1 / 17
1巻
1-1
しおりを挟む
第一章
紗絵は、今年も花見をしないまま桜の季節が終わりそうだな、と物悲しい思いで、ガラスの向こうの街路樹をデスクからぼんやりと眺めていた。
すると突然、上司である槌谷明司の鋭い声がオフィスに響き渡る。
「本田、この図面、全部作り直せ」
明司は偉そうに椅子にふんぞり返り、腕を組みながら顎をしゃくった。
「えっ!?」
紗絵は慌てて立ち上がり足を踏み出す。その拍子に、椅子に膝を強くぶつけてしまい、じんと響くような痛みが走った。
「いったぁっ!」
思わず足を押さえて蹲った途端、椅子ががたんと大きな音を立てる。なにかが背もたれに引っかかったのかもしれない。
「わっ、やば」
紗絵は慌てて椅子を支えてほっと息をつく。
「あ~びっくりした」
すると、即座に「やかましい」と、明司の大きな声がした。そっちの方がよほどやかましいのでは、と心の中でだけ難癖をつけて、立ち上がった。
肩の下まで伸びた茶色の髪が唇にぺたりと貼りつく。それを手櫛で整えて、椅子を元の位置に戻した。
「お前な……もうちょっと落ち着けないのか? あっちにまで聞こえるだろうが」
明司は応接室にちらりと目を向けてから紗絵を睨んだ。応接室ではクライアントとの打ち合わせが行われている。
「うるさくしてすみません……で、あの、作り直しって?」
紗絵は呆れた顔をする明司の前に立ち、前のめりにデスクに手を突いた。
この春で、紗絵が槌谷住宅で働いて丸六年になる。社長である明司とのこういったやりとりは日常茶飯事であった。
「そのままだ。間違ってる」
明司はデスクの上に置かれた図面をとんと人差し指で突いた。その仕草にイラッとしたものが込み上げてくる。
「どこですか?」
提出する前に数値は何度も確認したはずだ。間違いがないことも確認している。
「一箇所な。ここ。お前、コピペしただろ」
彼が指差した先には、ほかの図面からコピーした数値がそのまま残っていた。この案件はそれと使用する断熱材の厚さが違うのに、変更するのを忘れていたらしい。思わず、うわっと声が出そうになるのをなんとかこらえて、頭を下げた。
「ほんとだ! すみませんっ!」
「チェックお願いしますって持ってきた時の、あの自信満々な顔はいったいなんだったんだ」
「何度もチェックしたので、間違いないはずだと思って」
「本田は思い込みが激し過ぎる。間違いないはずだ、って何度目だ?」
「はい……」
「数字だけを見てるからこういう間違いが起きる。このまま出してもクライアントは気づかないだろうが、もしもこれが現場で反映されたらどうなる? コストは大幅にアップし、さらに要求性能を満たせていないから工事のやり直しだ。どれだけの損失が出るか考えろ。トイレの便器にドアが当たって開きませんけど、契約書にサインしたのはそちらですよね? とでも言うつもりか?」
「申し訳ありませんっ」
そんなこと言われなくてももちろんわかっている。ミスをしたのは自分で、悪いのも自分だ。
明司の言う通り、紗絵の作成した図面では断熱材の厚さが間違っているせいでトイレの面積が変わってしまい、そのまま作るとドアが便器に当たってしまっていた。
もしもミスに気づかないでいたらと考えると、顔から血の気が引く思いがする。
「お前のうっかりミスでこんな家を造られたクライアントはたまったもんじゃない。こういう単純なミスほど気づかないものなんだ。慣れてきたからって自分を過信するな。間違いないはずだと思うな。絶対にミスはあると思ってチェックしろ。お前は学生時代にもう少し寸法感覚を学んでおくべきだったな。ちゃんと卒業したのか?」
やれやれとバカにするように鼻で笑われ、返す言葉もない。
(そこまで言うっ!? 腹立つ~!)
紗絵は、口元を引き攣らせながらすごすごと自席に戻った。
紗絵が働く槌谷住宅は、明司の父親が社長を務める槌谷建設の子会社だ。
槌谷建設は高層マンションや大型商業施設などを手がける大手建設会社だが、その子会社である槌谷住宅は、自由設計を売りとして主に個人向けの住宅や中規模のマンション、店舗の設計を手がけている。
オフィス街の一角にそびえ立つ槌谷建設の目と鼻の先にあるビルの一階と二階が事務所となっており、社員数は二十名ほどと少ない。
槌谷建設は大手だが、子会社である槌谷住宅は設立してまだ六年の若い会社だ。一級建築士で、さらに有名な建築家でもある明司のネームバリューのおかげで客は引きも切らないが、実績はまだ十分とは言えないだろう。
紗絵は大学卒業後、槌谷建設に就職し、現在は槌谷住宅に出向という形で働いている。
設計士として明司のサポートをしているが、クライアントの資金計画の相談に乗るのはもちろん、現地調査をしたり、建築確認申請のために役所を訪れたり、時には土地探しも行う。設計士という名のなんでも屋で、日々、明司にこき使われていた。
動き回る日も多く仕事は膨大で、疲れて食事もとらずに寝てしまうことも多々あり、太る暇もないくらい忙しい。
とはいえ、社長である明司は紗絵以上に忙しい。設計担当としてクライアントとの打ち合わせにも参加するし、図面の最終チェックは必ず明司が行っている。
(初めて会った時は、あの槌谷明司と仕事ができるって浮かれてたし、そのイケメンっぷりに見蕩れちゃったけど、翌日には後悔することになるって、あの頃の私に教えてあげたい)
紗絵は自分への情けなさに対するため息を呑み込んで、デスクにいる明司に視線を向けた。
年齢は、二十八歳の紗絵よりも三つ上の三十一歳。誕生日は一月。身長は百八十。家族構成は両親と明司の三人。槌谷建設社長の息子というハイスペックなエリートである。
さらに言えば、見た目も抜群に良かった。
真っ直ぐで豊かな黒髪から覗く男らしく太い眉に、鋭く細められた目。どこか日本人離れした彫りの深い顔立ちは、見るものをハッとさせるほど整っている。
手足の長さ、バランスのいい体躯、凜々しい立ち姿を含めて、悔しいことに見た目には欠点と言える部分が一つもない。
気品のある立ち居振る舞いや、彼の立場を考えても、女性から引く手数多であることは間違いない。
(それなのに性格がこんななんて、残念過ぎる)
大学時代から明司のファンだった紗絵の頭には、彼の詳細なプロフィールがインプットされている。
性格がどうだろうと、彼の建築家としての腕は最高だ。しかし、もう少し優しい性格ならばと考えてしまうのは致し方ないことだろう。
(建築家としてたまにテレビに出てるから、社長目当ての冷やかし客がけっこう来るし、モテないわけがないんだよね。でも、恋人にも『君は情緒というものをもう少し学んでおくべきだったな。幼稚園は卒園したのか?』とか言ってそう。どれだけイケメンでも、社長とプライベートでまで付き合うなんて私は絶対やだな)
紗絵は自分の想像で噴きだしそうになるのをなんとかこらえ、隠すように口元に手を当てた。こんなところを見られたら、また嫌味の百や二百が飛んでくる。
(ま、社長に恋人がいてもいなくても、私には関係ないんだけどね)
ただ、これまで幾人の女性を虜にしてきたのだろうと考えると、あまりお近づきにはなりたくない。明司ほどの男が自分を恋愛対象とするわけがないとわかっていても、恋愛経験が少ないなりに自分の中にある警戒心が、この男に近づいたら危ないぞと信号を発している気がするのだ。
(私に恋愛する暇がないのも、社長のせいだけどっ!)
