イジワル上司の甘く艶めく求愛

本郷アキ

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1巻

1-3

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 凜が口を開きかけたその時、隣の部屋のドアが開き、年配の女性が出てきた。背の高い朝川をちらちら横目に見ると、気になりますと言いたげに通り過ぎていく。

「すみません、玄関で。とりあえず……中に」

 心配してわざわざ来てくれた上司をいつまでも玄関に立たせておくことはできない。凜は玄関のドアを大きく開き、朝川を中に招いた。

「おい……それ、大丈夫か?」
「はい?」
「あぁ、いや……なんでもない。お邪魔します」

 朝川は片手でひたいおおい、ため息をついた。すでに呆れている様子だ。面倒をかける部下で申し訳ないと、凜はますます肩を落とす。

「どうぞ、かけてください」
「あぁ」

 朝川をリビングに置いてあるローテーブルの前に案内し、クッションに座ってもらう。自分一人で暮らす分には狭さなどまったく感じなかったが、一八〇センチを超える長身の朝川が部屋にいると途端に窮屈きゅうくつに感じた。
 凜はキッチンに立ち、紅茶を淹れるためにケトルで湯を沸かす。棚から出したティーポットとカップのセットは姉からのもらい物だ。蘭は凜の部屋に来るたびにあれやこれやといじり模様替えをするため、部屋の中はほとんど姉の趣味で統一されている。
 凜にとっては悩まなくていいうえに、楽なのでいろいろと姉任せにしてしまっていた。自分好みで作ったスペースは本棚の一角くらいだろうか。

(そういえば……私、寝起きだ)

 鏡を見ていないが、髪はボサボサだろうし化粧は完全に崩れているはず。朝川に背を向けたタイミングで髪をさっと整えた。昨日から着ているシャツはしわだらけだが、これはもうどうにもならない。
 朝川に背を向けている間に、気持ちを静めて冷静になろう。忙しい人にわざわざ家まで来させたのだ、きちんと説明しなければ。
 凜は、ぽこぽこと音を立てるケトルから沸騰した湯をティーポットにそそぎ入れて、テーブルへと運んだ。


     * * *


 朝川は部屋に足を踏み入れると、凜の案内でダイニングにあるローテーブルの前に腰を下ろした。リビングダイニングとキッチンは仕切られておらず、二部屋の造りのようだ。
 生真面目な彼女らしい、掃除が行き届いた清潔感のある部屋だ。本棚には法務関係の本が並べられ、普段から手に取っているのか読み込まれているのがわかる。
 リビングの中央にあるのは大理石柄のシンプルなローテーブル。全体的に白を基調としたデザインで統一されているが、ラグやクッションは可愛い柄だ。派手さはないもののセンスの高さが伺える。楚々そそとした印象の彼女によく合っているように思えた。

(前髪で顔が隠れているから地味な印象はあるが、実はけっこう綺麗な顔をしてるんだよな)

 朝川はいつも座ったまま凜の話を聞いている。下からだと彼女の顔がよく見えた。
 目立つタイプではないだろうが、白くきめ細かい肌をしているし、アーモンド型のぱっちりした二重ふたえの目は長いまつげで縁取られている。
 腰も細く高い位置にあり、いつも肩を丸めているから自信なさげな印象ばかりが目につくが、きちんと整えればかなりスタイルのいい美人になるように思えた。
 キッチンに立つ彼女は、昨日と同じ格好をしていた。ブラウスやスカートはしわだらけだ。朝、着替えたというわけではないだろう。
 いつもきっちりと結ばれている髪は下ろされていて、寝癖なのか毛先がねていた。
 朝川に背を向けてお茶の準備をしている背中からは、ある種の緊張が伝わってくる。
 このあと叱られるのではと身構えているに違いない。
 大した理由もなく無断欠勤したのであれば叱るつもりだったのだが、涙に濡れ、真っ赤にれた凜の顔を見れば、なにかあったのは明らかで。さすがに理由も聞かずに叱責しっせきはできなかった。

