エリートホテルマンは最愛の人に一途に愛を捧ぐ

本郷アキ

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1巻

1-1

   第一章


 二×××年九月――
 はやし一華いちかは、従業員更衣室で制服から私服に着替えると、壁に張られたカレンダーを見て、大きくため息をついた。
 ここグランドフロンティアホテル&リゾート東京は、東京都港区にある外資系のラグジュアリーホテルで、一華は宿泊部フロント課でフロントサービス係として働いている。

(今月は土曜日のお休みが多くなっちゃうな……)

 九月から十月にかけては、弟妹たちの運動会がそれぞれ開催される。そのどれもが土曜日だ。なるべく母が生きていた頃のようにと思っても、自分の仕事の都合もあり難しい。
 もちろんあらかじめ休みを申請しているのだが、周囲から……というか、なぜか自分を目のかたきにしている後輩から、また嫌味を言われるのだろうなと考えて、ついため息が漏れてしまったのだ。

(ほかの人はなにも言わないし、気にしなくていいって大木おおきマネージャーも言ってくれてるけど、私ばかり何度も土日にお休みをもらっていたら、ずるいって思う人がいるのは当然だよ)

 一華としても、お客様の多い土日祝日はなるべく出勤したい。お客様が増えれば、その分、問題も起きやすくなる。なるべくフロント対応に慣れた自分が入るべきだと思ってはいるのだ。ただでさえ、正規雇用でありながら日勤の八時から十七時の固定シフトで、夜勤は免除してもらっているのだから。

(せめて末っ子の亜樹あきが小学校を卒業するまでは、行事を見に行ってあげたい。小学校卒業するまでって、あと十年近くか……)

 あまりの先の長さに、ふたたびため息が漏れそうになる。

(それより、もうこんな時間。早く行かなきゃ。ご飯の用意はしてくれてるはずだけど、待ち合わせに遅れちゃいそう)

 一華はかばんからメイク道具を取りだし、ロッカーに備え付けられた鏡を見ながらファンデーションを塗り直す。
 鏡には、二十七歳という年齢よりもやや幼く見える、疲れた女の顔が映っていた。
 浮きでた目の下のくまと、緊張がゆるみ、げっそりとした表情を見ると、よけいに疲れてくる。仕事中は常に笑顔を絶やさずにいるから、顔の筋肉をゆるめるだけで全身からどっと力が抜けそうになるのだ。
 その頼りなげな雰囲気に庇護欲をそそられる男性も多く、手を差し伸べたくなるような不思議な魅力がある――ということは、本人だけが知らないのだが。

(うん、こんなものかな? またあの人に会って嫌味を言われたくないし、さっさと行こう)

 アップにした髪はそのままにした。癖のつきやすい髪は、ほどくとうねって広がってしまう。頭が引っ張られるような感覚がして疲れるものの、帰るまでの我慢だ。
 一華はリップを薄く引き、頬に力を入れて口角を上げた。鏡には先ほどまでフロントに立っていたホテリエの姿がある。全身鏡で身だしなみをチェックしてからロッカーを閉めた。
 素朴とも優しそうとも言われる顔立ちは、決して目立つ方ではない。
 しかし、化粧をして肩の下まである茶色の髪をシニヨンスタイルでまとめているだけで、清潔感のある落ち着いた美人〝風〟になるのだから、不思議なものだと一華は思う。
 それも、一華がホテル業界にたずさわるようになって身についた武器の一つである。
 グランドフロンティアホテル&リゾート東京を訪れるお客様の中には、超一流と呼ばれる人々もいる。彼らは総じて高級ブランドに身を包み、一流のサービスを求めるのだ。
 その求めに応じるため、清潔感のある身だしなみ、教養、品格を身につけるのはホテリエにとって当然のことであると教えられた。高級ブランドをほいほい買える金はなくとも、見た目に気を使い、諸先輩方の気品あるたたずまいを真似すると、自分の品格が多少は上がったような気がした。

「お疲れ様でーす」

 一華がメイク道具をかばんにしまっていると、今、一番会いたくなかった人の声が更衣室に響いた。
 思わず、がっくりとうなだれそうになるが、気を取り直して背筋を伸ばす。