明司に近づく予定もないし、厳し過ぎるこの上司に恋愛感情を抱く予定もないが、なんだか悔しくはある。いろいろなところでモテモテの明司と違って、紗絵には出会いも出会いを作る時間もないのが現状だ。
(でも、『ずっと住み続けられる家』は、本当に……本当に素敵だったのに! あれを造ったのがこの鬼上司だなんて!)
紗絵は大学時代、建築学科に在籍していた。
そしていつかは一級建築士になる夢を抱いていたのだが、明司との出会いで自分がいかに凡人かを思い知ることとなったのだ。
それは、紗絵が建築デザインの国際コンペに挑戦した時のこと。
建築部門のテーマはサスティナビリティー。時代に合ったテーマだと意気込み、会心の作品で勝負にでたつもりだった。
ここで賞を取ったとしても華々しく建築家デビューなんてできる業界ではないけれど、就職に有利になるだろうし箔がつくと思っていた。
けれど結果は惨敗。佳作にさえかすりもしなかった。
最優秀作品賞は、紗絵と同じ大学生の『ずっと住み続けられる家』という模型だった。なんの捻りもない普通のタイトルだな、と鼻で笑ったのは、粉々になった自分の矜持をなんとか保つためだ。
国際コンペとはいえ、応募は学生が中心。海外の受賞作品はインターネットで閲覧が可能で、国内の受賞者は小さな会場で授賞式と展示が行われた。
どんな作品が最優秀賞に選ばれたのかと会場に足を運んだ時、一目でその作品に心を鷲掴みにされた。
どれだけ自分が手を伸ばしても届かない才能があると思い知った。悔しかった。どうして自分が選ばれなかったのかわかってしまったから。嫉妬の感情が芽生えたけれど、それ以上に槌谷明司という男の才能に惚れて、憧れてしまった。
友人や先輩、講師にも褒められうぬぼれていた紗絵の作品は、賞を取るためのものだった。優れたデザインの模型ではあっても、それだけだった。そこに誰が住んでどういう生活を送るかなんて、まったく頭になかったのだ。
でも彼の作品は違った。きちんとそこに人が存在し、まるで生活をしているみたいだった。
全身に鳥肌が立つような感動を覚えて、紗絵はしばらくその場から動くことができなかった。
実際に彼の造った家を見たいと思ったし、その家に住みたいと思った。だから彼を追いかけて、槌谷建設を就職先に選んだのだ。
明司はその後、二十代の若さで一級建築士の資格を得て、とある美術館の設計を担当した。
それが瞬く間に評価され、最年少で建築を通じて環境に貢献した人に与えられる権威ある建築賞を受賞するに至った。
建築家、槌谷明司の名前はこの業界にいれば必ず一度は耳にする。初めて本人に会えた時、紗絵がどれだけ興奮し嬉しかったか。もちろん今もその気持ちに変わりはないし、彼への尊敬の念も失せていない。だが――
(社長を追いかけてきたことは後悔してない……してないけど、チクチク、チクチク重箱の隅を突いて楽しむようなドSだとは思わなかった! いや、ミスした私が悪いってわかってるよ! 正論だともわかってるけど! 言い方ってあるでしょ!)
デスクの前で拳を握りしめていると、背後から紙の束をどさりと手渡された。
「ついでにこっちの別件も修正。クライアントは建築知識に関して素人だと念頭に置いておけと言っただろう。なんでもかんでも要望に応えようとしてどうする。無茶を聞いて困るのはお前じゃない。これから先、その家に住む人だ」
「はい……」
デスクの上には、修正するための図面が束となって置かれていた。パソコンの画面が半分ほど隠れてしまっている。自分の失敗のせいで明司の仕事まで増やしていると思うと、よけいに悔しい。
「過去事例集に目を通したら、これがあり得ない図面だってわかるはずだ。ってことでやり直し、全部、今すぐ」
紗絵は肩を落としながらデスクの上にある紙の束を自分の方へそっと引き寄せ、がっくりと項垂れた。胸の内で盛大に彼を罵倒し誤魔化しているが、本当は誰より不甲斐ない自分に腹が立っている。紗絵は滲みそうになる涙をこらえ拳を握りしめた。
憧れていた槌谷明司はたしかに才能の塊だった。尊敬する人の仕事を間近で見られる。一緒に仕事ができるなんて夢のようだと入社当時は喜んだ。
ただ、あの頃の紗絵は知らなかった。明司がこんなドS鬼上司だったなんて。
仕事が厳し過ぎて本気泣きしそうになったことも、高く積み上がっていく終わりの見えない仕事に心が折れそうになったことも数知れず。
(まぁ、一番仕事を抱えて最高の結果を出す人だから、みんなついていくんだけどさ。それでも悔しいっ! いつか見返してやるんだからっ!)