「すみません。お待たせしました。紅茶でいいですか?」

 趣味のいいティーカップがテーブルに置かれる。
 凜の分は牛乳を足したミルクティーのようだ。

「悪いな。そんなに気を遣わなくていいから、とりあえず座れ」
「は、はい」

 朝川が言うと、凜は少し距離をけて斜め向かいに座った。自分の部屋なのに正座で身をすくませている様子は、見ていて可哀想になるほどだ。
 朝川は、彼女を部下として気に入っていた。
 仕事に関していえば、絵に描いたように真面目で、学ぶ楽しさを知っていて貪欲。接していてわかるのは、教えれば教えただけ吸収するタイプだということ。意欲のある部下に対して評価が高くなるのは当然だ。ただ、そのせいで指導がより厳しくなっているのもいなめない。
 高圧的に接しているつもりはなくとも、凜が自分を苦手としているのは感じていた。
 他人――特に女性に対して冷たい自覚はある。物言いは柔らかいとは言いがたく、誰ともプライベートな会話はいっさいしない。だから、冷たい、怖いと思われるのには慣れている。
 朝川は、自分がどれだけ女性の目を引くか理解している。ゆえに、下手へたに優しくして勘違いされるのが面倒で、期待を持たせるような振る舞いはしないと決めていた。
 女性の告白を断ると、どうしてもだめか、好きな人がいるのかと執拗しつように問い詰められる。
 こちらが『好きな相手がいなければ君と付き合わなきゃいけないのか』そう聞き返すと『ひどい』と泣く。女の涙が一種の武器であることはよくわかっていた。女性に泣かれると男はなにもできなくなる。本気で勘弁してほしい。
 ほかにも理由はあるが、とにかく朝川は女の涙というものを信用していなかった。
 だから玄関先で凜の泣き顔を見た時に感じたのは、苛立ちだった。一晩中泣きましたと言わんばかりの顔、見てわかるほどにぼろぼろの格好。
 自分は傷ついている、なぐさめてほしいと言われているようで、うんざりした。だが、一応上司として心配していたのも本当だ。
 彼女が受付にいた頃から、その勤務評価はかなりいい。常に始業五分前には席に着いているという生真面目さ。出会った頃と変わらない優秀さ。朝川を相手に女を武器にしてこないところも好ましく思っていた。
 多少強く注意をしてもへこたれない根性があるし、必死に学び取ろうという姿勢もある。普段の彼女はプライベートの問題を仕事に持ち込むタイプではないはずだ。
 朝川の斜め向かいに座った凜が、恐る恐る顔を上げた。先ほどの話の続きをどう切りだそうか迷っているのだろう。さっさと話を終わらせるため、こちらから切りだした。

「昨夜……帰る前まではいつもと変わらなかったな。会社を出てから今朝までの間に、なにかあったのか?」

 朝川の問いに、凜がびくりと肩を揺らし目を泳がせる。
 昨日の帰りまでは特になにもなかったことは間違いない。むしろどこか浮かれている様子だった。そこでふと、昨日の午前中、彼女が取引先相談窓口チームからの内線で個人的な用件を話していたのを思いだす。おそらく食事の約束かなにかだろう。

(その相手となにかあったのか?)

 仕事中の彼女を知っているだけに、多少は同情心が芽生える。
 本当に同一人物かと疑いたくなるほど今日の凜は弱り切っていた。れて真っ赤になった目元、うるんだ瞳、おそらく何度も擦ってしまったのか、目の下の薄い皮膚まで赤くなってしまっている。

「本当に……くだらないこと、なんです」
「お前にとってはくだらなくないんだろ? だから、そんなに目がれるまで泣いたし、朝いつもの時間に起きられなかった」

 朝川の言葉が正解だとでもいうように、凜の瞳が揺れる。目の縁には涙が溜まり、まばたきをすると落ちてしまいそうだ。
 もともとほっそりしている肩がより小さく見える。思わず守ってやりたくなるほどに。

(守ってやるって……なんだよ。そういう弱い女は、嫌いだったはずだろう)

 泣いた女をなぐさめる。そんなことは面倒でしかない。
 勘違いされセクハラなどと言われたら、専務という立場だって危うくなる。それを考えると心底嫌気がさす。

「さぼったとか、思わないんですか?」

 凜が驚きつつも掠れた声で口を開いた。自分でも声がおかしいと思ったのか、ミルクティーを一口含む。同じタイミングで朝川もティーカップを傾けた。

「お前が真面目に仕事に取り組んでるのはわかってる。普段からさぼるような奴だったら、わざわざ心配して見に来ない。うちの部署の連中が、電話にも出ないなんておかしいから見に行った方がいいって言ったんだぞ。それだけ信用されていることがわからないのか?」

