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「お兄ちゃん、日本にいるかな」
誠に電話を入れると、すぐに電話は繋がった。
「あ、お兄ちゃん? 私」
『なに?』
「ちょっと困ったことになっちゃって。すぐに今のマンションを出ていかなきゃならないんだけど、引っ越し先が決まるまで、お兄ちゃんのところに居候させてくれない?」
事情を説明すると、電話の向こうから深いため息が聞こえてきた。誠は兄として妹のうっかりミスを何度も見てきているため、怒るのも疲れるというところだろう。
『わかった。俺、一ヶ月ほどいないから、空いた部屋を使っていい。その代わり俺が帰ったあとの掃除もゴミ捨ても全部お前な? あと、さっさと引っ越し先を決めて出ていくこと。邪魔だから』
「はい、すみません」
明司に返事をするように小さくなって答えると、兄にふんと鼻で笑われた。
『珍しく殊勝だな』
「昨日上司からも迂闊だって怒られたから、ちょっと反省してるとこ」
妹の仕事にまったく興味がなかったのか『へぇ』とだけ返され、電話を切られたのだった。
第二章
次の土曜日。引っ越し業者に来てもらい、荷物をすべて運び出した。
すぐに使うものや貴重品は手荷物として運ぶため、けっこう重い。
紗絵は最後に退去の手続きを取り、兄のマンションへ急いだ。
兄が住む部屋は品川区内に建つ二十階建ての分譲マンションだ。
築年数は新しく、駅からもそれなりに近い。住人はファミリー層が多いらしい。オートロックにコンシェルジュサービス、プール、ジム完備とあり、何期かに分けての予約販売で全戸数完売したと聞いた。
エリート商社マンの兄は、恋人と結婚したあと、ここで生活ができるようにとマンションを買ったようだ。しかし、出張ばかりですれ違うことも多く、なかなかプロポーズに踏み切れないらしい。
鍵を開けて待っていると、三十分も経たずに引っ越し業者がやって来る。
出張でいない兄が紗絵のために空き部屋を掃除していてくれるはずもなく、業者がベッドを運び込む前に急いで部屋の掃除をした。
段ボールが部屋の端に積まれていくのを見ながら、肩を落とす。片付けることを考えるだけで頭が痛くなりそうだ。
(これ、一日くらい有給使っても良かったんじゃない?)
荷造りのほとんどを業者任せにしたとはいえ、使わない家具を一時的に預けるための倉庫の手配や、電気、ガス、水道への連絡。やることは山ほどあったのだ。
とりあえず寝られるようになったところで力尽き、紗絵は綺麗になったフローリングの上でごろりと大の字に寝転がる。
「あぁぁ、もう、お腹空いた~!」
午前中からばたばたと動き、時刻はすでに十五時を過ぎている。紗絵は朝からなにも食べていなかった。冷蔵庫の整理をしたあと、朝食を買っておくのを忘れたのだ。
叫んだところで誰かが用意してくれるはずもない。段ボールの片付けはまだ終わっていないが、休憩を兼ねて近所を歩いてみようと思い立ち、身体を起こした。
ジーンズとTシャツの上からパーカーを羽織り、バッグと鍵を持って部屋を出ると、隣の角部屋のドアが開き男性が出てくる。
「こんにちは」
これからしばらくはこの部屋に住むのだ。挨拶をしておいた方がいいだろうと声をかけた。
しかし男性がこちらを向いた瞬間、紗絵は頭がバグッたような、意識が遠くなっていくような不思議な感覚に陥る。どうやら現実逃避をしていたらしい。
「な、なんで……こんなところに」
「それはこっちのセリフだ」
隣の部屋から出てきた明司は、驚いているというより不機嫌そうな顔で紗絵を睨めつけていた。
そういえばこのマンションは槌谷建設が担当していたんだった、と思い出すと同時に、隣人が上司という絶望感に襲われる。
(もしかしたら、友だちが住んでて遊びにきただけかも)
けれどその希望は、すぐさま打ち砕かれる。
「社長は、ここにお住まいに?」
「そうだが」
一縷の望みにかけて尋ねるが、呆気なく肯定されてしまった。
紗絵はあからさまにがっくりと肩を落とした。
「お前は?」
「あの、今日引っ越してきまして」
明司はスーツこそ着ていないが、ワイシャツに緩めのパンツスタイルで、埃まみれのラフ過ぎる自分の格好とは大違いだ。
「隣の住人、引っ越したのか」
明司はそう言いながら眉を上げた。
「じゃなくて、一緒に暮らすことに」
「そうか。会社への住所変更手続きを、うっかり忘れるなよ」
兄と、と言う前に話を遮られて、彼は紗絵を置いてエレベーターホールへ向かってしまう。
「さすがに忘れませんよ」
明司の背中を追いかけながら声をかけるが、返事はなかった。
エレベーターを待つ間も、微妙な沈黙が落ちる。仕事で会話はするが、プライベートの会話などこの六年一度だってしていない。
(別に一緒に来ることなかったんじゃ……)
今さら気づいても遅かった。
さすがに会社から離れた場所で怒られるとは思わないが、明司といると、またなにか怒られるのではと身構えてしまう。
(忘れ物したって言って、部屋に戻れば良かった)
到着したエレベーターに乗り込み、紗絵がロビー階のボタンを押す。
「社長は、お買い物ですか?」
さすがにエレベーター内で「今日はいい天気ですね」という会話もないだろうと、無難な話題を口にすると、明司からは「あぁ」とだけ返事があった。
(続かない……続かないよ!)
