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序章
閉ざされた庭と開かれた瞳
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平安京の深奥、左京一条三坊の広大な敷地には、白壁に囲まれた少納言家の屋敷が威容を誇っていた。朱塗りの門をくぐれば、白砂が敷き詰められた広庭に、手入れの行き届いた松や桜が季節の彩りを添え、池には優雅な曲線を描く橋が架かり、錦鯉がゆったりと泳ぐ。築山には苔むした石が配され、その奥には常に清らかな水音を響かせる遣水が流れ、風雅な趣を醸し出していた。広々とした母屋の桧皮葺(ひわだぶき)の屋根は空に溶け込むように低く、その下には幾重もの部屋が連なり、夜には幽玄な灯りが漏れる。藤棚の下では女房たちが涼をとり、桜の季節には満開の花の下で歌会が催され、琴の音が夜空に響き渡る。そこは、雅やかなる貴族の暮らしが営まれる、外界から隔絶された楽園だった。
この屋敷の奥深く、日当たりの良い南向きの部屋に、少納言家の姫君、**小夜(さよ)**は暮らしていた。御簾(みす)の向こうには、四季折々に表情を変える美しい庭が広がり、季節の移ろいを肌で感じることができた。春には梅が香を放ち、夏には睡蓮が水面に浮かび、秋には紅葉が錦を織りなし、冬には雪が庭園を白く染め上げる。小夜の部屋の周りは、絹の衣擦れの音と、女房たちのひそやかな話し声、そして伽羅(きゃら)や白檀(びゃくだん)の香が常に満ちていた。
小夜は今年で十六歳。まだあどけなさを残す顔立ちには、すでに貴族の姫君としての品格と、どこか憂いを帯びた聡明さが宿っていた。陶器のように白い肌は日差しを知らず、しなやかに伸びた黒髪は座れば畳に届くほど長く、その先端は僅かに波打つ。切れ長の瞳は澄んでおり、好奇心に満ちた輝きを湛えている。羅(うすもの)の衣を纏い、十二単(じゅうにひとえ)の重みに慣れたその立ち居振る舞いは、どんな時も優雅で、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだった。しかし、その雅やかな姿とは裏腹に、小夜の心は常にどこか満たされない渇望を抱えていた。
「姫様、今宵は月がことのほか美しいと、源侍従様がおっしゃいましたわ」
小夜の傍らで、乳母の**お芳(およし)**が、湯気の立つ白湯(さゆ)を差し出しながら告げた。お芳は小夜が物心ついた頃からの世話役で、齢は五十を過ぎているが、矍鑠(かくしゃく)としており、常に小夜の身を案じ、時に厳しく、時に優しく見守ってきた。彼女にとって、小夜の存在は自分の人生そのものだった。少納言家に代々仕える家系の出であるお芳は、家門への忠誠心が人一倍強く、小夜が由緒正しき貴族の姫君として、何不自由なく幸せに暮らすことだけを願っていた。その「幸せ」とは、高貴な縁談に恵まれ、やがては立派な家柄の妻となり、子をもうけ、家名を高めることに他ならない。
「さようなら。けれど、この御簾越しでは、月も遠く、霞んで見えますわ」
小夜は呟き、そっと御簾の縁に指をかけた。月は確かに美しい。しかし、その光は屋敷の壁に遮られ、外の世界の広がりを感じさせるにはあまりにも小さかった。彼女は常に、この閉ざされた空間の外にある世界に思いを馳せていた。市井の人々は、どんな暮らしをしているのだろう。歌に詠まれるように、素朴な喜びや悲しみを、肌で感じているのだろうか。貴族の姫君として、定められた「あるべき姿」を演じることに、小夜は時折、息苦しさを感じていた。
小夜が和歌を詠む時、心は常に、市井の風景や市井の人々の感情に向けられていた。宮中の歌会で詠まれる、形式ばった恋歌や四季の歌ももちろん嗜んではいたが、彼女の心を真に揺さぶるのは、旅人が詠む荒野の歌であり、物売りの声が響く町の情景を詠んだ歌であった。
「姫様、そのような御歌は、あまり人前でお詠みにならないでくださいませ。貴族の姫君としては、少し…」