 その言葉が胸を突いたのか、凜の目がさらにうるんでくる。かけた言葉に嘘はない。部下が彼女を心配するのは、それだけの信用があるからだ。
 ただ、なぐさめて泣かれると、思いっきりため息をつきたくなる。

「あの、実は昨夜……」

 凜は観念した様子で昨夜の出来事をぽつぽつと話しだした。
 どうやら彼女は、長く片思いしていた相手に失恋したらしい。片思いの相手にはすでに結婚を考えている恋人がいたのに、話の流れでそれを自分だと勘違いしてしまった。
 たったそれだけのこと。
 自分にも過去それなりに恋人はいた。だが、たかが恋愛に心を揺らす人の気持ちがまったくわからない。朝川は恋愛感情で感極まって泣く女が一番嫌いだった。泣いている女の相手をするくらいなら、さっさと別れて次にいきたいと思うくらいには。
 いつもの朝川なら「失恋ごときで仕事をさぼるな」と言っていただろう。実際、同じ部署の女性から告白された翌日、そう言った覚えがある。
 上司として注意の一つはするべきところなのに、見てわかるほどに憔悴しょうすいし、無断欠勤をしてしまった自分自身を責めている彼女への苦言が出てこなかった。自分にも一応、人に同情する気持ちがあったらしい。

「勝手に期待して舞い上がっちゃって……それがすごく恥ずかしくて」

 なにかを思いだしたのか、ますます凜の目がうるみ、ついに涙が頬を流れ落ちた。切なげに顔をゆがめて誰かを思って泣く凜の姿を見て、朝川は息を呑む。
 どうしてだろう。
 泣いている女の顔を綺麗だなんて、今まで思ったことはなかったのに。
 凜は泣いてしまったことを恥じらうように、手の甲で頬を擦りながらうつむいてしまう。肩は震えているのに、泣き声は聞こえない。
 我慢せず思うままに泣いた方が楽だろうに、必死にこらえている。その姿がいじらしくて、綺麗で、なぜか〝泣かせてやりたい〟と感じた。

(泣かせたいって……おかしいだろう)

 泣いている女を見て喜ぶような、そんなおかしな性癖はないはずだ。泣いて同情を買うような女には嫌悪感すらある。
 ただ、一瞬だけ見た凜の表情が、頭の中にこびりついて離れない。
 うつむいている顔を上げて、声を上げて泣いてほしい。
 こくりと喉が鳴り、細い身体をかきいだきたくなる衝動を必死に抑え込む。だが、凜を女性として意識することは止められなかった。

(泣いている顔が、見たい)

 部下に手を出すなんて面倒でしかない。部下として気に入っていた、ただそれだけのはずなのに。
 すでに下心込みで凜を見ている自分がいた。

「だめだ。あまり擦るな」

 気づいた時には声を発し、凜の手を取っていた。
 涙に濡れた頬をそっと撫でて上向かせると、驚きに目を見開いた凜の顔がある。そうだ、確かめるだけ。もう一度だけ彼女の顔を見て、やはり自分の感情は間違いだったと決着をつければいい。そう思ったのに。
 目をうるませ朝川を見上げる凜の顔は、とても綺麗とは言いがたい。それなのに目が離せなかった。不覚にも見蕩れてしまったのだ。その時の衝撃といったらなかった。

「朝川専務……?」

 すでに引き返せない。
 無事かどうかを確認したら、明日は来いと言って帰るつもりだったが、あらがいがたい欲求が次から次へと湧きでてくる。触れたい、撫でたい、もっと泣かせてやりたい。
 彼女の涙のあとが残った頬やうるんだ目を見ていると、覚えのある身体の熱にむしばまれそうになる。
 上司として案じる気持ちよりよほど強い欲求に支配されそうだ。凜をなぐさめて、抱き締めたい。自分だけの女にしたい。

(……もともと雄には狩猟本能が備わってる、なんて言うが)

