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二兎

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 彼と過ごしたかけがえのない日々を、忘れられずにいる。

 激しく明滅する眩いステージライトの中。暴力的なまでに鮮烈で美しい彼の歌声は、否応なく僕の心臓を鷲掴み、全身を打ち震わせた。
 暗く、狭く、空気が薄い地下の小さなライブハウス。鼓膜を突き刺し腹の底まで響いてくる楽器の音とともに流れこむ歌声に、つかの間、呼吸すら忘れる。片手に持ったドリンクの氷が水へと変わっていくのもお構いなしに、僕はただただ彼の歌に聞きいっていた。
 ミルクティーベージュの髪が光の中で揺れ、隙間からのぞく猫のような瞳と視線が交わる。瞬間、目も眩むような彼の姿に、どくんと鼓動が高なる。この胸の高鳴りを、なんと呼べばいいのだろう。憧憬か、崇拝か、敬愛か、はたまた恋心か。どれにも当てはまるようで、どれとも違うような、形容しがたい感情。
 彼はもう、僕のことなんて忘れてしまったかもしれない。だけど、色褪せることなく輝き続けるあの日々に彼へ抱いた感情の名が何なのか、確かめたい。逸らされてしまった視線を追いかけるように、僕は彼の姿を見つめ続けた。


「はあ……Myosotisミオソティスのいる時代に生まれたことに感謝……」
「ほんとそれな。ていうか、今日のセトリやばくない? アンコで初期曲歌ってくれたの発狂するかと思った」
「分かる! 歌ってる時のコウ、特に気持ち乗ってた感じしたし」
「だよね!? バイアスかかってるわけじゃなかったかーっ。表情切なすぎて、私号泣しちゃったもん」
 ライブ終わりの会場内。冷めやらぬ熱量のまま興奮した様子で話す観客に、思わず口角が上がる。彼の歌を、僕以外にも愛してやまない人がいる。そう思うと、誇らしいような、泣きたくなるような、胸がドキドキするような、複雑な感情に取り憑かれた。
 彼の魅力について誰彼構わず語りたい衝動をぐっと堪え、緩む口許を引き締める。どうにかして彼ともう一度会いたい。その一心で来てみたものの、一ファンとしてライブを楽しんだだけになってしまった。ライブハウスから出て来るタイミングを狙って声をかけようかと悩んでいるが、もし向こうが僕のことを覚えていなかった時のことを考えると気が重い。
 地上に続く階段を上がり、会場近くの電柱にもたれかかる。このまま彼が出てくるのを待つべきか、他にコンタクトを取る方法を探るべきか。路上で延々と頭を悩ませるうち、気づけば会場周辺にいた人たちの姿は消えていた。
「あのー」
 ふと、遠慮がちに声をかけられる。振り向くと、『Myosotis』のロゴが入ったTシャツを着る二人組の女性が立っていた。
「お兄さんって、新規の人ですか?」
「……え?」
 シンキ、という耳慣れない単語に首を傾げると、女性たちは顔を見合わせる。何を問われたか分からず困っていると、彼女は慌てた様子で早口に言葉を続けた。
「あっ、ミオのファンの人じゃなかったらごめんなさい。このバンド、入り待ち出待ちNGなんで、もしそうなら気をつけてくださいって伝えようと思ったんですけど――」
「おい、アンタら」
 その時。女性の声を遮るようにドスの効いた声が響く。その声にビクリと身体を震わせ、女性たちは「帰ります! すみません!」と謝りながら、逃げるように走り去ってしまった。猛スピードで小さくなる背中を目で追っていると、「ちょっと」と、強い力で肩を掴まれた。
「お兄さん、ウチの現場初めて?」
 肩越しに振り向くと、がたいの良い男性が立っていた。先程のライブでドラムを叩いていた人だ。腕から首にかけて彫られた刺青に、少し萎縮してしまう。何も言えず固まる僕に、男性は肩を掴む手を離して迷惑そうにため息をつく。
