38 / 50
逃亡
第三十八話 築き上げてきた壁
しおりを挟む
日和がもう一度口を開きかけた時だった。さくりと草を踏み締める音が聞こえて、そちらを振り返った。そこにいたのは鳳凰だ。鳳凰は二人をきょとんと見つめていたが、気まずそうに「あー」と声を漏らして苦笑いを浮かべた。
「えーっと、お邪魔だった?」
「あ、え、あ……」
今更だが狷のそばから離れる。狷は無言で落ちていた服を拾い上げると、それを鳳凰に投げつけた。
「わっ」
「もう使えない。捨てておけ」
「えっ、自分で捨てればいいじゃん……」
「いいから捨ててこい」
狷の威圧的な態度に何かを悟ったのか、鳳凰はぐっと口を噤んで来た道を帰っていった。……大変宜しくないことになってしまった。とんでもないところを見られてしまったのだ。自分は泣いているし、狷は半裸だ。良からぬ勘違いをされなければいいのだが。と、狷に声をかけられて日和ははっと彼を振り返った。
「は、はい……」
「このことは忘れろ。分かったな」
「……それ、は」
できない。忘れることなど。まだ彼からの気持ちを聞いていない。日和がぶんぶんと首を横に振ると、狷はため息をついてこちらへ歩いてきた。それが分かった瞬間だった。視界が反転して、気が付けば狷に組み敷かれていた。手首が頭の上で拘束される。背筋にさっと冷たいものが走ったのが分かった。
「……っ!」
「……どうなってもいいのか」
狷の片手がするりと体に下りていく。日和はひくりと喉を引き攣らせたが、掠れた声で呟いた。
「……いい、よ」
県はその言葉に目を見開いた。しばらくそのままだったが、狷は観念したようにまた深いため息をついて日和を引き起こした。何が起きているのか分からない日和は、地面に座り込んだまま呆然と狷を見上げる。
「……自分のことは大事にしろ」
狷はそう言い残して、そこから屋敷の方へ去っていった。その場に残された日和はぼうっと狷の背中を見つめたまま、動くことができなかった。
屋敷に戻った狷は駆け寄ってきた鳳凰の首根っこを引っ掴んで部屋の隅に連れてきた。あの場でのことを口外しないように口止めをしておかないといけない。
「いいか。あそこで見たことは忘れろ。間違っても彼奴には話すな。面倒なことになる」
「あっ、おう……あいつって正影のこと?」
「そうだ」
凄みをかけて言うと、鳳凰はこくこくと必死になって頷いた。椅子に腰かけている正影はこちらを訝しげに見つめている。全く、面倒なことになった。日和を置いて戻ってきた口実も作らなければならない。面倒なことは嫌いだ。だから日和からの告白も断ったのに、この馬鹿が空気を読まずにのこのことやってきたことで余計に面倒なことになった。一発殴ってやってもいいところだが、正影のいる前で無闇に動くのはやめた方がいいだろう。彼女は勘が鋭い。何かあったことを悟られるのはよくない。
「……日和は?」
「……頭を冷やすと言っていた。お前も鳳凰から聞いただろう。後で行ってやったらどうだ」
用意していた答えを述べると、正影は神妙な面持ちに変わって頷いた。鳳凰を離すと、狷は一直線に歩く。
「どこ行くんだよ?」
「師匠の書斎だ。まだ見ていない。お前らは休んでいろ」
書斎へ足を踏み入れた直後、狷は思いきり壁を殴りつけた。そばに積み上げられていた本が崩れ落ちたことなど気にも留めず、椅子にどかりと座り込み額に手を当てて背もたれに凭れる。
気を強く持て、と。自分に言い聞かせる。たかが小娘に告白されたくらいで心が揺らぐとはなんたることだ。今まで築き上げてきた自分という壁が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた気がして、狷は舌打ちをする。いつだって自分だけに関心を持って生きてきた。そうして生きていれば無駄に傷付くこともないのだと知っていたからだ。他人に心を動かすことは無駄だ。だって、そうしたっていつかは誰だっていなくなるのだから。いないもののことを考えたって、それは時間の無駄だ。自分が傷付くだけだ。いつだって大切なのは自分だ。……自分のはずなのに。彼女の泣き顔が脳裏にこべりついて、離れない。
お節介な彼女は、自分の壁さえ越えて心の中へ踏み込んできた。笑顔が眩しい彼女。誰にでも愛嬌を振り撒く彼女。自分とは違う次元に棲む存在。
——私と一緒にいてください。
その言葉を聞いた時、どれほど心が揺さぶられたか。
「……くそ……」
「えーっと、お邪魔だった?」
「あ、え、あ……」
今更だが狷のそばから離れる。狷は無言で落ちていた服を拾い上げると、それを鳳凰に投げつけた。
「わっ」
「もう使えない。捨てておけ」
「えっ、自分で捨てればいいじゃん……」
「いいから捨ててこい」
狷の威圧的な態度に何かを悟ったのか、鳳凰はぐっと口を噤んで来た道を帰っていった。……大変宜しくないことになってしまった。とんでもないところを見られてしまったのだ。自分は泣いているし、狷は半裸だ。良からぬ勘違いをされなければいいのだが。と、狷に声をかけられて日和ははっと彼を振り返った。
「は、はい……」
「このことは忘れろ。分かったな」