間が持たずに紗絵がエレベーターの階数表示にばかり目を向けていると、同じように上を見ていた明司が口を開いた。
「片付け大変だろ? 休みを取らなくて良かったのか?」
「え、取らせてくれたんですか?」
テンポ良くそう聞き返してしまったのは、毎日、打ち合わせやら役所への用事やらが詰まっている状況で休みの申請などできるはずがない、という思いからだった。
「当たり前だ。有給休暇を取得する権利があるんだから使えばいい」
「え、どの口が」
取得する権利があったとしても休める状況ではなかったと、誰より知っているはずなのに。当然のように言われると、苛立ちのあまり、つい口に出してしまう。
怒られるかと思ったのに、明司はなにも言わなかった。
しばらくして突然、隣から小さな笑い声が聞こえてくる。空耳かと首を傾げたところでエレベーターが一階に到着した。
「……じゃ、私はこれで失礼します!」
紗絵は、脱兎のごとくエレベーターを飛び出し、ロビーを走った。
「おいっ」
背後から声をかけられても知らないふりをする。
エントランスに出ると、マンションに入ってくる子ども連れの母親とすれ違った。母親は小綺麗なワンピースに身を包み、子どもと手を繋いでいる。
一方紗絵は、パーカー、埃にまみれたTシャツとジーンズ、薄汚れたスニーカーだ。もちろん、いつもこうではないし、引っ越し作業のための格好ではあるが、なんとなくロビーに立つコンシェルジュの視線も不審者を見るような目だった気がした。
(これ……明らかに浮いてるって。着替えてくれば良かった)
この格好で明司の隣に立っていたと考えると、よけいに恥ずかしくなる。
(ほんと、こういうところがだめなんだ)
きっと明司にも呆れられたことだろう。
(別に、社長になんて思われてもいいんだけど。そうなんだけど!)
美形の隣に立つには、この格好では戦闘力が足りな過ぎるのだ。逃げてきて良かった、と胸を撫で下ろしながら、賑わった方へ歩いていく。
この辺りは駅からそれなりに近く利便性もいい。
駅に直結した商業ビルにはスーパーはもちろん、若者向けのファッションブランドも多数入っており、買い物にも困らない。
兄は三十五年ローンだと言っていたが、相当の収入がなければローンの審査は通らないはずだ。
(社長の部屋は角部屋だし、たぶんお兄ちゃんの部屋より広いはず……一人暮らしなのかな?)
もしかしたら結婚の予定でもあるのだろうか。遊び慣れていそうな印象はあるが、明司の浮いた話はまったく聞かない。ただ、恋人がいないとも思えない。
明司の恋人になる女性はどういう人なのだろう。そんなことを考えていると、私なんて恋人どころか出会いすらないのに、というひねくれた思いが湧き上がってくる。
(あの人の恋人は、こんなぼろぼろの格好とか絶対しないでしょ)
隣に住んでいれば、この先、明司の恋人とすれ違う可能性もあるかもしれない。ぼろぼろで疲れ果てて帰ったところに、恋人といちゃつく上司の姿を見せられるのはかなりのストレスだ。
紗絵は、職場にも家にも安らぐ場所がなくなってしまったかのような絶望感でいっぱいになりながら、一人焼き肉店の暖簾を潜った。
ランチと単品で肉を数種類注文し、それを待つ間、大学時代からの友人へ電話をかける。紗絵の仕事が忙しく、また友人の土日は彼氏のためにあるため、なかなか会えないが、電話だけは頻繁にしていた。
「あ、由美子? 私~」
周囲の迷惑にならないように声を潜めるが、学生やファミリー客が多くかなり騒がしいため、そこまで会話に気を遣わなくても良さそうだ。
『引っ越し終わったの?』
「終わった。片付けは終わってないけど」
『なんかざわざわしてない? どこで電話してるのよ』
「焼き肉屋。朝からなにも食べてなくてさ~。それより、ちょっと聞いてくれる!?」
紗絵はスマートフォンを右手から左手に持ち替えて、テーブルに置かれた皿を手前に引き寄せる。皿に焼き肉のタレを入れたところで、肉がテーブルに並べられた。
『またなにかあったの? 憧れの社長と』
茶化すような口調で言われるのもいつものことだ。紗絵がそれだけ明司の話題を出しているからである。ただ、由美子はなにか勘違いをしているようで、明司と自分が恋愛関係になるような言葉を頻繁に口にした。
(そんなわけないのにね)
紗絵は苦笑しつつ、つい先ほど明司に会ったという話をした。
『まさかの隣人!? え、もうそれ運命じゃない?』
「なに言ってんの。隣にいるとか、朝から晩まで見張られてるみたいじゃん……もう泣きそうだよ」
愚痴を言うために電話をしたのに、なぜか由美子のテンションは高い。
『え~だって、憧れの人なんでしょ? 昔、槌谷明司さんのそばで仕事ができるなんて幸せ~とか言ってなかった?』
「言ったよ! 言ったし、今でもそう思ってるけど! 由美子だって社長の嫌味を聞いたらわかるって。この間なんて『お前は学生時代にもう少し寸法感覚を学んでおくべきだったな。ちゃんと卒業したのか?』とか言うんだよ!? 信じられない!」
『社長の言ったこと一字一句覚えてる辺り、突っ込みどころ満載なんだけど』
「覚えてるに決まってるよ! 私、社長のこと一日中がっつり見てるからね」
『へぇ~がっつり。性格悪いとか言いながらやっぱり好きなんじゃないの?』
「そういう好きじゃないってば。本人に言えないんだから聞いてよ! そりゃムカつくことの方が多いんだけど、あの才能の前では性格とかどうでも良くなっちゃうんだよね。まず外観デザインのセンスが天才的でしょ。それに目立たないところもすごいっていうか。ドS上司だけど、私、ほんと社長のそばで働けて良かった……」
『それで恋愛じゃないとか意味不明。いつも愚痴から始まって、最後は社長の賞賛で終わるよね』
「憧れと恋愛は違うの」
『へぇ~まぁ頑張って。そのうちいい話を聞けることを期待してるんだから。ね、片付け落ち着いたらご飯行こうよ。連絡して。じゃあ彼が構えって言ってるから切るね』
「ちょ、待っ……切れた」
謎の言葉を残され、一方的に電話を切られてしまう。話し足りなかった紗絵は、友人の素っ気なさにふてくされながらスマートフォンをテーブルに置いた。
金網の上に置いた肉はほどよく火が通り食べ頃だ。それを皿に取り、タレをつけて口に運ぶ。
(ん~美味しい!)
