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蠱惑の魔剣
風の祈り、扉を叩く
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ガブリエルは、中庭に面したリリアンヌの部屋の扉を、そっと叩いた。
「聖教会の助祭をしております。ガブリエルと申します」
返事はなかった。だが、扉の向こうに、微かな気配がある。
奉公人は場所を教えただけで、怯えたように姿を消していた。まるで災厄が降りかかるのを恐れるかのように。
ガブリエルは一つ深く息を吸い込み、静かに唄い出した。
それは、シシルナ島に古くから伝わる、精霊を讃える歌。
今では、祝祭でアマリが歌うことで知られている。
素朴で、美しい旋律。
そして何より──彼の『天使の声』。
大人になれば失われるはずの、奇跡の声。
それが沈んだ屋敷に、ひたひたと沁み渡っていく。
繰り返し、繰り返し。
まるで、砕けた心を包み込むように。
やがて──「がちゃり」と、扉が開いた。
そこに立っていたのは、かつて“社交界の花”と称されたリリアンヌの、見る影もない姿だった。
やつれ、頬には痣が浮かび、寝衣から覗く腕や脚には、赤黒い斑点が点在していた。
彼女は、泣いていた。
ガブリエルは一瞬だけ息を詰めたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「お恥ずかしい……うるさかったでしょうか?」
彼女は、かすかに首を横に振った。
「もしよろしければ、少し中庭でお話しできませんか? それとも、お部屋の方がよろしいですか?」
「……庭で」
しゃがれた、掠れた声だった。
声を出すのも、辛そうに聞こえた。
その瞬間、部屋の外に控えていたメイドたちが、息を飲んで顔を見合わせた。
安堵と驚きが入り混じったような面持ちで、彼女に駆け寄る。
「着替え……」
リリアンヌは、震える指でクローゼットを指差した。
「ガブリエル様、お時間を頂戴できますか?」と、メイド長が控えめに尋ねた。
「もちろん。突然の訪問ですから」
彼は頷き、そっとノルドの蜂蜜飴を手渡した。
「これは、のど飴です。……私を信じてください」
──同時刻、応接室。
「何もかも話せと言うのか、グラシアス!」
「はい。あなたはラゼルを殺そうとしていますよね?」
「馬鹿なことを言うな!」
重い沈黙が、二人の間に落ちた。
そのとき──
天から舞い降りるような歌声が、屋敷の廊下を通り、応接室へと届いた。
「……この声は、ガブリエル助祭か?」
小さく、老いた声でブロイが問うた。
「昔、彼の歌声を聞いたことがありますが……まさか、今でも“天使の声”を保っているとは思いませんでした」
「……そうか」
伯爵のまぶたに、一筋の涙が滲んでいた。
その時、執事長が部屋に駆け込んできて、伯爵の耳元で何かを囁いた。
老練なブロイ伯爵の表情が、見る間に変わった。
「降参だ、グラシアス……リリアが部屋を出た。あの子が、自分の足で、出てきたんだ。
あの歌声が……癒してくれたんだよ……!」
ふっと、肩の力が抜けるように彼は言った。
「……リリアンヌに会えたのか。あいつに任せておけば、間違いないな」
「……教えていただけますか? ラゼル王子とリリアンヌ様に何があったのか」
伯爵の語りが始まった。
社交界での出会い、交際、そして彼女が次第に衰弱していったこと。
「歓迎会でネフェル聖女の祝福を受けて……やっと私も彼女も目が覚めた。
知らず知らずのうちに、奴に心を侵されていたんだ。話術で。スキルで。……そして、“蠱惑の魔剣”で」
調査の末、ラゼルが所有していた奴隷の多くが、原因不明の衰弱死を遂げていたことが明らかになった。
捕らえようとしたときには、すでに奴隷ギルドにより共和国を追放されていた。
そして、ブロイの懺悔は続く。
「サルサ様のサナトリウムに運ぶべきだったんだ……それを、私は外聞を気にして……終の住まいになどと」
「聖妹アマリ様も、治療を受けた場所ですよ!」
「知らなかったのだ。あんな無理な治療を許してしまった……彼女を……壊したのは、私だ……」
声がかすれ、肩ががくりと落ちた。
──そして、風の吹き抜ける中庭。
庭園には、小さなティーテーブルと椅子が用意されていた。
咲き誇る花々の香りが、微かな風に揺れている。
「……お待たせしました。でも、顔は……見ないでください」
深めのヴェール付きの帽子をかぶったリリアンヌが、ぶかぶかの服を着て椅子に腰掛けていた。
「無理に誘ってすみません」
「いえ……先ほど頂いた飴のおかげで、少し声が出やすくなりました」
