イジワル上司の甘く艶めく求愛

本郷アキ

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1巻

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   第一章


 朝川あさかわホールディングスの三十階建てビルのロビーは、いつもよりも混み合っていた。六基あるエレベーターに新入社員と思われる真新しいスーツを着た若者たちが続々と乗り込んでいる。
 どこに配属されたという話題で盛り上がり、和気藹々わきあいあいと楽しそうだ。
 きっと、会議室で行われる研修に行くのだろう。自分も入社した年の春に受けたと思いだす。

(次のに乗れるといいけど……)

 りんはエレベーターを待ちながら腕時計を見て、ため息をついた。
 すると、隣にいる男性と肩がぶつかってしまう。頭を下げると、新入社員であろう男性がちらりと視線を向け、話しかけてきた。

「君はどこの配属になったの?」
「え……?」

 凜は肩の下まで伸びた黒髪を後ろで一つに結んでいる。さらに、量販店で購入した地味なグレーのスーツに身を包み、ブラウスのボタンを一番上まできっちりと留めているため、新入社員と思われたらしい。
 立っている位置も悪かった。
 エレベーター待ちの新入社員に周囲を囲まれる形で埋もれているのだ。

(地味すぎるのかな……二十八歳にもなって)

 線が細く薄化粧をほどこした凜の容貌は、はかなげで楚々そそとした印象を見る人に与える。近くで見れば顔立ちが整っているとわかるものの、顔を隠すように斜めに垂らした前髪のせいか、どこか野暮やぼったく見えてしまう。昔からよく言われたのは、目立たない、影が薄い、の二つ。
 謝られても微妙だと、凜は曖昧あいまいに笑っておく。男性はすでに凜に興味を失っていて、別の女性に話しかけていた。
 エレベーターに乗り込み、目的階を押す。そこで凜が新入社員ではないと気づいたのか、先ほどの男性が気まずそうに頭を下げた。

(あぁ、もうエレベーター早く動いて、遅刻しちゃう)

 いつもより会社に着くのが遅くなってしまったため、気がいていた。エレベーターがようやく目的の階で停まり、凜は足早にデスクへ向かう。

「おはようございます」

 始業時間になんとか間に合い、ほっと席に着いた。

高嶋たかしまさん、おはよう。珍しいね、いつももっと早いのに」

 隣の席から男性社員に声をかけられて、急いでパソコンを起ち上げながら返事をした。

「電車が十分ほど遅れていて……遅くなってすみません」
「いや、遅刻じゃないし……あぁ、だからまだみんな来ないのか」

 男性社員は周囲を見回して言った。あと五分ほどで始業時間になるというのに、法務部の社員はまだ半数ほどしか揃っていない。凜が壁際のデスクに視線を向けると、専務である朝川あさかわはすでに席に着いていた。

(専務は車通勤だったっけ。だから影響なかったのかな)

 バッグをデスクの一番下の引き出しにしまい、グレーのジャケットを椅子の背もたれへかけた。
 パソコンを起ち上げ今日のタスクをチェックしていると、デスクの内線が鳴る。凜は一呼吸置いてから受話器を取った。

「はい、法務部高嶋です」
『お疲れ様です。取引先相談窓口チームの藤本ふじもとです。今、お時間よろしいでしょうか?』
「お疲れ様です。はい、大丈夫です」

 内線が同期の藤本智也ともやからだとわかり、凜は肩の力を抜いた。
 入社して六年目。しかし法務部に配属されてからこの四月でまだ一年だ。この部署にかかってくる電話のほとんどが契約書や法律に関係する内容のため、勉強中の凜にはすぐに返事ができないことも多く、いまだに緊張する。
 内線にさえびくびくしてしまうのは、小心者の性格のせいかもしれないが。