紗絵は二人前以上の肉を平らげてお腹を満たすと、街の散策に出かけたのだった。
* * *
明司は遠ざかっていく小さな背中を見送りながら、行き場をなくした手をゆっくり下ろした。声に出そうなため息をなんとか呑み込み、エレベーターから降りる。
「一緒に暮らすって言ってたよな」
年下の部下に振り回されている自覚はあるが、声に出すとますます深く落ち込んでしまう。失恋程度でダメージを受ける自分の弱さに顔を顰めた。
隣に住んでいたのは、自分と同世代の三十代の男だったはずだ。ただ、思い出そうとしても顔が出てこない。
明司がこの部屋を購入した時にはすでに入居していた。しかし引っ越しの挨拶に何度行っても隣人は留守で、隣近所と接点がないのも珍しくないかと諦めた。
結局、男の姿を見たのは、引っ越してかなり経ってからだ。
一緒に住むと言っていたから、隣人の男が紗絵の恋人なのだろう。
結婚に向けてなのか、ただの同棲かはわからないが、隣の部屋で片思いの相手が恋人と暮らし始めるなんて冗談のような話だ。
(建築家として尊敬されてるのはわかるんだが、上司としては嫌われてるだろうし、脈なんてほぼなかったからな)
どうしてこれほど紗絵が好きなのか。自分でも疑問に思うことがしばしばある。
まったく明司の気持ちに気づかない紗絵にイライラし、意地で好きでい続けているような気がしないでもない。
迂闊でミスは多いし、十を言えば五くらいしか頭に入っていない。感情が顔に出やすく、客との打ち合わせでは、はらはらすることばかり。
ただ、いつも一生懸命で、彼女の笑ったり怒ったり忙しい感情の変化を気に入っているのもたしかだった。
本人には、客の前でわかりやすく感情を見せるなと口うるさく言っているのに、変わってほしくないとも思う。
(今は無理でも、いずれはと思っていたんだが……どうするかな)
彼女が目指す一級建築士になったら、自分と肩を並べて同じ仕事ができるようになったら――上司としてではなく一人の男として口説きたい、そう考えていた。
そこまで悠長に構えていられたのは、普段の彼女にまったく男っ気がなく、ほかの男に取られる心配を微塵もしていなかったからだ。
(前に恋人ほしい~とか言ってたよな? でも、合コンなんてする暇もなかったはず。あれからできたのか?)
明司はマンション近くの喫茶店に向かって歩きながら、顎に手を当てる。ぼんやりと考え事をしていても、歩くスピードは速く迷いはない。
駅と隣接する商業施設にも多数の飲食店が入っているが、土日になると近隣から来る客でごった返すため、明司は足を延ばして顔馴染みとなった店主の店を利用していた。モーニングやランチで家庭料理を提供しており、価格も安く、それでいて美味しく、一人暮らしの自分にはありがたい店だ。
古めかしい木のドアを開けて、厨房にいる店主に会釈をする。若い女性店員がやって来て、すぐに席に案内された。
「いらっしゃいませ。あの、こんにちは」
この店で数ヶ月ほど前から働く女性店員は、頬を染めながら伝票を手に明司のもとへ来る。
彼女のような反応は明司にとってなんら珍しくない。好意を持たれているとわかっても迷惑なだけである。
化粧っ気がなく、美人とは言いがたいが、優しそうな顔つきが厨房にいる女性と瓜二つだ。おそらく店主とその妻の娘なのだろう。
二十代に見えるが、ほかの仕事には就いていないのだろうか。それとも平日の朝と土日だけ働いているのか。ふと疑問を持ったが、それを聞くほど彼女に興味があるわけではなかった。
「ランチプレートを」
淡々と返すと、彼女はがっかりしたように視線を落とし、伝票に注文を書き取った。
「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「紅茶で」
「はい、ランチプレート、お飲み物は紅茶ですね」
仕事中に私語をするわけにもいかないのだろう。明司が話しかけてくれるのを待っているのはわかったが、それに応えてやる義理もなかった。
すぐに膨れっ面をする紗絵にも、これくらい可愛げがあればいいのにとは思うものの、こんな風に彼女から言い寄られるところなど想像もつかない。
ぱっちりとした大きな目で、睨むように上目遣いで見てくる紗絵を思い出し、明司は口元を緩ませた。紗絵は美人とは言いがたいが、笑った顔が可愛らしい女性だ。パンツスーツ姿は仕事ができる女性といった雰囲気なのに、喋ると台無しなところもおもしろい。よく食べるわりには腰が細く、胸は意外とある。そんな目で見てしまっていることは絶対に言えないが。
(あと顔を真っ赤にして怒ってるところが、猿みたいに見えるんだよな)
顔に出やすいため、明司を苦手としていることにはすぐ気づいた。だからよけいにからかいたくなってしまい、さらに嫌われるという悪循環。
好きな子をからかうことでしか好意を向けられないなんて小学生か、と間抜けな自分にうんざりするものの、紗絵の表情の変化を見ていることが楽しくてやめられない。
臆さずにぽんぽんと言い返してくるところが特におもしろかった。
「お待たせしました。カレーのランチプレートです。お飲み物は食事が終わった頃にお持ちします」
「ありがとう」
紗絵のことを考えていたからか、そうと気づかず女性店員に向かって笑いかけていたようで、彼女が見る見るうちに顔を真っ赤に染めた。