 彼女が自分に興味がないとわかっているからか、ほかの男ではなく自分を見てほしい。こちらを振り向かせたい。そんな欲求に駆られる。
 たやすく手に入りそうにないからなのか、それとも単純に溜まっていてやりたいだけなのか。ただ、強く〝欲しい〟と感じた。

「かなりれてるから。これ以上擦らない方がいい」

 ほかの男を想って泣くくらいなら、自分を想って泣けばいい。
 自分ならその男を忘れさせてやるのに。傲慢な考えだとわかっていても、朝川は一度欲したものをそう簡単に諦められる性分ではなかった。

「すみませ……っ、私、顔……ひどいですよね」

 凜は無理に笑おうとして失敗したような表情で朝川を見る。

「いや、綺麗だよ」

 弱り切っているのに気丈に振る舞おうとする凜は、はかなげで綺麗だった。
 凜は驚いた顔をするものの、朝川の言葉をお世辞だと思ったのか、まばたきを一つして続きを話しだした。

「どうして……気づかなかったんだろう、って」
「気づかなかったことが、ショックだったのか?」

 朝川が聞くと、凜はそれを否定して、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。

「それも、ありますけど……舞が……友人が、私の気持ちに気づいてたって聞いて」

 もともと仲が良かったらしく、三人で食事に行っていたという。その二人が付き合い始めても、関係は変わらなかったそうだ。
 朝川は引っかかりを覚えて眉を寄せる。考え事をする時に、いかつい顔をしてしまうのは癖のようなものだった。

「気づいてたのか? 相手の女が?」

 朝川が聞き返すと、凜は頷いた。

「はい、昨日……電話があって」
「その女は、お前の気持ちを知っていたのに、恋人との食事に誘っていたのか?」

 まるで見せつけるみたいに?
 それは友人の行動としていかがなものか。
 なぜ凜が不思議に思わないのか、朝川には疑問だった。

「舞はたぶん、私の気持ちを知ってたから気を遣ってくれたんだと思います。最初は、告白もできない私のために協力してくれるつもりだったみたいで……智也に告白されて、断ろうとしたけど好きになっちゃったって、昨日電話がありました、ごめんねって。舞が謝ることじゃないのに」

 それが本当だとしたら、凜はただ当てつけられただけではないか。
 朝川には、舞というその女の行動がわざとらしく思える。
 どうして凜は気づかないのか。ごめんねと言葉をかけ下手したてに出ながらも、おとしめられているのだと。いかにその男に自分が愛されているか、ただ知らしめたかっただけではないか。
 現に一年もの間、二人は隠れて付き合っていたと聞く。男の方に隠すつもりはなかったとしても、女にはなにか思惑があるような気がしてならなかった。
 自分がかたよった見方をしているだけかもしれないが、世の中にはそういうしたたかな女が一定数いると朝川は知っている。

「いい性格してるな、その女」
「え……?」

 ため息まじりに呟いた言葉は凜の耳に届かなかったらしい。気づいていないならそれでいい。
 憔悴しょうすいしきったところに追い打ちをかける必要はないだろう。

「なんでもない。で、このあと、お前はどうしたいんだ?」
「笑って……二人におめでとうって言いたい、です。いえ……言わなきゃ。それに舞が、私に合う人を探すからって張り切ってましたし」
「お前はそれでいいのか?」

 凜はよくわからなかったのか、首を傾げながらも小さく頷いた。

「私のせいで二人がギクシャクするのはいやですし……舞には知られちゃいましたけど、会社で顔を合わせますし、やっぱり、友人ではいたいので」

 凜は涙に濡れた目を上向けながら、はかなげに微笑んだ。
 自分を傷つける相手を友人とは言わないだろう。朝川はもどかしく思いながら言葉を呑み込んだ。二人に対して恨めしい気持ちをいだいていてもおかしくない。だが彼女は、それよりも友人関係にヒビが入るのを恐れている。
 その証拠に、凜は片思いをしていた男にも、裏切っていた女にも微塵みじんの怒りも感じていない。
 切なそうな表情が痛々しかった。こんなに弱り切った姿を男に見せる意味を、彼女はわかっているのだろうか。わかっていないに違いない。
 いくら直属の上司とはいえ、一人暮らしの部屋で男と二人きり。これが朝川を誘惑するための手だったら感服するが、おそらく違う。朝川に取り入ろうとするようなあざとさが凜からはまったく感じられない。
 朝川がこの状況においてなにかするとは少しも考えていない。上司としては信用されているのだろうが、男として見られていないのと同義である。