「今回は見逃すけど、次もし来る気あんなら、出待ち対応とかしてないんで待つのやめてもらっていいっすか?」
 冷たい男性の声と態度に、緊張で喉がぎゅっと狭くなる。今すぐ立ち去りたい気持ちを抑え、細く息を吐いて静かに頭を下げる。
「すみません、そういうルールに疎くて。でも、天野くんに会いに、ここまで来たんです」
 顔を上げて真っ直ぐに男性を見つめて伝えると、彼は目を丸くした。
「天野……ってコウのことか。なんだ、知り合い? あいつ、ダチ来んなら先言っとけよ」
「いえ、約束しているわけではなくて――」
「タカ、お待たせ~。今日の打ち上げってどこだっけ?」
 耳に心地よい、透明感のある声が耳朶を撫でる。思わず息をのみ、声のした方へ視線を向ける。
 ハーフアップに結われたミルクティーベージュの髪と、ブラウンがかった大きな瞳。すらりとした長い手足と、厚みのない細身の体躯。目の前に現れた彼――天野くんの姿に、一瞬で頭が真っ白になる。
 久しぶりに会ったら何を話そう。出来るだけ自然な雰囲気を装わないと。たとえ彼が僕のことを忘れていても、傷ついた素振りは見せないようにしないと。久しぶりに会った瞬間のシュミレーションを何度も繰り返していたはずなのに、数年ぶりに顔を合わせた彼を前に、そんな余裕はなかった。
「日向……?」
 僕の名前を呼ぶ彼の声に、泣きたいような、声を上げて喜びたいような気持ちになる。それと同時に、張りつめていた緊張の糸がふっと切れ、僕は力なく笑った。
「うん。久しぶり、天野くん」

***

 天野輝くんのことは、同学年の中でも特に目立つ容姿端麗な人気者、というレベルの認識だった。彼の周りにはいつも男女問わず人がいて、その中心で孤独なんて知らない顔で楽しそうに笑っている。人付き合いが苦手で、教室の片隅に座って本を読んでいるような自分とは一生無縁の人間だと、そんな風に思っていた。
 そんな彼と関わりをもつきっかけになったのは、高校二年生の春。新学期が始まり、新しいクラスに色めく周囲の雰囲気に居心地の悪さを感じ、静かに昼食が食べられる場所を探していた時だった。人気が少ない場所を求めて旧校舎を歩いていると、窓も空いていない廊下でふいに風が頬を撫でた。不思議に思い、風が吹いてくる先――出入り口の扉が開いた音楽室へと歩みよる。窓の閉め忘れかもしれない。そう思って室内を覗いた瞬間、ギターの音と澄んだ歌声が鼓膜を震わせた。
 開いた窓から吹きこむ暖かな春風に、クリーム色のカーテンが揺れる。真昼の陽光の中、窓際でアコースティックギターを鳴らしながら歌を口ずさむ男子生徒――天野くんの姿に、僕は目が離せなくなった。
 風に乗って舞いこむ薄紅の花弁と、光を反射するギターの弦。目許を覆う髪の隙間からのぞく伏せられた瞼と、発光しているのではないかと錯覚するほど白い肌。ほんの少し艶っぽさを孕む透き通った歌声は、呼吸すら忘れて聞きいってしまうほどに魅力的だった。
 まるで映画のワンシーンを見ているかのような美しさに、僕は吸い寄せられるように音楽室へと足を踏み入れる。
「……きれい」
 思わず漏れた感嘆に突然音が止まり、弾かれたように彼が顔を上げる。視線が交わった瞬間、彼は猫のような目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
「えっ、日向?」
 名前を呼ばれ、面食らう。関わったこともない僕の名前なんて、きっと天野くんは知らないだろうと勝手に思いこんでいたからだ。
「天野くん、僕の名前、知ってたんだ」
「え? ああ……だって日向、一年の時からクラス一緒じゃん。普通覚えてるって」
 そんなものなのか。他人に無関心で、クラスメイトですら全員の顔と名前が一致するか怪しい僕からすれば驚くべきことだ。