お芳は眉をひそめ、言葉を濁した。小夜は微笑んで、
「でも、わたくしは、この庭の奥に咲く名もなき草花の歌の方が、心に響きますわ。それは、この世に生きる、小さな命の歌ではありませんか?」
そう言う小夜の瞳は、遠い光を捉えているかのようだった。
兄の**朝臣(あそん)**は、小夜の唯一の理解者であった。彼は小夜よりも四歳年上の二十歳。将来を期待される若き官人として、日夜政務に励んでいた。彼は真面目で責任感が強く、小夜の突飛な発言や行動を最初は咎めることもあったが、彼女の純粋な心と、世の中を深く見つめる洞察力には気づいていた。
「小夜、また物思いに耽っておるのか。お前は昔から、この閉鎖された空間よりも、外の世界に心を奪われる癖があるな」
ある日、朝臣が小夜の部屋を訪れた時、彼女が御簾越しに遠くを見つめているのを見て言った。
「兄上。この世には、わたくしが知らぬことが、あまりにも多すぎます。この御殿の奥で、いつか定められた人の妻となり、子を産み、そして年老いていく。それがわたくしの人生の全てだとすれば、あまりにも…」
小夜は言葉を濁した。朝臣は妹の肩にそっと手を置き、
「お前の気持ちはわかる。だが、それが我らの定めだ。我らはこの家門に生まれた。その役目を全うせねばならぬ」
彼の言葉には、自身もまた、その「定め」に縛られていることへの葛藤が滲んでいた。朝臣は、世の不条理を深く憂う心も持っていた。疫病が流行り始めた際、いち早くその兆候に気づき、対策を講じようと奔走していたのは、他ならぬ彼だった。
一方、平安京の羅城門(らじょうもん)の外、朱雀大路から一本入った裏路地には、貴族の屋敷とは対照的な、粗末な長屋がひしめき合っていた。泥と埃にまみれた道には、物売りの叫び声が響き、子供たちが裸足で駆け回り、汚れた小川には生活の排水が流れ込む。そこには、雅やかなる都の光が届かない、もう一つの都があった。
この長屋の奥の一角に、**夕霧(ゆうぎり)**は暮らしていた。彼女は今年で十七歳。幼い頃から貧しく、数年前の疫病で両親を失い、天涯孤独の身となった。痩せ細った体つきではあったが、背筋はまっすぐ伸びており、日差しを浴びた肌は健康的な色をしていた。質素な藍色の小袖を纏っているが、その瞳にはどんな苦境にも屈しない強い意志が宿っていた。
朝早くから日雇いの仕事に出かけ、重い荷を運び、時に都の貴族の屋敷の裏手で、食べ残しを探すこともあった。それでも、彼女の心は荒んでいなかった。それは、幼い頃から世話になっていた老薬師、**玄斎(げんさい)**の影響が大きかった。
玄斎は、都の片隅にひっそりと庵を構え、人々からは「もののけを払う薬師」と恐れられることもあったが、その実、市井の人々の病を無償で診ていた。彼から薬草の知識と、人を慈しむ心を教わった夕霧は、自身も貧しいながらも、困っている人々を見ると放っておけない性分だった。玄斎は口数が少なく、ぶっきらぼうな老人だったが、夕霧にとっては唯一の肉親であり、師でもあった。
「夕霧よ、世は常に移ろう。貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。病は身分を選ばぬ。お前が持つその手で、誰かの命を繋ぐことができるのなら、それこそが真の業(わざ)というものだ」
玄斎の言葉は、夕霧の心に深く刻まれていた。
夕霧には、数少ないながらも心を許せる仲間がいた。同じ長屋に住む**源太(げんた)と梅(うめ)**だ。
源太は夕霧よりも一つ年上の十八歳。日雇い労働で生計を立てており、いつも明るく楽天家で、どんな苦しい時でも冗談を言って夕霧を笑わせた。
「夕霧、今日もまた貴族のお屋敷の残り物か? いつか俺たちが、あのお屋敷の庭で酒を酌み交わす日が来るさ!」
源太はそう言って、夕霧が拾ってきた食べ残しの米を、無邪気に頬張る。
梅は夕霧より二つ年下の十五歳。家族を疫病で失い、今は薬売りの手伝いをして糊口をしのいでいる。少し引っ込み思案だが、薬草の知識に長け、夕霧が人々を看病する際には、いつも率先して手伝った。