「あ、あのっ、この近くにお住まいなんですか?」
しまったと目を逸らすが、そんな明司の態度に気づかず、女性がチャンスとばかりに話を続けた。明司は内心舌打ちをしたい気分で、視線をテーブルに落とした。
「えぇ、まぁ。近くのマンションに」
会話のきっかけを作ってしまったことにうんざりした気持ちになったが、こういうことは珍しくもない。明司がスプーンを手にすると、女性は空気を読んだのか一礼しその場を離れていった。
明司は胸を撫で下ろしつつ、食事を進める。
(隣に住むってことは……あいつが恋人と一緒にいるのを見る可能性もあるのか)
自分には膨れっ面しか見せないが、恋人の前にいる時は甘えた顔を見せるのだろうか。カレーの辛さの中に苦味が混じったような気がして、眉を寄せた。
(引っ越すか……いや、待てよ)
むしろ、隣にいるのだから、今までよりもずっと近づきやすくなるのではないか。
プライベートの誘いなどかけても断られるとわかりきっていたため、機が熟すのを待っていたが、それが今なのでは。
(結婚してるわけじゃないんだから、セーフだろ)
これから同棲するという部下と恋人の仲を壊すのは忍びないが、ようやく来たチャンスだとも考えられる。
もちろん彼女に無理強いをするつもりは毛頭ないし、振られたら諦めるくらいの分別はある。だが、なにもせずに諦めるつもりもなかった。
(こんなにも好きだと思ったのは、あいつだけなんだ)
明司は、紗絵と出会った時のことを思い出し、食事の手を止めた。
大学卒業後、父が社長を務める槌谷建設に入社したのは、前々から決まっていたことだった。
面接とも言わぬ面接を通り、おためごかしの親切をやり過ごしながら、槌谷建設に依頼される大型案件に携わる日々は、充実しているようでそうでもなかった。忙しくやりがいはあったが、いつもなにか違うと思っていた。
そんな時だった。父から、面接を担当する役員の一人が病欠だから人数合わせに来いと言われたのは。
面倒だったが、断る理由もなかったために従った。
新卒者の人事面接会場となる会議室では、自分を含め、横一列に並んだ役員たちの前で一人一人の面接が行われていた。
(全員同じに見える……)
ありきたりな自己アピールにうんざりしてきた頃、次の面接者の順番が来て、ひときわ高い声が会議室に響き渡る。
「本田紗絵です! 槌谷明司さんに憧れて、追いかけてここに来ました! 槌谷建設以外で働きたくありません!」
まさか大学生の口から自分の名前が飛び出すとは思わず、明司は手に持ったペンを落としそうになりながら彼女の顔を凝視する。
彼女は、緊張なのか興奮なのか頬を赤らめ、一生懸命自己アピールをしているものの、その内容のほとんどが建築家、槌谷明司の話で、担当する面接官も苦笑を漏らしていた。
自分をアピールしないで、いかに明司が建築家として優れているかを語ってどうすると皆が思い始めた時。
「いつか……槌谷明司さんの設計する家を見たいんです。国際コンペで最優秀賞を取った『ずっと住み続けられる家』は、まるで本当にそこに人が住んでいるみたいでした。そこに住む誰かを想像して造ったってわかったんです。あんな風に誰かの心に触れる作品を手がけたいと思いました。槌谷さんの近くで働きたい。部下になりたいんです。御社が個人住宅の仕事を請け負っていないのは重々承知していますが、少しでも可能性があるなら、諦めたくないんです」
まさか、コンペに出した明司の作品を知っている学生がいるとは思わなかった。国際コンクールではあるものの、学生向けのコンペということもあり新聞に小さく載った程度なのに。
二十代で受賞した建築賞の話題は、関わる人の口に度々上ったが、まさか学生時代に制作した『ずっと住み続けられる家』について熱く語られるなんて夢にも思わなかった。
(あれについて褒められるのは……くすぐったいというか、恥ずかしいというか)
隣に座る父が、なにやらニヤニヤ笑いを浮かべて彼女を見て、明司に視線を向ける。
明司は二人から目を逸らし、赤くなりそうな頬を手のひらで押さえた。
学生時代に制作した『ずっと住み続けられる家』は、自分が理想とする家族像を模型として形取ったものだ。
明司が物心ついた時には、両親の夫婦仲はすっかり冷え切っていた。
自分を育ててくれたのは住み込みの家政婦のチエだし、勉強を見てくれたのは家庭教師だ。父とはそれなりに話す機会はあったが、母とは顔を合わせることも少ない。
大学に入った頃には、互いをいない人として扱う両親にうんざりして家を出たものの、心の根底にある家族への憧れは人一倍強かった。
幸せそうな家族に憧れと妬みはあっても、自分は世間一般から言えば非常に恵まれている。だから誰にも言えなかった。
あの作品は、そんなもやもやした気持ちを抱えていた自分が、もしなにか一つでも違っていれば、こんな未来もあったのではないかと考えながら作ったものだった。
気持ちを作品としたことで、自分自身が救われたような気がした。運良く最優秀賞という結果になり、気持ちに一区切りついた瞬間でもあったのだ。
(あの時……家を造る楽しさを知ったんだよな。まぁ模型なんだが)
槌谷家では叶えられなかったが、家族と自然と会話ができる家を造りたい。そこに住む人に笑顔をもたらしたい。