『ドマーニの近隣にあるスーパーから、匿名でうちの窓口に通報があったんだ』

 電話口に出たのが凜だとわかり、智也もまた口調を崩して話しだした。
 凜が働く朝川ホールディングスは小売り事業を中心とし、全国展開する総合スーパーマーケット『ドマーニ』を子会社に持つ巨大企業だ。ちなみにドマーニという名前はイタリア語で明日という意味から、今日も明日もずっと地域に根付くスーパーというコンセプトでつけられたらしい。
 法務部は、取引先との契約締結に法律上の問題がないかの確認や、就業規則などの社内規定の確認、それにグループ会社全体の従業員や取引先からの相談事を、法律にのっとり解決するのがおもな仕事だ。凜は現在、その相談事に関する仕事にたずさわっていた。
 智也の所属する取引先相談窓口チームは、内部や外部からの通報に対応している。通報というと不穏な響きだが、内容は従業員の働き方についてのクレームや、万引きの相談など多岐にわたる。お客様相談窓口とは違い、通報者はグループ会社の従業員が多い。
 その内容を精査し、法律に関する相談は法務部へ回されるのだ。凜はおもにこのチームからの連絡を受け、動いていた。
 もともと法律に明るくない凜は、勤続六年目ではあるものの新人と変わりがない。そのため、専務である朝川の補佐として働いている。
 彼は大学在学中の司法試験合格者らしく、三十二歳という若さでその地位にいるのも納得できる聡明な男だ。

「匿名で外部通報ね」
『あぁ、メール転送したから』
「うん。ちょっと待って」

 法務部に異動になってから、こうして智也と話す回数が格段に増えた。仕事に私情を持ち込んではならないとわかってはいるが、片思いの相手と少しでも多く話せるのは嬉しかった。声が弾んでしまうのは仕方ないだろう。
 智也からのメールには『ドマーニA店では、集客のため格安に仕入れた商品を原価割れで販売している』とあった。近隣のスーパーの通報者は通報に迷いがあったらしく、大事おおごとにするつもりはないが毎日のように原価割れで販売されてしまうと、うちは勝ち目がないといった内容が書かれていた。
 企業内で発生した問題に対し通報があった場合、事業者は一定期間内に調査、是正ぜせいをしなければならない。そしてそれを理由に通報者を不当に扱ってはならないと、公益通報者保護法によって定められている。これは至急調査しないといけない案件だろう。

『至急で頼める?』
「じゃあ、専務に確認を取って、現場に適正価格にするよう通達を出すから。放置すれば公正取引委員会の調査が入る可能性があるかもしれないし」

 調べると、通報があった地域はスーパー激戦区と言われているところだった。歩いて十分くらいの範囲にドマーニを含めた三件のスーパーがある。

『あぁ、よろしく。あとさ、今夜いつもの店でどう? 凜に話があるんだ』
「話?」
『会ってから話すよ』

 思わせぶりな言い方に凜の胸が高鳴るが、無理やりそれを押しとどめる。

「うん、いいよ……まいは?」

 智也と同じ取引先相談窓口チームにいる青木あおき舞も凜の同期だ。舞とは新入社員時代、同じ受付に配属されたことで仲良くなった。
 受付業務が自分に合っていたとは言いがたい。凜は毎日、緊張しすぎて慌ててばかりいた。社交的な舞が何度も助けてくれたおかげで勤められたようなものだ。
 引っ込み思案で人と話すのが苦手だった凜に、智也を紹介してくれたのも舞だ。以来、三人でよく食事に行っている。
 いつもは舞から連絡が来るため、智也から食事に誘ってもらったのは初めてだ。

『今日は……舞は誘ってないんだ。二人でもいいか?』

 智也の声はなぜか決まりが悪そうで、感情を必死に押し殺しているように聞こえた。本当なら今すぐ話したい。でも話せない。そんな気配が電話越しに伝わってくる。

(話ってなんだろう?)