紗絵はふんっと鼻を鳴らす。
「聞いてるのか?」
さらに鋭くなった目で睨まれ、口元を引き締めた。
「はい、すぐに直します!」
「反応が遅い」
「次から次へと言われるので、頭がパンクして、社長の言葉を理解するのに時間がかかるんです」
紗絵は唇を尖らせて、ふいっと目を逸らした。
失敗が多いのはわかっているし、反省もしている。でも今まで、二度注意されるようなミスはしていない。
それでも口が達者な明司に矢継ぎ早に責められるとダメージは大きい。ぐうの音も出ないほどの正論だからよけいに。
(本人は責めているつもりはないだろうし、こちらの言い分も聞いてくれる。私の被害妄想だってわかってるけど、なんかもう悔しいし悲しい……)
憧れていた上司が厳しいとわかっても、がっかりはしなかった。むしろ、彼の仕事に対する姿勢をますます尊敬したし、一緒に働けて良かったと思っている。
(でも、もう少し優しければなぁ。この性格がさぁ)
明司はドS鬼上司だが、誰にでも嫌味を連発しているわけではない。
負けず嫌いな性格のせいで、紗絵がぽんぽん言い返すからだ。それをわかっていながら彼が紗絵をいじってくるため、なおさらこちらもヒートアップしてしまう。
「パンクするほど頭使ってないだろうが! それに、性格の悪さでお前に迷惑はかけてない。人の性格をとやかく言う前に、その迂闊さをクライアントの前で披露しないように口を縫いつけておけ!」
「え……声に出てました?」
紗絵はやばいと口に手を当てた。赤くなったり青くなったりしながら、ちらちらと明司を見つめる。
「お前な……そういうところだぞ。声に出てなくても丸わかりなんだよ!」
明司は心底疲れた表情で深いため息を漏らした。いい加減にしてくれと言いたげだ。
「あ、良かった」
「良くない! その喜怒哀楽でころころ変わる顔もなんとかしとけ! 怒られて不服ですって顔、絶対クライアントの前でするなよ? クレームを入れてくるようなクライアントに当たって問題になったら、お前の評価にだって関わってくるんだからな?」
「してませんし、お客様からクレームなんて入ったことありませんから!」
「俺はこれからの話をしてるんだ。はぁ、もういい。お前と話してると疲れる。さっさとその図面を作り直して再提出! 急げよ? 今日中だからな?」
「はい!」
「返事だけは素直だな」
やれやれと呆れたように肩を竦めながらデスクに戻っていく明司を横目に、早速修正に取りかかった。
付箋を一枚ずつ確認すると、自分のうっかりさに泣きたくなる。
(チェックしたのに、なんで見つけられなかったかなぁ……私のバカ)
断熱材の厚さを数センチ間違えるだけで、今の住まいから持ち出す予定の家具が入らないという可能性だってある。それ以前にミスがわかった段階で基礎工事からやり直しになるし、信用をなくすだろう。
ほかにも所々に付箋が貼りつけてあり、その細かさにうんざりするよりも、的確な指示を出す彼にやはり傾倒してしまう。
明司と同じ年になっても、同じように仕事ができるとは思えない。
(私も、いつか……一級建築士になれるかな)
明司を見ていると自信がなくなっていくばかりだ。それでも負けたくないと思う。明司より時間がかかったとしても、建築家の夢を諦めたくはない。
紗絵がすべての図面を修正し終えてOKが出た時には、二十二時を過ぎていた。ほとんどの同僚はすでに退社していて、残っているのは自分と明司だけだった。
「お先に失礼します」
「あぁ、お疲れさん」
明司に声をかけて会社を出ると、冷たい風に身を震わせる。三月の終わりとはいえまだ肌寒かった。紗絵は薄手のコートの前をかき合わせながら駅へ向かう。
紗絵が住んでいるのは会社から地下鉄で三十分、さらに徒歩で十分ほどの場所にあるワンルームマンションだ。
駅周辺は繁華街や商店街で朝から夜まで賑わい、コンサートホールや劇場、ショッピングモールといった大型施設もある。
さらにJR線や、地下鉄でどこへ行くにも困らないとくれば、築年数四十年の物件ながら多少家賃が高いのも仕方がない。
いつものようにアーケードのある商店街を歩く。店はほとんど閉まっているが、夜でも明るい商店街を通って帰るサラリーマンは多かった。商店街を抜け、オフィスビルが建ち並ぶエリアを通り過ぎると、五階建てのマンションが見えてくる。
(今日はかなり遅くなっちゃったな~。でも、ようやく今週も終わった)
紗絵はスマートフォンの時刻を見てため息をついた。連日の残業に身体は疲れ果て、足下が覚束ない。明日が土曜日で仕事が休みなのがせめてもの救いである。
マンションのポストからは、チラシやなにかが溢れていた。
そういえば前にポストを開けたのはいつだったか、と首を捻りながら、紗絵は持っていたエコバッグの中に紙の束を適当に入れていく。
(なんかいろいろ入ってるけど、見るのは明日でいいや……今日はもう寝よう)
紗絵は重い身体を引きずりながらマンションの階段を上がり、部屋に辿り着く。
玄関を開けて靴を脱ぎ捨てたところで、ごろりとフローリングに寝転がった。ベッドがすぐそこにあるのに、眠くて眠くて仕方がない。
意識がすっと遠ざかっていき目を瞑るや否や、ほとんど気絶するように寝入ってしまった。
「ふえっくしゅんっ」
自分のくしゃみに驚いて目を覚ますと、フローリングで寝ていたためか、肩や背中がじんじんと痛んだ。
「うわ、また床で寝てたよ……いたたたた……」
紗絵は、凝り固まった身体をのろのろと起こし、コートをソファーに投げた。バッグを床に置くと、そのままバスルームへ直行する。
半分目を瞑りながら、シャンプーを手に取り髪を泡立てるが、なぜかいつもと匂いが違う気がする。
「なにこれ? ボディソープ? まぁいいや」
自分が頭につけたのはシャンプーではなかったようだ。
シャワーを頭からかけ、泡を洗い流す。汚れは落ちているだろうから、そのままトリートメントをつけた。