「結婚間近で幸せな二人を見るのは辛くないか?」
「少しは。でも私、誰かとお付き合いしたことがなくて。昔から失恋が当たり前なんです。今回は六年近く好きだった相手で、ちょっとショックが大きかっただけで」

 彼女はなにもかもを諦めた様子でそう言った。

「誰とも? そんなわけないだろう」

 おとなしそうな外見ではあるものの、彼女がモテないとは決して思わない。自信なさげなところは気になっていたが、仕事の時は打てば響くし、物言いもはっきりしている。
 今まで誰にも声をかけられなかったなどとは信じられなかった。それに、失恋が当たり前というのもどういう意味だろう。
 だが凜は、朝川の言葉に視線を下に向けてふるふると首を横に振った。事情を聞くにもこれ以上は踏み込みすぎな気がして迷う。すると凜が小さな声で呟いた。

「怖いんです。片思いなら、想うだけですからいいんですけど。私、男性を信じられなくて……」
「信じられない? どうして?」

 朝川が聞くと、凜ははっと我に返り口をつぐんだ。おそらくしゃべりすぎたと思ったのだろう。

「いえ……これでも私、二人には幸せになってほしいって思ってるんですよ。舞みたいに可愛くて愛嬌あいきょうのある子を智也が好きになるのは当然です。私も、彼女のことが大好きですから」

 凜の声からは、嫉妬心やぎすぎすした感情は伝わってこなかった。本心からその女を好いているのだろう。それなのに凜は切なそうな表情を浮かべている。
 過去を思いだしているのか、遠くを見る凜の瞳に朝川は映っていなかった。無理して笑おうとする表情は痛々しくてならない。その表情に強烈な引力で惹きつけられるのを自覚した。
 部下の頬に触れるだけでも朝川からしたらアウトである。もう事情は聞いた。体調不良ということにしておいてやるから明日は来いと、それだけ言って会社に戻ればいい。
 だが一度ラインを超えた感情は、簡単には戻れなかった。
 気づくと朝川は、凜の細い身体を引き寄せていた。自分の腕の中で凜が身動みじろぎ、戸惑っている様子が伝わってくる。

「朝川、専務……あの?」
「泣きたいなら泣けばいい。無理して笑うことはない」

 胸の中に小さく収まる凜は、もぞもぞと居心地悪そうにしていたが拒絶はされていない。悲鳴を上げられたらどう弁解しようかと、頭の中で冷静に考えている自分がいた。
 朝川は胸を撫で下ろしながら、凜の顔が見えるくらいまで腕の力を緩める。

「え……?」

 凜は不安そうな顔で朝川を仰ぎ見る。

(可愛いな、ふっくらとれた唇も、赤く染まった頬も、丸くて綺麗な目元も。内側を全部暴いたらどんな反応をするだろうか)

 気持ち良すぎて泣く凜の表情を想像してしまい、下半身からぞくぞくした甘いしびれが湧き上がってくる。
 このままではまずい。凜と密着した身体が熱を持ち、たかぶり始める。

「無理、してるように見えますか?」

 そんな朝川の心の機微にも身体の反応にも、凜はまったく気づく様子がない。むしろあっぱれなほど、男から愛された経験がないのだろう。

「自覚がないのか。俺には相当無理をしているように見える。一人で泣くより、誰かに聞いてもらった方が楽になるだろ」

 朝川は呆れまじりに小さく笑う。すると凜はあからさまに「この人笑うんだ」という顔で驚いていた。仕事中には見せないあどけない様子が可愛くてたまらない。

「ここには俺しかいないんだから、そんな顔して一人で泣くくらいなら、胸くらい貸してやる。ほら、泣け」
「ほら泣けと、言われましても」

 凜は心底困り果てた表情で朝川を見る。

「大丈夫だ。泣けるから」

 ぐいっと強く頭を引き寄せると、胸に小さな顔が埋まった。気づかれないように髪に唇を寄せる。背中をそっと撫でて「泣いていいんだ」と何度も伝える。

「我慢してると辛いだろ? 愚痴ぐらい言え。その女を悪く言ったところで誰も聞いてないんだから、いい子でいる必要もないだろう。お前の方がずっといい女なのに、もったいない」
「専務は……舞のこと知らないじゃないですか……」
「知らなくてもわかる。俺は、お前ほどいい女に今まで会ったことないよ」
「う、嘘ですよ」