 気になるものの、夜になればわかるかと凜は頷く。

「もちろん大丈夫。智也は定時で終わりそう?」
『たぶんね。凜は?』
「私も平気」

 急ぎの契約が入らない限り、法務部の残業はさほど多くない。朝川が無駄な残業をしない主義のため、部下もそれにならっている。おそらく今日も定時に帰れるだろう。
 まだ仕事は始まったばかりなのに、すでに気持ちは智也との食事に向いている。
 舞から智也を紹介されたのは、入社して一ヶ月ほど経った頃だったと思う。同期と言っても人数が多いため、凜は研修で同じ班になった数人と言葉を交わす程度だった。智也の顔と名前は知っていても、それまで話す機会はなかった。
 智也はいわゆるイケメンとは違うかもしれないが、笑った時に細くなる目や口元のえくぼがチャーミングで優しそうな容姿をしている。
 進んで前に出る方ではなくとも、話し方が穏やかだからか一緒にいるととても落ち着いた。
 毎日こつこつ仕事にはげむ姿勢や真面目さが自分と似ているような気がして、凜は出会ってすぐに彼を好きになった。それから六年近くも片思い中である。
 智也に気持ちを告げるつもりはなかった。片思いは楽しいし、このままずっと同じようにとはいかなくとも、今の関係で十分満足している。

『じゃあ、仕事終わったら連絡する』
「うん、わかった」

 凜は、浮かれそうになる気持ちをなんとか抑えて冷静に返した。『じゃあ、あとで』と智也が電話を切ったのを確認し、音を立てないようにそっと受話器を置く。
 朝川の席へ視線を走らせ声をかけるタイミングを計る。今ならいいだろうか。

「朝川専務」

 凜が呼びかけると、朝川は返事をせずに視線だけを向けてくる。朝川の人を寄せつけない雰囲気にひるみそうになる。
 癖なのか、いつも眉間にしわを寄せているため目つきが悪く見えるものの、それがまったくマイナスになっていないのは、日本人離れした美貌のせいだろう。三十二歳にして威厳がありすぎるのではないかと感じるほど、朝川は精悍せいかんな顔立ちをしていた。
 鋭い眼光に高い鼻梁びりょう、無駄な肉のないシャープな輪郭、どれを取っても完璧だ。つやのある黒髪は左右に分けられ、耳のすぐ上で切り揃えられている。
 ブランド物に詳しい姉、らんのおかげで、興味はないが知識だけは持ち合わせている凜が見ても、朝川の着ているスーツはいつも一級品。時計や靴といった小物のセレクトも、姉に言わせればおそらく百点満点どころか二百点超えといったところだろう。

(みんなはかっこいいって言うけど、私はちょっと苦手なんだよね……)

 無愛想で誰に対しても淡々としているのは怒っているわけではない。それはこの一年でわかった。
 朝川が仕事中に感情をあらわにすることは滅多にない。笑いもしないし、怒りもしない。だが、自分が優秀な分、他人にも同じレベルを求める男だった。彼についていく部下はいつも胃をキリキリさせている。
 補佐である凜への指導は特に厳しく、物言いも冷たい。小心者で心配性の凜は、彼のそばにいるといつも緊張で肩がってしまうのだ。
 仕事ができるのは間違いないし、彼から学ぶべきところも多い。指示は的確で、上司として尊敬できるのはたしかなのだが。

「あの……今、お時間よろしいですか?」
「あぁ」

 朝川が素っ気ない口調で答えた。声が低いのはいつもと同じだ。朝川が話しだすと法務部の社員全員が一瞬手を止め、耳を澄ませる。彼の声はそれだけよく通るのだ。

「取引先相談窓口チームからの連絡で、ある店舗が原価割れで商品を販売しているようです。至急、対応を求められているのですが」
「不当廉売か?」
「はい、そのようです。大量発注の確認が取れておりますので」

 不当廉売とは独占禁止法で禁止されている取引方法の一つだ。
 たとえば賞味期限切れが近い商品などを原価割れの価格で販売する。それは不当廉売とはならない。ほかの事業者、この場合は近隣にある二店舗への影響がないからだ。だが、集客のために敢えて原価割れで商品を販売することは不当廉売として禁止されている。その線引きは非常に曖昧あいまいではあるが。

「期間は?」
「えっと……たしか、この辺に……あれっ」

 凜は資料をバサバサとひっくり返しながら日付を探した。通報のあった一回だけではなく、この店舗はセールをうたい毎日のようになにかしら原価割れで商品を販売している可能性があった。

