ドS社長の過保護な執愛

本郷アキ

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1巻

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 毎日の仕事に不満はないのに、どこか空虚な思いを抱えていた理由はこれだったのかと悟り、胸が熱くなった。
 明司は噴きだしそうになる口元を押さえて、手元にあるメモ帳に〝本田紗絵〟と名前を書いた。
 おそらく目の前の椅子に座る彼女は、自分が熱く語っている槌谷明司がこの場にいるなんて夢にも思っていないだろう。
 インターネットで調べればいくらでも経歴は出てくるが、彼女が明司の顔を知らないであろうことは簡単に想像がついた。

(本田紗絵か。望み通り俺の部下にしてやるってこの場で言ったら、どんな顔をするかね)

 その後、父に頼み、槌谷建設の子会社として槌谷住宅を発足ほっそくした。父が決めたメンバーの中に、入社したばかりの本田紗絵の名前を見つけた。なんだか父の手のひらで転がされている気がしないでもないが、断る理由はない。
 上司として手取り足取り仕事を教えてきたのは、自分に道を示してくれたことへの感謝と、個人的に紗絵を気に入ったからだ。
 最初こそ明司の顔にだまされかけてくれたのに、人間性を知っていくうちに彼女の目に落胆が見えて、それが非常におもしろかった。
 槌谷明司という男をどこか神聖視しているようだったから、理想が崩れたのだろう。それでいいと思った。
 その頃には、偶像ではなく一人の男として彼女に自分を見てもらいたいと望んでいたから。

(性格の悪い上司と思われてるのを知っていて、何年好きでいると思ってるんだ。簡単に手放せる程度の気持ちなら、こんなにがれてはいないだろう?)

 自分自身にそう言い聞かせる。
 略奪など自分の趣味ではない。
 紗絵の幸せを壊したいとは思わないが、なにもしなければ始まりさえしない。黙って見守っているだけの時間はもう終わりだ。

(楽しみだな)

 彼女をどうやって捕らえるか、考えるだけで気持ちが湧き立つ。もし紗絵がこの場にいたならば、自分の顔を見て一目散に逃げだしたことだろう。
 明司は食事を終えると、会計のために席を立った。視線でアプローチしてくる女性店員には目もくれず、愛しい部下に思いをせるのだった。



   第三章


 一日片付けに追われた日曜日が過ぎ、翌月曜日。
 紗絵はいつもよりも三十分早く起き、身支度を調えた。

(ドアを開けた瞬間に社長の顔は見たくないし、うん、早く行こう)

 明司がいつも会社に着く時間は、八時四十五分。始業十五分前だ。
 このマンションから会社までは徒歩と電車を合わせて約四十五分。
 本来は八時前に家を出れば十分に間に合うのだが、そうするとばったり明司と会ってしまう可能性が高い。少し早過ぎる気もするが、七時半に家を出た。

(気づかれませんように~!)

 紗絵は、ゴミ袋を持ちながら足音を立てないように廊下を歩いた。
 エレベーターホールを見回し、明司の姿がないことを確認する。エレベーターに飛び乗り、閉まるボタンを連打してほっと息を吐いた。

(混雑してる電車内で会うことはないだろうし、まだ時間もあるから、どこかでモーニングでも食べていこうかな)

 駅に隣接する商業施設内には、フードコートやレストランが多数入っているものの、土日は混雑していて一人でまったりと過ごせるような場所はなさそうだった。
 土曜日に駅までの道を探索し、朝から開いている喫茶店や、ランチに使えそうなレストランをいくつか見つけた。紗絵は手に持ったゴミを捨てて、その中の一つに向かって歩きだす。

(ここ、通りかかって気になってたんだよね)

 駅に向かう途中にある五階建てビルの一階に、こぢんまりとした喫茶店が入っている。ビルの外階段の踊り場に設置されたポストは二つで、一つは喫茶店の名前、もう一つには名前が入っているため、二階より上を倉庫や住居として使用しているのかもしれない。ビルも喫茶店も、商業施設に比べると古めかしさが拭えない。木の枠のはめ込みガラスで造られたドアを押すと、カランとベルが鳴り響く。

(昔からある店は、絶対に美味おいしいって相場が決まってるんだから)

 温かみのある木目調のタイル床や、同じ色合いのテーブルや椅子が目に入った。白い壁は経年劣化により多少薄汚れているが、掃除は行き届いているようだ。店内はそう広くなく、カウンターの奧には厨房ちゅうぼうがあった。お腹がくようないい匂いがただよってくる。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」

 二十代くらいの女性店員に声をかけられて席に案内された。
 二人席が二つと、四人席が四つ。あとはカウンターのある店内の席は、まばらに埋まっていた。
 カウンターの奥にいるのは四、五十代の男女だ。夫婦と娘で店を切り盛りしているのかもしれない。
 紗絵はメニューを見て、ワンコインで食べられるモーニングを注文した。するとドアベルが鳴り響き、店内に客が入ってくる。なんともなしにそちらに目をやると、入ってきたばかりの男性客と目が合った。

(うそでしょ!)