そんな思いが、あの頃から自分の心の奥底にあったのだと気づいた。
誠に電話を入れると、すぐに電話は繋がった。
「あ、お兄ちゃん? 私」
『なに?』
「ちょっと困ったことになっちゃって。すぐに今のマンションを出ていかなきゃならないんだけど、引っ越し先が決まるまで、お兄ちゃんのところに居候させてくれない?」
事情を説明すると、電話の向こうから深いため息が聞こえてきた。誠は兄として妹のうっかりミスを何度も見てきているため、怒るのも疲れるというところだろう。
『わかった。俺、一ヶ月ほどいないから、空いた部屋を使っていい。その代わり俺が帰ったあとの掃除もゴミ捨ても全部お前な? あと、さっさと引っ越し先を決めて出ていくこと。邪魔だから』
「はい、すみません」
明司に返事をするように小さくなって答えると、兄にふんと鼻で笑われた。
『珍しく殊勝だな』
「昨日上司からも迂闊だって怒られたから、ちょっと反省してるとこ」
妹の仕事にまったく興味がなかったのか『へぇ』とだけ返され、電話を切られたのだった。
第二章
次の土曜日。引っ越し業者に来てもらい、荷物をすべて運び出した。
すぐに使うものや貴重品は手荷物として運ぶため、けっこう重い。
紗絵は最後に退去の手続きを取り、兄のマンションへ急いだ。
兄が住む部屋は品川区内に建つ二十階建ての分譲マンションだ。
築年数は新しく、駅からもそれなりに近い。住人はファミリー層が多いらしい。オートロックにコンシェルジュサービス、プール、ジム完備とあり、何期かに分けての予約販売で全戸数完売したと聞いた。
エリート商社マンの兄は、恋人と結婚したあと、ここで生活ができるようにとマンションを買ったようだ。しかし、出張ばかりですれ違うことも多く、なかなかプロポーズに踏み切れないらしい。
鍵を開けて待っていると、三十分も経たずに引っ越し業者がやって来る。
出張でいない兄が紗絵のために空き部屋を掃除していてくれるはずもなく、業者がベッドを運び込む前に急いで部屋の掃除をした。
段ボールが部屋の端に積まれていくのを見ながら、肩を落とす。片付けることを考えるだけで頭が痛くなりそうだ。
(これ、一日くらい有給使っても良かったんじゃない?)
荷造りのほとんどを業者任せにしたとはいえ、使わない家具を一時的に預けるための倉庫の手配や、電気、ガス、水道への連絡。やることは山ほどあったのだ。
とりあえず寝られるようになったところで力尽き、紗絵は綺麗になったフローリングの上でごろりと大の字に寝転がる。
「あぁぁ、もう、お腹空いた~!」
午前中からばたばたと動き、時刻はすでに十五時を過ぎている。紗絵は朝からなにも食べていなかった。冷蔵庫の整理をしたあと、朝食を買っておくのを忘れたのだ。
叫んだところで誰かが用意してくれるはずもない。段ボールの片付けはまだ終わっていないが、休憩を兼ねて近所を歩いてみようと思い立ち、身体を起こした。
ジーンズとTシャツの上からパーカーを羽織り、バッグと鍵を持って部屋を出ると、隣の角部屋のドアが開き男性が出てくる。
「こんにちは」
これからしばらくはこの部屋に住むのだ。挨拶をしておいた方がいいだろうと声をかけた。
しかし男性がこちらを向いた瞬間、紗絵は頭がバグッたような、意識が遠くなっていくような不思議な感覚に陥る。どうやら現実逃避をしていたらしい。
「な、なんで……こんなところに」
「それはこっちのセリフだ」
隣の部屋から出てきた明司は、驚いているというより不機嫌そうな顔で紗絵を睨めつけていた。
そういえばこのマンションは槌谷建設が担当していたんだった、と思い出すと同時に、隣人が上司という絶望感に襲われる。
(もしかしたら、友だちが住んでて遊びにきただけかも)
けれどその希望は、すぐさま打ち砕かれる。
「社長は、ここにお住まいに?」
「そうだが」
一縷の望みにかけて尋ねるが、呆気なく肯定されてしまった。
紗絵はあからさまにがっくりと肩を落とした。
「お前は?」
「あの、今日引っ越してきまして」
明司はスーツこそ着ていないが、ワイシャツに緩めのパンツスタイルで、埃まみれのラフ過ぎる自分の格好とは大違いだ。
「隣の住人、引っ越したのか」
明司はそう言いながら眉を上げた。
「じゃなくて、一緒に暮らすことに」
「そうか。会社への住所変更手続きを、うっかり忘れるなよ」
兄と、と言う前に話を遮られて、彼は紗絵を置いてエレベーターホールへ向かってしまう。
「さすがに忘れませんよ」
明司の背中を追いかけながら声をかけるが、返事はなかった。
エレベーターを待つ間も、微妙な沈黙が落ちる。仕事で会話はするが、プライベートの会話などこの六年一度だってしていない。
(別に一緒に来ることなかったんじゃ……)
今さら気づいても遅かった。
さすがに会社から離れた場所で怒られるとは思わないが、明司といると、またなにか怒られるのではと身構えてしまう。
(忘れ物したって言って、部屋に戻れば良かった)
到着したエレベーターに乗り込み、紗絵がロビー階のボタンを押す。
「社長は、お買い物ですか?」
さすがにエレベーター内で「今日はいい天気ですね」という会話もないだろうと、無難な話題を口にすると、明司からは「あぁ」とだけ返事があった。
(続かない……続かないよ!)