「落ち着け」
「すみませんっ」

 そんな風に低い声で言われるほど焦りがつのるので、黙っていてほしい。
 もちろん言えるはずもないが。

「大量の商品の発注をしている、最初の日を調べてみろ」
「は、はい! すぐに!」

 凜は自席に戻り、該当店舗の発注履歴を確認する。
 通常の発注とは桁が違うため、すぐにわかった。
 朝川と話すたびに自分はまだまだだということを痛感させられる。補佐として役に立っているかと聞かれると微妙なところだ。

「あ、わかりました! 半年ほど前からのようです」
「長期間だな。集客のため、意図的に原価割れの価格で商品を販売していたと言える。そんなことをすれば、うちのような体力のある大企業の一人勝ちだ。中小企業が経営するスーパーは手も足も出ないだろう。通報者は、近隣のスーパーのオーナーか」
「はい、おっしゃる通りです」

 原価割れで商品を販売することで一時的に損失が出たとしても、集客が見込めれば朝川ホールディングスのような大企業に痛手はない。それどころか利益が出る。
 けれど、大企業であるからこそ、清廉潔白でなければならない。与える影響が大きい分、法を遵守じゅんしゅした経営をする。それが結果的にグループや、そこで働く従業員とその家族を守ることに繋がるのだと、朝川は常々言っていた。
 彼が次期社長候補だと言われるのも頷ける。
 どれだけ経営難でもリストラはしない、というのが朝川ホールディングスの基本理念だ。雇用を守るのはトップに立つ者の責任。だが、口にできても実行できる人はそうそういない。

「至急、店舗の責任者への通達を。通報者には俺が直接連絡をする」
「わかりました。取引先相談窓口チームに連絡しておきます」
「営業担当にも頼む。俺が店舗に顔を出すから」
「専務がですか?」
「あぁ、俺が出向けば、さすがに次はやらないだろう」

 たしかに親会社の専務である朝川ににらまれるなんて、店舗の責任者からすればたまったものではない。親会社の社員に対して〝現場を知らないくせに〟と文句を言う店舗責任者もいるが、専務の朝川に難癖をつけてくる可能性は低いはずだ。

「高嶋」

 急に呼びかけられて心臓が跳ねる。

「は、はい!」
「会社の固定電話で個人的な用件を話すのは感心しない。プライベートの約束は休憩中に自分のスマホでやれ」
「す、すみません……っ!」

 智也との内線での話が聞こえていたのだろう。肩を縮こまらせ、慌てて頭を下げた。
 ほんのちょっと話をしていただけではないか、などと言えるわけがない。法務部で作成した社内規定に、従業員の通話や電子メールの私的使用、またインターネットの閲覧に関して厳しく取り締まる旨を記載しているのだから、規定を作った側の凜が破ってはいけない。
 朝川に淡々と叱責しっせきされることは珍しくないのだが、仕事以外のことで注意を受けるのは初めてで気分が沈む。自分が悪いとわかっていても、叱責しっせきされるたびに不甲斐なさにため息をつきたくなる。

「電話の相手が同期だと線引きは難しいだろうがな」
「いいえ。専務のおっしゃる通りです。以後、気をつけます」

 凜はもう一度頭を下げて席に戻った。
 気持ちを切り替え、不当廉売についてのメールを作成する。智也宛てと営業担当宛てのメールを送り終えたのを見計らったように、隣の男性社員が話しかけてきた。

「高嶋さん、専務を相手にしてもひるまないなんて強いよね」
「え……まったくそんなことないです」

 いったい自分の態度のどこを見てそんな風に思ったのだろうか。一年で少しは慣れてきたとはいえ、朝川に話しかけるのはいまだに緊張する。

「いやいや、うちに異動になる女の子はほとんど全員、最初は専務の冷たい態度におびえて泣くからさ。あの人、性別で態度変えないし。怒鳴ってるわけじゃないのに怖いっしょ?」
「いえ……怖くなんて……」

 頷きたいが頷けない。なんとなく朝川の視線を背中に感じたからだ。こんな時「ですよね~怖いですぅ!」と明るく返せたらどんなにいいだろう。そんな風に言いそうな同期の舞の顔がふと頭に浮かんできて、小さく笑みが漏れた。
 仕事に集中していると、時刻はあっという間に過ぎていく。
 パソコンの時計は十七時三十分。
 凜は明日の準備をしてから、パソコンの電源を落とした。スマートフォンをチェックすると、智也からの連絡はまだない。
 いつもの店、と言っていたから連絡なしで向かっている可能性もある。凜はバッグを手に立ち上がり、まだ残っている社員に挨拶あいさつをして化粧室へ向かった。
 鏡の中には、姉の蘭とは似ても似つかない地味な女がいる。猫背で痩せていて顔立ちが薄くて地味。そんな自分の容姿を凜は好きになれない。顔を隠すように斜めに下ろした前髪を整えて、鏡からそっと目を逸らす。
 蘭は外見も内面も美しい女性だ。そんな蘭に憧れて、あんな風になれたらと、小さい頃から何十回、何百回も思ってきた。
 蘭と凜は、かつて私立の中高一貫校に共に通っていた。
 凜が中学に入学した時、姉は中学三年生。当時から読者モデルをしていた姉は有名人で、凜はいつだって「あれが高嶋蘭の妹か」そんな風に姉と比べられた。そして「蘭さんと違って地味だね」「蘭さんと似てないね」そう言われ続けてきた。
 彫りが深く華やかな顔立ちの蘭は、いつだって堂々としていて周囲の羨望せんぼうの的。性格は明るくサバサバしているが、とても優しくて、人見知りで前に出られない凜をかばってくれることが多かった。
 劣等感はあっても凜が卑屈ひくつにならずに済んだのは、ひとえに姉のおかげだろう。

(そういえば……あの時も、二人きりで話があるって呼びだされたんだっけ)

 凜には当時、密かに片思いをしている相手がいた。そこそこ仲のいいクラスメイトだ。彼だけは蘭と自分を比べなかった。自分を見てくれる人がいると思った。
 二人きりで話があるなんて告白かもしれない、自分も好きだと打ち明けてみようか。凜は浮かれて、期待してしまったのだ。だが彼から告げられたのは――
「蘭さんを紹介してくれないかな?」という言葉だった。
 そのあとの言葉はよく覚えていないけれど、おそらくほかのみんなと同じように「ずっと蘭さんが好きだった」「付き合うのは無理でも友人になりたい」そんなところだろう。
 彼は蘭と凜を比べなかった。
 当然だ、そもそも凜に興味などなかったのだから。凜とよく話していたのは、どうにかして蘭に近づくためだろう。凜は彼に「聞いてみるね」と返すのが精一杯だった。
 彼だけではない。凜を使って、蘭に近づこうとする男はあとを絶たなかった。蘭に告白して断られ続けた相手に「仕方ないから妹の方でもいいや」と言われたこともある。
 だから凜は男性が苦手だ。学生時代は誰も好きになれなかったし、近づいてくる男性が全員、姉目当てに見えた。
 社会人になり、蘭と比べられることはなくなった。その時、ようやく凜はほっとしたのだ。
 もちろん蘭を家族として大事に思う気持ちや憧れは変わらない。少しでも憧れの姉に近づきたくて、自慢の妹だと思ってほしくて、努力した。
 大企業である朝川ホールディングスの採用が決まった時は嬉しかった。見た目ではなく、今まで真面目にこつこつと積み上げてきたものを認められたような気がしたからだ。
 それから少しだけ自分に自信が持てるようになり、自然と智也を好きになれた。
 だが男性不信は、いまだに凜の中に根深く残っている。智也に告白しようと思わなかったのも、心のどこかに「彼が自分を好きになるはずがない」という思いがあるからだ。最初から諦めていれば、昔のように傷つくことはない。

(好きな人ができても、想うだけなら傷つかない)

 実際に片思いは楽で楽しい。電話が来るだけで浮かれてしまうし、たまに話せるだけでも嬉しい。それ以上を求めなければいいだけだ。

「あ、急がなきゃ」

 凜は腕時計に目を落とすと、急いで化粧室を出て、ちょうどタイミングよく来たエレベーターに乗り込んだ。
 朝川ホールディングスのビルを出て駅に向かって歩く。高層ビルの間を抜けると商業施設が建ち並ぶ大通りへ出た。人混みをかき分けながら急ぎ足で進んでいくと、ようやく目的地である駅ビルに到着した。その時、スマートフォンがメッセージの受信を知らせる。
 どうやら智也の方が早く着いたようだ。すでに店内にいるという。
 凜はエレベーターを待つ間、そわそわと腕時計を見つめた。
 駅ビル内にあるカフェは、会社帰りの女性やカップルたちで混雑していた。店内をきょろきょろと見回すと、窓際のカウンター席に座る智也を見つける。