 一瞬、彼がにやりと笑ったような気がする。店員の案内を断り、こちらに向かってくるのはなぜか、目の前の椅子を引き堂々と座るのはなぜなのか。

「おはようございます」
「朝から鬱々うつうつとしたため息だな。飯がまずくなりそうだ」

 誰のせいだと――その言葉をなんとか呑み込んで、紗絵は笑みを浮かべた。

(飯がまずくなりそうなら、ここに座らなければいいのでは……っ?)

 額に青筋が浮かぶが、口には出さない。
 朝から明司に会わないように早く家を出てきたというのに、まさかそれが裏目に出るとは思わなかった。雰囲気のいい店で気に入ったが、もうここにはこない。明日からは家で朝食をとろうと決める。

「モーニングを。飲み物はホットコーヒー」
「かしこまりました。あの……今日は、お一人じゃないんですね」

 女性店員が明司に声をかけた。どうやら明司はこの店の常連らしい。ますます店選びを間違ったとしか言いようがない。

「えぇ、まぁ」

 明司は紗絵との関係をにごし、そう答える。女性は気になってたまらないのか、明司と紗絵を交互に見ては、なにかを言いかけて口を閉じた。

「社長は、こちらによくいらっしゃるんですか?」

 彼女の気持ちを察した紗絵は、問題にならない程度に助け船を出す。
 女性店員は紗絵が部下だと知って安心したのか、口元を緩めて伝票を手に厨房ちゅうぼうへ声をかけた。

「たまにな」
「へぇ、そうですか。相変わらずモテますね」

 このようなことは珍しくない。
 今までも仕事中、明司に同じような視線を向ける女性は数多くいた。当然、紗絵を相手にした時のような嫌味なんて言うはずもないから、実地調査におもむくだけで近隣の奥様方がわさわさと寄ってくるくらいだ。紗絵はそのたびに明司の本性を暴露したくなる。

「そうか?」

 明司は飄々ひょうひょうと答える。気づいているくせにとにらんでも、軽く受け流された。

「別に、いいんですけど」
「へぇ、嫉妬でもしてるのかと思った」
「し、してるわけないじゃないですか! 変なこと言わないでくださいよ」

 図星を突かれたわけでもないのに、頬が熱くなってくる。百戦錬磨の男にかかれば、ここ最近恋人のいない紗絵など赤子の手をひねるより簡単にもてあそばれてしまいそうだ。

「お前になら、嫉妬されるのも悪くないと思ったのになぁ、残念」

 真っ直ぐに見つめられ、人が違ったように微笑まれる。
 怒られてばかりだからか、あまり明司の笑った顔を見た記憶がない。だが、こんな顔で見つめられたら、ドSで性格が最悪な上司であっても見蕩れてしまう。
 明司の目を見ていられず、いつものように膨れっつらで目を逸らした。

「社長? 疲れてます? なんか変ですよ」
「お前よりは元気だよ」

 最近仕事が忙し過ぎるせいで、紗絵が別の女にでも見えているのだろうか。

(あ、わかった……さっきの人のアプローチが面倒だからって、私を恋人だと勘違いさせようとしてるのかも)

 外見だけでもこれだけモテるのに、それを鼻にかける様子もなくむしろ迷惑そうにしているのは、女性からのアプローチに慣れているからに違いない。
 咄嗟とっさに紗絵を恋人に仕立て上げるところなんて、スマート過ぎて一瞬、おかしな勘違いをしてしまいそうだった。

(でも、誰にもなびかないよね。やっぱり本命がいるのかな?)