「そういう日向こそ、俺の名前知ってんじゃん」
「それは、天野くん学年の中でも目立つタイプだし。知らない人の方が少ないんじゃないかな」
「そうか?」
 むしろ認知されてないと思っていたことが意外だ。それくらいには、学年の中でも特に目立つ存在だった。
「てか日向、いつからそこにいたの?」
「天野くんが歌い始めた時くらいから」
「あー、そう。マジか……聞かれてたんか……」
 そう呟き、視線を外した彼は口許を手で覆う。意外なことに、彼は耳まで真っ赤に染まっていた。思いがけないその姿に、僕は目を見開く。
 いつも自信に満ち溢れていて、恐いもの知らずな人。そんな印象を普段の彼からは感じたというのに。思いがけないギャップに親近感を覚えると同時に、僕自身が感じた感動を余さず伝えたい衝動にかられた。
「恥ずかしがることないよ。天野くんの歌声、透明感があって綺麗なのに、しっかりした芯もあって、なんて言うか聞いててすごく心地よかったし、僕は好きだよ」
 まくし立てるように夢中で感想を述べてから、ハッとする。こんな風に面と向かって相手を賞賛する言葉なんて、生まれて初めて言ったかもしれない。気づいた途端、今度はこちらが羞恥を覚える。が、
「あははっ、恥ずかしいやつ。でも、そんな風に真っ直ぐ言ってもらえたの初めてだわ。すっげー嬉しい」
 そう言って、頬を染めながらくすぐったそうに目を細める彼を見て、気恥しさはどこかへ行ってしまった。昨日まで別世界の人間だと思っていた彼が、目の前で僕の言葉にころころと表情を変えている。それが不思議で、同時に嬉しくて。つられて僕も、気が抜けたように笑っていた。

 その日をきっかけに、僕と天野くんは旧校舎の音楽室で昼休みに会うようになった。教室で話すことも、授業でグループを組むことも、登下校を共にすることもない。友人と呼ぶには浅く、ただのクラスメイトと呼ぶには深い関係。約束をしているわけでもないのに昼休みになれば自然と音楽室に集まり、昼食を一緒に食べて他愛もない話をしたり、お勧めのCDや小説を貸し借りしたり、時々、天野くんの歌を聞かせてもらったりした。
 彼はSNSにカバー曲をアップしたり路上ライブをしたりしていて、将来的に本格的な音楽活動をしたいのだという。素直に、天野くんなら叶えられると思うし素敵な夢だと伝えると、
「そう言ってくれんのは、日向だけだよ」
 と、天野くんは少し寂しそうに目を伏せて、弱音をもらした。
「音楽活動のこと、親には反対されてるし、周りからもあんま本気にされてなくてさ。だからあの日、日向がくれた真っ直ぐな言葉がすげー嬉しかったんだ」
 そう言って微笑む天野くんは、教室にいる時とはどこか雰囲気が違って見えて。この音楽室での時間が、気を張らずに自然体でいられる場所になれていたらいいなと、密かに願っていた。
 そんな、穏やかな幸福に満ちた時間がこれからも続くのだと何一つ疑わなかった。だけど、
「天野輝くんですが、夏休みの間にご家庭の事情で転校しました」
 音楽室での出会いから五ヶ月後。夏休み明けの教室に、天野くんの姿はなかった。
 担任教師の話やクラスメイトの噂づてに聞く、母親の再婚に伴って東京へ引っ越したという話。片親という家庭の事情も、夏休みの間に引っ越してしまうことも、何も知らなかった。暖かな場所から、突然冷たい穴の中に突き落とされたような、絶望感と戸惑い。憤りはない。ただ、どうして何も言ってくれなかったのかと、どうして別れの言葉一つ交わしてくれなかったのかと、深い悲しみが胸の奥底から溢れ出した。
 あの音楽室で感じた安らぎは、一方的な感情でしかなかったのだろうか。彼にとってあの場所は、なんの未練もなくあっさりと捨てられるようなものだったのだろうか。