「……お疲れ様です」

 彼女――麻田あさだゆいは、宿泊部客室課でハウスキーパーを担当している。半年ほど前、ちょうど総支配人が代わった頃にアルバイトとして入社した後輩だ。目鼻立ちのはっきりとした美人だが、かなり自分に自信があるようで高慢な物言いをするため、きつそうな印象を受ける。
 一華はなぜか彼女から目のかたきにされており、顔を合わせるたびに嫌味を言われていた。だから唯と鉢合わせする前に帰ろうと思っていたのにタイミングが悪い。

「あ、そうだ、林さーん」

 唯は、どいてと言わんばかりにロッカーの前に立っている一華を見つめた。一華は仕方なく一歩横にずれて彼女が通る道を空ける。

(一応、私、先輩なんだけどな。話し方も相変わらず直らないし……)

 自分に対して大袈裟にかしこまってほしいわけではないが、彼女の「おっはようございまぁ~す」という挨拶あいさつを初めて聞いたときは、気が遠くなったものだ。
 たとえアルバイトであっても、唯のような間延びしたしゃべり方をしていれば、厳しい入社前研修で徹底的に直されるはずである。それに、研修で頭に叩き込まれるはずの館内店舗の営業時間や場所すら頭に入っておらず、さらにVIPのお客様相手にびを売るような態度も目につき、何度か言葉遣いと共に指摘をした。

(うちのホテルって従業員教育はかなり厳しいはずだし、マネージャーからも注意されてるはず。あまりにもひどいと退職勧告もありえるって知ってるよね……大丈夫なのかな)

 彼女の教育は一華の仕事ではないが、たとえ課が違っても同じ宿泊部の同僚だ。彼女の今後のためにも、心を鬼にして間違いを指摘していた。ただ、その場ではしおらしく謝るのだが、一向に態度は改善していない。

「麻田さん。その『さーん』って言うの、直した方がいいですよ」
「あはっ、すみませーん。まーた、やっちゃった。でも別にここならいいじゃないですか」
「でも、普段から気をつけていないと……」
「も~ほんと細かい。お客さんの前ではちゃんとしまーす」

 唯は悪びれない態度で言った。

(彼女って、私と同い年だよね。社会人経験、ちゃんとあるよね?)

 失礼な言い方だが、アルバイトだからと仕事を舐めているのではないか、という疑惑を抱いてしまう。
 家庭環境もあり、一華は二十七歳という年齢のわりに老成した印象を持たれるのは自覚している。とはいえ、十代の頃の自分でさえ、今の彼女より常識があったのではないかと思う。
 このホテルでは、世界各国どの支店においてもアルバイト、正社員関係なく、従業員の満足度を大事にしている。
 アルバイトだからといって冷遇されないし、時給もいい。正社員になればキャリアアップを望め、給料が格段にアップする。
 ここで働く従業員たちは、正社員だけでなくアルバイトもかなり多くの研修を受けており、社員教育が充実していた。個人の裁量に任せられることも多く、アルバイトや派遣社員に対しても一定の権限が与えられているくらいだ。
 たとえば、クレーム対応で毎回直属の上司であるマネージャー――各部門の支配人に確認を取っていたら、さらに相手の怒りを買うことにもなりかねない。そのため十万円程度であれば、マネージャーに指示をあおがなくとも自分の裁量で使用できるようになっている。
 ただその分、従業員に求められる能力は大変高い。誰も口には出さないが、唯がよく面接と研修を経て採用に至ったな、というのが宿泊部スタッフたちの共通した見方であった。

「それで、なにか?」

 一華はかばんを肩にかけて、唯を振り返った。

「あ、そうそう。宿泊部の大木マネージャーが困ってましたよ~。林さん、今月三回も土曜日に休むからシフトの調整が大変だって。それにみんなも言ってます。林さんだけ夜勤免除されるのはずるいって」

 あの大木がそんなセリフを言うものか、と一華は心の中だけで反論した。
 一華が土曜日に度々休みを入れるせいで困らせているのはたしかだろうし、口には出さなくとも一華の処遇をずるいと思う従業員もいるだろう。だが、このホテルにおいて、部下の愚痴を周囲にこぼすような社員がマネージャーでいられるはずがない。

(むしろ私が配置換えを希望しても、大木マネージャーは『弟さんが小さいうちは無理をしなくていい。いつか自分がしてもらったのと同じように、困った人を助けてあげなさい』って……『無理なくシフトを調整するのも僕の仕事だから』って言ってくれたんだから)