「それは良かった……あれは僕の友人の、天才薬師ノルドが作った特製の蜂蜜飴なんです」
ガブリエルは、そっと笑った。
当初は、彼女から情報を得るための訪問だった。
けれど今は──彼女の心を、少しでも癒したいと思っていた。
「運良く、聖女様に随行して、シシルナ島に行くことができまして……」
彼は語れる範囲で、島での出来事を話した。花や風、精霊の祭り──そして、歌のことも。
ふと、思い出す。ノルドから届いた手紙の一節。
「俺の足の怪我も腕の怪我も治せた。母さんの怪我も治せるはずだ。けど、母さんが拒んでいる。問題は、呪いの方だ。」
リリアンヌが、ふいに問いかけた。
「……私といても、退屈でしょう? こんなに……汚れてしまった私が、助祭様と……」
「そんなこと、あるわけがありません」
ガブリエルは即座に答えた。
「前を向ける日が、必ず来ます。その時は……貴女の歌を、聴かせてください。
実は……隠してましたが、僕……あなたのファンなんです」
沈黙が降りた。
けれどそれは、閉ざされた沈黙ではなかった。
リリアンヌは俯き、帽子のつばを指でつまんだまま、小さく、震える唇で──歌い出した。
声はかすれていたが、その旋律は、確かに彼の唄ったものと同じだった。
風の島よ、精霊の島よ……
永遠に揺るがぬ、母の地よ。
君が歩んだ遠き日々にも、
変わらぬ祈りここにある。
そして、わずかに瞳を上げ、遠くの空を見上げて。
母の祈りは、時を越え、風に乗り……
いつか君を包み──
その声は、まだ細かった。
けれど、そこには確かに「生」があった。
──再び、応接室。
「……リリアンヌ様の傷は、外見だけなのですね?」
グラシアスが尋ねた。
「失礼な物言いだな」
ブロイが睨む。
だが、グラシアスは一つの瓶を差し出した。
「これは?」
「中級リカバリーポーションです」
「そんなもので治るわけがないだろう! 大金はたいた上級でも効果がなかったのだぞ!」
グラシアスは、そっと笑った。
「私は、ネフェル聖女を見出した聖商人です。取引に、偽りは致しません」
ブロイの目が揺れた。
「……信じよう。だが、本当に……幾らだ?」
「いりません」
静かな声だった。
グラシアスの手が、かすかに震えていた。
「……私の愛する人は、呪いの毒薬の後遺症で、サナトリウムにいます。
ですが、必ず治します。そして──」
一呼吸。沈黙。
「……必ず、復讐します」
手の中の薬瓶が、微かに軋むように震えていた。
「この薬は、その人の息子──天才薬師ノルドが作ったものです」
「聖教会の助祭をしております。ガブリエルと申します」
返事はなかった。だが、扉の向こうに、微かな気配がある。
奉公人は場所を教えただけで、怯えたように姿を消していた。まるで災厄が降りかかるのを恐れるかのように。
ガブリエルは一つ深く息を吸い込み、静かに唄い出した。
それは、シシルナ島に古くから伝わる、精霊を讃える歌。
今では、祝祭でアマリが歌うことで知られている。
素朴で、美しい旋律。
そして何より──彼の『天使の声』。
大人になれば失われるはずの、奇跡の声。
それが沈んだ屋敷に、ひたひたと沁み渡っていく。
繰り返し、繰り返し。
まるで、砕けた心を包み込むように。
やがて──「がちゃり」と、扉が開いた。
そこに立っていたのは、かつて“社交界の花”と称されたリリアンヌの、見る影もない姿だった。
やつれ、頬には痣が浮かび、寝衣から覗く腕や脚には、赤黒い斑点が点在していた。
彼女は、泣いていた。
ガブリエルは一瞬だけ息を詰めたが、すぐに微笑みを浮かべた。
「お恥ずかしい……うるさかったでしょうか?」
彼女は、かすかに首を横に振った。
「もしよろしければ、少し中庭でお話しできませんか? それとも、お部屋の方がよろしいですか?」
「……庭で」
しゃがれた、掠れた声だった。
声を出すのも、辛そうに聞こえた。
その瞬間、部屋の外に控えていたメイドたちが、息を飲んで顔を見合わせた。
安堵と驚きが入り混じったような面持ちで、彼女に駆け寄る。
「着替え……」
リリアンヌは、震える指でクローゼットを指差した。
「ガブリエル様、お時間を頂戴できますか?」と、メイド長が控えめに尋ねた。
「もちろん。突然の訪問ですから」
彼は頷き、そっとノルドの蜂蜜飴を手渡した。
「これは、のど飴です。……私を信じてください」
──同時刻、応接室。
「何もかも話せと言うのか、グラシアス!」
「はい。あなたはラゼルを殺そうとしていますよね?」
「馬鹿なことを言うな!」
重い沈黙が、二人の間に落ちた。
そのとき──