「夕霧姉さん、この薬草は熱に効くって玄斎様が言ってた」
梅は小さな声でそう言いながら、摘んできた薬草を夕霧に手渡す。
貧しさの中で、彼らは互いに助け合い、支え合って生きていた。貴族の生活とは縁遠く、彼らの話題は常に明日の糧のこと、日々の苦労、そして疫病の流行への不安だった。夕霧にとって、貴族とは手の届かない遠い存在であり、彼らの豪華絢爛な生活は、自分たちとは全く無縁の世界だと思っていた。貴族への強い警戒心と、同時に拭い去れない諦めと、どこか屈折した感情を抱いていた。それでも、彼女の瞳には、どんな困難にも屈しない強い光が宿っていた。
平安京を覆う疫病の影は、日に日に濃さを増していった。賀茂忠行をはじめとする陰陽師たちが加持祈祷に励むも、その効験は薄く、都のあちこちから人々の呻き声と、死を悼む声が聞こえてくる。高貴な屋敷の奥では、高価な香が焚かれ、病を避けるためのまじないが施された。しかし、市井では、病に倒れた人々が路上に放置され、その死体は獣に食い荒らされることも稀ではなかった。都は、雅やかなる光と、目を背けたくなるほどの闇が混在する、混沌とした場所へと変貌しつつあった。
小夜は、屋敷の奥から聞こえてくる外の喧騒と、女房たちのひそやかな噂話から、疫病の恐ろしさを肌で感じていた。
「姫様、決して御庭の外へは出ないでくださいませ。物の怪が外に溢れておりますゆえ…」
お芳は毎日、小夜に厳しく言い聞かせた。しかし、小夜の心は、閉ざされた庭園では静まらなかった。窓から見える空は、屋敷の中にいても外にいても同じ色をしている。疫病という共通の災厄が、小夜の心をさらに外の世界へと駆り立てていた。
その頃、兄の朝臣は、自身の屋敷でも病に倒れる者が出始め、激務に追われていた。彼は陰陽師の呪術だけでなく、実際に人々の暮らしを立て直すための実務にも尽力していた。朝臣は、小夜の好奇心を知っていたからこそ、妹がこの疫病の混乱の中で無鉄砲な行動に出ることを案じていた。しかし、彼自身もまた、この未曾有の事態を前に、貴族としての矜持と、人としての良心の間で、深く葛藤していた。
夕霧は、長屋の仲間たちが次々と病に倒れていくのを見て、いてもたってもいられなかった。玄斎から教わった知識を総動員し、僅かな薬草を集めては、病人に与え、自らも看病にあたった。彼女の小屋は、いつしか病に苦しむ人々の避難所となっていた。泥にまみれ、顔には煤をつけ、身なりは粗末なまま、しかし、その瞳には常に希望の光が宿っていた。
「夕霧姉さん、休んでください。倒れてしまいます」
梅が心配そうに声をかけるが、夕霧は首を横に振った。
「ここで諦めたら、この人たちはどうなる。玄斎様が教えてくださった。命の重さに、貴賤(きせん)の区別はないと」
小夜は、兄の朝臣が疫病対策のために市井に出向くことを知り、胸をざわつかせた。普段なら許されない行動だが、この混乱の中では、お芳の監視も甘くなることがある。そして、一つの強烈な衝動に駆られた。
「わたくしも、この目で見てみたい。人々の苦しみを、そして、それに立ち向かう人々を」
彼女の心は、初めて感じる強い感情に突き動かされていた。それは、単なる好奇心ではなかった。定められた運命に抗い、自分自身の目で世界を見たいという、抑えきれない衝動だった。
その日、朝臣が疫病患者の小屋を視察に出向く際、小夜は人目を忍んで、彼の後ろを追った。粗末な身なりに変え、顔を覆い隠し、御簾の中の生活では決して触れることのなかった、都の裏側の真実の姿に、彼女は息をのんだ。腐臭と、人々の苦しむ声、そして死の匂いが、彼女の鼻腔を刺激した。
そして、その小屋の奥で、小夜は運命の出会いを果たす。
彼女が見たのは、薄暗い小屋の中で、病に倒れた人々の汗を拭い、水を飲ませ、懸命に介抱する、一人の少女の姿だった。その少女の額には汗が滲み、顔は泥にまみれていたが、その瞳は燃えるように強く、一切の諦めを知らなかった。まるで、闇の中に咲く一輪の花のように、その少女は輝いていた。
その少女こそが、夕霧だった。
