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第十四章
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しばらくすると、鉄製の門が自動で開けられる。史哉が敷地に足を踏み入れると、玄関のドアが内側から開けられて、使用人が恭しく頭を下げる。
「どうぞ」
「失礼します」
前と同じ部屋に通されると、夫人が優雅な動作で立ち上がった。アポイントを取っていないにもかかわらず歓迎されているようだ。その理由は言わずもがな、青葉銀行は戸澤ホテルに対し多額の融資を行っているからだ。
「夜分遅くに申し訳ありません。奥様に少しお話ししたいことがございまして。戸澤会長はもうお休みですか?」
「ええ、父は最近身体の調子があまりよくないの。歳も歳だから仕方がないのだけど。私もそろそろ休もうかと思っていたのよ。こんな格好でごめんなさいね。どうぞ、かけて」
「失礼します」
史哉は、ソファーに座るとビジネスバッグの中から数ヶ月に渡る調査の報告書を手にした。幸太を跡継ぎにと躍起になっている様子がどうも理解し難く調べさせていた。
「早速ですが……こちらを。戸澤会長に代わって、あなたのご主人が経営に携わってからの決算報告書です。今日も、この屋敷にはいらっしゃらないようですね。今は……どちらに?」
「……仕事が忙しいみたいなのよ。父から引き継いでまだ数年ですもの、まだ慣れないこともあるでしょう?」
「もちろん奥様も、現在戸澤ホテルが内部分裂の危機に晒されているのはご存知ですよね? ご子息が亡くなられてすぐ戸澤会長が引退し、ご主人が社長職に就かれた。しかし……残念ながら経営は悪化の一途を辿っている。後継者だった圭さんがこの家を出られてからは、会長のやり方についていけなかった役員たちが派閥を組んで、次の会長の椅子を狙っていると聞きました。本来の業務に支障をきたす程ですから、この結果は当然でしょうが」
「どこから……っ、そんな話が」
戸澤夫人の顔色は見る見るうちに青ざめていく。圭が死んだことを受け入れられなかったのは、衰退を辿る戸澤ホテルの命運を圭が握っていたからに他ならない。
戸澤会長の娘である夫人が選んだ婿養子は、とても一国一城の主になれる気質ではなかった。だからこそ会長は圭に期待していたはずだ。戸澤会長が、身体を壊すまで職を辞さなかったのはそのためだろう。
(ワンマンだと言われていたが、やり手だった。圭が死んだことで……張り詰めていた糸が切れてしまったのかもしれないな)
どうしたって圭が戻ってくるわけではなかったから、会長は無理してでも義理の息子を社長に育てようとしたはずだ。
だが、報告によれば戸澤社長は毎晩のように豪遊し、部下を駒のように使う男らしく、とても戸澤ホテルを任せられる器にはなれなかった。焦って幸太を後継者にといっても、まだ小学一年生ではどうにもならないだろうに。
「圭はね……よく言ってましたよ。戸澤ホテルは時代遅れだと。このままじゃいずれは戸澤の名前はなくなるだろうと。会長は圭に跡目を継がせたがっていたみたいですが、社長は違いますね。むしろ能力の高い圭を排除しようとしていた。冗談で言ってましたよ、泥舟に乗る趣味はないんだなんてね。だから、家を出たんだそうです」
「あなたは……圭を知っているのね」
「私は、圭と同期入社なんです。よく飲みにも行っていました。そして……幸太の父親だと言えば、わかりますか?」
「なっ……あなたっ!」
夫人の目の色が怒りに染まる。カッと見開いた目は血走り、膝の上で握られた手は震えている。
「静香は自ら命を断とうとしました。あなたが静香になにを言ったのかは知りませんが、俺はね、許せないんですよ。静香は俺にとっても、圭にとっても大事な女だ。彼女がどれほどあなたに苦しめられたか圭が知ったら、俺なら死んでも死に切れませんね」
「圭を裏切っておいて、よくもおめおめと……っ!」
「誰も、圭を裏切ってなどいませんよ。圭は、静香が身籠った子が俺の子だと知っていて結婚したんですから。あなたに詳細を説明する気にはなれませんが、こちらをどうぞ。コピーですので差し上げます。母親なんですから、これが偽物でないことくらいはわかるでしょう?」
史哉が圭の書いた手紙のコピーを差し出すと、夫人は震える手で開いた。顔面は蒼白だ。懐かしさなのか、己の行動に後悔してかはわからないが、頬を伝う涙が膝の上にポタポタと流れ落ちる。
「感傷に浸っているところ申し訳ありませんが、これ以上静香や幸太に関わるなら、青葉は戸澤ホテルから完全に手を引きます」