「おっ。輝から返信きた。時間ある時に遊びに来いだってよ」
 クラスで天野くんと仲の良かった子たちが騒いでいる。連絡を取りたくても、彼の連絡先もSNSのアカウントも知らない。その程度の繋がりでしかなかったことが、今更になってどうしようもなく寂しくなった。
 今、彼はどこでどんな顔をしているのだろうか。僕のことなんてすぐ忘れてしまうのだろうか。夢は追い続けているのだろうか。もう一度だけでいいから、彼と話しがしたい。燻る思いを募らせたまま高校を卒業し、大学進学を機に彼を追うように上京した。

***

「え? SNSでミオのこと見つけてくれたの?」
 口をつけようとしたジョッキをテーブルに置き、天野くんは信じられないと言いたげにまじまじとこちらを見た。
 ライブ終わり、天野くんはメンバーとの打ち上げを断って僕を飲みに誘ってくれた。行きつけだという居酒屋に入り、今までのことを話す流れで、どうやってMyosotisの存在を知ったのかという話題になった。
「うん。弾き語りとか路上ライブとかつぶやいてるって高校の時に聞いてたから、そういう投稿をこまめに見てたんだ」
「うーわ、途方もねぇ……。なんか、すげぇ苦労かけたな。あの時、急に引っ越すってなって、日向の連絡先も知らなかったからさ。ほんとごめんな」
 その言葉に、胸がつまる。彼にとって僕は大多数の中の一人でしかなくて、簡単に忘れ去られてしまう存在なのだろうと思っていた。だけど、あの時間を、彼はなんの未練もなく捨てたわけじゃなかった。その事実に、どん底まで落ちた高校時代の自分が救われたような気がした。
「どうしても天野くんにまた会いたくて、ずっと探してたんだ。連絡先、交換しておけばよかったよね」
 切なさを含んだ笑みをもらす。天野くんは「ホントそうだよな」と笑い、口許を緩ませたままこちらを見つめる。その頬は、ほんのりと上気していた。あまり飲んでいる様子はなかったが、もう酔ってしまったのだろうか。
「日向とは二度と会えないんだって思ってたから、また会えんのすげー嬉しい。俺のこと、関係が切れたんだって諦めんじゃなくて探してくれたのもすげー嬉しいし、それでほんとに見つけるあんたの強さはすごいよ」
 彼の言葉に、嬉しさと恥ずかしさが同時に押し寄せて言葉につまる。どう反応するのが正解なのか分からず、大して強くもないアルコールを一気に煽った。
 一方的で身勝手な行動になっていやしないかと、不安に思った時もあった。だけど、その行動も思いも素直に受け止めてもらえたことが、どうしようもなく嬉しい。ずっと会いたかった天野くんに会えたのだという今の状況に、探し続けて良かったという喜びがじわじわと押し寄せてきた。
 そこからのことは記憶が朧げで、よく覚えていない。アルコールのせいで意識が朦朧とする中、天野くんに支えられてタクシーに乗ったあたりで、僕の記憶は途切れてしまった。


 ふっと意識が覚醒し、コーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。瞼を開くと、統一感のあるナチュラルな家具が置かれた部屋が視界に飛びこむ。明らかに、自分が住んでいる安アパートではない。一体ここはどこだ。戸惑いながら身体を起こすと、
「お。起きた。おはよ」
 カウンターキッチンの向こうから、天野くんが顔を出した。この状況に至った経緯が思い出せず、二日酔いでズキズキと痛む頭を抱える。
「昨日、途中から全然記憶がないんだけど……」
「マジか。酒弱いのに付き合わせて悪かったな。一人で帰れる状態じゃなかったから、お持ち帰りしちゃった」
 冗談っぽく笑う彼に、申し訳なさとみっともなさで顔向けできずに頭を下げる。
「迷惑かけて本当にごめん。あの、昨日の飲み代とタクシー代は出すから――」