 もし本当に唯の言うとおりシフトの調整に無理が出る場合は、話し合いで配置換えをするなどの相談があるはずだ。

「今月は弟妹たちの運動会があるんです。マネージャーにはもちろん許可をもらっていますから」

 ただ、自分が周囲に迷惑をかけている自覚は十分にあったし、心苦しさも当然ある。一華が夜勤に入れない分、ほかの社員の負担が増えているのは間違いない。

(せめて、裕樹ゆうきかふたばに頼めればいいんだけどね)

 三回ある運動会のうち、一回は大学生の次男である裕樹か、高校生の次女ふたばに行ってもらおうとも考えたのだが、二人にはまだ三歳の亜樹の面倒を見てもらっているため難しい。九月の炎天下の中、亜樹を連れて外にいるのは、かなり辛いだろう。
 一華が言うと、唯は眉根を寄せて不快感をあらわにした。

「お母さんが亡くなって、林さんが母親代わりなんでしたっけ? それは大変だと思いますけど、迷惑かけてるって自覚ないんですか~?」

 母が亡くなったのは亜樹が生まれてすぐ、一華が正社員として働いて二年が経った頃だった。産後の肥立ちが悪く、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
 あまりに突然のことで、一華は母を失ったショックよりも、この先、自分たちはどうすればいいのかと考えてしまった。
 一華は八人きょうだいの長女で、亜樹は生まれたばかり。父は長距離トラックの運転手をしており、家に帰らないことが多い。
 一番上の兄はすでに結婚して家を出ていたので、長女である自分が幼いきょうだいの面倒を見なければならないとわかっていた。
 家事に育児に仕事。精神的な負担と肉体的な疲れは大きく、三年経った今でも状況はそう変わっていない。

(でも、昔に比べればまだマシだけどね)

 亜樹がゼロ歳の頃は本当に大変だった。夜泣きする亜樹にミルクをやり、朝まで一睡もできずそのまま職場に行ったこともある。
 どうして自分ばかりがと思っても、誰の前でも涙を見せられなかった。母が亡くなってみんな辛い思いをしているのに、姉である自分が泣き言を言えるはずがない。夜中に亜樹にミルクをあげながら、毎日のように人知れず唇を震わせていた。
 いろいろなことをあきらめた。一つ目は恋愛。二つ目は友人との交遊。三つ目は、辛さを顔に出すこと。そうしなければ、とても〝母親代わり〟なんて務まらなかったのだ。

(だからこそ、彼と出会えたのは本当に幸運だった)

 一華はこのあとの約束を思い出し、腕時計に視線を走らせた。
 そろそろ出なければ約束の時間に間に合わなくなってしまう。
 一華は唯に向き直り、はっきりと告げた。

「もちろん、ほかのフロントサービス係に迷惑をかけているのはわかっています。ですが、これは大木マネージャーとも相談して決めたことです」
「迷惑かけてるってわかってるなら、フロントサービス係じゃなくて裏方仕事に異動したらどうですか~? アルバイトのときはハウスキーパーだったんでしょ? 花形のフロントより掃除している方が林さんに似合うと思うんですけど。それにハウスキーパーは日勤なんだから、特別扱いされてるなんて言われなくて済むし」

 さも、いい案だと言わんばかりに唯は人差し指を立てて、形のいい唇を歪ませた。
 正社員としての勤続年数は五年になるが、少しでも家計の助けになればと、一華は高校生のころからこのホテルでハウスキーパーのアルバイトをしていた。
 テレビで観たホテルの華やかな内装がまるで別世界のように思えた一華は、洗練されたホテリエの行き届いた接客にあこがれ、アルバイトの面接を受けた。
 そして大学三年の時、当時の総支配人から、正社員の面接を受けてみないかと打診されたのだ。
 当然、面接を受けさせてくれるだけで内定がもらえるわけではなかったが、一華はここで働きたいと強く思った。最終選考まで残り、花形のフロントサービス係に採用が決まったときは、驚きすぎて言葉をなくしたくらいだ。

「フロントもハウスキーパーも、似合うとか似合わないとかそんな理由で決められているわけじゃありませんから。マネージャーから配置換えの打診があったなら、すぐに受け入れるつもりでいます。もういいですか? 私、早く帰らないといけないんです」
「でもっ、みんな林さんだけずるいって言ってます! 夜勤もやらないくせに、フロントサービス係にいるなんて! どうして私が掃除の仕事で、あなたみたいな人が花形のフロントなの⁉」