「……それ、は」
できない。忘れることなど。まだ彼からの気持ちを聞いていない。日和がぶんぶんと首を横に振ると、狷はため息をついてこちらへ歩いてきた。それが分かった瞬間だった。視界が反転して、気が付けば狷に組み敷かれていた。手首が頭の上で拘束される。背筋にさっと冷たいものが走ったのが分かった。
「……っ!」
「……どうなってもいいのか」
狷の片手がするりと体に下りていく。日和はひくりと喉を引き攣らせたが、掠れた声で呟いた。
「……いい、よ」
県はその言葉に目を見開いた。しばらくそのままだったが、狷は観念したようにまた深いため息をついて日和を引き起こした。何が起きているのか分からない日和は、地面に座り込んだまま呆然と狷を見上げる。
「……自分のことは大事にしろ」
狷はそう言い残して、そこから屋敷の方へ去っていった。その場に残された日和はぼうっと狷の背中を見つめたまま、動くことができなかった。
屋敷に戻った狷は駆け寄ってきた鳳凰の首根っこを引っ掴んで部屋の隅に連れてきた。あの場でのことを口外しないように口止めをしておかないといけない。
「いいか。あそこで見たことは忘れろ。間違っても彼奴には話すな。面倒なことになる」
「あっ、おう……あいつって正影のこと?」
「そうだ」
凄みをかけて言うと、鳳凰はこくこくと必死になって頷いた。椅子に腰かけている正影はこちらを訝しげに見つめている。全く、面倒なことになった。日和を置いて戻ってきた口実も作らなければならない。面倒なことは嫌いだ。だから日和からの告白も断ったのに、この馬鹿が空気を読まずにのこのことやってきたことで余計に面倒なことになった。一発殴ってやってもいいところだが、正影のいる前で無闇に動くのはやめた方がいいだろう。彼女は勘が鋭い。何かあったことを悟られるのはよくない。
「……日和は?」
「……頭を冷やすと言っていた。お前も鳳凰から聞いただろう。後で行ってやったらどうだ」
用意していた答えを述べると、正影は神妙な面持ちに変わって頷いた。鳳凰を離すと、狷は一直線に歩く。
「どこ行くんだよ?」
「師匠の書斎だ。まだ見ていない。お前らは休んでいろ」
書斎へ足を踏み入れた直後、狷は思いきり壁を殴りつけた。そばに積み上げられていた本が崩れ落ちたことなど気にも留めず、椅子にどかりと座り込み額に手を当てて背もたれに凭れる。
気を強く持て、と。自分に言い聞かせる。たかが小娘に告白されたくらいで心が揺らぐとはなんたることだ。今まで築き上げてきた自分という壁が、がらがらと音を立てて崩れていくのを感じた気がして、狷は舌打ちをする。いつだって自分だけに関心を持って生きてきた。そうして生きていれば無駄に傷付くこともないのだと知っていたからだ。他人に心を動かすことは無駄だ。だって、そうしたっていつかは誰だっていなくなるのだから。いないもののことを考えたって、それは時間の無駄だ。自分が傷付くだけだ。いつだって大切なのは自分だ。……自分のはずなのに。彼女の泣き顔が脳裏にこべりついて、離れない。
お節介な彼女は、自分の壁さえ越えて心の中へ踏み込んできた。笑顔が眩しい彼女。誰にでも愛嬌を振り撒く彼女。自分とは違う次元に棲む存在。
——私と一緒にいてください。
その言葉を聞いた時、どれほど心が揺さぶられたか。
「……くそ……」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
俺だけ毎日チュートリアルで報酬無双だけどもしかしたら世界の敵になったかもしれない
宍戸亮
ファンタジー
朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。
不意に開かれるダンジョンへのゲート。その奥には常人では決して踏破できない存在が待ち受け、萌の体は凶刃によって裂かれた。
そしてチュートリアルが発動し、復活。殺される。復活。殺される。気が狂いそうになる輪廻の果て、萌は光明を見出し、存在を継承する事になった。
帰還した後、急速に馴染んでいく新世界。新しい学園への編入。試験。新たなダンジョン。
そして邂逅する謎の組織。
萌の物語が始まる。
万物争覇のコンバート 〜回帰後の人生をシステムでやり直す〜
黒城白爵
ファンタジー
異次元から現れたモンスターが地球に侵攻してくるようになって早数十年。
魔力に目覚めた人類である覚醒者とモンスターの戦いによって、人類の生息圏は年々減少していた。
そんな中、瀕死の重体を負い、今にもモンスターに殺されようとしていた外神クロヤは、これまでの人生を悔いていた。
自らが持つ異能の真価を知るのが遅かったこと、異能を積極的に使おうとしなかったこと……そして、一部の高位覚醒者達の横暴を野放しにしてしまったことを。
後悔を胸に秘めたまま、モンスターの攻撃によってクロヤは死んだ。
そのはずだったが、目を覚ますとクロヤは自分が覚醒者となった日に戻ってきていた。
自らの異能が構築した新たな力〈システム〉と共に……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる