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逃亡
第十六話 あなたのこと、苗字で呼ぶか名前で呼ぶか
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「……今、何て言った?」
狷はなおも目を丸くしたまま日和を見つめている。そんなにおかしなことを言っただろうか。ただ、呼び方を提案しただけだが、奇抜だっただろうか。いや、彼は狷という名前だ。鳳凰のように呼び捨てにするのはどこか違うなあと思った日和は「ちゃん」付けをしようと告げただけだ。なのにいつも無表情を貼り付けていた彼がその顔を崩すほど、驚くようなことだろうか。
「……だ、だめ……かな?」
「…………」
その問いに、狷の瞳が僅かに揺らいだ気がした。少しの間を置いて、彼のルビーのような赤い目が逸らされる。
「…………好きにしろ」
これは、肯定と捉えていいのだろうか。嫌なら彼は嫌だときっぱり言いそうだし、承諾を得たと思った日和はふわりと微笑んで目を細めた。
「じゃあ、改めて……狷ちゃん。よろしくね」
その言葉に狷は何も言わず、肉が焼けるのをじっと見つめていた。この際だ、色々と話をしてみよう。そう思い立って、日和は「ねぇ」と鳳凰達にも声をかける。
「小林くんのこと狷ちゃんって呼んでもいいってお許し得ちゃったー」
「狷ちゃん!? ぶふっ……いやいや、いいじゃん、距離感縮まったじゃん」
「……今笑ったか」
「気のせい気のせい」
「ならオレも小林じゃなく狷って呼ばせてくれよ。なんだか味気ないしな」
そう言う正影にも少しの間黙っていたが、狷は先程と同じように「好きにしろ」とだけ呟いた。
「やったね! 狷ちゃん……ふふ。なんだか嬉しいな」
「……何がだ」
怪訝そうに少しだけ眉を寄せた狷と目が合う。日和は小さく首を傾げると、彼に笑いかけて焼き目の付いてきた肉へ視線を落とした。
「だって、最初は狷ちゃんすごく怖かったんだもん。だからね、仲良くなれそうで嬉しい」
「そうだな。近寄りがたかったぞ」
「……」
二人にそう言われて、狷は切れ長い目を細める。
「……貴様らと一緒にいるのは、都合がいいからだ。ただそれだけだ」
「むー、そんなこと言って。急に貴様なんて言ったってもう怖くありませーん」
ぷい、と顔を背けてみるが、狷はどこ吹く風だ。
「都合がいいとか言ってー、私が足手まといになるって言ってたくせにー」
「……それ以上喋るとその口引き裂くぞ」
「きゃー怖い! 正助けてー」
正影に抱きつくと、正影も鳳凰もけらけらと笑った。ああ、非日常の中にもこんな日常のようなことがあるのだなあと日和は思う。そうだ。物事には緩急がある。雨の日もあれば晴れる日だってあるし、曇りの日だってある。天候が変わるように、時間も変わっていく。非日常と言ったって、案外それは日常なのかもしれない。
肉がいい具合に焼けたのを見計らった鳳凰は、腰につけてあるポーチから小さな瓶を取り出して肉に振りかけた。白くて小さな顆粒は、おそらく塩だろう。木の枝を地面から引き抜いて、鳳凰は味見の為か先にひとり肉を齧った。しばらく咀嚼を繰り返した鳳凰は、にんまりと頬を緩めると何度も頷いて皆を見回す。
「できたぜ! みんなで食べよ!」
「うん。ちょっと楽しみ」
何せ獲れたて新鮮な肉だ。きっと美味しいに違いない。鳳凰から串刺しになった肉を受け取って、日和は何度か息を吹きかけるとそっと肉を口にした。噛んでみるとそこそこの歯応えと共に、鹿の独特の匂いが鼻孔を抜ける。じゅわりと僅かに滲んだ肉汁が舌を潤して、塩気の効いた肉の味が味蕾を刺激する。これは——美味い。
「おいしい……!」
「ああ、これは美味いな」
「だろー! へっへー、オレのおすすめー」
「……獲ってきたのはお前じゃないがな」
ぼそりと呟いた狷にへらへらと笑って、鳳凰は更に肉へかぶりつく。食料のことは気にしなくていい、と言っていたが、それは本当らしい。あとは文明の利器が使えれば文句なしなのだが、それは求めすぎかもしれないので日和は言わないことにした。
食事も終えて腹を満たした四人は、また歩き始めた。次は街を目指すのだという。街へ行けば携帯電話もどこかしらで充電できるだろう。ここまで人気のない場所ばかりを巡ってきたため、少しの安堵感が芽生えなくもない。美味しいものを食べた為に足取りが軽くなったように感じた日和は、ふと喉の渇きを覚えて目を瞬かせた。
「ねぇ、そういえば飲み物飲んでないね。喉渇いちゃった」
「確かに。肉に夢中で忘れてた」
「水……どっかないかな。狷、探してみてくれよ」
鳳凰に言われた狷は少し視線を上げて何かを感じ取っているようだった。しばらく歩いたままだったが、狷はふと行く先から目を逸らすと、道を逸れて先を歩いていく。
「お、見つけた?」
「水って、川の水とかじゃないよね? ちゃんと湧き水だよね?」
「そうだと願いたいな……」