小夜は、自身の身分を忘れ、その場に立ち尽くした。貴族の姫君として、これまで知ることのなかった「生」の輝きが、そこに凝縮されているように感じられた。夕霧の毅然とした態度と、身分の隔てなく人々を慈しむ姿は、小夜の心を深く揺さぶり、彼女の貴族への固定観念を根底から覆した。
貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。玄斎の言葉が、小夜の心に響いたかのようだった。
この出会いが、小夜と夕霧、そして平安京の運命を大きく変えることになるなど、この時の小夜は知る由もなかった。
この屋敷の奥深く、日当たりの良い南向きの部屋に、少納言家の姫君、**小夜(さよ)**は暮らしていた。御簾(みす)の向こうには、四季折々に表情を変える美しい庭が広がり、季節の移ろいを肌で感じることができた。春には梅が香を放ち、夏には睡蓮が水面に浮かび、秋には紅葉が錦を織りなし、冬には雪が庭園を白く染め上げる。小夜の部屋の周りは、絹の衣擦れの音と、女房たちのひそやかな話し声、そして伽羅(きゃら)や白檀(びゃくだん)の香が常に満ちていた。
小夜は今年で十六歳。まだあどけなさを残す顔立ちには、すでに貴族の姫君としての品格と、どこか憂いを帯びた聡明さが宿っていた。陶器のように白い肌は日差しを知らず、しなやかに伸びた黒髪は座れば畳に届くほど長く、その先端は僅かに波打つ。切れ長の瞳は澄んでおり、好奇心に満ちた輝きを湛えている。羅(うすもの)の衣を纏い、十二単(じゅうにひとえ)の重みに慣れたその立ち居振る舞いは、どんな時も優雅で、まるで絵巻物から抜け出してきたかのようだった。しかし、その雅やかな姿とは裏腹に、小夜の心は常にどこか満たされない渇望を抱えていた。
「姫様、今宵は月がことのほか美しいと、源侍従様がおっしゃいましたわ」
小夜の傍らで、乳母の**お芳(およし)**が、湯気の立つ白湯(さゆ)を差し出しながら告げた。お芳は小夜が物心ついた頃からの世話役で、齢は五十を過ぎているが、矍鑠(かくしゃく)としており、常に小夜の身を案じ、時に厳しく、時に優しく見守ってきた。彼女にとって、小夜の存在は自分の人生そのものだった。少納言家に代々仕える家系の出であるお芳は、家門への忠誠心が人一倍強く、小夜が由緒正しき貴族の姫君として、何不自由なく幸せに暮らすことだけを願っていた。その「幸せ」とは、高貴な縁談に恵まれ、やがては立派な家柄の妻となり、子をもうけ、家名を高めることに他ならない。
「さようなら。けれど、この御簾越しでは、月も遠く、霞んで見えますわ」
小夜は呟き、そっと御簾の縁に指をかけた。月は確かに美しい。しかし、その光は屋敷の壁に遮られ、外の世界の広がりを感じさせるにはあまりにも小さかった。彼女は常に、この閉ざされた空間の外にある世界に思いを馳せていた。市井の人々は、どんな暮らしをしているのだろう。歌に詠まれるように、素朴な喜びや悲しみを、肌で感じているのだろうか。貴族の姫君として、定められた「あるべき姿」を演じることに、小夜は時折、息苦しさを感じていた。
小夜が和歌を詠む時、心は常に、市井の風景や市井の人々の感情に向けられていた。宮中の歌会で詠まれる、形式ばった恋歌や四季の歌ももちろん嗜んではいたが、彼女の心を真に揺さぶるのは、旅人が詠む荒野の歌であり、物売りの声が響く町の情景を詠んだ歌であった。
「姫様、そのような御歌は、あまり人前でお詠みにならないでくださいませ。貴族の姫君としては、少し…」
お芳は眉をひそめ、言葉を濁した。小夜は微笑んで、
「でも、わたくしは、この庭の奥に咲く名もなき草花の歌の方が、心に響きますわ。それは、この世に生きる、小さな命の歌ではありませんか?」
そう言う小夜の瞳は、遠い光を捉えているかのようだった。
兄の**朝臣(あそん)**は、小夜の唯一の理解者であった。彼は小夜よりも四歳年上の二十歳。将来を期待される若き官人として、日夜政務に励んでいた。彼は真面目で責任感が強く、小夜の突飛な発言や行動を最初は咎めることもあったが、彼女の純粋な心と、世の中を深く見つめる洞察力には気づいていた。