 唯は顔を真っ赤にして、唾を飛ばさんばかりにまくし立てた。なんだかんだと言いながらも唯の本音はそれだ。花形のフロントサービス係に一華がいて、自分がハウスキーパーであることが気に食わないらしく、何度もマネージャーに配置換えを訴えていると聞いた。
 ほかのフロントサービス係には一応は先輩を立てるような態度を取っているのに、一華にだけあたりが強いのは、おそらくその〝特別扱い〟が理由だろう。

(プライド高そうだし、好かれていない私が言葉遣いとかを指摘したのがまずかったのかも……でもやっぱり、ハウスキーパーをバカにするような発言をそのままにはしておけない)

 フロントサービス係が花形と呼ばれているのは、それだけの能力を求められるからだ。けれど、その役割はハウスキーパーと比べるものではない。どちらもなくてはならない仕事だ。

「夜勤についてもマネージャーの許可をもらっているって何度も言ってますよね。それに私だって、そのうちフロントサービス係からどこかに異動になるでしょう。フロントサービス係に来たいのなら、私にケンカを売ってないでアルバイトから正社員になれるように努力したらどうですか? 正社員は、日本語以外に二カ国語の言語取得が必須なので、アルバイト以上に研修は厳しいけれど」

 そう言うと、制服のブラウスを脱いでいた唯がぴたりと手を止めて、こちらをにらみつけてきた。

「そんなの知らないし! 私、頼まれてここに来ただけなんだから!」
「頼まれて?」

 唯の言葉に引っかかりを覚えて聞き返した。

(もしかして……コネ入社? 私もコネと言えばコネだけど……)

 グランドフロンティアホテル&リゾートは、世界的にも知名度のある格式高いホテルだ。
 採用試験はかなり厳しく、最終面接は一人二時間にも及んだ。語学能力、判断力、適応力を試され、胃が痛くなる思いをしたものだ。
 このホテルでは、ゲストからの依頼には決して「ノー」と言ってはならないと決められている。面接ではそれを何度も試されるのだ。面接のあとの研修でも、嫌がらせかと思うほどクレーム対応をやらされたし、できなければ何度もやり直しをさせられる。

(コネ入社だから、面接も研修も受けなかったって言うの? そんなのあり?)

 能力のない人材をコネであっても入社させるだろうか。いずれにしても、研修くらいはちゃんとしてほしい。迷惑をこうむるのはお客様なのだから。

「私、総支配人のお母様にお願いされてここに入ったんです。それなのに、なぜか総支配人にフロントサービス係はだめって言われて。私、仕事柄ずっと経営者とかを相手に接客してきたから、そういうお客様の扱いはお手の物なんですよ? そんな私が掃除しかやらせてもらえないなんて、宝の持ち腐れだと思いません?」
「総支配人のお母様……ですか?」

 思わず聞き返すと、待ってましたとばかりに彼女の口が軽くなる。

「総支配人って、ワシントン支社から来た超エリートなんですよ~。あ、林さんは会ったことありません?」

 このホテルの総支配人が代わったのは半年ほど前だ。前総支配人はアメリカの支店に戻ったと聞いた。
 まさか現総支配人が、一アルバイトスタッフである唯と親しい関係だとは思ってもみなかった。彼女が総支配人のコネで入社したのなら、面接もなく採用されたことにも納得だ。このホテルのトップならば、人事に手を加えることくらい、いくらでもできる。

「私は、お目にかかったことがないですね」
「でしょうね。ま、私は~彼のお家にも行ったことがあるので」

 唯は意気揚々と口角を上げながら言った。
 このホテルで働く従業員は六百人にも及ぶが、通常一華たち社員に指示を出すのは、支配人であるマネージャーだ。マネージャーは、宿泊部、客室部、宴会部、料飲部など各部署におり、彼らが総支配人からの命令を聞き、指示を出す。
 もちろん、総支配人が各部署を訪れることもある。だが、総支配人が打ち合わせなどでフロントを訪れるのは人が少なくなる夜で、一華はその時間すでに退勤していた。

「彼、めちゃくちゃイケメンだし、それでいて優しいんですよね~物腰も柔らかいし、口調も丁寧だし。さすがお金持ちって感じ。マンションもこのホテル並みに立派だし」

 たしか三十代の若さで総支配人の地位に上り詰めたと聞いたが、有能だという噂は、所詮、噂でしかなかったのかもしれない。唯の話を鵜呑うのみにはできないが、もし本当だとすれば、彼女をコネ入社させた総支配人に対する印象はかなり悪い。自宅に呼ぶような仲なのは個人の自由だが、仕事に持ち込むのはいかがなものか。

