右手と魔法!

茶竹 葵斗

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逃亡

第三十八話 築き上げてきた壁

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 日和がもう一度口を開きかけた時だった。さくりと草を踏み締める音が聞こえて、そちらを振り返った。そこにいたのは鳳凰だ。鳳凰は二人をきょとんと見つめていたが、気まずそうに「あー」と声を漏らして苦笑いを浮かべた。

「えーっと、お邪魔だった?」
「あ、え、あ……」

 今更だが狷のそばから離れる。狷は無言で落ちていた服を拾い上げると、それを鳳凰に投げつけた。

「わっ」
「もう使えない。捨てておけ」
「えっ、自分で捨てればいいじゃん……」
「いいから捨ててこい」

 狷の威圧的な態度に何かを悟ったのか、鳳凰はぐっと口をつぐんで来た道を帰っていった。……大変宜しくないことになってしまった。とんでもないところを見られてしまったのだ。自分は泣いているし、狷は半裸だ。良からぬ勘違いをされなければいいのだが。と、狷に声をかけられて日和ははっと彼を振り返った。

「は、はい……」
「このことは忘れろ。分かったな」
「……それ、は」

 できない。忘れることなど。まだ彼からの気持ちを聞いていない。日和がぶんぶんと首を横に振ると、狷はため息をついてこちらへ歩いてきた。それが分かった瞬間だった。視界が反転して、気が付けば狷に組み敷かれていた。手首が頭の上で拘束される。背筋にさっと冷たいものが走ったのが分かった。

「……っ!」
「……どうなってもいいのか」

 狷の片手がするりと体に下りていく。日和はひくりと喉を引きらせたが、かすれた声で呟いた。

「……いい、よ」

 県はその言葉に目を見開いた。しばらくそのままだったが、狷は観念したようにまた深いため息をついて日和を引き起こした。何が起きているのか分からない日和は、地面に座り込んだまま呆然ぼうぜんと狷を見上げる。

「……自分のことは大事にしろ」

 狷はそう言い残して、そこから屋敷の方へ去っていった。その場に残された日和はぼうっと狷の背中を見つめたまま、動くことができなかった。



 屋敷に戻った狷は駆け寄ってきた鳳凰の首根っこを引っ掴んで部屋の隅に連れてきた。あの場でのことを口外しないように口止めをしておかないといけない。

「いいか。あそこで見たことは忘れろ。間違っても彼奴あいつには話すな。面倒なことになる」
「あっ、おう……あいつって正影のこと?」
「そうだ」

 凄みをかけて言うと、鳳凰はこくこくと必死になって頷いた。椅子に腰かけている正影はこちらをいぶかしげに見つめている。全く、面倒なことになった。日和を置いて戻ってきた口実も作らなければならない。面倒なことは嫌いだ。だから日和からの告白も断ったのに、この馬鹿が空気を読まずにのこのことやってきたことで余計に面倒なことになった。一発殴ってやってもいいところだが、正影のいる前で無闇に動くのはやめた方がいいだろう。彼女は勘が鋭い。何かあったことを悟られるのはよくない。

「……日和は?」
「……頭を冷やすと言っていた。お前も鳳凰から聞いただろう。後で行ってやったらどうだ」

 用意していた答えを述べると、正影は神妙な面持ちに変わって頷いた。鳳凰を離すと、狷は一直線に歩く。

「どこ行くんだよ?」
「師匠の書斎だ。まだ見ていない。お前らは休んでいろ」



 書斎へ足を踏み入れた直後、狷は思いきり壁を殴りつけた。そばに積み上げられていた本が崩れ落ちたことなど気にもめず、椅子にどかりと座り込み額に手を当てて背もたれにもたれる。
 気を強く持て、と。自分に言い聞かせる。たかが小娘に告白されたくらいで心が揺らぐとはなんたることだ。今まで築き上げてきた自分という壁が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた気がして、狷は舌打ちをする。いつだって自分だけに関心を持って生きてきた。そうして生きていれば無駄に傷付くこともないのだと知っていたからだ。他人に心を動かすことは無駄だ。だって、そうしたっていつかは誰だっていなくなるのだから。いないもののことを考えたって、それは時間の無駄だ。自分が傷付くだけだ。いつだって大切なのは自分だ。……自分のはずなのに。彼女の泣き顔が脳裏にこべりついて、離れない。
 お節介な彼女は、自分の壁さえ越えて心の中へ踏み込んできた。笑顔が眩しい彼女。誰にでも愛嬌を振り撒く彼女。自分とは違う次元にむ存在。

——私と一緒にいてください。

 その言葉を聞いた時、どれほど心が揺さぶられたか。

「……くそ……」
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