そう話をしながら三人は狷へついて歩く。——自分達に向けられた鋭い視線に気付かずに。
狷はなおも目を丸くしたまま日和を見つめている。そんなにおかしなことを言っただろうか。ただ、呼び方を提案しただけだが、奇抜だっただろうか。いや、彼は狷という名前だ。鳳凰のように呼び捨てにするのはどこか違うなあと思った日和は「ちゃん」付けをしようと告げただけだ。なのにいつも無表情を貼り付けていた彼がその顔を崩すほど、驚くようなことだろうか。
「……だ、だめ……かな?」
「…………」
その問いに、狷の瞳が僅かに揺らいだ気がした。少しの間を置いて、彼のルビーのような赤い目が逸らされる。
「…………好きにしろ」
これは、肯定と捉えていいのだろうか。嫌なら彼は嫌だときっぱり言いそうだし、承諾を得たと思った日和はふわりと微笑んで目を細めた。
「じゃあ、改めて……狷ちゃん。よろしくね」
その言葉に狷は何も言わず、肉が焼けるのをじっと見つめていた。この際だ、色々と話をしてみよう。そう思い立って、日和は「ねぇ」と鳳凰達にも声をかける。
「小林くんのこと狷ちゃんって呼んでもいいってお許し得ちゃったー」
「狷ちゃん!? ぶふっ……いやいや、いいじゃん、距離感縮まったじゃん」
「……今笑ったか」
「気のせい気のせい」
「ならオレも小林じゃなく狷って呼ばせてくれよ。なんだか味気ないしな」
そう言う正影にも少しの間黙っていたが、狷は先程と同じように「好きにしろ」とだけ呟いた。
「やったね! 狷ちゃん……ふふ。なんだか嬉しいな」
「……何がだ」
怪訝そうに少しだけ眉を寄せた狷と目が合う。日和は小さく首を傾げると、彼に笑いかけて焼き目の付いてきた肉へ視線を落とした。
「だって、最初は狷ちゃんすごく怖かったんだもん。だからね、仲良くなれそうで嬉しい」
「そうだな。近寄りがたかったぞ」
「……」
二人にそう言われて、狷は切れ長い目を細める。
「……貴様らと一緒にいるのは、都合がいいからだ。ただそれだけだ」
「むー、そんなこと言って。急に貴様なんて言ったってもう怖くありませーん」
ぷい、と顔を背けてみるが、狷はどこ吹く風だ。
「都合がいいとか言ってー、私が足手まといになるって言ってたくせにー」
「……それ以上喋るとその口引き裂くぞ」
「きゃー怖い! 正助けてー」
正影に抱きつくと、正影も鳳凰もけらけらと笑った。ああ、非日常の中にもこんな日常のようなことがあるのだなあと日和は思う。そうだ。物事には緩急がある。雨の日もあれば晴れる日だってあるし、曇りの日だってある。天候が変わるように、時間も変わっていく。非日常と言ったって、案外それは日常なのかもしれない。
肉がいい具合に焼けたのを見計らった鳳凰は、腰につけてあるポーチから小さな瓶を取り出して肉に振りかけた。白くて小さな顆粒は、おそらく塩だろう。木の枝を地面から引き抜いて、鳳凰は味見の為か先にひとり肉を齧った。しばらく咀嚼を繰り返した鳳凰は、にんまりと頬を緩めると何度も頷いて皆を見回す。
「できたぜ! みんなで食べよ!」
「うん。ちょっと楽しみ」
何せ獲れたて新鮮な肉だ。きっと美味しいに違いない。鳳凰から串刺しになった肉を受け取って、日和は何度か息を吹きかけるとそっと肉を口にした。噛んでみるとそこそこの歯応えと共に、鹿の独特の匂いが鼻孔を抜ける。じゅわりと僅かに滲んだ肉汁が舌を潤して、塩気の効いた肉の味が味蕾を刺激する。これは——美味い。
「おいしい……!」
「ああ、これは美味いな」
「だろー! へっへー、オレのおすすめー」
「……獲ってきたのはお前じゃないがな」
ぼそりと呟いた狷にへらへらと笑って、鳳凰は更に肉へかぶりつく。食料のことは気にしなくていい、と言っていたが、それは本当らしい。あとは文明の利器が使えれば文句なしなのだが、それは求めすぎかもしれないので日和は言わないことにした。
食事も終えて腹を満たした四人は、また歩き始めた。次は街を目指すのだという。街へ行けば携帯電話もどこかしらで充電できるだろう。ここまで人気のない場所ばかりを巡ってきたため、少しの安堵感が芽生えなくもない。美味しいものを食べた為に足取りが軽くなったように感じた日和は、ふと喉の渇きを覚えて目を瞬かせた。
「ねぇ、そういえば飲み物飲んでないね。喉渇いちゃった」
「確かに。肉に夢中で忘れてた」
「水……どっかないかな。狷、探してみてくれよ」
鳳凰に言われた狷は少し視線を上げて何かを感じ取っているようだった。しばらく歩いたままだったが、狷はふと行く先から目を逸らすと、道を逸れて先を歩いていく。
「お、見つけた?」
「水って、川の水とかじゃないよね? ちゃんと湧き水だよね?」
「そうだと願いたいな……」
そう話をしながら三人は狷へついて歩く。——自分達に向けられた鋭い視線に気付かずに。
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