「あなたにそんな権限はないでしょうっ!」
「いえ、私は父から全権を委任されてこちらに参りました。私情だけで動いているわけじゃありませんよ」
「父って」
「青葉フィナンシャルグループの真嶋会長は、私の父です。戸澤ホテルの融資については、もともと本店でも話に上がっていたんです。条件を呑んでいただけるなら、世襲制に拘らず古い体制を一新し経営改革するお手伝いはさせていただけると思いますが」
父には念のため確認を入れただけだが、今までの実績が評価されてか史哉の好きにしていいと言われている。
戸澤ホテルは全国に何十店舗もある老舗ホテルだ。なるべくなら従業員を露頭に迷わすような選択はしたくない。だが、このまま融資を継続することはすでに不可能だ。戸澤社長が経営から退かないかぎり最悪の結果は免れないだろう。
「条件って……」
「さっき言いましたよ。静香と幸太に今後一切近づかないでいただきたい。圭が亡くなったのは事故です。静香のせいじゃない。こちらからの条件はそれだけです。戸澤ホテルを潰すような真似はしません。圭が悲しみますからね。あいつが生きていたら、自分で助けたかったでしょう」
史哉が告げると、戸澤夫人はその場で泣き崩れた。
「あの人が……静香さんが悪いわけじゃないのはわかってたわっ。でも……誰かのせいにしないと気が狂いそうだったっ! 圭が死んで、幸太だけが唯一の希望だった……あの子を跡取りとして育てればって。でもまさか、血が繋がってないなんて……」
「血の繋がりなんて、圭にとってはどうでもよかったんですよ。あいつは……静香と幸太とずっと一緒にいられれば、それでよかったんだ」
史哉が立ち上がると、戸澤夫人は項垂れるように頭を下げた。
「静香さんは……大丈夫、なのよね?」
「ええ。まだ入院中ですが、もう心配ありません」
「申し訳なかったと、あの子に……あと、こんなことお願いできる立場ではないとわかっているのだけれど……」
夫人は言いにくそうにポツポツと言葉を漏らした。
最後に戸澤ホテルの件もよろしくお願いしますと告げられ、史哉は鞄を手に背を向ける。
「わかりました。善処しましょう。では」
家政婦に見送られリビングを出ると、扉の向こうからすすり泣くような声が聞こえてくる。同情はできない。圭の実家でなかったら、ホテルごと潰してやりたいくらいだ。
一度静香のマンションに戻り幸太の様子を見にいこう。
早く、元どおり三人での生活に戻りたい。今はただそう思う。
「どうぞ」
「失礼します」
前と同じ部屋に通されると、夫人が優雅な動作で立ち上がった。アポイントを取っていないにもかかわらず歓迎されているようだ。その理由は言わずもがな、青葉銀行は戸澤ホテルに対し多額の融資を行っているからだ。
「夜分遅くに申し訳ありません。奥様に少しお話ししたいことがございまして。戸澤会長はもうお休みですか?」
「ええ、父は最近身体の調子があまりよくないの。歳も歳だから仕方がないのだけど。私もそろそろ休もうかと思っていたのよ。こんな格好でごめんなさいね。どうぞ、かけて」
「失礼します」
史哉は、ソファーに座るとビジネスバッグの中から数ヶ月に渡る調査の報告書を手にした。幸太を跡継ぎにと躍起になっている様子がどうも理解し難く調べさせていた。
「早速ですが……こちらを。戸澤会長に代わって、あなたのご主人が経営に携わってからの決算報告書です。今日も、この屋敷にはいらっしゃらないようですね。今は……どちらに?」
「……仕事が忙しいみたいなのよ。父から引き継いでまだ数年ですもの、まだ慣れないこともあるでしょう?」
「もちろん奥様も、現在戸澤ホテルが内部分裂の危機に晒されているのはご存知ですよね? ご子息が亡くなられてすぐ戸澤会長が引退し、ご主人が社長職に就かれた。しかし……残念ながら経営は悪化の一途を辿っている。後継者だった圭さんがこの家を出られてからは、会長のやり方についていけなかった役員たちが派閥を組んで、次の会長の椅子を狙っていると聞きました。本来の業務に支障をきたす程ですから、この結果は当然でしょうが」
「どこから……っ、そんな話が」
戸澤夫人の顔色は見る見るうちに青ざめていく。圭が死んだことを受け入れられなかったのは、衰退を辿る戸澤ホテルの命運を圭が握っていたからに他ならない。
戸澤会長の娘である夫人が選んだ婿養子は、とても一国一城の主になれる気質ではなかった。だからこそ会長は圭に期待していたはずだ。戸澤会長が、身体を壊すまで職を辞さなかったのはそのためだろう。