実家にいた頃、母にも兄にも言われたが、紗絵はうっかりやらかすことが本当に多い。疲れているとそれがよけいにひどくなってしまうらしい。一人暮らしを家族全員に止められたくらいだ。
トリートメントを洗い流すのを忘れるのもしょっちゅうで、朝慌ててシャワーで洗い流して仕事に行くことも珍しくなかった。
仕事に必死になればなるほど私生活がだめになる。それを明司が知ったら、きっと今まで以上に呆れられるだろう。彼に追いつくなんて口で言うのは簡単だが、実際にはどれだけ必死に走っても追いつけないくらいの距離がある。ただ、そうとわかっていても諦めたくないだけだ。
「疲れた~」
髪を適当に乾かし、おざなりに顔の保湿を済ませて、ベッドに飛び込む。寒さに全身を震わせながら毛布にくるまった瞬間、紗絵はすとんと眠りに落ちた。
室内の明るさで目を覚まし、ぼんやりとしたまま時計を見る。
短針は四を指していた。一週間分、泥のように眠ったからか、かなりすっきりしているが、深夜に寝たのに四時間ほどで起きられるなんて非常に珍しい。
「あれ? もしかして朝じゃない?」
朝にしてはやけに明るい室内に困惑し、スマートフォンを確認した。時刻は十六時とある。
「うそ~寝過ぎ……私、何時間寝てたの」
土曜日が半分以上過ぎてしまっているではないか。
身体がギシギシいうわけだ。紗絵は頭や腕をぐるぐる回しながらベッドを下りて、洗面所へ向かった。
スタイリングをせずに寝てしまったが、髪は多少寝乱れているだけだ。癖のつきにくいストレートの髪は楽でいい。
軽く髪を梳かして、洗顔する。しっかりと肌をケアしながら一週間分の疲れを落としていると、お腹からきゅるきゅると音が鳴った。
(……うちになんか食べるものあったっけ?)
コンビニで購入した生野菜と、冷凍したご飯にレトルトカレー。それらを皿に盛りつけ、小さなローテーブルに運んだ。
「いただきます」
料理は好きでも嫌いでもなかったが、ここ最近まともに料理ができていないのは仕事が忙し過ぎるせいだ。せめて栄養バランスのいい食事をと考えてはいても、手軽さには抗えない。しかし、洗わずに食べられる生野菜にも飽きてきた。
(ミスさえしなければ、昨日はもう少し早く帰れたはずなのに)
とにかくケアレスミスをしないようにしよう。
紗絵は決意を新たにし、食事を進める。人を相手にしている仕事だけに正解のない問題も多く、あとはとにかく経験を積むしかなかった。
「あ、そうだ」
食事を終えて食器を洗い終えたところで、昨夜、エコバッグの中に大量のチラシを突っ込んだことを思い出した。ほとんど目を通す必要のないチラシばかりだと思うが、そのまま捨てるわけにもいかない。
一枚ずつ見ていくと、同じ手紙がたくさん入っていることに気づく。
「あれ、これって……」
手紙はこのマンションを管理している不動産会社からで、一週間おきに何通も来ていた。内容はほとんど同じで、四月には建物を取り壊す工事に入るため、すぐに退去を求めるというもの。
そういえば、一年以上前、マンションの入り口に貼ってあったじゃないか。
「そうだ、ここ建て替えで取り壊すんだった。うわっ、うそ、四月ってあと一週間しかないじゃん!」
知らなかった、じゃ済まされない。知っていたのだ。建物の老朽化で外壁の一部が剥がれ落ちてきて、廊下の柱にヒビが見つかったため建て替え工事を行うと。
けれど、あと一年もあるしと放置していたのは自分だ。己の迂闊さをこんな時に呪いたくなるなんて。
(だからここ最近、登録してない番号から何件も電話があったんだ……たぶん、管理会社だよね……なんか引っ越していく住人が多いと思ってたんだよ!)
連絡がつかない、手紙の返信もないでは、管理会社も困っただろう。
仕事が忙しかったし、知らない番号だったから出なかった、なんて言い訳だ。
あの鬼上司ならば残念そうな目をしながら言うだろう。『お前、プライベートでもうっかりし過ぎじゃないか?』と。
あまりの動揺に襲われ、つい明司のドSっぷりを思い出してしまったが、ひとまず冷静になってこれからのことを考えなければ。
(明日の休みで部屋を決めるとか無理だし。そうだ、部屋が決まるまでお兄ちゃんのところに避難させてもらおう。あとは引っ越しの手続きをしなきゃ。お金なんて使う暇もないから、贅沢に梱包は全部お任せにするとして。うん、よし、いける気がしてきた)
兄の誠は、紗絵の五つ上の三十三歳だ。実家を出て一人暮らしをしているマンションはファミリータイプのため、紗絵が居候しても広さに問題はない。
それに出張が多く、一年の半分ほどは部屋を空けているため、たまに換気と掃除をしてくれと頼まれるから、合い鍵を預かっている。だめとは言われないはずだ。
紗絵は、今年も花見をしないまま桜の季節が終わりそうだな、と物悲しい思いで、ガラスの向こうの街路樹をデスクからぼんやりと眺めていた。
すると突然、上司である槌谷明司の鋭い声がオフィスに響き渡る。
「本田、この図面、全部作り直せ」
明司は偉そうに椅子にふんぞり返り、腕を組みながら顎をしゃくった。
「えっ!?」
紗絵は慌てて立ち上がり足を踏み出す。その拍子に、椅子に膝を強くぶつけてしまい、じんと響くような痛みが走った。
「いったぁっ!」
思わず足を押さえて蹲った途端、椅子ががたんと大きな音を立てる。なにかが背もたれに引っかかったのかもしれない。
「わっ、やば」
紗絵は慌てて椅子を支えてほっと息をつく。
「あ~びっくりした」
すると、即座に「やかましい」と、明司の大きな声がした。そっちの方がよほどやかましいのでは、と心の中でだけ難癖をつけて、立ち上がった。
肩の下まで伸びた茶色の髪が唇にぺたりと貼りつく。それを手櫛で整えて、椅子を元の位置に戻した。
「お前な……もうちょっと落ち着けないのか? あっちにまで聞こえるだろうが」
明司は応接室にちらりと目を向けてから紗絵を睨んだ。応接室ではクライアントとの打ち合わせが行われている。
「うるさくしてすみません……で、あの、作り直しって?」
紗絵は呆れた顔をする明司の前に立ち、前のめりにデスクに手を突いた。