間が持たずに紗絵がエレベーターの階数表示にばかり目を向けていると、同じように上を見ていた明司が口を開いた。
「片付け大変だろ? 休みを取らなくて良かったのか?」
「え、取らせてくれたんですか?」
テンポ良くそう聞き返してしまったのは、毎日、打ち合わせやら役所への用事やらが詰まっている状況で休みの申請などできるはずがない、という思いからだった。
「当たり前だ。有給休暇を取得する権利があるんだから使えばいい」
「え、どの口が」
取得する権利があったとしても休める状況ではなかったと、誰より知っているはずなのに。当然のように言われると、苛立ちのあまり、つい口に出してしまう。
怒られるかと思ったのに、明司はなにも言わなかった。
しばらくして突然、隣から小さな笑い声が聞こえてくる。空耳かと首を傾げたところでエレベーターが一階に到着した。
「……じゃ、私はこれで失礼します!」
紗絵は、脱兎のごとくエレベーターを飛び出し、ロビーを走った。
「おいっ」
背後から声をかけられても知らないふりをする。
エントランスに出ると、マンションに入ってくる子ども連れの母親とすれ違った。母親は小綺麗なワンピースに身を包み、子どもと手を繋いでいる。
一方紗絵は、パーカー、埃にまみれたTシャツとジーンズ、薄汚れたスニーカーだ。もちろん、いつもこうではないし、引っ越し作業のための格好ではあるが、なんとなくロビーに立つコンシェルジュの視線も不審者を見るような目だった気がした。
(これ……明らかに浮いてるって。着替えてくれば良かった)
この格好で明司の隣に立っていたと考えると、よけいに恥ずかしくなる。
(ほんと、こういうところがだめなんだ)
きっと明司にも呆れられたことだろう。
(別に、社長になんて思われてもいいんだけど。そうなんだけど!)
美形の隣に立つには、この格好では戦闘力が足りな過ぎるのだ。逃げてきて良かった、と胸を撫で下ろしながら、賑わった方へ歩いていく。
この辺りは駅からそれなりに近く利便性もいい。
駅に直結した商業ビルにはスーパーはもちろん、若者向けのファッションブランドも多数入っており、買い物にも困らない。
兄は三十五年ローンだと言っていたが、相当の収入がなければローンの審査は通らないはずだ。
(社長の部屋は角部屋だし、たぶんお兄ちゃんの部屋より広いはず……一人暮らしなのかな?)
もしかしたら結婚の予定でもあるのだろうか。遊び慣れていそうな印象はあるが、明司の浮いた話はまったく聞かない。ただ、恋人がいないとも思えない。
明司の恋人になる女性はどういう人なのだろう。そんなことを考えていると、私なんて恋人どころか出会いすらないのに、というひねくれた思いが湧き上がってくる。
(あの人の恋人は、こんなぼろぼろの格好とか絶対しないでしょ)
隣に住んでいれば、この先、明司の恋人とすれ違う可能性もあるかもしれない。ぼろぼろで疲れ果てて帰ったところに、恋人といちゃつく上司の姿を見せられるのはかなりのストレスだ。
紗絵は、職場にも家にも安らぐ場所がなくなってしまったかのような絶望感でいっぱいになりながら、一人焼き肉店の暖簾を潜った。
ランチと単品で肉を数種類注文し、それを待つ間、大学時代からの友人へ電話をかける。紗絵の仕事が忙しく、また友人の土日は彼氏のためにあるため、なかなか会えないが、電話だけは頻繁にしていた。
「あ、由美子? 私~」
周囲の迷惑にならないように声を潜めるが、学生やファミリー客が多くかなり騒がしいため、そこまで会話に気を遣わなくても良さそうだ。
『引っ越し終わったの?』
「終わった。片付けは終わってないけど」
『なんかざわざわしてない? どこで電話してるのよ』
「焼き肉屋。朝からなにも食べてなくてさ~。それより、ちょっと聞いてくれる!?」
紗絵はスマートフォンを右手から左手に持ち替えて、テーブルに置かれた皿を手前に引き寄せる。皿に焼き肉のタレを入れたところで、肉がテーブルに並べられた。
『またなにかあったの? 憧れの社長と』
茶化すような口調で言われるのもいつものことだ。紗絵がそれだけ明司の話題を出しているからである。ただ、由美子はなにか勘違いをしているようで、明司と自分が恋愛関係になるような言葉を頻繁に口にした。
(そんなわけないのにね)
紗絵は苦笑しつつ、つい先ほど明司に会ったという話をした。
『まさかの隣人!? え、もうそれ運命じゃない?』
「なに言ってんの。隣にいるとか、朝から晩まで見張られてるみたいじゃん……もう泣きそうだよ」
愚痴を言うために電話をしたのに、なぜか由美子のテンションは高い。
『え~だって、憧れの人なんでしょ? 昔、槌谷明司さんのそばで仕事ができるなんて幸せ~とか言ってなかった?』
「言ったよ! 言ったし、今でもそう思ってるけど! 由美子だって社長の嫌味を聞いたらわかるって。この間なんて『お前は学生時代にもう少し寸法感覚を学んでおくべきだったな。ちゃんと卒業したのか?』とか言うんだよ!? 信じられない!」
『社長の言ったこと一字一句覚えてる辺り、突っ込みどころ満載なんだけど』
「覚えてるに決まってるよ! 私、社長のこと一日中がっつり見てるからね」
『へぇ~がっつり。性格悪いとか言いながらやっぱり好きなんじゃないの?』
「そういう好きじゃないってば。本人に言えないんだから聞いてよ! そりゃムカつくことの方が多いんだけど、あの才能の前では性格とかどうでも良くなっちゃうんだよね。まず外観デザインのセンスが天才的でしょ。それに目立たないところもすごいっていうか。ドS上司だけど、私、ほんと社長のそばで働けて良かった……」
『それで恋愛じゃないとか意味不明。いつも愚痴から始まって、最後は社長の賞賛で終わるよね』
「憧れと恋愛は違うの」
『へぇ~まぁ頑張って。そのうちいい話を聞けることを期待してるんだから。ね、片付け落ち着いたらご飯行こうよ。連絡して。じゃあ彼が構えって言ってるから切るね』
「ちょ、待っ……切れた」
謎の言葉を残され、一方的に電話を切られてしまう。話し足りなかった紗絵は、友人の素っ気なさにふてくされながらスマートフォンをテーブルに置いた。
金網の上に置いた肉はほどよく火が通り食べ頃だ。それを皿に取り、タレをつけて口に運ぶ。
(ん~美味しい!)