「小夜、また物思いに耽っておるのか。お前は昔から、この閉鎖された空間よりも、外の世界に心を奪われる癖があるな」
ある日、朝臣が小夜の部屋を訪れた時、彼女が御簾越しに遠くを見つめているのを見て言った。
「兄上。この世には、わたくしが知らぬことが、あまりにも多すぎます。この御殿の奥で、いつか定められた人の妻となり、子を産み、そして年老いていく。それがわたくしの人生の全てだとすれば、あまりにも…」
小夜は言葉を濁した。朝臣は妹の肩にそっと手を置き、
「お前の気持ちはわかる。だが、それが我らの定めだ。我らはこの家門に生まれた。その役目を全うせねばならぬ」
彼の言葉には、自身もまた、その「定め」に縛られていることへの葛藤が滲んでいた。朝臣は、世の不条理を深く憂う心も持っていた。疫病が流行り始めた際、いち早くその兆候に気づき、対策を講じようと奔走していたのは、他ならぬ彼だった。
一方、平安京の羅城門(らじょうもん)の外、朱雀大路から一本入った裏路地には、貴族の屋敷とは対照的な、粗末な長屋がひしめき合っていた。泥と埃にまみれた道には、物売りの叫び声が響き、子供たちが裸足で駆け回り、汚れた小川には生活の排水が流れ込む。そこには、雅やかなる都の光が届かない、もう一つの都があった。
この長屋の奥の一角に、**夕霧(ゆうぎり)**は暮らしていた。彼女は今年で十七歳。幼い頃から貧しく、数年前の疫病で両親を失い、天涯孤独の身となった。痩せ細った体つきではあったが、背筋はまっすぐ伸びており、日差しを浴びた肌は健康的な色をしていた。質素な藍色の小袖を纏っているが、その瞳にはどんな苦境にも屈しない強い意志が宿っていた。
朝早くから日雇いの仕事に出かけ、重い荷を運び、時に都の貴族の屋敷の裏手で、食べ残しを探すこともあった。それでも、彼女の心は荒んでいなかった。それは、幼い頃から世話になっていた老薬師、**玄斎(げんさい)**の影響が大きかった。
玄斎は、都の片隅にひっそりと庵を構え、人々からは「もののけを払う薬師」と恐れられることもあったが、その実、市井の人々の病を無償で診ていた。彼から薬草の知識と、人を慈しむ心を教わった夕霧は、自身も貧しいながらも、困っている人々を見ると放っておけない性分だった。玄斎は口数が少なく、ぶっきらぼうな老人だったが、夕霧にとっては唯一の肉親であり、師でもあった。
「夕霧よ、世は常に移ろう。貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。病は身分を選ばぬ。お前が持つその手で、誰かの命を繋ぐことができるのなら、それこそが真の業(わざ)というものだ」
玄斎の言葉は、夕霧の心に深く刻まれていた。
夕霧には、数少ないながらも心を許せる仲間がいた。同じ長屋に住む**源太(げんた)と梅(うめ)**だ。
源太は夕霧よりも一つ年上の十八歳。日雇い労働で生計を立てており、いつも明るく楽天家で、どんな苦しい時でも冗談を言って夕霧を笑わせた。
「夕霧、今日もまた貴族のお屋敷の残り物か? いつか俺たちが、あのお屋敷の庭で酒を酌み交わす日が来るさ!」
源太はそう言って、夕霧が拾ってきた食べ残しの米を、無邪気に頬張る。
梅は夕霧より二つ年下の十五歳。家族を疫病で失い、今は薬売りの手伝いをして糊口をしのいでいる。少し引っ込み思案だが、薬草の知識に長け、夕霧が人々を看病する際には、いつも率先して手伝った。
「夕霧姉さん、この薬草は熱に効くって玄斎様が言ってた」
梅は小さな声でそう言いながら、摘んできた薬草を夕霧に手渡す。
貧しさの中で、彼らは互いに助け合い、支え合って生きていた。貴族の生活とは縁遠く、彼らの話題は常に明日の糧のこと、日々の苦労、そして疫病の流行への不安だった。夕霧にとって、貴族とは手の届かない遠い存在であり、彼らの豪華絢爛な生活は、自分たちとは全く無縁の世界だと思っていた。貴族への強い警戒心と、同時に拭い去れない諦めと、どこか屈折した感情を抱いていた。それでも、彼女の瞳には、どんな困難にも屈しない強い光が宿っていた。