この春で、紗絵が槌谷住宅で働いて丸六年になる。社長である明司とのこういったやりとりは日常茶飯事であった。
「そのままだ。間違ってる」
明司はデスクの上に置かれた図面をとんと人差し指で突いた。その仕草にイラッとしたものが込み上げてくる。
「どこですか?」
提出する前に数値は何度も確認したはずだ。間違いがないことも確認している。
「一箇所な。ここ。お前、コピペしただろ」
彼が指差した先には、ほかの図面からコピーした数値がそのまま残っていた。この案件はそれと使用する断熱材の厚さが違うのに、変更するのを忘れていたらしい。思わず、うわっと声が出そうになるのをなんとかこらえて、頭を下げた。
「ほんとだ! すみませんっ!」
「チェックお願いしますって持ってきた時の、あの自信満々な顔はいったいなんだったんだ」
「何度もチェックしたので、間違いないはずだと思って」
「本田は思い込みが激し過ぎる。間違いないはずだ、って何度目だ?」
「はい……」
「数字だけを見てるからこういう間違いが起きる。このまま出してもクライアントは気づかないだろうが、もしもこれが現場で反映されたらどうなる? コストは大幅にアップし、さらに要求性能を満たせていないから工事のやり直しだ。どれだけの損失が出るか考えろ。トイレの便器にドアが当たって開きませんけど、契約書にサインしたのはそちらですよね? とでも言うつもりか?」
「申し訳ありませんっ」
そんなこと言われなくてももちろんわかっている。ミスをしたのは自分で、悪いのも自分だ。
明司の言う通り、紗絵の作成した図面では断熱材の厚さが間違っているせいでトイレの面積が変わってしまい、そのまま作るとドアが便器に当たってしまっていた。
もしもミスに気づかないでいたらと考えると、顔から血の気が引く思いがする。
「お前のうっかりミスでこんな家を造られたクライアントはたまったもんじゃない。こういう単純なミスほど気づかないものなんだ。慣れてきたからって自分を過信するな。間違いないはずだと思うな。絶対にミスはあると思ってチェックしろ。お前は学生時代にもう少し寸法感覚を学んでおくべきだったな。ちゃんと卒業したのか?」
やれやれとバカにするように鼻で笑われ、返す言葉もない。
(そこまで言うっ!? 腹立つ~!)
紗絵は、口元を引き攣らせながらすごすごと自席に戻った。
紗絵が働く槌谷住宅は、明司の父親が社長を務める槌谷建設の子会社だ。
槌谷建設は高層マンションや大型商業施設などを手がける大手建設会社だが、その子会社である槌谷住宅は、自由設計を売りとして主に個人向けの住宅や中規模のマンション、店舗の設計を手がけている。
オフィス街の一角にそびえ立つ槌谷建設の目と鼻の先にあるビルの一階と二階が事務所となっており、社員数は二十名ほどと少ない。
槌谷建設は大手だが、子会社である槌谷住宅は設立してまだ六年の若い会社だ。一級建築士で、さらに有名な建築家でもある明司のネームバリューのおかげで客は引きも切らないが、実績はまだ十分とは言えないだろう。
紗絵は大学卒業後、槌谷建設に就職し、現在は槌谷住宅に出向という形で働いている。
設計士として明司のサポートをしているが、クライアントの資金計画の相談に乗るのはもちろん、現地調査をしたり、建築確認申請のために役所を訪れたり、時には土地探しも行う。設計士という名のなんでも屋で、日々、明司にこき使われていた。
動き回る日も多く仕事は膨大で、疲れて食事もとらずに寝てしまうことも多々あり、太る暇もないくらい忙しい。
とはいえ、社長である明司は紗絵以上に忙しい。設計担当としてクライアントとの打ち合わせにも参加するし、図面の最終チェックは必ず明司が行っている。
(初めて会った時は、あの槌谷明司と仕事ができるって浮かれてたし、そのイケメンっぷりに見蕩れちゃったけど、翌日には後悔することになるって、あの頃の私に教えてあげたい)
紗絵は自分への情けなさに対するため息を呑み込んで、デスクにいる明司に視線を向けた。
年齢は、二十八歳の紗絵よりも三つ上の三十一歳。誕生日は一月。身長は百八十。家族構成は両親と明司の三人。槌谷建設社長の息子というハイスペックなエリートである。
さらに言えば、見た目も抜群に良かった。
真っ直ぐで豊かな黒髪から覗く男らしく太い眉に、鋭く細められた目。どこか日本人離れした彫りの深い顔立ちは、見るものをハッとさせるほど整っている。
手足の長さ、バランスのいい体躯、凜々しい立ち姿を含めて、悔しいことに見た目には欠点と言える部分が一つもない。
気品のある立ち居振る舞いや、彼の立場を考えても、女性から引く手数多であることは間違いない。
(それなのに性格がこんななんて、残念過ぎる)
大学時代から明司のファンだった紗絵の頭には、彼の詳細なプロフィールがインプットされている。
性格がどうだろうと、彼の建築家としての腕は最高だ。しかし、もう少し優しい性格ならばと考えてしまうのは致し方ないことだろう。
(建築家としてたまにテレビに出てるから、社長目当ての冷やかし客がけっこう来るし、モテないわけがないんだよね。でも、恋人にも『君は情緒というものをもう少し学んでおくべきだったな。幼稚園は卒園したのか?』とか言ってそう。どれだけイケメンでも、社長とプライベートでまで付き合うなんて私は絶対やだな)
紗絵は自分の想像で噴きだしそうになるのをなんとかこらえ、隠すように口元に手を当てた。こんなところを見られたら、また嫌味の百や二百が飛んでくる。
(ま、社長に恋人がいてもいなくても、私には関係ないんだけどね)
ただ、これまで幾人の女性を虜にしてきたのだろうと考えると、あまりお近づきにはなりたくない。明司ほどの男が自分を恋愛対象とするわけがないとわかっていても、恋愛経験が少ないなりに自分の中にある警戒心が、この男に近づいたら危ないぞと信号を発している気がするのだ。
(私に恋愛する暇がないのも、社長のせいだけどっ!)