「いいよそんなの。金額覚えてないし。それより、なんか飲む? コーヒーか、インスタントで良かったらスープもあるけど」
「いや、これ以上は迷惑かけられないし、帰るよ」
 優しさはありがたいが、情けなさで今すぐ彼の前から消えてしまいたい。僕の態度にむっと唇を尖らせた彼は、カウンターに両手で頬杖をつく。
「えー、冷たいこと言わずに一杯くらい付き合ってけよ。あっ、この後なんか予定あんなら止めないけど」
「いや、特にないけど……」
「なら、そこのソファー座ってちょっと待ってて」
 そう言うと、身体を起こしてキッチンの中へ消えてしまった。正直、もう少しだけでいいから彼と一緒にいたい。だけど、これ以上迷惑をかけたくないというのも本心だ。一杯だけごちそうになったらすぐに帰ろう。そう思ってベッドから起き上がり、ソファーへと移動する。柔らかな座面に腰を下ろした途端、隣に置かれた真っ黒なクッションがもぞりと動いた。
「うわっ!?」
 びっくりして、思わず声を上げる。丸型のクッションだと思っていたそれは、丸まって眠る艶やかな毛並みの黒猫だった。
「ごめん! 猫いるって言い忘れてた。アレルギーとか苦手とかなかった?」
「あ、うん。平気。びっくりしただけで、猫は好きだから」
「なら良かった。うちの子、可愛いっしょ?」
 ソファーの前にあるローテーブルにマグカップを置き、天野くんは傍のスツールに座る。実家で飼っている猫のことを思い出しながらそっと撫でると、金色の瞳がじっとこちらを見上げてきた。
「名前はなんて言うの?」
 何気なく問いかけると、「あー」と歯切れ悪く間をあけ、天野くんは恥ずかしがるようにボソッと呟く。
「ヤマト」
「黒猫の、ヤマト……」
「今、安直だって思っただろ」
「そんなことないよ。いい名前だね」
 耳の下や顎を指先でくすぐると、ヤマトはグルグルと喉を鳴らして気持ちよさそうに目を細めた。
「日向」
 ふいに呼びかけられ、顔を上げる。じっとこちらを見つめる天野くんの瞳は思いがけず真剣で、自然と背筋が伸びる。
「昨日俺に言ってきたことってさ、覚えてる?」
「昨日……」
 彼の問いかけに、頭を捻る。東京の大学に通っていること、SNSでMyosotisのことを知ったこと、天野くんに会いたくてライブのチケットを取ったこと。話した内容で覚えていることと言えば、大まかに分けるとそのくらいだ。彼の言葉が何のことを指すのか分からず、眉尻を下げる。
「えっと、ごめん、何の話のことか思い当たらなくて。もしかして、酔って変なこと言ってた?」
「あ……いや、何も。スープ、冷めないうちに飲んじゃって」
 天野くんは誤魔化すように笑い、コーヒーを飲む。うやむやにされた会話にすっきりしない気持ちごと、促されるままにスープを嚥下する。しじみの風味が香るスープは、喉と胃に優しく染み渡った。
「そういや日向は今、大学生なんだっけ。バイトとかしてる? 三年生なら就活のがメインか?」
「いや。文学賞に応募したら新人賞取って、今のところは印税と文芸誌の原稿料で暮らしてる」
 そういえば、大学に通いながら作家業をしていることは彼に伝えてなかったなと気付く。案の定、彼はぽかんと口を開けて驚いていた。
「マジ? 日向、作家先生なの?」
「言うほど大層なものじゃないよ。印税って言っても、大した部数は売れてないから大きい金額ではないし」
「いや、それでもすげぇじゃん! 日向の作品、絶対読むよ。本名で書いてんの?」
 頷くと、天野くんはすぐさまスマホで検索をかける。じっと画面を覗き込んでいた彼はやがて、「えっ」と声を上げた。それもそうだろう。だって、
「書いてるのって、恋愛小説?」
「……まあ、そんな感じ」
 画面から顔を上げた彼の問いかけに小さく頷く。