「そうですか」

 頼むから唯をフロントサービス係には配属してくれるなと祈りながら、一華はきびすを返した。いつまでも唯と話していられない。今日は大事な用があるのだ。

「では、お先に失礼します」
「あ、いつでもフロント交代しますんで~! 考えておいてくださいね!」

 話す前に「あ」と付けるのも注意した方がいいだろうか。そう思いながらも時間と天秤にかけた結果、一華はなにも言わずに更衣室をあとにしたのだった。


 ホテルを出た一華は、最寄り駅に急いだ。改札付近を見回すと、タクシー乗り場の近くに立つ彼――川島かわしま明彦あきひこがこちらに向かって手を振っていた。
 今日は、婚約者である明彦を家族に紹介する予定だった。平日だが、仕事でほとんど家にいない父に合わせる形で今日の食事会が決まったのだ。

「明彦さん! お待たせしてごめんなさい!」

 一華が息せき切って彼の前で頭を下げると、彼は笑顔で首を振った。

「いや、二、三分過ぎただけだから気にしないで。行こうか」
「うん」

 一華は、明彦とタクシーに乗り込み、自宅の住所を告げた。
 自宅は東京都文京区内にあり、ここからタクシーで三十分ほどだ。
 明彦とは半年ほど前に婚活アプリが主催するパーティーで知り合った。恋愛も結婚もあきらめていた一華が婚活アプリに登録したのは、ホテルのお客様でもあり友人でもある女性に、自社の婚活アプリに登録してパーティーに参加してほしいと頼まれたからだ。
 一華は、今後ホテルで婚活パーティーを開催したときにこの経験が生かせるかもしれないと考え、承諾した。
 パーティーに参加したものの、結婚するつもりはなかったため、プロフィール欄に正直に家庭環境について書いた。何人か話しかけてきた男性もいたが、皆、一華のプロフィールを見て申し訳なさそうに去っていった。そんな中、明彦に声をかけられたのだ。痩せていて頼りなさげではあったが、穏やかで優しい話し方をする人だと思った。
 プロフィールによると、明彦は四十二歳で結婚歴はなし。両親と三人暮らしとのことだった。一人っ子だから、一華のような大家族にずっとあこがれていたのだと彼は語った。弟妹たちの面倒を見ているなら自分もその助けになりたいと言われ、すぐさま交際を申し込まれた。そんな積極的な彼のアプローチに負け、数ヶ月前に結婚を前提とした交際に至ったのだ。
 彼はデートのたびに具体的な結婚後の話を語ってくれた。新居も一華の実家近くに構えよう、君が母親代わりになるなら、僕が父親代わりになるとまで言ってくれた。
 一華の家庭の事情で、デートの回数は片手で数えるほどだったし、当然外泊もできなかったが、一華の家族を含めて大事にしてくれることが嬉しかった。
 明彦の存在は、恋愛も結婚もあきらめていた一華にとって、救いのようなものだったのだ。

「そういえば、一華が遅刻なんて珍しいよね。仕事が忙しかったの?」

 明彦に聞かれて、一華は帰り際の唯とのやりとりを思い出し、かすかに眉を寄せた。

「ちょっと更衣室で後輩に捕まっちゃって」
「あぁ、もしかして嫌味を言ってくるっていう、例の?」
「そうなの……今月弟妹たちの運動会があるって言ったでしょ? 土曜日にお休みをもらっているから、その件で」
「あぁ、そういうことか。家庭と仕事の両立は難しいね」

 明彦は、一華の愚痴に肯定も否定もしない。事なかれ主義と言えるのかもしれないが、彼との会話にストレスを感じないでいられる。一華は彼のこういうところを尊敬していた。勢いに流されるがまま交際を決めてしまったけれど、明彦と結婚できたら幸せだと思ったのは間違いない。

「本当にね……これから先、あなたにも迷惑をかけてしまうと思うんだけど」
「結婚したら、僕もなるべく手伝うようにするよ。弟さんや妹さんたちの世話も含めてね。小さい子は好きだから、楽しみだよ」

 明彦は、わかっているというように一華の言葉をさえぎって続けた。

「ありがとう。そう言ってくれると心強い。明彦さんのご両親に会うのは来週だよね」
「あぁ、母も楽しみにしてるって」
「良かった」

 彼の両親に挨拶あいさつを済ませたあと、結婚式の日取りを決めて入籍する予定だ。実家の近くに引っ越しをして食事をそちらで摂るようにすれば、負担も少なくなるねと話をしている。しばらくは慌ただしいが、いずれはその生活にも慣れるだろう。

