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1巻
1-2
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「そうだ、今日の大丈夫だったか?」
「不当廉売? 大丈夫、通報者には朝川専務が連絡してくれたから」
凜が言うと、智也が安堵したように深く息を吐いた。
「よかった~。店舗の責任者は電話では平謝りしてたけど、バレなきゃいいって考えの人も中にはいるからなぁ」
「専務、今度店舗に顔を出すって言ってたよ」
「うわ、マジか! ありがたい! 朝川専務……あの人、やっぱりかっこいいよなぁ」
智也は目をきらきらさせて窓の外を見つめた。
朝川が女性にモテるのは言わずもがなだが、なぜか男性からも人望を集めている。凜には朝川のかっこよさがいまいちよくわからない。顔はいいと思うが、それだけだ。美麗な姉を見慣れているからだろうか。
「そう?」
「凜はそういうの興味ないもんなぁ。あのな、フツメンにとってはああいう男が憧れなわけよ」
「興味……うん……まぁ」
恋愛には興味がある、とは言えなかった。だけど、智也に誰か好きな奴がいるのかと聞かれたら、誤魔化せる自信はない。
智也は朝川に憧れていると言うが、凜にとっては誰よりも隣の彼が特別な存在だ。
「顔だけじゃなくてさ、国立大学法学部卒業! 三十二歳にして専務取締役だぞ? しかも実力で専務までのし上がったあとに、実は社長の息子でしたって! 同じ男から見ても憧れるよ」
朝川が朝川ホールディングスの代表取締役社長の長男であると明かしたのは、実はここ数年のことらしい。
彼の名字や社長と似ている容姿から、社員たちの間でも以前から「もしかして」という空気はあったそうだが、誰も聞けなかったのだとか。
「智也だって、この四月から取引先相談窓口チームの主任になったって聞いたよ? 大躍進でしょ、すごいよ。おめでとう!」
「サンキュー。俺もますます頑張らなきゃな……プロポーズするって決めたんだし」
「え……っ?」
凜は窓の外に向けていた視線を勢いよく真横に走らせた。
まさか、いきなり智也の口から「プロポーズ」という単語が出てくるとは思ってもおらず、動揺のあまり手にしていたアイスミルクティーをごくごくと飲み干す。
「プロポーズ?」
「うん」
まさかと期待が頭をもたげる。いつもは三人なのに、今日に限って話があると、凜だけをこの店に呼びだしたのはなぜか。
もしかして智也の口から続けられるのは「結婚を前提にお付き合いをしてください」なのでは。
(いやいや……先走りすぎだよ。ちょっと落ち着かないと)
凜は空になったグラスをテーブルに戻し、智也に向き直る。
「今日の話って……それ?」
「あ、バレた?」
智也は照れくさそうに頬をかいた。
目が合うと、彼の頬はますます赤く染まる。
「一応、主任って役職手当が付くんだよ。ほら、子どもとかできて、俺一人の稼ぎになってもなんとかなるかなって。だから……」
「そこまで考えてるなんてすごいね」
「当たり前だろ」
たしかに未来設計は大事だ。朝川ホールディングスの産休育休制度は充実しているが、妊娠によって女性の稼ぎが減る期間があるのは間違いない。
智也の凜を見る目にはある種の熱がこもっているように見えた。もしかしたら、本当に自分を好きでいてくれたのだろうか。
(まさか……でも)
恋愛に前向きにはなれなかったが、これを機に一歩前に進めるかもしれない。
智也の次の言葉を心待ちにしてしまう。
きっと違う、そう思っていても期待する心は止められなかった。
「それでさ、相談したかったんだよ。ほら凜、モデルをしてるお姉さんがいるだろ? 女の子が好きそうなレストランとか知ってるかと思って。今度聞いておいてくれないかな。あぁ、あとできればジュエリーショップも教えてほしくて」
「レストラン?」
どうして突然レストランに話が飛ぶのかわからず、凜は首を傾げる。
智也や舞には、姉がモデルとして活躍していると話してある。そのため、店選びで蘭を頼るのはわからないでもない。が、なんのために?
「プロポーズはさ、ちゃんとしたいんだ」
「そっか」
「プロポーズは一生の思い出だろうし。舞に、喜んでもらいたいんだよ」
「舞に……って……」
愕然と呟く凜に、智也は訝しそうな目を向けてくる。
「本人にプロポーズの計画がバレたら、サプライズが水の泡だろ? 今日は、舞には用事があるって言ってあるんだ」
凜は、智也の言葉を頭の中で反芻する。
――結婚するって決めたんだし。
(結婚するって、誰と?)
――本人にプロポーズの計画がバレたら、サプライズが水の泡だろ?
(本人って、誰?)
頭から冷や水を浴びせかけられたような心地がした。あれほど期待してはだめだと自分に言い聞かせていたのに、どうして自分がプロポーズの相手かもしれないなんて思ってしまったのだろう。
(恥ずかしい……っ)
黙り込む凜にようやく気づいたのか、智也が、あ、と声を出し目を瞬かせる。
「そういや凜に言ってなかったか? あ~悪い。舞が、万が一別れたらやりにくくなるからしばらくは内緒に、とか言ってたんだった……別れることなんて絶対ないから平気なのに」
智也はそう言ってクスクスと声を立てて笑った。その顔は幸せに満ちていて、冗談でないことが窺える。
別れることなんて絶対にない、そう言い切れるくらい二人は強固な絆で結ばれているのだ。
(何年経っても学ばないなぁ……だから、期待しちゃだめなのに……っ)
相手が自分でないのなら、今日呼びだされたのも納得ではないか。サプライズを本人の前でバラすわけがないのだから。
自分は、サプライズ計画の幹事役として頼られただけ。
(なんで……気づかなかったんだろう……)
何度も三人で食事に来ていたのに、二人が恋人関係にあるなんてまったく気がつかなかった。同期として仲がいいと思っていたが、実は自分一人だけが蚊帳の外にいたのだ。
「いつから……付き合ってるの?」
「舞が受付からうちのチームに来てからだから、ちょうど一年くらいになるな」
一年も前から。
欲をかくからこうなる。ずっと片思いでいいのではなかったのか。期待していた自分が恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
過去の失敗から学んだはずだ。片思いで十分だと思うなら、それ以上を求めてはいけない。
最初から決定していた失恋にもかかわらず、胸が苦しくて、遣る瀬なかった。
「そっか……一年も。プロポーズ、喜んでくれるといいね」
「サンキュ」
それだけ言うのが精一杯だった。
声が震えていなかっただろうか。うまく言えただろうか。
(舞も智也も大事な友達なんだから……ちゃんと二人を祝わないと)
一生思い出に残るプロポーズをしたい、智也にとって舞はそういう相手。
舞を羨んでしまう気持ちはあっても、二人には幸せになってほしい。二人が結婚すれば、きっとこの想いもすぐに消えるはずだ。
けれど。
じわりと目に涙が滲む。
今泣いてはいけない、そう思えば思うほど胸が締めつけられるように痛んだ。
「凜? どうかした?」
急に黙り込んだ凜を心配してくれたのか、智也が隣から顔を覗き込んでくる。凜は慌てて手のひらで口元を押さえ、咽せたふりをした。
「……っ、けほ……ちょっと、水が、気管に入っちゃって……っ」
「大丈夫か?」
智也は案じるように凜の背中をぽんぽんと叩いてくれる。
赤くなった目をそっと擦り、平気だと頷く。
胸に手を当てながら深呼吸をしていると、徐々に目に浮かんだ涙が乾いてくる。
二人にこの気持ちを知られるわけにはいかない。だから、平気な顔をしなければ。友人である二人に気を遣われるのも、可哀想だと思われるのもいやだ。
それは昔、片思い相手に「蘭さんを紹介してくれないかな」と言われた時と同様の、ちっぽけな自分の矜持。
「ありがとう……もう大丈夫」
「飲み物頼む?」
「ううん、平気。さっきの話、お姉ちゃんに聞いておくね。頑張って、智也」
必死に笑顔を取り繕ったものの、笑えていたかはわからない。
でも、智也に気づいている様子はないから、おそらく不自然ではなかったはずだ。
「こちらこそ相談に乗ってくれてありがとな。お姉さんによろしく」
これ以上、智也から舞の話を聞くのは辛くて、残っていたサラダを急いで食べた。
智也は自分から話を振るタイプではなく、凜も同じだ。それきり会話が止まり、かちゃかちゃとフォークを動かす音だけが響く。早く店を出て一人になりたかった。
「そろそろ行こうか」
「うん、だね」
凜の皿が空になったタイミングでどちらからともなく帰ろうという雰囲気になり、席を立った。舞がいれば二時間でも三時間でも話は止まらないのに、凜と智也ではたった一時間が限界なのだ。
同期として仲良くなれたのも舞がいたから。
そんなことにも気づけなかった。
悲しくて、情けなくて、しんどい。
重い身体を引きずるように、一人暮らしをしているマンションまでの道を歩いていると、バッグの中に入れたスマートフォンが振動し着信を知らせる。
着信相手の名前を見て、凜は身体を強張らせた。
「舞……」
今の自分が、舞と落ち着いて話せるとは思えない。気がつかなかったことにして、このまま出ないでいようか。スマートフォンを手にしたまま考える。
そのうち着信がぷつりと途切れて、無意識に深く息を吐く。
だが、すぐにまたスマートフォンが振動した。
着信を無視したら、折り返さなければ舞に不審に思われる。ならいっそ、今話してしまった方がいいのではないか。凜は重苦しいため息をつきながら、スマートフォンをタップした。
「はい」
『あ、何度もごめんね。電車だった?』
「うん、今、降りたから。どうしたの?」
思っていたよりもずっと普通の声を出せたことにほっとする。電話なら、落ち込んでいるのも、涙の痕があるのも、気づかれずに済む。
『ん~あのね……もしかして今日、いつもの店で智也と一緒だった?』
「え……」
どう返すべきだろう。
プロポーズの件は当然内緒にしておいてほしいと頼まれている。だが舞は「もしかして」と言いながら、凜と智也が二人でいたと確信しているような口ぶりで話し始めた。
『ご飯行こうって言ったら用事があるって言うから。なにか隠してる感じがして、おかしいなぁって思ったの。智也に電話したら、まだ電車だったし』
「あ、そっか。でも、そんな大した話は」
『あのね……ごめん、凜。ずっと黙ってたけど、私……智也が好きなの。付き合ってるの』
「うん、そうなんだ」
凜は知っているとも知らないとも言えなかった。
ただ、なぜ「ごめん」と謝られたのかわからず困惑する。
『私ね、凜が、智也のこと好きだって知ってた』
「え……」
あまりの衝撃に、息が止まりそうになった。
金縛りに遭ったかのように動けなくなる。
(気づいて、たの……? どうして)
気づかれていたなんて思わなかった。いったいいつから舞は知っていたのか。
知っていて、どうしてなにも言わなかったのだろう。
違う、言えるはずがない。凜は誰にも智也への想いを打ち明けていないのだから。舞は、知らないふりをするしかなかったのだ。
『それなのに……好きになっちゃったの。いっぱい我慢して、凜の好きな人なんだから奪うなんてだめってわかってたのに……どうしても諦められなくて、好きになっちゃった、ごめんなさい』
さっと血の気が引いていく。地面がぐらぐらと揺れている気がして、まともに立っていられず、近くの塀に寄りかかった。
「いつから……知ってたの?」
声は情けなく震えていた。
『何年も前。三人で会ってても、凜が智也ばっかり見てるからすぐ気づいた。でも凜ってそういう恋愛話しないでしょ? だから最初は陰ながら応援したくて、智也と二人で会ったの。さりげなく凜の話題を出したり……智也に好きな人がいないのか聞いたりして。智也も楽しそうだったし、うまくいくかもって思った。でもしばらくしてから、智也に告白されて……断れなかった。断らなきゃって思ったのに、私も智也が好きだって気づいちゃったの』
「そう、なんだ」
『本当に、ごめんね』
「ううん……謝らないで。舞が悪いわけじゃないんだから」
ただ好き合っている二人が恋人になっただけの話。
凜は舞のライバルにさえなっていない。この気持ちを智也どころか友人である舞にさえ話してはいなかった。むしろ申し訳ないと舞に思わせてしまった自分が情けない。
『あのね、凜ちゃん』
舞が凜を「凜ちゃん」と呼ぶ時は甘えたい時だ。わがままだとわかっていて、なにかを頼みたい時。いつもならなんとも思わないその言葉が今はひどく重い。なにを頼まれるのだろうと身構えてしまう自分がいた。
「うん……なに?」
『智也は……私のことすごく好きみたいで……申し訳ないんだけど、凜ちゃんには恋愛感情がないと思うの。だからね、今さらだけど、智也のこと私がもらってもいい?』
智也が凜をなんとも思っていないのは明白だ。友人どころか、舞がいなければ会話すら成り立たない関係だ。だが、わかっていても突き付けられた「恋愛感情がない」という事実に気持ちが塞ぐ。
「もらうって。智也は物じゃないんだから……それに、もう二人は付き合ってるんでしょう?」
『だって、凜から好きな人を奪ったのは本当のことだよ。傷つけるのがわかってたから言えなかったなんて、言い訳だもん。凜が智也を好きなこと、私は知ってたのに』
電話の向こうからぐすっと涙まじりの声が聞こえてくる。
凜が気持ちを隠していたから、舞は智也が自分の恋人だと言いたくても言えなかったのだ。友人として、これ以上舞を困らせてはいけない。
「気を遣わせてごめんね、舞。私は大丈夫だから。二人の幸せを願ってるよ」
大丈夫ではなかったけれど、ほかになにを言えただろう。
私だって好きだった、二人が付き合うのはいやだ、そんな風に言えるくらいなら、最初から告白だってできている。なにも望まないと自分で決めたのだ。
『ありがとう。ねぇ……凜ちゃん』
「うん?」
『私さ、頑張って凜ちゃんが好きになれる人探すから』
「探すって?」
『合コン! 合コンしよう! ね?』
舞の底抜けに明るい声が、今の凜には辛い。
しばらくはそんな気分になれない、と言ったら舞はまた気にするだろう。凜はため息を呑み込み「そうだね」とだけ返事をした。
『ねぇ凜。今度はさ、好きな人ができたらちゃんと自分から告白しなきゃだめだよ。自分から動かなきゃ気持ちも伝わらないよ……ってこんなこと、私に言われたくないと思うんだけどさ』
「ううん、ありがとう。でも恋愛って、私にはハードルが高くて」
『恋愛にハードルなんてないよ。別に顔だけがすべてじゃないんだからさ』
顔だけがすべてではない。それは凜にもわかっている。
ただ凜自身が恋愛に積極的になれないだけで。
きちんと仕事をして金銭的にもそれなりに余裕が出てきた。愛すべき家族もいる。それだけではだめなのだろうか。誰かをひっそりと好きになるだけでそれ以上は望まない。そんな人生ではだめなのだろうか。
『あっ! この間さ、凜のお姉さん雑誌で見たよ。最近テレビにも出てるよね? そりゃあ、あんな美人のお姉さんがいたら自信がなくなっちゃうのはわかるけどさ。ほら、凜は勉強とか得意だし真面目だしさ……そういうの見てくれる人もいると思う』
久しぶりに言われたな、と凜は苦笑する。
昔はよく言われたものだ。「あんなお姉ちゃんがいたら嬉しいけど、隣には立ちたくないよね」「姉妹で比べられるとか可哀想」「顔だけじゃないよ、凜には凜のいいところがあるよ」懐かしさと共に痛みまで思いだして、凜は胸を押さえた。
昔のことなど、ここ最近は思いだしもしなかったのに。社会人になり、同僚や先輩ともそれなりにうまく付き合えていた。蘭と自分を比べる人はいなかったから。
(憧れはあっても、お姉ちゃんや舞を妬んで……卑屈になりたくない)
姉も友人も大事だ。悪感情を抱けば、今度こそ自分を嫌いになってしまいそうで、凜はふつふつと湧き上がる嫉妬心に蓋をする。
必死に声を殺して、震えそうになる肩を己の手で抱き締めた。
すると電話越しにもう一度『凜ちゃん』と呼ぶ声が聞こえた。
「ん?」
『私たち、また友達に戻れる?』
「……うん、もちろんだよ」
凜は苦しい気持ちを胸の内へぎゅうぎゅうと押し込んで、精一杯明るく言った。舞は安心したように、笑い声を漏らす。
『よかったぁ。凜に絶交って言われたらどうしようかと思った。すごくすごく緊張してたから、安心した』
「絶交なんて、思ってないよ」
『うん、ありがとう。じゃあまた三人でご飯行こうね。智也にも言っておくから』
溌剌とした舞の声が、凜の胸に重くのしかかる。
二人とは今まで通り友人でいたい。だが自分は、これから夫婦になる二人を前に、どんな顔をすればいいのだろう。舞に気持ちを知られているのに「おめでとう」と笑って言えるのか。
いや、言わなければならない。二人の幸せを願っていると言ったのは、凜なのだから。
すぐに返事ができなかったのを不審に思ったのか、舞が不安そうな声で聞いてくる。
『凜? やっぱり、いや?』
「ううん! ごめん、ちょうど家に着いたところだったから。またご飯行こうね」
電話を切ったあと、重い身体を引きずるようにして家に帰った。
なにもする気が起きず、服も脱がずにベッドに横になる。
頭の中を埋め尽くす、智也と舞の姿。二人は今頃、仲良く電話をしているのかもしれない。智也が自分に興味を持ってくれていると勘違いするなんて、なんて滑稽なのだろう。
「う……っ」
目尻から流れ落ちた涙が枕に吸い込まれていく。ぼろぼろとこぼれる涙は、拭っても拭ってもなかなか止まらない。
三人で食事に行った時のことを思いだすと、羞恥で消えたくなる。もっと早く気づいていればこんなに苦しまずに済んだのに。
友達でいたい。けれど二人に会ったら、自分の恥ずかしさも思いだしてしまいそうで辛い。
目を瞑って眠ってしまおうと思っても、頭の中に浮かんだ映像はなくならない。スライドショーのように六年分の思い出が幾度となく繰り返し流れていく。
泣きすぎて目が痛くなって、頬がカピカピに乾いた頃、ようやく凜は眠りに落ちた。
「ん……?」
立て続けに響くなにかの音で、急激に凜の意識が浮上する。
部屋中に響く音はインターホンの音だった。こんなに朝っぱらからいったい誰だろう。
凜は額に触れながら、のそのそと起き上がった。次の瞬間、頭に鈍痛が走る。発熱した時のように全身が重い。
「あ……化粧したまま寝ちゃったんだ」
泣きすぎた瞼は腫れぼったいし、ぱりぱりと顔が引き攣っていて不快だ。凜がベッドからよろよろと下りると、何度目かのインターホンが鳴らされた。
「……はい」
凜はインターホン越しに応答する。どうせ宅配便かなにかだろうと思っていると、男性の焦ったような声が聞こえてきた。
『高嶋っ、いるのか? 大丈夫か?』
凜が住んでいるマンションは六畳が二間の1LDKだ。ドアの前で大声を出されると部屋の中まで丸聞こえである。
「あの~」
どちら様ですか、と問いかける前に向こうから応答があった。
『朝川だ』
「あ、朝川……専務っ⁉」
ひえっと跳び上がりそうになりながら、凜は部屋の中がやたらと明るいことにようやく気づいた。そもそもどうして自分はこんなにゆっくりしているのか。
今日は平日、仕事のはずだ。転びそうになりながらも慌てて玄関に向かいつつ時計を見ると、短針はすでに十二を指していた。
(十二時って……嘘っ!)
慌てて玄関のドアを開けると、そこには眉をぎゅっと寄せた朝川専務の姿があった。
「も、申し訳ございません……っ! あの、私、無断欠勤を……」
「何事もなくてとりあえずよかった」
頭が痛いのも忘れて平謝りするが、玄関先で仁王立ちした朝川はほっとしたようにそう返してきた。てっきり怒っているのかと思っていたが、どうやら心配してくれていたらしい。
「あの、どうして専務が?」
「朝から何度電話しても出なかったから、部屋で倒れている可能性も考えて、上司である俺が来た。熱でもあるのか? 顔も目も真っ赤だな」
「あ、いえ……あの、その」
「どうした?」
心配してわざわざ来てくれた上司に「失恋して、泣きすぎて眠れず寝坊しました」とはとても言えず、凜は口ごもる。
このまま嘘をついて熱があると言ってしまおうか。失恋で落ち込んでいる時に、朝川に怒られてさらなるダメージを食らいたくはない。そんな浅はかな考えが脳裏を過り、凜は自分よりも頭一つ分高い朝川に目を向けた。
「あの……実は」
「それとも、なにかあったのか? 目が腫れてるし、涙の痕がある」
普段の冷ややかな物言いとは違い、労るような声だ。凜は開こうとしていた口を閉じて、唇を噛みしめた。たとえ怒られたとしても、嘘はつくべきではない。
「本当に……申し訳ありません。明日は絶対に休みませんから」
「謝らせたいわけじゃない。そんな弱り切った顔で頭を下げられたら、わかったって言って帰ることもできないだろうが」
朝川はとても機嫌がいいとは言えない表情でガシガシと頭をかいた。凜がなにも話そうとしないから苛立っているのかもしれない。
仕事であれば切り替えができただろう。しかし今の凜は、頭痛に加えて昨夜のショックがまだ抜けきれていなかった。さらには上司にまで迷惑をかけた自分が不甲斐なくて、悔しくて、泣きたくもないのに涙が溢れそうになる。
「とりあえず今は俺を上司だと思わなくていい。仕事のことも忘れろ」
「でも」
上司だと思わなくていいと言われても、上司は上司。明日も顔を合わせるのだ。
失恋で会社を無断欠勤したのだとわかったら、きっと朝川は失望するだろう。異動して一年、自分なりに頑張ってきたつもりだが、それがすべて水の泡になる可能性だってある。
朝川は部下を怒鳴るようなことはしない。けれど呆れはするはずだ。ただでさえ仕事に厳しい朝川に呆れられたら、この先の仕事がやりにくくなるかもしれない。考えれば考えるほど正直に話すのは躊躇われた。
「今日、俺がここに来たことは法務部の全員が知ってる。事情を話してくれないと、うまく誤魔化してやることもできない」
「はい」
「怒っているわけじゃない。事情を聞かせてほしいと言ってるんだ」
いつもと同じ淡々とした口調ではあったが、朝川の声にはどことなく案じるような響きが含まれていた。凜は、恐る恐る顔を上げて向かいに立つ男を見つめる。
失望されようと呆れられようと、もう話すしかない。
「不当廉売? 大丈夫、通報者には朝川専務が連絡してくれたから」
凜が言うと、智也が安堵したように深く息を吐いた。
「よかった~。店舗の責任者は電話では平謝りしてたけど、バレなきゃいいって考えの人も中にはいるからなぁ」
「専務、今度店舗に顔を出すって言ってたよ」
「うわ、マジか! ありがたい! 朝川専務……あの人、やっぱりかっこいいよなぁ」
智也は目をきらきらさせて窓の外を見つめた。
朝川が女性にモテるのは言わずもがなだが、なぜか男性からも人望を集めている。凜には朝川のかっこよさがいまいちよくわからない。顔はいいと思うが、それだけだ。美麗な姉を見慣れているからだろうか。
「そう?」
「凜はそういうの興味ないもんなぁ。あのな、フツメンにとってはああいう男が憧れなわけよ」
「興味……うん……まぁ」
恋愛には興味がある、とは言えなかった。だけど、智也に誰か好きな奴がいるのかと聞かれたら、誤魔化せる自信はない。
智也は朝川に憧れていると言うが、凜にとっては誰よりも隣の彼が特別な存在だ。
「顔だけじゃなくてさ、国立大学法学部卒業! 三十二歳にして専務取締役だぞ? しかも実力で専務までのし上がったあとに、実は社長の息子でしたって! 同じ男から見ても憧れるよ」
朝川が朝川ホールディングスの代表取締役社長の長男であると明かしたのは、実はここ数年のことらしい。
彼の名字や社長と似ている容姿から、社員たちの間でも以前から「もしかして」という空気はあったそうだが、誰も聞けなかったのだとか。
「智也だって、この四月から取引先相談窓口チームの主任になったって聞いたよ? 大躍進でしょ、すごいよ。おめでとう!」
「サンキュー。俺もますます頑張らなきゃな……プロポーズするって決めたんだし」
「え……っ?」
凜は窓の外に向けていた視線を勢いよく真横に走らせた。
まさか、いきなり智也の口から「プロポーズ」という単語が出てくるとは思ってもおらず、動揺のあまり手にしていたアイスミルクティーをごくごくと飲み干す。
「プロポーズ?」
「うん」
まさかと期待が頭をもたげる。いつもは三人なのに、今日に限って話があると、凜だけをこの店に呼びだしたのはなぜか。
もしかして智也の口から続けられるのは「結婚を前提にお付き合いをしてください」なのでは。
(いやいや……先走りすぎだよ。ちょっと落ち着かないと)
凜は空になったグラスをテーブルに戻し、智也に向き直る。
「今日の話って……それ?」
「あ、バレた?」
智也は照れくさそうに頬をかいた。
目が合うと、彼の頬はますます赤く染まる。
「一応、主任って役職手当が付くんだよ。ほら、子どもとかできて、俺一人の稼ぎになってもなんとかなるかなって。だから……」
「そこまで考えてるなんてすごいね」
「当たり前だろ」
たしかに未来設計は大事だ。朝川ホールディングスの産休育休制度は充実しているが、妊娠によって女性の稼ぎが減る期間があるのは間違いない。
智也の凜を見る目にはある種の熱がこもっているように見えた。もしかしたら、本当に自分を好きでいてくれたのだろうか。
(まさか……でも)
恋愛に前向きにはなれなかったが、これを機に一歩前に進めるかもしれない。
智也の次の言葉を心待ちにしてしまう。
きっと違う、そう思っていても期待する心は止められなかった。
「それでさ、相談したかったんだよ。ほら凜、モデルをしてるお姉さんがいるだろ? 女の子が好きそうなレストランとか知ってるかと思って。今度聞いておいてくれないかな。あぁ、あとできればジュエリーショップも教えてほしくて」
「レストラン?」
どうして突然レストランに話が飛ぶのかわからず、凜は首を傾げる。
智也や舞には、姉がモデルとして活躍していると話してある。そのため、店選びで蘭を頼るのはわからないでもない。が、なんのために?
「プロポーズはさ、ちゃんとしたいんだ」
「そっか」
「プロポーズは一生の思い出だろうし。舞に、喜んでもらいたいんだよ」
「舞に……って……」
愕然と呟く凜に、智也は訝しそうな目を向けてくる。
「本人にプロポーズの計画がバレたら、サプライズが水の泡だろ? 今日は、舞には用事があるって言ってあるんだ」
凜は、智也の言葉を頭の中で反芻する。
――結婚するって決めたんだし。
(結婚するって、誰と?)
――本人にプロポーズの計画がバレたら、サプライズが水の泡だろ?
(本人って、誰?)
頭から冷や水を浴びせかけられたような心地がした。あれほど期待してはだめだと自分に言い聞かせていたのに、どうして自分がプロポーズの相手かもしれないなんて思ってしまったのだろう。
(恥ずかしい……っ)
黙り込む凜にようやく気づいたのか、智也が、あ、と声を出し目を瞬かせる。
「そういや凜に言ってなかったか? あ~悪い。舞が、万が一別れたらやりにくくなるからしばらくは内緒に、とか言ってたんだった……別れることなんて絶対ないから平気なのに」
智也はそう言ってクスクスと声を立てて笑った。その顔は幸せに満ちていて、冗談でないことが窺える。
別れることなんて絶対にない、そう言い切れるくらい二人は強固な絆で結ばれているのだ。
(何年経っても学ばないなぁ……だから、期待しちゃだめなのに……っ)
相手が自分でないのなら、今日呼びだされたのも納得ではないか。サプライズを本人の前でバラすわけがないのだから。
自分は、サプライズ計画の幹事役として頼られただけ。
(なんで……気づかなかったんだろう……)
何度も三人で食事に来ていたのに、二人が恋人関係にあるなんてまったく気がつかなかった。同期として仲がいいと思っていたが、実は自分一人だけが蚊帳の外にいたのだ。
「いつから……付き合ってるの?」
「舞が受付からうちのチームに来てからだから、ちょうど一年くらいになるな」
一年も前から。
欲をかくからこうなる。ずっと片思いでいいのではなかったのか。期待していた自分が恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。
過去の失敗から学んだはずだ。片思いで十分だと思うなら、それ以上を求めてはいけない。
最初から決定していた失恋にもかかわらず、胸が苦しくて、遣る瀬なかった。
「そっか……一年も。プロポーズ、喜んでくれるといいね」
「サンキュ」
それだけ言うのが精一杯だった。
声が震えていなかっただろうか。うまく言えただろうか。
(舞も智也も大事な友達なんだから……ちゃんと二人を祝わないと)
一生思い出に残るプロポーズをしたい、智也にとって舞はそういう相手。
舞を羨んでしまう気持ちはあっても、二人には幸せになってほしい。二人が結婚すれば、きっとこの想いもすぐに消えるはずだ。
けれど。
じわりと目に涙が滲む。
今泣いてはいけない、そう思えば思うほど胸が締めつけられるように痛んだ。
「凜? どうかした?」
急に黙り込んだ凜を心配してくれたのか、智也が隣から顔を覗き込んでくる。凜は慌てて手のひらで口元を押さえ、咽せたふりをした。
「……っ、けほ……ちょっと、水が、気管に入っちゃって……っ」
「大丈夫か?」
智也は案じるように凜の背中をぽんぽんと叩いてくれる。
赤くなった目をそっと擦り、平気だと頷く。
胸に手を当てながら深呼吸をしていると、徐々に目に浮かんだ涙が乾いてくる。
二人にこの気持ちを知られるわけにはいかない。だから、平気な顔をしなければ。友人である二人に気を遣われるのも、可哀想だと思われるのもいやだ。
それは昔、片思い相手に「蘭さんを紹介してくれないかな」と言われた時と同様の、ちっぽけな自分の矜持。
「ありがとう……もう大丈夫」
「飲み物頼む?」
「ううん、平気。さっきの話、お姉ちゃんに聞いておくね。頑張って、智也」
必死に笑顔を取り繕ったものの、笑えていたかはわからない。
でも、智也に気づいている様子はないから、おそらく不自然ではなかったはずだ。
「こちらこそ相談に乗ってくれてありがとな。お姉さんによろしく」
これ以上、智也から舞の話を聞くのは辛くて、残っていたサラダを急いで食べた。
智也は自分から話を振るタイプではなく、凜も同じだ。それきり会話が止まり、かちゃかちゃとフォークを動かす音だけが響く。早く店を出て一人になりたかった。
「そろそろ行こうか」
「うん、だね」
凜の皿が空になったタイミングでどちらからともなく帰ろうという雰囲気になり、席を立った。舞がいれば二時間でも三時間でも話は止まらないのに、凜と智也ではたった一時間が限界なのだ。
同期として仲良くなれたのも舞がいたから。
そんなことにも気づけなかった。
悲しくて、情けなくて、しんどい。
重い身体を引きずるように、一人暮らしをしているマンションまでの道を歩いていると、バッグの中に入れたスマートフォンが振動し着信を知らせる。
着信相手の名前を見て、凜は身体を強張らせた。
「舞……」
今の自分が、舞と落ち着いて話せるとは思えない。気がつかなかったことにして、このまま出ないでいようか。スマートフォンを手にしたまま考える。
そのうち着信がぷつりと途切れて、無意識に深く息を吐く。
だが、すぐにまたスマートフォンが振動した。
着信を無視したら、折り返さなければ舞に不審に思われる。ならいっそ、今話してしまった方がいいのではないか。凜は重苦しいため息をつきながら、スマートフォンをタップした。
「はい」
『あ、何度もごめんね。電車だった?』
「うん、今、降りたから。どうしたの?」
思っていたよりもずっと普通の声を出せたことにほっとする。電話なら、落ち込んでいるのも、涙の痕があるのも、気づかれずに済む。
『ん~あのね……もしかして今日、いつもの店で智也と一緒だった?』
「え……」
どう返すべきだろう。
プロポーズの件は当然内緒にしておいてほしいと頼まれている。だが舞は「もしかして」と言いながら、凜と智也が二人でいたと確信しているような口ぶりで話し始めた。
『ご飯行こうって言ったら用事があるって言うから。なにか隠してる感じがして、おかしいなぁって思ったの。智也に電話したら、まだ電車だったし』
「あ、そっか。でも、そんな大した話は」
『あのね……ごめん、凜。ずっと黙ってたけど、私……智也が好きなの。付き合ってるの』
「うん、そうなんだ」
凜は知っているとも知らないとも言えなかった。
ただ、なぜ「ごめん」と謝られたのかわからず困惑する。
『私ね、凜が、智也のこと好きだって知ってた』
「え……」
あまりの衝撃に、息が止まりそうになった。
金縛りに遭ったかのように動けなくなる。
(気づいて、たの……? どうして)
気づかれていたなんて思わなかった。いったいいつから舞は知っていたのか。
知っていて、どうしてなにも言わなかったのだろう。
違う、言えるはずがない。凜は誰にも智也への想いを打ち明けていないのだから。舞は、知らないふりをするしかなかったのだ。
『それなのに……好きになっちゃったの。いっぱい我慢して、凜の好きな人なんだから奪うなんてだめってわかってたのに……どうしても諦められなくて、好きになっちゃった、ごめんなさい』
さっと血の気が引いていく。地面がぐらぐらと揺れている気がして、まともに立っていられず、近くの塀に寄りかかった。
「いつから……知ってたの?」
声は情けなく震えていた。
『何年も前。三人で会ってても、凜が智也ばっかり見てるからすぐ気づいた。でも凜ってそういう恋愛話しないでしょ? だから最初は陰ながら応援したくて、智也と二人で会ったの。さりげなく凜の話題を出したり……智也に好きな人がいないのか聞いたりして。智也も楽しそうだったし、うまくいくかもって思った。でもしばらくしてから、智也に告白されて……断れなかった。断らなきゃって思ったのに、私も智也が好きだって気づいちゃったの』
「そう、なんだ」
『本当に、ごめんね』
「ううん……謝らないで。舞が悪いわけじゃないんだから」
ただ好き合っている二人が恋人になっただけの話。
凜は舞のライバルにさえなっていない。この気持ちを智也どころか友人である舞にさえ話してはいなかった。むしろ申し訳ないと舞に思わせてしまった自分が情けない。
『あのね、凜ちゃん』
舞が凜を「凜ちゃん」と呼ぶ時は甘えたい時だ。わがままだとわかっていて、なにかを頼みたい時。いつもならなんとも思わないその言葉が今はひどく重い。なにを頼まれるのだろうと身構えてしまう自分がいた。
「うん……なに?」
『智也は……私のことすごく好きみたいで……申し訳ないんだけど、凜ちゃんには恋愛感情がないと思うの。だからね、今さらだけど、智也のこと私がもらってもいい?』
智也が凜をなんとも思っていないのは明白だ。友人どころか、舞がいなければ会話すら成り立たない関係だ。だが、わかっていても突き付けられた「恋愛感情がない」という事実に気持ちが塞ぐ。
「もらうって。智也は物じゃないんだから……それに、もう二人は付き合ってるんでしょう?」
『だって、凜から好きな人を奪ったのは本当のことだよ。傷つけるのがわかってたから言えなかったなんて、言い訳だもん。凜が智也を好きなこと、私は知ってたのに』
電話の向こうからぐすっと涙まじりの声が聞こえてくる。
凜が気持ちを隠していたから、舞は智也が自分の恋人だと言いたくても言えなかったのだ。友人として、これ以上舞を困らせてはいけない。
「気を遣わせてごめんね、舞。私は大丈夫だから。二人の幸せを願ってるよ」
大丈夫ではなかったけれど、ほかになにを言えただろう。
私だって好きだった、二人が付き合うのはいやだ、そんな風に言えるくらいなら、最初から告白だってできている。なにも望まないと自分で決めたのだ。
『ありがとう。ねぇ……凜ちゃん』
「うん?」
『私さ、頑張って凜ちゃんが好きになれる人探すから』
「探すって?」
『合コン! 合コンしよう! ね?』
舞の底抜けに明るい声が、今の凜には辛い。
しばらくはそんな気分になれない、と言ったら舞はまた気にするだろう。凜はため息を呑み込み「そうだね」とだけ返事をした。
『ねぇ凜。今度はさ、好きな人ができたらちゃんと自分から告白しなきゃだめだよ。自分から動かなきゃ気持ちも伝わらないよ……ってこんなこと、私に言われたくないと思うんだけどさ』
「ううん、ありがとう。でも恋愛って、私にはハードルが高くて」
『恋愛にハードルなんてないよ。別に顔だけがすべてじゃないんだからさ』
顔だけがすべてではない。それは凜にもわかっている。
ただ凜自身が恋愛に積極的になれないだけで。
きちんと仕事をして金銭的にもそれなりに余裕が出てきた。愛すべき家族もいる。それだけではだめなのだろうか。誰かをひっそりと好きになるだけでそれ以上は望まない。そんな人生ではだめなのだろうか。
『あっ! この間さ、凜のお姉さん雑誌で見たよ。最近テレビにも出てるよね? そりゃあ、あんな美人のお姉さんがいたら自信がなくなっちゃうのはわかるけどさ。ほら、凜は勉強とか得意だし真面目だしさ……そういうの見てくれる人もいると思う』
久しぶりに言われたな、と凜は苦笑する。
昔はよく言われたものだ。「あんなお姉ちゃんがいたら嬉しいけど、隣には立ちたくないよね」「姉妹で比べられるとか可哀想」「顔だけじゃないよ、凜には凜のいいところがあるよ」懐かしさと共に痛みまで思いだして、凜は胸を押さえた。
昔のことなど、ここ最近は思いだしもしなかったのに。社会人になり、同僚や先輩ともそれなりにうまく付き合えていた。蘭と自分を比べる人はいなかったから。
(憧れはあっても、お姉ちゃんや舞を妬んで……卑屈になりたくない)
姉も友人も大事だ。悪感情を抱けば、今度こそ自分を嫌いになってしまいそうで、凜はふつふつと湧き上がる嫉妬心に蓋をする。
必死に声を殺して、震えそうになる肩を己の手で抱き締めた。
すると電話越しにもう一度『凜ちゃん』と呼ぶ声が聞こえた。
「ん?」
『私たち、また友達に戻れる?』
「……うん、もちろんだよ」
凜は苦しい気持ちを胸の内へぎゅうぎゅうと押し込んで、精一杯明るく言った。舞は安心したように、笑い声を漏らす。
『よかったぁ。凜に絶交って言われたらどうしようかと思った。すごくすごく緊張してたから、安心した』
「絶交なんて、思ってないよ」
『うん、ありがとう。じゃあまた三人でご飯行こうね。智也にも言っておくから』