 仕事での明司しか知らないが、恋人相手にはこんな風に優しい顔を見せるのかもしれない。女性の顔を見て、飯がまずくなるなどと本命相手には言わないだろう。

(なんか……ムカつく)

 どうして紗絵がイライラしなければならないのか。恋人にするように優しくしてほしいなどと思っているわけでもないのに。
 明司が厳しいのは紗絵が部下だからで、失敗ばかりするからだ。もっと仕事ができるようになればもしかしたら、と考えてしまい首を傾げる。

(それじゃあ、社長に恋人にするように接してほしいみたいじゃない。そりゃ、もうちょっと性格が良ければとは思うけど)

 時折、建築家・槌谷明司への憧れと、普段のドS鬼上司への苛立ちがごちゃ混ぜになることがある。

「社長は……いつもこの時間に?」

 なんだかよくわからない感情に襲われて、咄嗟とっさに話を変えた。

「残念だったな? せっかく、俺に会わないように朝早く出たのになぁ」

 明司は声をひそめて顔を寄せてくる。二十センチは離れていたが、仕事中にはない距離感に、戸惑いと緊張、羞恥しゅうちが同時にやってくる。

「な、なんで知ってるんですか」

 まさかそこからバレているとは思わず、驚いた。部屋を出てキョロキョロしていたところでも見られていたのだろうか。

「お前の行動なんてお見通しだ。何年上司やってると思ってる。一階のロビーでキョロキョロしてる姿は、完全に不審者だったぞ」
「まさか後ろからついてきて……っ?」
「そんなわけあるか。別のエレベーターに乗っていただけだ」
「そうですか」
「お待たせしました。モーニングプレートです」

 話をしている間に、頼んだ料理が運ばれてくる。生野菜にハムエッグ、トーストしたパンが載せられたプレートに、かぼちゃのポタージュもセットになっていて、見栄えが良くて美味おいしそうだ。ちなみに半分に切られたパンはおかわり自由らしい。

「うわ~美味おいしそう!」
「ほら」

 明司に手渡されたフォークをプレートに置き、両手を合わせる。

「ありがとうございます。いただきまーす」

 なにやら、ふっと笑われたような気配がするがいちいち気にしない。トーストをおかわりしたいし、早めに家を出たとはいえ時間は三十分ほどしかないのだ。
 バターの塗られたパンは、いつもコンビニで買っている食パンよりもずっと美味おいしい。紗絵は無言で食事を進めた。

「すみません、トーストのおかわりください! あ、社長もいります?」
「あぁ」
「二つください」

 紗絵がまとめて注文すると、いよいよ明司がこらえきれない様子で笑いだす。

「なんですか」
「いや、昼飯食ってる時も思ってたんだが、お前、よく食うよなぁ。しかも食うのがやたら速い」

 自分のプレートと明司のプレートを比べて見ると、食べるスピードはほとんど大差ない。けれど紗絵はもともと早食いではなかったはずだ。どうしてかと考えると、仕事を始めてからだと思い至る。

「うちの会社が忙し過ぎるからだと思います」
「昼の休憩はきっちり一時間取れよ」
「私の仕事が遅いから取れないんです! 食べられない時もあるし! わかってるくせに言わせないでくださいよ。へこむじゃないですか」

 少しでも早く帰るために、一時間の休憩を三十分ほど繰り上げて仕事をしているが、それでも帰宅時間は遅かった。だが、自分以上に仕事を抱えている明司にそれを言うなんて、あまりに不甲斐なさ過ぎるだろう。

「以前より確実に速くなってるし、ミスも減ったと思うがな」
「そう……ですか?」
「あぁ」

 明司がこんな風に紗絵をなぐさめるような言葉をかけることは珍しい。「普段からそれくらいめてくださいよ」と茶化せないくらい嬉しくて、緩みそうになる口元を引き締めた。

「それに、残業しないために昼食抜いても、集中できずにペースが落ちるだけだぞ。休憩時間はしっかり脳を休めろ」

 けれど、しっかり小言を付け加えるのは忘れないらしい。

「わかってても、とんでもなくできる上司が近くにいると焦るんです」

 紗絵は恥ずかしさを誤魔化すように平常心をよそおい、唇を尖らせて言った。ただ、発した言葉は誤魔化しではなく本心だ。
 明司からしたら紗絵など眼中にもないはずだ。ライバルなんて関係にもなれていない。勝手に勝負を挑んで負けた気になっているのは自分だけ。それでも、憧れてやまず彼の背中を追いかけ続けてしまう。
 たとえ才能は適わなくとも、一日も早く一級建築士の資格を取って同程度の仕事ができるようになりたいと焦った結果、うっかりミスをやらかして怒られてばかりいるのだから笑えない。