明司に近づく予定もないし、厳し過ぎるこの上司に恋愛感情を抱く予定もないが、なんだか悔しくはある。いろいろなところでモテモテの明司と違って、紗絵には出会いも出会いを作る時間もないのが現状だ。
(でも、『ずっと住み続けられる家』は、本当に……本当に素敵だったのに! あれを造ったのがこの鬼上司だなんて!)
紗絵は大学時代、建築学科に在籍していた。
そしていつかは一級建築士になる夢を抱いていたのだが、明司との出会いで自分がいかに凡人かを思い知ることとなったのだ。
それは、紗絵が建築デザインの国際コンペに挑戦した時のこと。
建築部門のテーマはサスティナビリティー。時代に合ったテーマだと意気込み、会心の作品で勝負にでたつもりだった。
ここで賞を取ったとしても華々しく建築家デビューなんてできる業界ではないけれど、就職に有利になるだろうし箔がつくと思っていた。
けれど結果は惨敗。佳作にさえかすりもしなかった。
最優秀作品賞は、紗絵と同じ大学生の『ずっと住み続けられる家』という模型だった。なんの捻りもない普通のタイトルだな、と鼻で笑ったのは、粉々になった自分の矜持をなんとか保つためだ。
国際コンペとはいえ、応募は学生が中心。海外の受賞作品はインターネットで閲覧が可能で、国内の受賞者は小さな会場で授賞式と展示が行われた。
どんな作品が最優秀賞に選ばれたのかと会場に足を運んだ時、一目でその作品に心を鷲掴みにされた。
どれだけ自分が手を伸ばしても届かない才能があると思い知った。悔しかった。どうして自分が選ばれなかったのかわかってしまったから。嫉妬の感情が芽生えたけれど、それ以上に槌谷明司という男の才能に惚れて、憧れてしまった。
友人や先輩、講師にも褒められうぬぼれていた紗絵の作品は、賞を取るためのものだった。優れたデザインの模型ではあっても、それだけだった。そこに誰が住んでどういう生活を送るかなんて、まったく頭になかったのだ。
でも彼の作品は違った。きちんとそこに人が存在し、まるで生活をしているみたいだった。
全身に鳥肌が立つような感動を覚えて、紗絵はしばらくその場から動くことができなかった。
実際に彼の造った家を見たいと思ったし、その家に住みたいと思った。だから彼を追いかけて、槌谷建設を就職先に選んだのだ。
明司はその後、二十代の若さで一級建築士の資格を得て、とある美術館の設計を担当した。
それが瞬く間に評価され、最年少で建築を通じて環境に貢献した人に与えられる権威ある建築賞を受賞するに至った。
建築家、槌谷明司の名前はこの業界にいれば必ず一度は耳にする。初めて本人に会えた時、紗絵がどれだけ興奮し嬉しかったか。もちろん今もその気持ちに変わりはないし、彼への尊敬の念も失せていない。だが――
(社長を追いかけてきたことは後悔してない……してないけど、チクチク、チクチク重箱の隅を突いて楽しむようなドSだとは思わなかった! いや、ミスした私が悪いってわかってるよ! 正論だともわかってるけど! 言い方ってあるでしょ!)
デスクの前で拳を握りしめていると、背後から紙の束をどさりと手渡された。
「ついでにこっちの別件も修正。クライアントは建築知識に関して素人だと念頭に置いておけと言っただろう。なんでもかんでも要望に応えようとしてどうする。無茶を聞いて困るのはお前じゃない。これから先、その家に住む人だ」
「はい……」
デスクの上には、修正するための図面が束となって置かれていた。パソコンの画面が半分ほど隠れてしまっている。自分の失敗のせいで明司の仕事まで増やしていると思うと、よけいに悔しい。
「過去事例集に目を通したら、これがあり得ない図面だってわかるはずだ。ってことでやり直し、全部、今すぐ」
紗絵は肩を落としながらデスクの上にある紙の束を自分の方へそっと引き寄せ、がっくりと項垂れた。胸の内で盛大に彼を罵倒し誤魔化しているが、本当は誰より不甲斐ない自分に腹が立っている。紗絵は滲みそうになる涙をこらえ拳を握りしめた。
憧れていた槌谷明司はたしかに才能の塊だった。尊敬する人の仕事を間近で見られる。一緒に仕事ができるなんて夢のようだと入社当時は喜んだ。
ただ、あの頃の紗絵は知らなかった。明司がこんなドS鬼上司だったなんて。
仕事が厳し過ぎて本気泣きしそうになったことも、高く積み上がっていく終わりの見えない仕事に心が折れそうになったことも数知れず。
(まぁ、一番仕事を抱えて最高の結果を出す人だから、みんなついていくんだけどさ。それでも悔しいっ! いつか見返してやるんだからっ!)
