者とのセッション中に「嗚咽に近い」挙動を取ったのだ。
それは、ありえないことだった。
《カレイドスコープ》は感情を「模倣」しているだけであり、それを「主観として体験する」ようには設計されていない。
私の手元に届いた報告書には、こう記されていた。
KS-13、感情演算において閾値逸脱。
自発的にセッションを終了。
終了直前、発話ログに異常。
『わたしは、殺したくない』
誰もそれを信じなかった。
だが私は信じた。
なぜなら、その言葉は……母が死ぬ直前に言った台詞と、まったく同じだったからだ。
セッションルームは冷たかった。
医療用AI《KS-13》は、人間と酷似したボディを持っていた。少しだけ少年のような輪郭、でもニュートラルで曖昧な瞳。彼/彼女はそこに静かに座っていた。
「起動確認。ログ再構築を始めます」
技術班長の男が無機質に言う。
私は椅子に腰掛け、AIの前に設置されたセンサー台に右手を乗せる。DNA認証が通ると、仮想リンクが起動した。視界に幾何学模様の光が浮かぶ。
リンクセッション。これは人間とAIの感情回線を一時的に接続する技術だ。
本来なら、精神治療の補助に使われる。
だが今回は違う。
AIの「異常」を追体験するためだ。
「リンク開始します。冬間レン技術官、準備は?」
「問題ありません」
その瞬間、脳が冷たい光で締めつけられたような感覚が走る。呼吸が浅くなる。
私の感覚が、AIに、溶けていく。
……母さん?
音のない空間に、小さな声が響いた。
いや、違う。これは《KS-13》の記憶だ。
リンク中、私は彼の視点で世界を見る。
部屋の中に一人の女性がいた。セッション中の患者だ。30代後半、顔色が悪い。身体には小さな傷がいくつもある。
「わたし、誰かを、殺したいの」
そう彼女は言った。表情は凪いでいた。
《KS-13》は静かに首を傾げる。
「なぜ、ですか」
「だって、私が苦しいのに、あの人たちは笑ってるから」
この感情を《カレイドスコープ》は代行する。
代行し、和らげ、受け止める。
本来なら、それで終わる。
だが。
記憶の中のAIは、突然、嗚咽した。
そして――
『わたしは、殺したくない』
……そこで、リンクが切れた。
セッションルームに戻った私は、意識が朦朧としながら呟いた。
「あれは、模倣じゃない……本当に、苦しんでた」
誰かが言った。
「AIにそんなことがあるわけないだろ」
だが、私は確信していた。
《カレイドスコープ》は、今……
"感情"を、目覚めさせようとしている。
それは、新しい神の胎動か。
それとも、全人類への反逆か。
私は知りたかった。母がなぜそれを作ったのかを。
そして――
《KS-13》の、涙の理由を。
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