「比べてどうする。俺とお前は、実績も経験も違うだろうが」
「でも、三歳しか離れてないじゃないですか」

 明司が十も二十も上だったなら、これほどの焦りは感じなかっただろう。負けたと思ったところで悔しくもなかったはずだ。
 数々の作品を生みだした偉大な建築家たちに対して、畏敬いけいの念を抱くことはあっても、腹立たしい感情に振り回されたりはしないように。

「年齢は関係ねぇよ。父親の仕事の関係で、俺には小さい頃からすでに土台があった。本田が初めて建築に触れたのは大学だろ?」
「そう、ですけど」
「賞なんて取るとな、周囲の期待がその分大きくなる。失敗は許されないし、忙しい体調が悪いなんて言い訳にもならない。どんな時も最高のクオリティを維持し続けなければならないんだ。だからいつだって必死でやってる。お前に、そう簡単に追いつかれてたまるかよ」
「かっこいい」

 思っていたことがそのまま口から漏れて、そう言わずにいられなかった悔しさから唇を噛んだ。先ほどの彼の顔もだが、立ち居振る舞いや言葉の一つ一つにも心が揺さぶられてしまうのはどうしてだろう。
 どれだけ羨望せんぼうの眼差しを向けても、どれだけ手を伸ばしても、彼には届かないと思わされてきた。
 追いつきたいのに、ずっと自分の前を走っていてくれたら安心するだろうなとも思ってしまう。紗絵の胸中はいろいろ複雑なのに、明司を見つめていると、さらに胸の奥がざわざわして落ち着かなくなってくる。

「当然だろ」

 明司は自信ありげに唇の端をわずかに上げてそう言った。
 見た目がいいなんて今さらだ。それなのに一瞬、彼の表情に胸を打たれて動揺してしまう。必死だと口では言いながらも、積み上げられてきた実績があるからこその余裕の表情。
 明司がかっこいいなんて、ずっと前からわかっていた。けれど、自分は、自分だけは顔だけで騒ぐミーハーな人たちと同じになりたくなかったのに。

(ほんとやだ……ドS鬼上司なのに、うっかりときめいてどうするの)

 憧れはあっても、明司をそういう目で見たことは一度もない。
 ただでさえ遠い人なのに、恋愛感情まで抱いたら、ますます手が届かなくなるではないか。そう思って部下に徹していたのに、初めて彼の作品を見た時のような衝動に駆られて気持ちが揺れる。

(たぶん気のせい……仕事じゃないから、油断して見蕩れちゃっただけ)

 おそらく職場に着いたら、またいつものようにチクチク嫌味を言われるに違いない。
 そうすればこのおかしな感情も消えてなくなり、ムカつくドS鬼上司と思えるはずだ。

「お待たせしました。トーストのおかわりです」

 明司との話が一段落したところに、女性店員がカゴに入ったトーストを手にやって来た。自分の胸に芽生えたわずかな熱を冷ますにはいいタイミングだった。

「ありがとうございます」

 プレートの上に半分に切った焼きたてのトーストが載せられ、空気が変わったことに安堵する。
 紗絵は黙々と食事を続け、明司もそれきりなにも話しかけてはこなかった。
 食べ終わったタイミングで時計を見ると、店に入ってから二十五分が経過していた。もう出なければ遅刻してしまう。

「もう出られるか?」
「はい」

 明司が伝票を持ち、席を立つ。紗絵はコートを腕に掛け、慌ててあとを追ったが、支払いは済まされたあとだった。

「すみません、自分の分は払います」
「部下には出させねぇよ。おごってやるから、朝食の準備をする暇がない時にでもまた来い」

 ぽんと軽く頭を撫でられて、店を出る。
 なぜだろう。また一緒に朝食をと誘われて、いやな気分にならないのは。それどころか、またここに来てもいいかなと思ってしまっている。

(だから、だめだってば……これは)

 明司に触れられて乱れた髪を直すように手で触れた。やたらと頬が熱いのも、撫でられて嬉しいと思うのも気のせいだ。
 隣人と知った時も、朝、顔を合わせた時も、ストレスで胃が痛くなりそうだったのに、少しめられたくらいでちょろすぎるだろう。
 紗絵は赤くなった顔を隠すように「ごちそうさまでした」と頭を下げた。

「一人のご飯が寂しかったら、また来てあげてもいいですけど」

 顔を上げて、目を逸らしながら口を開いた。明司の前でいつもどんな態度を取っていたのか、わからなくなってしまった。茶化すことでしか普通に振る舞えないなんて可愛くないと思われやしないか。

(いやいや……それじゃあ可愛いと思われたいみたいじゃない)