「智也、ごめんね! お待たせ」

 舞を含めた三人で会う時はいつもテーブル席のため、彼の隣に座るのは新鮮だ。それに、向かい合わせよりも肩と肩が触れ合いそうな距離にドキドキしてしまう。

「お疲れ様。俺も今来たばかりだよ。そんなに急がなくてよかったのに。呼びだしたのはこっちなんだから」
「だって待たせてるって思うと、落ち着かないの」
「ははっ、凜はそうだよな~。舞は余裕で三十分とか遅刻するけど」
「舞、遅刻魔だもんね」

 椅子に腰かけながらも、頭の中は智也からなにを言われるのかとそればかりだ。

「そうそう。でも会社には遅れないから、頑張って起きてるんだろうな。あ、注文決まった?」
「うん、決まった」

 智也が片手を上げて店員を呼ぶ。

「俺はグラスビールとパスタセット。凜は?」
「えっと、サラダセットで飲み物はアイスミルクティーをお願いします」
「ミルクティー好きだよな」
「知ってたの?」
「そりゃ、毎回頼んでれば気づくよ」
「そっか」

 智也が自分の好みを知ってくれている。ただそれだけのことに舞い上がってしまう。
 話ができるだけでいい。自分の気持ちを知ってほしいとは思わない。だからせめて、ずっとこのまま片思いをさせてほしかった。

(智也が知ってるのは、私の好みだけじゃないし)

 彼は舞の好みも熟知していた。好き嫌いの激しい舞は、いつも智也の皿に自分の嫌いなものをどんどんと載せていく。智也は『仕方ないな』と言いながら、舞のわがままを聞いてあげていた。
 そういう智也の優しさが凜はとても好きだ。

「そういえば、話って?」

 話が止まったタイミングで切りだした。どうしても智也の話が気になって仕方がなかったのだ。だが、少し早かったらしい。智也の頬が瞬時に赤らんで、気まずそうに目を逸らされる。

「飲み物とか……来てからでいいか?」
「う、うん……もちろん! ごめんね、なんか気になっちゃって」
「だよなっ。俺の方こそ、ごめん……思わせぶりな言い方して」

 微妙な空気が流れて、ふたたび会話が止まってしまった。
 どうしよう、なにを話せばいいのだろう。
 凜は智也だけでなく、そもそも男性と二人きりの食事は初めてだ。好きな人が隣にいる緊張感でうまく会話が繋げない。

(いつもは、舞がしゃべってくれるから……)

 好きな人との食事にただただ浮かれていられたのは、舞が話題を提供してくれていたからだと今になって気づく。
 舞には、自然と周囲を明るくしてくれる魅力がある。人に甘えるのも得意で、入社した当時から上司や先輩に可愛がられていた。目はぱっちりと大きく童顔で、柔らかそうなふわふわの髪は小動物のようで愛らしい。
 わがままなところもあるけれど、たまに見せる弱々しい雰囲気に庇護ひご欲を刺激されるのか、男性から非常にモテた。

「二人きりって……初めてだよな」

 智也も同じことを思っていたのか、落ち着かない様子で頬をかいたり腕を組み直したりしながら、やや上擦った声でそう言った。

「私たちって、舞の話を聞いてるばかりだったんだね」
「ははっ、舞はなぁ~、ぽんぽん話が飛ぶから。こっちが必死に考えてなにか返すと、その話もう終わったよ! とか言うよな」
「別に私、感想求めてないの、ただ聞いてほしいだけなのってね」
「あるある!」

 二人で顔を見合わせて笑った。舞の話題で会話が繋げたことに凜は胸を撫で下ろした。
 そうしているうちに注文した料理が運ばれてくる。グラスビールとアイスミルクティーで乾杯をして、渇いた喉をうるおした。


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