紗絵は二人前以上の肉を平らげてお腹を満たすと、街の散策に出かけたのだった。
* * *
明司は遠ざかっていく小さな背中を見送りながら、行き場をなくした手をゆっくり下ろした。声に出そうなため息をなんとか呑み込み、エレベーターから降りる。
「一緒に暮らすって言ってたよな」
年下の部下に振り回されている自覚はあるが、声に出すとますます深く落ち込んでしまう。失恋程度でダメージを受ける自分の弱さに顔を顰めた。
隣に住んでいたのは、自分と同世代の三十代の男だったはずだ。ただ、思い出そうとしても顔が出てこない。
明司がこの部屋を購入した時にはすでに入居していた。しかし引っ越しの挨拶に何度行っても隣人は留守で、隣近所と接点がないのも珍しくないかと諦めた。
結局、男の姿を見たのは、引っ越してかなり経ってからだ。
一緒に住むと言っていたから、隣人の男が紗絵の恋人なのだろう。
結婚に向けてなのか、ただの同棲かはわからないが、隣の部屋で片思いの相手が恋人と暮らし始めるなんて冗談のような話だ。
(建築家として尊敬されてるのはわかるんだが、上司としては嫌われてるだろうし、脈なんてほぼなかったからな)
どうしてこれほど紗絵が好きなのか。自分でも疑問に思うことがしばしばある。
まったく明司の気持ちに気づかない紗絵にイライラし、意地で好きでい続けているような気がしないでもない。
迂闊でミスは多いし、十を言えば五くらいしか頭に入っていない。感情が顔に出やすく、客との打ち合わせでは、はらはらすることばかり。
ただ、いつも一生懸命で、彼女の笑ったり怒ったり忙しい感情の変化を気に入っているのもたしかだった。
本人には、客の前でわかりやすく感情を見せるなと口うるさく言っているのに、変わってほしくないとも思う。
(今は無理でも、いずれはと思っていたんだが……どうするかな)
彼女が目指す一級建築士になったら、自分と肩を並べて同じ仕事ができるようになったら――上司としてではなく一人の男として口説きたい、そう考えていた。
そこまで悠長に構えていられたのは、普段の彼女にまったく男っ気がなく、ほかの男に取られる心配を微塵もしていなかったからだ。
(前に恋人ほしい~とか言ってたよな? でも、合コンなんてする暇もなかったはず。あれからできたのか?)
明司はマンション近くの喫茶店に向かって歩きながら、顎に手を当てる。ぼんやりと考え事をしていても、歩くスピードは速く迷いはない。
駅と隣接する商業施設にも多数の飲食店が入っているが、土日になると近隣から来る客でごった返すため、明司は足を延ばして顔馴染みとなった店主の店を利用していた。モーニングやランチで家庭料理を提供しており、価格も安く、それでいて美味しく、一人暮らしの自分にはありがたい店だ。
古めかしい木のドアを開けて、厨房にいる店主に会釈をする。若い女性店員がやって来て、すぐに席に案内された。
「いらっしゃいませ。あの、こんにちは」
この店で数ヶ月ほど前から働く女性店員は、頬を染めながら伝票を手に明司のもとへ来る。
彼女のような反応は明司にとってなんら珍しくない。好意を持たれているとわかっても迷惑なだけである。
化粧っ気がなく、美人とは言いがたいが、優しそうな顔つきが厨房にいる女性と瓜二つだ。おそらく店主とその妻の娘なのだろう。
二十代に見えるが、ほかの仕事には就いていないのだろうか。それとも平日の朝と土日だけ働いているのか。ふと疑問を持ったが、それを聞くほど彼女に興味があるわけではなかった。
「ランチプレートを」
淡々と返すと、彼女はがっかりしたように視線を落とし、伝票に注文を書き取った。
「かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「紅茶で」
「はい、ランチプレート、お飲み物は紅茶ですね」
仕事中に私語をするわけにもいかないのだろう。明司が話しかけてくれるのを待っているのはわかったが、それに応えてやる義理もなかった。
すぐに膨れっ面をする紗絵にも、これくらい可愛げがあればいいのにとは思うものの、こんな風に彼女から言い寄られるところなど想像もつかない。
ぱっちりとした大きな目で、睨むように上目遣いで見てくる紗絵を思い出し、明司は口元を緩ませた。紗絵は美人とは言いがたいが、笑った顔が可愛らしい女性だ。パンツスーツ姿は仕事ができる女性といった雰囲気なのに、喋ると台無しなところもおもしろい。よく食べるわりには腰が細く、胸は意外とある。そんな目で見てしまっていることは絶対に言えないが。
(あと顔を真っ赤にして怒ってるところが、猿みたいに見えるんだよな)
顔に出やすいため、明司を苦手としていることにはすぐ気づいた。だからよけいにからかいたくなってしまい、さらに嫌われるという悪循環。
好きな子をからかうことでしか好意を向けられないなんて小学生か、と間抜けな自分にうんざりするものの、紗絵の表情の変化を見ていることが楽しくてやめられない。
臆さずにぽんぽんと言い返してくるところが特におもしろかった。
「お待たせしました。カレーのランチプレートです。お飲み物は食事が終わった頃にお持ちします」
「ありがとう」
紗絵のことを考えていたからか、そうと気づかず女性店員に向かって笑いかけていたようで、彼女が見る見るうちに顔を真っ赤に染めた。
「あ、あのっ、この近くにお住まいなんですか?」