(ワンマンだと言われていたが、やり手だった。圭が死んだことで……張り詰めていた糸が切れてしまったのかもしれないな)
どうしたって圭が戻ってくるわけではなかったから、会長は無理してでも義理の息子を社長に育てようとしたはずだ。
だが、報告によれば戸澤社長は毎晩のように豪遊し、部下を駒のように使う男らしく、とても戸澤ホテルを任せられる器にはなれなかった。焦って幸太を後継者にといっても、まだ小学一年生ではどうにもならないだろうに。
「圭はね……よく言ってましたよ。戸澤ホテルは時代遅れだと。このままじゃいずれは戸澤の名前はなくなるだろうと。会長は圭に跡目を継がせたがっていたみたいですが、社長は違いますね。むしろ能力の高い圭を排除しようとしていた。冗談で言ってましたよ、泥舟に乗る趣味はないんだなんてね。だから、家を出たんだそうです」
「あなたは……圭を知っているのね」
「私は、圭と同期入社なんです。よく飲みにも行っていました。そして……幸太の父親だと言えば、わかりますか?」
「なっ……あなたっ!」
夫人の目の色が怒りに染まる。カッと見開いた目は血走り、膝の上で握られた手は震えている。
「静香は自ら命を断とうとしました。あなたが静香になにを言ったのかは知りませんが、俺はね、許せないんですよ。静香は俺にとっても、圭にとっても大事な女だ。彼女がどれほどあなたに苦しめられたか圭が知ったら、俺なら死んでも死に切れませんね」
「圭を裏切っておいて、よくもおめおめと……っ!」
「誰も、圭を裏切ってなどいませんよ。圭は、静香が身籠った子が俺の子だと知っていて結婚したんですから。あなたに詳細を説明する気にはなれませんが、こちらをどうぞ。コピーですので差し上げます。母親なんですから、これが偽物でないことくらいはわかるでしょう?」
史哉が圭の書いた手紙のコピーを差し出すと、夫人は震える手で開いた。顔面は蒼白だ。懐かしさなのか、己の行動に後悔してかはわからないが、頬を伝う涙が膝の上にポタポタと流れ落ちる。
「感傷に浸っているところ申し訳ありませんが、これ以上静香や幸太に関わるなら、青葉は戸澤ホテルから完全に手を引きます」
「あなたにそんな権限はないでしょうっ!」
「いえ、私は父から全権を委任されてこちらに参りました。私情だけで動いているわけじゃありませんよ」
「父って」
「青葉フィナンシャルグループの真嶋会長は、私の父です。戸澤ホテルの融資については、もともと本店でも話に上がっていたんです。条件を呑んでいただけるなら、世襲制に拘らず古い体制を一新し経営改革するお手伝いはさせていただけると思いますが」
父には念のため確認を入れただけだが、今までの実績が評価されてか史哉の好きにしていいと言われている。
戸澤ホテルは全国に何十店舗もある老舗ホテルだ。なるべくなら従業員を露頭に迷わすような選択はしたくない。だが、このまま融資を継続することはすでに不可能だ。戸澤社長が経営から退かないかぎり最悪の結果は免れないだろう。
「条件って……」
「さっき言いましたよ。静香と幸太に今後一切近づかないでいただきたい。圭が亡くなったのは事故です。静香のせいじゃない。こちらからの条件はそれだけです。戸澤ホテルを潰すような真似はしません。圭が悲しみますからね。あいつが生きていたら、自分で助けたかったでしょう」
史哉が告げると、戸澤夫人はその場で泣き崩れた。
「あの人が……静香さんが悪いわけじゃないのはわかってたわっ。でも……誰かのせいにしないと気が狂いそうだったっ! 圭が死んで、幸太だけが唯一の希望だった……あの子を跡取りとして育てればって。でもまさか、血が繋がってないなんて……」
「血の繋がりなんて、圭にとってはどうでもよかったんですよ。あいつは……静香と幸太とずっと一緒にいられれば、それでよかったんだ」
史哉が立ち上がると、戸澤夫人は項垂れるように頭を下げた。
「静香さんは……大丈夫、なのよね?」
「ええ。まだ入院中ですが、もう心配ありません」
「申し訳なかったと、あの子に……あと、こんなことお願いできる立場ではないとわかっているのだけれど……」
夫人は言いにくそうにポツポツと言葉を漏らした。
最後に戸澤ホテルの件もよろしくお願いしますと告げられ、史哉は鞄を手に背を向ける。
「わかりました。善処しましょう。では」
家政婦に見送られリビングを出ると、扉の向こうからすすり泣くような声が聞こえてくる。同情はできない。圭の実家でなかったら、ホテルごと潰してやりたいくらいだ。
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