 自分と彼の距離は上司と部下がちょうどいい。こんな得体の知れない感情に振り回されるのは御免だ。

「なら、陰気なため息はつくなよ?」
「それは……すみません」
「ほら、行くぞ」

 明司と肩を並べて駅までの道を歩いた。
 不思議と、それもいやじゃなかった。


 午前中には、クライアントとの打ち合わせが一件入っていた。
 紗絵は、明司に散々こき下ろされた図面を修正し、印刷したものを手に応接室へ急ぐ。

「一階の応接室に二人分のお茶をお願いします」
「はーい」

 同僚に来客用のお茶を頼み、ドアをノックした。
 中から、女性の声で返事がある。

前田まえださん、お待たせいたしました」

 明司の設計を希望しているクライアント、前田聡子さとこは六十代の女性だ。今、住んでいる家は彼女の両親が建てた家で築五十年を超えている。
 夫は足が悪く階段の上り下りが困難だ。聡子は自身の年齢も考え、平屋での建て替えを希望していた。
 足が悪いのなら、と初回時にこちらから出向くことを提案したが、外に出る機会があまりないからと断られてしまい、いつも応接室での打ち合わせとなっている。

「今日もよろしくお願いしますね」

 聡子が頭を下げると、夫もそれにならう。
 この年代の夫婦にしては珍しく、前田夫妻は妻が主体となって話をする。だからなのか夫に高慢な雰囲気はまったくなかった。
 夫は足を悪くしてからずっと専業主夫をしていたと聞いた。聡子の収入で生計を立てていたらしい。かといって聡子は偉ぶるでもなく、話を聞いていると夫への信頼が伝わってくる。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 紗絵は腰を折り、前田夫妻の前に座った。

「槌谷もすぐに参りますので、こちらを見てお待ちいただけますか? 前回の打ち合わせでヒアリングさせていただいたので、いくつか図面をお持ちしたんです」

 前田夫妻の希望は、平屋で段差のない明るい部屋。個室は二部屋あればいいそうだが、玄関前にスロープを設置できるように建物の形を考えなければならない。
 図面を夫妻に見えるように並べたところで、応接室に明司が入ってきた。その後ろから同僚女性が二人分の飲み物を運んでくる。

「遅くなりまして、申し訳ございません」
「いいえ、本田さんとお話ししていたので大丈夫ですよ」

 今日は、図面を見ながらさらにヒアリングを重ね、時間があればボリューム出しまでする予定なのだが、なかなか予定通りにいかないことも多い。
 ボリューム出しとは、建物の輪郭をラフ決めすることだ。外観がイメージできると内部の細かい部分も決めやすくなる。法的に問題がないかを確認しながら、玄関や窓の位置、屋根の傾斜角度を決めていく作業だ。

「リビングの位置はどの図面も中央にしてあります。もちろん各部屋への動線に段差はありません」
「リビングが三十畳もあるよ。寝室も一部屋十五畳。だいぶ広いんだねぇ」

 前田の夫が感心したように呟いた。

「そうですね。お孫さんがよく遊びにいらっしゃると伺いましたので、一部を和室とリビングで分けるパターンとリビングを広く取るパターンにしましたが、ほかにご希望があればおっしゃってください」

 普段の高圧的な口調はどこにいったのかと思うほど、明司は穏やかな声で話す。
 紗絵に対してもこれくらい優しかったならもっと印象は良かったはずだ、と考えながら頷いた。

「やっぱりリビングと寝室二部屋じゃ少ないかな。僕としては、部屋の明るさが気になるところだけど。聡子さんはどう思う?」
「そうねぇ、なるべく窓は大きく取りたいわね。それに、部屋がたくさんあっても使わないと思ってたけど、こっちの図面の和室がある方がいいかしら。あと、うちは物が多いから、収納は多くほしいわ」

 夫妻は広げた図面を見ながら真剣な面持ちで話す。明司は手元にある手帳に聡子の希望を書き取っていた。

「あの、前田さんは二階建ての検討はされないんですか? あ、平屋が希望とは伺っていますが……二階建てですと収納も増やせますし……」

 紗絵が口に出すと、隣に座っている明司が「お前、なにを聞いていたんだ」という顔でこちらをにらんでくる。
 思わずむっとして押し黙ると、肘で小突かれ「黙っていろ」と合図が送られた。

「そうね。今は元気だし健康にも問題はないのだけど、いつどうなるかわからないしね。それに、お父さんは二階に上がるのも難しいから」
「そ、そうですよね……」


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