平安京を覆う疫病の影は、日に日に濃さを増していった。賀茂忠行をはじめとする陰陽師たちが加持祈祷に励むも、その効験は薄く、都のあちこちから人々の呻き声と、死を悼む声が聞こえてくる。高貴な屋敷の奥では、高価な香が焚かれ、病を避けるためのまじないが施された。しかし、市井では、病に倒れた人々が路上に放置され、その死体は獣に食い荒らされることも稀ではなかった。都は、雅やかなる光と、目を背けたくなるほどの闇が混在する、混沌とした場所へと変貌しつつあった。
小夜は、屋敷の奥から聞こえてくる外の喧騒と、女房たちのひそやかな噂話から、疫病の恐ろしさを肌で感じていた。
「姫様、決して御庭の外へは出ないでくださいませ。物の怪が外に溢れておりますゆえ…」
お芳は毎日、小夜に厳しく言い聞かせた。しかし、小夜の心は、閉ざされた庭園では静まらなかった。窓から見える空は、屋敷の中にいても外にいても同じ色をしている。疫病という共通の災厄が、小夜の心をさらに外の世界へと駆り立てていた。
その頃、兄の朝臣は、自身の屋敷でも病に倒れる者が出始め、激務に追われていた。彼は陰陽師の呪術だけでなく、実際に人々の暮らしを立て直すための実務にも尽力していた。朝臣は、小夜の好奇心を知っていたからこそ、妹がこの疫病の混乱の中で無鉄砲な行動に出ることを案じていた。しかし、彼自身もまた、この未曾有の事態を前に、貴族としての矜持と、人としての良心の間で、深く葛藤していた。
夕霧は、長屋の仲間たちが次々と病に倒れていくのを見て、いてもたってもいられなかった。玄斎から教わった知識を総動員し、僅かな薬草を集めては、病人に与え、自らも看病にあたった。彼女の小屋は、いつしか病に苦しむ人々の避難所となっていた。泥にまみれ、顔には煤をつけ、身なりは粗末なまま、しかし、その瞳には常に希望の光が宿っていた。
「夕霧姉さん、休んでください。倒れてしまいます」
梅が心配そうに声をかけるが、夕霧は首を横に振った。
「ここで諦めたら、この人たちはどうなる。玄斎様が教えてくださった。命の重さに、貴賤(きせん)の区別はないと」
小夜は、兄の朝臣が疫病対策のために市井に出向くことを知り、胸をざわつかせた。普段なら許されない行動だが、この混乱の中では、お芳の監視も甘くなることがある。そして、一つの強烈な衝動に駆られた。
「わたくしも、この目で見てみたい。人々の苦しみを、そして、それに立ち向かう人々を」
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その日、朝臣が疫病患者の小屋を視察に出向く際、小夜は人目を忍んで、彼の後ろを追った。粗末な身なりに変え、顔を覆い隠し、御簾の中の生活では決して触れることのなかった、都の裏側の真実の姿に、彼女は息をのんだ。腐臭と、人々の苦しむ声、そして死の匂いが、彼女の鼻腔を刺激した。
そして、その小屋の奥で、小夜は運命の出会いを果たす。
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その少女こそが、夕霧だった。
小夜は、自身の身分を忘れ、その場に立ち尽くした。貴族の姫君として、これまで知ることのなかった「生」の輝きが、そこに凝縮されているように感じられた。夕霧の毅然とした態度と、身分の隔てなく人々を慈しむ姿は、小夜の心を深く揺さぶり、彼女の貴族への固定観念を根底から覆した。
貴きも賤しきも、命の重さに違いはない。玄斎の言葉が、小夜の心に響いたかのようだった。
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剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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