 書籍化された受賞作は、男子高校生が主人公の青春小説だ。放課後の屋上で出会った少女と主人公の交流を描いた作品。実際のところ、作中で二人の関係性に「恋愛」と明確な名前をつけてはいない。だけど、物語のラストで突然いなくなってしまった少女を思う少年の心理描写を「恋心」と解釈する読者は多かった。
「へえ。サスペンスとかミステリー書いてるのかなって、勝手に思ってた」
「はは……柄じゃないよね」
「そう? 意外だったけど、なんか納得。もしかして、好きな子をモデルにしてたりして」
 いたずらっぽい笑声まじりの一言に、どきりとする。作品に出てくる少女には、天野くんの姿を重ねて書いていた。まさかモデルにした張本人の口から問われるとは夢にも思わず、視線を泳がせる。
「まあ。モデルにした人はいるかな」
 手許に視線を落としてスープを飲む。どぎまぎする僕とは裏腹に、天野くんは「へえ。そうなんだ」と何気なく呟き、同じようにマグカップに口をつけた。
 

「なあ、日向」
 帰り際。玄関で靴を履いていると声をかけられ、振り向く。天野くんの手にはスマホが握られていて、思わずハッとなる。
「今更だけど、連絡先交換しない?」
「もちろん、喜んで」
 即座に頷き、二つ返事で承諾する。
 高校二年生の夏、連絡先を交換していなかったことを何度も後悔した。あの頃は、音楽室で会うだけの関係より先に踏みこむことが何となくできず、連絡先を交換するということ自体思いつきすらしなかった。
 慣れない手つきで何とか友達追加の画面を開き、QRコードを読む。画面には『輝』という名前と、ギターのアイコンが表示された。
「あ。そういえば、『天野くん』って呼んでていいんだっけ?」
 高校の時に母親の再婚で引っ越したことをふいに思い出し、問いかける。が、彼はピンと来ていない様子で首を傾げた。
「えっと、好きなように呼んでもらっていいけど。下の名前で呼びたいならそれでもいいし」
「高校の時、お母さんの再婚で引っ越したって聞いたから」
「あー、そういうこと」
 納得したように軽くうなずき、天野くんはスマホをポケットにしまう。
「それなら問題ないよ。母さん、その人とも離婚してるから」
 買い物してるから、くらいの気軽さで言われて言葉につまる。彼にとっては何でもないことなのか、何でもないふりをしているだけなのか。
「……そう、なんだ。なら、天野くんで」
「オッケー」
 変に反応をしないように平静を装う。彼も何事もなさそうに笑って、指で丸を作った。
 「つらい時は頼って」だとか「大変だったよね」だとか。彼の気持ちを勝手に推し量って慰めるような言葉をかけるのも違う気がして、それ以上話題を広げることなくドアノブに手をかける。
「それじゃあ、また」
「おう。また連絡する」
 手を振って別れ、エレベーターで一階へ降りる。若々しい緑を弾く初夏の太陽に照らされ、薄く目を細める。道端からマンションを振り仰ぐと、部屋の前の手すりにもたれた天野くんと目が合った。僕が振り向くと思っていなかったのか一瞬驚いた様子で彼は身体を起こし、やがて小さく手を振ってくれた。こちらも手を振り返し、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にする。
 もしも、僕と天野くんが異性同士だったら。僕のこの気持ちは恋愛感情として簡単に名前がついたのだろうか。不意に、そんなことを思う。僕の小説の読者が、少年が少女を思う気持ちを『恋』だと読み取ったように。僕の気持ちも『恋』として、簡単に片付いたのだろうか。
 この気持ちが何者なのか確かめたい。そう思って会ったけれど、結局、胸の内に渦巻く天野くんへの気持ちは明確化されず。ぐるぐると、己の胸の内に留まり続けていた。
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