「楽しみだなぁ。美智みちちゃんは小六で、詩織しおりちゃんは小一なんだっけ?」
「うん、そうよ」

 明彦はにこにこと笑いながら言った。
 彼はよく、美智と詩織の話を聞いたり、写真や動画などを見たがったりした。自分の家族と仲良くしようと思ってくれるのは嬉しいが、そういえばどうして美智と詩織ばかりなのだろう。それについて聞いてみようと口を開く前に、タクシーは実家の近くの道に入った。

「お客さん、このあたりですか?」
「はい、その道を右に曲がって……」

 家への道を運転手に説明すると、タクシーは路地に入り、細い道を進んだ。

「運転手さん、この辺で停めてください」
「はい」

 家から数メートルの場所でタクシーを停めて、二人は車から降りた。
 一華の実家は古びた二階建ての一軒家で、軽自動車がぎりぎり一台停められる庭がある。最寄り駅まで徒歩十五分とそれなりにかかるうえ、L字型の旗竿地はたざおちであることから安く家を買えたのだと父が言っていた。
 父はまだ家に帰っていないようで、庭には車が停められていない。

「ここ?」
「うん。父はまだ帰ってないみたいだから、中で待っていて」
「そっか。じゃあ美智ちゃんと詩織ちゃんと遊ぶ時間もあるかな。お父さんは長距離トラックの運転手なんだっけ? 忙しくて、あまり家にいないんだよね?」
「そうなの。たまに帰ってきても見るのは寝顔ばかりだし。お父さんがいなくても、弟や妹たちがしっかりやってくれるから助かるけどね」
「そうか、それじゃあ大人がよく見ていてあげないといけないね。僕になついてくれるといいな」
「えぇ、きっと気に入ると思う」

 一華は玄関のドアを開けて、中に向かって「ただいま」と声をかけた。奥のリビングから、大学生の次男、裕樹の叫び声と共に、ドタドタと走り回るような音が聞こえてくる。
 おそらく一華が帰ってきたことに気づいていないのだろう。それもいつものことだった。
 林家は四LDKだが、八人暮らしだ。一人一部屋なんて贅沢ぜいたくはできず、一部屋は父に、ほかの三部屋はきょうだいで分けて寝室としている。

「どうぞ」
「お邪魔します。にぎやかだね」
「ふふ、静かなのは寝ているときくらいかな」

 ばたんとドアの閉まった音が聞こえたのか、リビングのドアが開き、亜樹が裸のままこちらに向かって走ってきた。

「一華ねぇちゃん! おかえりなさい!」
「ただいま、亜樹。ちゃんとパジャマを着ないと風邪を引いちゃうよ」

 マントのように身体に巻きついたバスタオルで濡れた髪を拭いてやると、亜樹が気持ち良さそうに目を細めた。すると奥から怒鳴り声を上げながら裕樹が出てくる。

「姉ちゃん、おかえり! こんな状態でごめんな。あ~もう亜樹、お前、身体を拭けって言っただろ! 廊下が濡れる! それにお客さんが来るから静かにしとけって言ったのに」

 裕樹は大学生だが、一華に続いて林家の育児をになってくれている。巻きつけたバスタオルで亜樹をがっしりと捕まえた裕樹は、そのまま小さな身体を脇に抱えて持ち上げた。亜樹は「きゃー」と叫びながら、楽しそうに足をぶらぶらさせている。

「こうなってると思ってたから大丈夫。裕樹、こちら川島明彦さん」
「はじめまして、川島です」

 明彦が頭を下げると、裕樹も軽く会釈えしゃくする。明彦の目は裕樹ではなく亜樹を捉えとらていて、子ども好きだというのは本当なのだなと感じた。

「ちわっす」
「こら、ちわっす、じゃないでしょ。明彦さん、ごめんなさい玄関で。入って」

 一華は滅多に使わないスリッパを出し、明彦の前に置いた。

「ありがとう。子どもは元気だね」
「本当にね。私にもその元気を分けてほしいくらい」

 明彦を伴いリビングへ行くと、次女のふたばと三男の芳樹よしき、三女の美智、四女の詩織が一斉にこちらを見た。真っ先に立ち上がり、一華のもとに来たのはしっかり者のふたばだった。


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