紗絵はふんっと鼻を鳴らす。
「聞いてるのか?」
さらに鋭くなった目で睨まれ、口元を引き締めた。
「はい、すぐに直します!」
「反応が遅い」
「次から次へと言われるので、頭がパンクして、社長の言葉を理解するのに時間がかかるんです」
紗絵は唇を尖らせて、ふいっと目を逸らした。
失敗が多いのはわかっているし、反省もしている。でも今まで、二度注意されるようなミスはしていない。
それでも口が達者な明司に矢継ぎ早に責められるとダメージは大きい。ぐうの音も出ないほどの正論だからよけいに。
(本人は責めているつもりはないだろうし、こちらの言い分も聞いてくれる。私の被害妄想だってわかってるけど、なんかもう悔しいし悲しい……)
憧れていた上司が厳しいとわかっても、がっかりはしなかった。むしろ、彼の仕事に対する姿勢をますます尊敬したし、一緒に働けて良かったと思っている。
(でも、もう少し優しければなぁ。この性格がさぁ)
明司はドS鬼上司だが、誰にでも嫌味を連発しているわけではない。
負けず嫌いな性格のせいで、紗絵がぽんぽん言い返すからだ。それをわかっていながら彼が紗絵をいじってくるため、なおさらこちらもヒートアップしてしまう。
「パンクするほど頭使ってないだろうが! それに、性格の悪さでお前に迷惑はかけてない。人の性格をとやかく言う前に、その迂闊さをクライアントの前で披露しないように口を縫いつけておけ!」
「え……声に出てました?」
紗絵はやばいと口に手を当てた。赤くなったり青くなったりしながら、ちらちらと明司を見つめる。
「お前な……そういうところだぞ。声に出てなくても丸わかりなんだよ!」
明司は心底疲れた表情で深いため息を漏らした。いい加減にしてくれと言いたげだ。
「あ、良かった」
「良くない! その喜怒哀楽でころころ変わる顔もなんとかしとけ! 怒られて不服ですって顔、絶対クライアントの前でするなよ? クレームを入れてくるようなクライアントに当たって問題になったら、お前の評価にだって関わってくるんだからな?」
「してませんし、お客様からクレームなんて入ったことありませんから!」
「俺はこれからの話をしてるんだ。はぁ、もういい。お前と話してると疲れる。さっさとその図面を作り直して再提出! 急げよ? 今日中だからな?」
「はい!」
「返事だけは素直だな」
やれやれと呆れたように肩を竦めながらデスクに戻っていく明司を横目に、早速修正に取りかかった。
付箋を一枚ずつ確認すると、自分のうっかりさに泣きたくなる。
(チェックしたのに、なんで見つけられなかったかなぁ……私のバカ)
断熱材の厚さを数センチ間違えるだけで、今の住まいから持ち出す予定の家具が入らないという可能性だってある。それ以前にミスがわかった段階で基礎工事からやり直しになるし、信用をなくすだろう。
ほかにも所々に付箋が貼りつけてあり、その細かさにうんざりするよりも、的確な指示を出す彼にやはり傾倒してしまう。
明司と同じ年になっても、同じように仕事ができるとは思えない。
(私も、いつか……一級建築士になれるかな)
明司を見ていると自信がなくなっていくばかりだ。それでも負けたくないと思う。明司より時間がかかったとしても、建築家の夢を諦めたくはない。
紗絵がすべての図面を修正し終えてOKが出た時には、二十二時を過ぎていた。ほとんどの同僚はすでに退社していて、残っているのは自分と明司だけだった。
「お先に失礼します」
「あぁ、お疲れさん」
明司に声をかけて会社を出ると、冷たい風に身を震わせる。三月の終わりとはいえまだ肌寒かった。紗絵は薄手のコートの前をかき合わせながら駅へ向かう。
紗絵が住んでいるのは会社から地下鉄で三十分、さらに徒歩で十分ほどの場所にあるワンルームマンションだ。
駅周辺は繁華街や商店街で朝から夜まで賑わい、コンサートホールや劇場、ショッピングモールといった大型施設もある。
さらにJR線や、地下鉄でどこへ行くにも困らないとくれば、築年数四十年の物件ながら多少家賃が高いのも仕方がない。
いつものようにアーケードのある商店街を歩く。店はほとんど閉まっているが、夜でも明るい商店街を通って帰るサラリーマンは多かった。商店街を抜け、オフィスビルが建ち並ぶエリアを通り過ぎると、五階建てのマンションが見えてくる。
(今日はかなり遅くなっちゃったな~。でも、ようやく今週も終わった)
紗絵はスマートフォンの時刻を見てため息をついた。連日の残業に身体は疲れ果て、足下が覚束ない。明日が土曜日で仕事が休みなのがせめてもの救いである。
マンションのポストからは、チラシやなにかが溢れていた。
そういえば前にポストを開けたのはいつだったか、と首を捻りながら、紗絵は持っていたエコバッグの中に紙の束を適当に入れていく。
(なんかいろいろ入ってるけど、見るのは明日でいいや……今日はもう寝よう)
紗絵は重い身体を引きずりながらマンションの階段を上がり、部屋に辿り着く。
玄関を開けて靴を脱ぎ捨てたところで、ごろりとフローリングに寝転がった。ベッドがすぐそこにあるのに、眠くて眠くて仕方がない。
意識がすっと遠ざかっていき目を瞑るや否や、ほとんど気絶するように寝入ってしまった。
「ふえっくしゅんっ」
自分のくしゃみに驚いて目を覚ますと、フローリングで寝ていたためか、肩や背中がじんじんと痛んだ。
「うわ、また床で寝てたよ……いたたたた……」
紗絵は、凝り固まった身体をのろのろと起こし、コートをソファーに投げた。バッグを床に置くと、そのままバスルームへ直行する。
半分目を瞑りながら、シャンプーを手に取り髪を泡立てるが、なぜかいつもと匂いが違う気がする。
「なにこれ? ボディソープ? まぁいいや」
自分が頭につけたのはシャンプーではなかったようだ。
シャワーを頭からかけ、泡を洗い流す。汚れは落ちているだろうから、そのままトリートメントをつけた。
実家にいた頃、母にも兄にも言われたが、紗絵はうっかりやらかすことが本当に多い。疲れているとそれがよけいにひどくなってしまうらしい。一人暮らしを家族全員に止められたくらいだ。
トリートメントを洗い流すのを忘れるのもしょっちゅうで、朝慌ててシャワーで洗い流して仕事に行くことも珍しくなかった。
仕事に必死になればなるほど私生活がだめになる。それを明司が知ったら、きっと今まで以上に呆れられるだろう。彼に追いつくなんて口で言うのは簡単だが、実際にはどれだけ必死に走っても追いつけないくらいの距離がある。ただ、そうとわかっていても諦めたくないだけだ。
「疲れた~」
髪を適当に乾かし、おざなりに顔の保湿を済ませて、ベッドに飛び込む。寒さに全身を震わせながら毛布にくるまった瞬間、紗絵はすとんと眠りに落ちた。
室内の明るさで目を覚まし、ぼんやりとしたまま時計を見る。
短針は四を指していた。一週間分、泥のように眠ったからか、かなりすっきりしているが、深夜に寝たのに四時間ほどで起きられるなんて非常に珍しい。
「あれ? もしかして朝じゃない?」
朝にしてはやけに明るい室内に困惑し、スマートフォンを確認した。時刻は十六時とある。
「うそ~寝過ぎ……私、何時間寝てたの」
土曜日が半分以上過ぎてしまっているではないか。
身体がギシギシいうわけだ。紗絵は頭や腕をぐるぐる回しながらベッドを下りて、洗面所へ向かった。
スタイリングをせずに寝てしまったが、髪は多少寝乱れているだけだ。癖のつきにくいストレートの髪は楽でいい。
軽く髪を梳かして、洗顔する。しっかりと肌をケアしながら一週間分の疲れを落としていると、お腹からきゅるきゅると音が鳴った。
(……うちになんか食べるものあったっけ?)