 会話をしながらなだめるように小さい背中を叩いていると、次第に彼女の声が震えてくる。
 強張こわばっていた身体から力が抜けて、胸元に凜の重みを感じる。

「俺は、嘘をつかない。信じられないか?」
「そうやって泣かせようとするのは、ずるいです……っ、普段は、鬼上司なのにっ」

 本心ではそう思っていたのか。鬼上司かよと思わず笑いそうになりながら、朝川は凜の背中を軽く叩き続けた。反対側の手で髪をく。思っていた通り、柔らかくて触り心地がよかった。

「ふ……ぇっ」

 声を上げて泣くのをずっと我慢していたのかもしれない。泣きじゃくる姿はまるで子どもみたいだった。

「うわぁぁん!」

 朝川は笑いそうになりながらも、凜の髪を撫でるのをやめなかった。

(うわぁぁんって……)

 どうしてこんなに凜に惹かれるのだろう。どうして彼女が相手だと、うとましく思っていた女の泣き顔を可愛いと感じるのだろう。
 彼女に優しくしてやりたい。笑わせてやりたい。そして、どうせなら自分のために泣いてほしいという感情がふつふつと湧き上がってくる。
 凜は肩を震わせて、自分からぐりぐりと胸に顔をうずめてくる。肩を引き寄せ強く抱き締めると、凜の腕がおずおずと背中に回された。すがりつくようにして彼女は泣き続ける。
 柔らかな髪に朝川は遠慮なく鼻をうずめた。フローラルの自然な香りが心地いい。香りまで好みだなんて、これはもうあらがえない。

「好きなだけ泣けばいい」

 優しい言葉をかけて背中を撫でてやると、よけいに涙が止まらなくなるものらしい。凜の目に涙がさらににじみ、頬を伝う。
 それからどれくらいの時間が経ったのか、凜の泣き声が徐々に小さく、しゃくり上げるようになっていく。
 泣くのも疲れるはずだ。浅かった凜の呼吸が、深くゆっくりとしたものに変わっていった。

(まさか、寝たんじゃないだろうな)

 そう思ったが、凜の目はしっかりと開けられていた。胸元に埋もれている顔は真っ赤で、まつげに涙のしずくが光っている。
 腕の中でもぞもぞと居心地悪そうに動いているのは、今さら恥ずかしくなって動揺しているからかもしれない。そんなところも可愛くて、朝川は口元が緩むのが抑えられない。

「高嶋、顔上げて」
「か、お……?」

 泣き顔を見られるのがいやだったのだろう。凜は手の甲で顔を拭おうとした。それを止めて、ほっそりしたあごに手をかける。あごを持ち上げ強引に上向かせると、決まりが悪いのか凜の目がすっと逸らされた。

「なに、するんですか。今、顔……ひどいのに」

 長い前髪を横に流す。たしかにファンデーションが涙で落ち、目の周りを真っ赤にらした今の顔はひどいものだ。それでも彼女への愛しさは変わらなかった。
 自分が気に入ったのは、彼女の外見の美醜びしゅうではなくその内面なのかもしれない。普段は決して見せないであろう弱い部分に心惹かれたのだろう。

(いや、でもやっぱり顔も好きだな)

 好きだ、と断言している自分に驚く。が、不思議と否定する気にはならなかった。
 ファンデーションで顔がドロドロになっていようと、目がどれだけれていようと、なぜか可愛いと感じるのだ。

「おまじないしてやるよ」
「おまじない?」
「あぁ、次にその男に会う時、お前が笑っていられるように」

 凜は朝川の顔が近づいても微動だにしなかった。驚いて動けない、といった方がいいか。真っ赤な目を丸くさせて、その目に朝川だけを映している。

(俺のことしか、考えられないようにしてやりたい)

 ひたいに軽く口づけて、名残なごり惜しさを気取られないようにすぐに離れた。
 いずれ、絶対手に入れる。部下に手を出す以上、覚悟を決めるしかない。


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