溌剌とした舞の声が、凜の胸に重くのしかかる。
二人とは今まで通り友人でいたい。だが自分は、これから夫婦になる二人を前に、どんな顔をすればいいのだろう。舞に気持ちを知られているのに「おめでとう」と笑って言えるのか。
いや、言わなければならない。二人の幸せを願っていると言ったのは、凜なのだから。
すぐに返事ができなかったのを不審に思ったのか、舞が不安そうな声で聞いてくる。
『凜? やっぱり、いや?』
「ううん! ごめん、ちょうど家に着いたところだったから。またご飯行こうね」
電話を切ったあと、重い身体を引きずるようにして家に帰った。
なにもする気が起きず、服も脱がずにベッドに横になる。
頭の中を埋め尽くす、智也と舞の姿。二人は今頃、仲良く電話をしているのかもしれない。智也が自分に興味を持ってくれていると勘違いするなんて、なんて滑稽なのだろう。
「う……っ」
目尻から流れ落ちた涙が枕に吸い込まれていく。ぼろぼろとこぼれる涙は、拭っても拭ってもなかなか止まらない。
三人で食事に行った時のことを思いだすと、羞恥で消えたくなる。もっと早く気づいていればこんなに苦しまずに済んだのに。
友達でいたい。けれど二人に会ったら、自分の恥ずかしさも思いだしてしまいそうで辛い。
目を瞑って眠ってしまおうと思っても、頭の中に浮かんだ映像はなくならない。スライドショーのように六年分の思い出が幾度となく繰り返し流れていく。
泣きすぎて目が痛くなって、頬がカピカピに乾いた頃、ようやく凜は眠りに落ちた。
「ん……?」
立て続けに響くなにかの音で、急激に凜の意識が浮上する。
部屋中に響く音はインターホンの音だった。こんなに朝っぱらからいったい誰だろう。
凜は額に触れながら、のそのそと起き上がった。次の瞬間、頭に鈍痛が走る。発熱した時のように全身が重い。
「あ……化粧したまま寝ちゃったんだ」
泣きすぎた瞼は腫れぼったいし、ぱりぱりと顔が引き攣っていて不快だ。凜がベッドからよろよろと下りると、何度目かのインターホンが鳴らされた。
「……はい」
凜はインターホン越しに応答する。どうせ宅配便かなにかだろうと思っていると、男性の焦ったような声が聞こえてきた。
『高嶋っ、いるのか? 大丈夫か?』
凜が住んでいるマンションは六畳が二間の1LDKだ。ドアの前で大声を出されると部屋の中まで丸聞こえである。
「あの~」
どちら様ですか、と問いかける前に向こうから応答があった。
『朝川だ』
「あ、朝川……専務っ⁉」
ひえっと跳び上がりそうになりながら、凜は部屋の中がやたらと明るいことにようやく気づいた。そもそもどうして自分はこんなにゆっくりしているのか。
今日は平日、仕事のはずだ。転びそうになりながらも慌てて玄関に向かいつつ時計を見ると、短針はすでに十二を指していた。
(十二時って……嘘っ!)
慌てて玄関のドアを開けると、そこには眉をぎゅっと寄せた朝川専務の姿があった。
「も、申し訳ございません……っ! あの、私、無断欠勤を……」
「何事もなくてとりあえずよかった」
頭が痛いのも忘れて平謝りするが、玄関先で仁王立ちした朝川はほっとしたようにそう返してきた。てっきり怒っているのかと思っていたが、どうやら心配してくれていたらしい。
「あの、どうして専務が?」
「朝から何度電話しても出なかったから、部屋で倒れている可能性も考えて、上司である俺が来た。熱でもあるのか? 顔も目も真っ赤だな」
「あ、いえ……あの、その」
「どうした?」
心配してわざわざ来てくれた上司に「失恋して、泣きすぎて眠れず寝坊しました」とはとても言えず、凜は口ごもる。
このまま嘘をついて熱があると言ってしまおうか。失恋で落ち込んでいる時に、朝川に怒られてさらなるダメージを食らいたくはない。そんな浅はかな考えが脳裏を過り、凜は自分よりも頭一つ分高い朝川に目を向けた。
「あの……実は」
「それとも、なにかあったのか? 目が腫れてるし、涙の痕がある」
普段の冷ややかな物言いとは違い、労るような声だ。凜は開こうとしていた口を閉じて、唇を噛みしめた。たとえ怒られたとしても、嘘はつくべきではない。
「本当に……申し訳ありません。明日は絶対に休みませんから」
「謝らせたいわけじゃない。そんな弱り切った顔で頭を下げられたら、わかったって言って帰ることもできないだろうが」
朝川はとても機嫌がいいとは言えない表情でガシガシと頭をかいた。凜がなにも話そうとしないから苛立っているのかもしれない。
仕事であれば切り替えができただろう。しかし今の凜は、頭痛に加えて昨夜のショックがまだ抜けきれていなかった。さらには上司にまで迷惑をかけた自分が不甲斐なくて、悔しくて、泣きたくもないのに涙が溢れそうになる。
「とりあえず今は俺を上司だと思わなくていい。仕事のことも忘れろ」
「でも」
上司だと思わなくていいと言われても、上司は上司。明日も顔を合わせるのだ。
失恋で会社を無断欠勤したのだとわかったら、きっと朝川は失望するだろう。異動して一年、自分なりに頑張ってきたつもりだが、それがすべて水の泡になる可能性だってある。
朝川は部下を怒鳴るようなことはしない。けれど呆れはするはずだ。ただでさえ仕事に厳しい朝川に呆れられたら、この先の仕事がやりにくくなるかもしれない。考えれば考えるほど正直に話すのは躊躇われた。
「今日、俺がここに来たことは法務部の全員が知ってる。事情を話してくれないと、うまく誤魔化してやることもできない」
「はい」
「怒っているわけじゃない。事情を聞かせてほしいと言ってるんだ」
いつもと同じ淡々とした口調ではあったが、朝川の声にはどことなく案じるような響きが含まれていた。凜は、恐る恐る顔を上げて向かいに立つ男を見つめる。
失望されようと呆れられようと、もう話すしかない。
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