天から舞い降りるような歌声が、屋敷の廊下を通り、応接室へと届いた。
「……この声は、ガブリエル助祭か?」
小さく、老いた声でブロイが問うた。
「昔、彼の歌声を聞いたことがありますが……まさか、今でも“天使の声”を保っているとは思いませんでした」
「……そうか」
伯爵のまぶたに、一筋の涙が滲んでいた。
その時、執事長が部屋に駆け込んできて、伯爵の耳元で何かを囁いた。
老練なブロイ伯爵の表情が、見る間に変わった。
「降参だ、グラシアス……リリアが部屋を出た。あの子が、自分の足で、出てきたんだ。
あの歌声が……癒してくれたんだよ……!」
ふっと、肩の力が抜けるように彼は言った。
「……リリアンヌに会えたのか。あいつに任せておけば、間違いないな」
「……教えていただけますか? ラゼル王子とリリアンヌ様に何があったのか」
伯爵の語りが始まった。
社交界での出会い、交際、そして彼女が次第に衰弱していったこと。
「歓迎会でネフェル聖女の祝福を受けて……やっと私も彼女も目が覚めた。
知らず知らずのうちに、奴に心を侵されていたんだ。話術で。スキルで。……そして、“蠱惑の魔剣”で」
調査の末、ラゼルが所有していた奴隷の多くが、原因不明の衰弱死を遂げていたことが明らかになった。
捕らえようとしたときには、すでに奴隷ギルドにより共和国を追放されていた。
そして、ブロイの懺悔は続く。
「サルサ様のサナトリウムに運ぶべきだったんだ……それを、私は外聞を気にして……終の住まいになどと」
「聖妹アマリ様も、治療を受けた場所ですよ!」
「知らなかったのだ。あんな無理な治療を許してしまった……彼女を……壊したのは、私だ……」
声がかすれ、肩ががくりと落ちた。
──そして、風の吹き抜ける中庭。
庭園には、小さなティーテーブルと椅子が用意されていた。
咲き誇る花々の香りが、微かな風に揺れている。
「……お待たせしました。でも、顔は……見ないでください」
深めのヴェール付きの帽子をかぶったリリアンヌが、ぶかぶかの服を着て椅子に腰掛けていた。
「無理に誘ってすみません」
「いえ……先ほど頂いた飴のおかげで、少し声が出やすくなりました」
「それは良かった……あれは僕の友人の、天才薬師ノルドが作った特製の蜂蜜飴なんです」
ガブリエルは、そっと笑った。
当初は、彼女から情報を得るための訪問だった。
けれど今は──彼女の心を、少しでも癒したいと思っていた。
「運良く、聖女様に随行して、シシルナ島に行くことができまして……」
彼は語れる範囲で、島での出来事を話した。花や風、精霊の祭り──そして、歌のことも。
ふと、思い出す。ノルドから届いた手紙の一節。
「俺の足の怪我も腕の怪我も治せた。母さんの怪我も治せるはずだ。けど、母さんが拒んでいる。問題は、呪いの方だ。」
リリアンヌが、ふいに問いかけた。
「……私といても、退屈でしょう? こんなに……汚れてしまった私が、助祭様と……」
「そんなこと、あるわけがありません」
ガブリエルは即座に答えた。
「前を向ける日が、必ず来ます。その時は……貴女の歌を、聴かせてください。
実は……隠してましたが、僕……あなたのファンなんです」
沈黙が降りた。
けれどそれは、閉ざされた沈黙ではなかった。
リリアンヌは俯き、帽子のつばを指でつまんだまま、小さく、震える唇で──歌い出した。
声はかすれていたが、その旋律は、確かに彼の唄ったものと同じだった。
風の島よ、精霊の島よ……
永遠に揺るがぬ、母の地よ。
君が歩んだ遠き日々にも、
変わらぬ祈りここにある。
そして、わずかに瞳を上げ、遠くの空を見上げて。
母の祈りは、時を越え、風に乗り……
いつか君を包み──
その声は、まだ細かった。
けれど、そこには確かに「生」があった。
──再び、応接室。
「……リリアンヌ様の傷は、外見だけなのですね?」
グラシアスが尋ねた。
「失礼な物言いだな」
ブロイが睨む。
だが、グラシアスは一つの瓶を差し出した。
「これは?」
「中級リカバリーポーションです」
「そんなもので治るわけがないだろう! 大金はたいた上級でも効果がなかったのだぞ!」
グラシアスは、そっと笑った。
「私は、ネフェル聖女を見出した聖商人です。取引に、偽りは致しません」
ブロイの目が揺れた。
「……信じよう。だが、本当に……幾らだ?」
「いりません」
静かな声だった。
グラシアスの手が、かすかに震えていた。
「……私の愛する人は、呪いの毒薬の後遺症で、サナトリウムにいます。
ですが、必ず治します。そして──」
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