しまったと目を逸らすが、そんな明司の態度に気づかず、女性がチャンスとばかりに話を続けた。明司は内心舌打ちをしたい気分で、視線をテーブルに落とした。
「えぇ、まぁ。近くのマンションに」
会話のきっかけを作ってしまったことにうんざりした気持ちになったが、こういうことは珍しくもない。明司がスプーンを手にすると、女性は空気を読んだのか一礼しその場を離れていった。
明司は胸を撫で下ろしつつ、食事を進める。
(隣に住むってことは……あいつが恋人と一緒にいるのを見る可能性もあるのか)
自分には膨れっ面しか見せないが、恋人の前にいる時は甘えた顔を見せるのだろうか。カレーの辛さの中に苦味が混じったような気がして、眉を寄せた。
(引っ越すか……いや、待てよ)
むしろ、隣にいるのだから、今までよりもずっと近づきやすくなるのではないか。
プライベートの誘いなどかけても断られるとわかりきっていたため、機が熟すのを待っていたが、それが今なのでは。
(結婚してるわけじゃないんだから、セーフだろ)
これから同棲するという部下と恋人の仲を壊すのは忍びないが、ようやく来たチャンスだとも考えられる。
もちろん彼女に無理強いをするつもりは毛頭ないし、振られたら諦めるくらいの分別はある。だが、なにもせずに諦めるつもりもなかった。
(こんなにも好きだと思ったのは、あいつだけなんだ)
明司は、紗絵と出会った時のことを思い出し、食事の手を止めた。
大学卒業後、父が社長を務める槌谷建設に入社したのは、前々から決まっていたことだった。
面接とも言わぬ面接を通り、おためごかしの親切をやり過ごしながら、槌谷建設に依頼される大型案件に携わる日々は、充実しているようでそうでもなかった。忙しくやりがいはあったが、いつもなにか違うと思っていた。
そんな時だった。父から、面接を担当する役員の一人が病欠だから人数合わせに来いと言われたのは。
面倒だったが、断る理由もなかったために従った。
新卒者の人事面接会場となる会議室では、自分を含め、横一列に並んだ役員たちの前で一人一人の面接が行われていた。
(全員同じに見える……)
ありきたりな自己アピールにうんざりしてきた頃、次の面接者の順番が来て、ひときわ高い声が会議室に響き渡る。
「本田紗絵です! 槌谷明司さんに憧れて、追いかけてここに来ました! 槌谷建設以外で働きたくありません!」
まさか大学生の口から自分の名前が飛び出すとは思わず、明司は手に持ったペンを落としそうになりながら彼女の顔を凝視する。
彼女は、緊張なのか興奮なのか頬を赤らめ、一生懸命自己アピールをしているものの、その内容のほとんどが建築家、槌谷明司の話で、担当する面接官も苦笑を漏らしていた。
自分をアピールしないで、いかに明司が建築家として優れているかを語ってどうすると皆が思い始めた時。
「いつか……槌谷明司さんの設計する家を見たいんです。国際コンペで最優秀賞を取った『ずっと住み続けられる家』は、まるで本当にそこに人が住んでいるみたいでした。そこに住む誰かを想像して造ったってわかったんです。あんな風に誰かの心に触れる作品を手がけたいと思いました。槌谷さんの近くで働きたい。部下になりたいんです。御社が個人住宅の仕事を請け負っていないのは重々承知していますが、少しでも可能性があるなら、諦めたくないんです」
まさか、コンペに出した明司の作品を知っている学生がいるとは思わなかった。国際コンクールではあるものの、学生向けのコンペということもあり新聞に小さく載った程度なのに。
二十代で受賞した建築賞の話題は、関わる人の口に度々上ったが、まさか学生時代に制作した『ずっと住み続けられる家』について熱く語られるなんて夢にも思わなかった。
(あれについて褒められるのは……くすぐったいというか、恥ずかしいというか)
隣に座る父が、なにやらニヤニヤ笑いを浮かべて彼女を見て、明司に視線を向ける。
明司は二人から目を逸らし、赤くなりそうな頬を手のひらで押さえた。
学生時代に制作した『ずっと住み続けられる家』は、自分が理想とする家族像を模型として形取ったものだ。
明司が物心ついた時には、両親の夫婦仲はすっかり冷え切っていた。
自分を育ててくれたのは住み込みの家政婦のチエだし、勉強を見てくれたのは家庭教師だ。父とはそれなりに話す機会はあったが、母とは顔を合わせることも少ない。
大学に入った頃には、互いをいない人として扱う両親にうんざりして家を出たものの、心の根底にある家族への憧れは人一倍強かった。
幸せそうな家族に憧れと妬みはあっても、自分は世間一般から言えば非常に恵まれている。だから誰にも言えなかった。
あの作品は、そんなもやもやした気持ちを抱えていた自分が、もしなにか一つでも違っていれば、こんな未来もあったのではないかと考えながら作ったものだった。
気持ちを作品としたことで、自分自身が救われたような気がした。運良く最優秀賞という結果になり、気持ちに一区切りついた瞬間でもあったのだ。
(あの時……家を造る楽しさを知ったんだよな。まぁ模型なんだが)
槌谷家では叶えられなかったが、家族と自然と会話ができる家を造りたい。そこに住む人に笑顔をもたらしたい。
そんな思いが、あの頃から自分の心の奥底にあったのだと気づいた。
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