災厄の都、秘められた誓い

H.N

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終章

秘められた愛の行方、新たな光

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夕霧(ゆうぎり)が小川に小夜(さよ)との文を流し、自身に言い聞かせるように別れを告げてから、数日が過ぎた。彼女は以前にも増して寡黙になり、日々の仕事に没頭することで、心の痛みを麻痺させようとした。源太(げんた)と梅(うめ)は、夕霧の異変に気づきながらも、その原因を探る術を知らず、ただ心配そうに見守るばかりだった。夕霧は、小夜の幸せのために身を引くことが、自身の果たすべき役割だと信じていた。

しかし、運命は、夕霧の決断を嘲笑うかのように、再び二人の道を交差させる。

再びの出会い、そして朝臣の決断
ある夜、夕霧は日雇いの仕事を終え、疲れ果てて長屋へと戻る途中だった。羅城門の近くの薄暗い路地で、人影が慌ただしく動いているのが見えた。普段なら関わらないようにする夕霧だったが、その人影の中に、見覚えのある高貴な衣の裾が翻るのが見えた。

「姫様!」

切羽詰まった声が聞こえた。それは、**お芳(およし)**の声だった。夕霧の心臓が大きく跳ねた。何が起こっているのか。

夕霧が物陰から様子を窺うと、数人の屈強な男たちが、小さな人影を力ずくで捕らえようとしているのが見えた。その人影は、必死に抵抗していた。月明かりの下、夕霧は、その人影が紛れもない小夜であることに気づき、息をのんだ。小夜は、経隆(つねたか)との婚儀から逃れようと、屋敷を飛び出してきたのだ。

「放しなさい!わたくしは…」

小夜の声が、夕霧の耳に届いた。その声には、貴族の姫君としての気品だけでなく、切迫した、しかし揺るぎない決意が宿っていた。追手の中には、経隆の家臣らしき者もいた。このままでは、小夜は捕らえられ、引き戻されてしまう。そして、彼女が屋敷を抜け出した理由が明るみに出れば、その代償は計り知れない。

夕霧の脳裏に、玄斎(げんさい)の言葉が蘇った。「人の心は、世の理とは別のものだ。お前がその姫君を思う心は、偽りではない。それは、尊いものだ。」

自ら断ち切ろうとしたはずの想いが、再び胸の奥で熱く燃え上がった。小夜を守りたい。その一心で、夕霧は物陰から飛び出した。

「おやめください!」

夕霧の突然の声に、追手たちがひるんだ。その隙を突き、夕霧は素早く小夜の手を取り、細い路地へと駆け出した。小夜もまた、夕霧の手の温かさに、安堵と驚きを覚えた。

二人は、入り組んだ路地を必死で駆け抜けた。慣れない草履で走る小夜の足が、何度か縺れる。夕霧は小夜の手を引き、時には背中を支えながら、慣れた裏道を疾走した。追手の声がすぐ後ろまで迫る。

その時、路地の奥から、別の足音が聞こえてきた。小夜と夕霧は身構えたが、そこに現れたのは、息を切らした朝臣だった。彼の顔には、疲労と、何よりも安堵の表情が浮かんでいた。

「小夜!無事か!」

朝臣は、駆け寄るなり、小夜の無事を確認した。彼は小夜が屋敷を抜け出したことを知り、すぐに追ってきたのだ。その隣には、彼らの動向を探っていたのか、**賀茂忠行(かも の ただゆき)**の姿もあった。陰陽師は、二人の間に漂う異様な空気に、鋭い視線を向けていた。

朝臣は、小夜の隣に立つ夕霧を見て、全てを悟った。妹の心に宿っていた光の正体。そして、この身分違いの交わりが、どれほど危険なものであるかを。

「夕霧殿…」

朝臣は、夕霧に歩み寄った。彼は、疫病の混乱の中で夕霧の献身的な働きを目にしており、彼女がただの貧しい娘ではないことを知っていた。

「小夜を、どこへ連れて行くつもりだ」

朝臣の声には、怒りではなく、深い苦悩が滲んでいた。夕霧は小夜を庇うように一歩前に出た。

「姫様を、守りたかっただけです。姫様は、この縁談を望んでおられませぬ」

夕霧の言葉は、小夜の心の叫びを代弁していた。朝臣は、妹の瞳を見た。そこには、初めて見るほどの強い意志と、夕霧への深い信頼が宿っていた。

その時、追手がすぐそこまで迫ってきた。彼らは、小夜と夕霧、そして朝臣の姿を認め、一斉に襲いかかろうとする。

「待て!」

朝臣が叫んだ。彼の声には、貴族としての権威が宿っていた。追手たちは一瞬ひるんだ。

「この件は、わたくしが解決する。これ以上、騒ぎを起こすな」

朝臣は、追手たちを牽制しながら、小夜と夕霧に視線を送った。彼の脳裏には、家門の存続、妹の安泰、そして、小夜が抱く真の幸福、その全てが交錯していた。

「小夜…お前は…」

朝臣は、言葉を詰まらせた。彼は、この場で妹を力ずくで連れ戻すこともできた。しかし、小夜の瞳の輝きと、夕霧のひたむきな姿を見て、彼は決断した。それは、彼自身が、この貴族社会のしきたりに疑問を抱いていたからでもあった。