コンビニで購入した生野菜と、冷凍したご飯にレトルトカレー。それらを皿に盛りつけ、小さなローテーブルに運んだ。
「いただきます」
料理は好きでも嫌いでもなかったが、ここ最近まともに料理ができていないのは仕事が忙し過ぎるせいだ。せめて栄養バランスのいい食事をと考えてはいても、手軽さには抗えない。しかし、洗わずに食べられる生野菜にも飽きてきた。
(ミスさえしなければ、昨日はもう少し早く帰れたはずなのに)
とにかくケアレスミスをしないようにしよう。
紗絵は決意を新たにし、食事を進める。人を相手にしている仕事だけに正解のない問題も多く、あとはとにかく経験を積むしかなかった。
「あ、そうだ」
食事を終えて食器を洗い終えたところで、昨夜、エコバッグの中に大量のチラシを突っ込んだことを思い出した。ほとんど目を通す必要のないチラシばかりだと思うが、そのまま捨てるわけにもいかない。
一枚ずつ見ていくと、同じ手紙がたくさん入っていることに気づく。
「あれ、これって……」
手紙はこのマンションを管理している不動産会社からで、一週間おきに何通も来ていた。内容はほとんど同じで、四月には建物を取り壊す工事に入るため、すぐに退去を求めるというもの。
そういえば、一年以上前、マンションの入り口に貼ってあったじゃないか。
「そうだ、ここ建て替えで取り壊すんだった。うわっ、うそ、四月ってあと一週間しかないじゃん!」
知らなかった、じゃ済まされない。知っていたのだ。建物の老朽化で外壁の一部が剥がれ落ちてきて、廊下の柱にヒビが見つかったため建て替え工事を行うと。
けれど、あと一年もあるしと放置していたのは自分だ。己の迂闊さをこんな時に呪いたくなるなんて。
(だからここ最近、登録してない番号から何件も電話があったんだ……たぶん、管理会社だよね……なんか引っ越していく住人が多いと思ってたんだよ!)
連絡がつかない、手紙の返信もないでは、管理会社も困っただろう。
仕事が忙しかったし、知らない番号だったから出なかった、なんて言い訳だ。
あの鬼上司ならば残念そうな目をしながら言うだろう。『お前、プライベートでもうっかりし過ぎじゃないか?』と。
あまりの動揺に襲われ、つい明司のドSっぷりを思い出してしまったが、ひとまず冷静になってこれからのことを考えなければ。
(明日の休みで部屋を決めるとか無理だし。そうだ、部屋が決まるまでお兄ちゃんのところに避難させてもらおう。あとは引っ越しの手続きをしなきゃ。お金なんて使う暇もないから、贅沢に梱包は全部お任せにするとして。うん、よし、いける気がしてきた)
兄の誠は、紗絵の五つ上の三十三歳だ。実家を出て一人暮らしをしているマンションはファミリータイプのため、紗絵が居候しても広さに問題はない。
それに出張が多く、一年の半分ほどは部屋を空けているため、たまに換気と掃除をしてくれと頼まれるから、合い鍵を預かっている。だめとは言われないはずだ。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!
イジワル上司の甘く艶めく求愛
本郷アキ
恋愛
大企業の法務部で専務補佐をする二十八歳の凜。真面目だけが取り柄の彼女の上司は、社内人気トップの御曹司ながら不機嫌が通常仕様の仕事の鬼・朝川。常に厳しい態度を崩さない彼に泣かされた女性は数知れず……そんな朝川に、ひょんなことから泣き顔をロックオンされて!? 戯れのようなキスや自分にだけ向けられる熱を孕んだ視線――苦手な上司の思いがけない甘さに戸惑ううちに、あっという間に逃げ道を封じられ、目眩がするほどの熱情に囚われてしまい? 「お前は俺に泣かされてろよ。俺で頭をいっぱいにして気持ち良くなればいい」本能を揺さぶる魅惑の極甘オフィス・ラブ!
甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。
海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。
ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。
「案外、本当に君以外いないかも」
「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」
「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」
そのドクターの甘さは手加減を知らない。
【登場人物】
末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。
恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる?
田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い?
【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
独占欲全開の肉食ドクターに溺愛されて極甘懐妊しました
せいとも
恋愛
旧題:ドクターと救急救命士は天敵⁈~最悪の出会いは最高の出逢い~
救急救命士として働く雫石月は、勤務明けに乗っていたバスで事故に遭う。
どうやら、バスの運転手が体調不良になったようだ。
乗客にAEDを探してきてもらうように頼み、救助活動をしているとボサボサ頭のマスク姿の男がAEDを持ってバスに乗り込んできた。
受け取ろうとすると邪魔だと言われる。
そして、月のことを『チビ団子』と呼んだのだ。
医療従事者と思われるボサボサマスク男は運転手の処置をして、月が文句を言う間もなく、救急車に同乗して去ってしまった。
最悪の出会いをし、二度と会いたくない相手の正体は⁇
作品はフィクションです。
本来の仕事内容とは異なる描写があると思います。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。