「夕霧殿…お前が、小夜を…この災厄の世から、守れるというのか」

朝臣の言葉に、夕霧は力強く頷いた。

「はい。わたくしは、姫様を…命をかけてお守りいたします」

その言葉は、貴族の言葉ではない。しかし、そこには、どんな高貴な誓いよりも真実味のある響きがあった。

朝臣は、深く息を吐いた。そして、振り返り、追手たちに向かって、毅然とした声で命じた。

「お前たちは、何も見ていない。何も聞いていない。ここからは、わたくしが引き受ける。一言でも漏らせば、承知しないぞ」

彼の言葉には、少納言家の若君としての威厳と、有無を言わせぬ迫力があった。追手たちは、朝臣の言葉に従い、戸惑いながらも引き下がっていった。賀茂忠行は、一部始終を冷静に見つめていたが、朝臣の決断には、陰陽師としての直感が何かしらの意味を見出しているようだった。

新たな始まり、そして秘められた愛の行方
朝臣は、小夜と夕霧を連れて、人目につかない場所へと移動した。夜の闇が、彼らを優しく包み込んだ。

「小夜、お前は…本当にこの道を選ぶのか」

朝臣は、改めて妹に問いかけた。小夜は、迷いなく頷いた。

「はい、兄上。わたくしは…夕霧殿と、共に生きていきたいのです。それが、わたくしがこの世で初めて見つけた、真実の光でございます」

その言葉を聞き、朝臣は、経隆との縁談を破談にすることを決意した。それは、少納言家にとって大きな打撃となるだろう。しかし、妹の心に宿る輝きを前に、彼は自分の信念に従うことを選んだ。

「わかった。だが、お前たちは、この都で貴族として生きることはできぬ。人目を忍び、この世から消え去ったかのように生きるのだ」

朝臣は、厳しい表情で告げた。彼は、二人の関係が明るみに出れば、どのような事態になるかを知っていた。

「わたくしは、少納言家の姫君、小夜は病に倒れ、この世を去ったと報告する。そして、お前たちは…遠く、人里離れた場所で、静かに暮らすのだ」

朝臣の言葉に、小夜は涙を流した。それは、悲しみの涙ではなかった。兄の深い愛情と、自分たちの未来が、僅かながらも開かれたことへの、安堵の涙だった。夕霧もまた、朝臣の決断に深く感謝し、頭を下げた。

「兄上…ありがとうございます」

「夕霧殿、小夜を頼む。お前が、小夜を真に守れることを信じる」

朝臣は、夕霧に深く頭を下げた。それは、貴族が賤しい身分の者に頭を下げる、異例の光景だった。

そして、その夜、小夜と夕霧は、都を後にした。朝臣の用意した僅かな支度と、二人の未来への希望だけを胸に、彼らは人目を避け、遠く離れた山里へと向かった。

数年後──

都では、少納言家の姫君、小夜が若くして病で亡くなったという噂が静かに広まっていた。源経隆との縁談は破談となり、少納言家は一時的に苦境に立たされたが、朝臣の尽力により、なんとかその地位を保っていた。朝臣は、その後も政務に励み、人々の生活に寄り添う政治を目指した。彼の心の中には、常に妹への秘めたる想いと、妹が選んだ「真実の生」への尊敬があった。

一方、都から遠く離れた山奥の小さな庵で、小夜と夕霧は、ひっそりと暮らしていた。そこには、貴族の華やかさも、市井の喧騒もなかった。ただ、清らかな水の流れと、鳥の声、そして、二人の穏やかな時間が流れていた。

小夜は、華やかな十二単を脱ぎ捨て、夕霧と同じような質素な小袖を纏っていた。彼女は、夕霧から薬草の知識を学び、山で採れる草木を使って、村人たちの病を癒す手伝いをしていた。かつて御簾越しにしか見ることのできなかった「市井」の暮らしは、彼女にとって、今や紛れもない現実であり、そして、かけがえのない喜びとなっていた。

夕霧は、小夜の傍らで、常に彼女を守り、支えていた。彼女の瞳には、かつての諦念はなく、小夜との未来への確かな希望が宿っていた。二人は、身分や世間の目を乗り越え、真に互いを理解し、愛し合うことで、自分たちだけの「幸福」を見出していた。彼らの愛は、誰にも知られることなく、しかし、確かな光を放ち、その小さな庵の中で、静かに、そして力強く息づいていた。

夜、庵の縁側で、小夜は夕霧の膝に頭を預け、空を見上げた。そこには、都で見上げる月よりも、はるかに大きく、明るい月が輝いていた。

「夕霧殿、この月は、都の月よりも、ずっと美しいですわ」

小夜の声は、満ち足りた幸福に満ちていた。夕霧は、小夜の髪を優しく撫でた。

「ええ、姫様。きっと、この月は、私たちだけの月ですから」

二人の言葉は、誰にも聞かれることなく、夜空に溶けていった。彼らの愛は、平安の歴史の表舞台には記されない、秘められた物語。しかし、その小さな光は、身分や境遇を超えた「真の愛」が存在することを、静かに、そして永遠に語り継いでいくかのように、月光の下で、穏やかに輝き続けるのだった。
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