右手と魔法!

茶竹 葵斗

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逃亡

第四十五話 見知らぬ老婦に助けられて

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——意識を取り戻す。まだぼやけたままの視界に映ったのは、どこかの家の天井だ。訳が分からないままぼうっと天井を見上げていた日和は、先程までの記憶を辿ってがばりと起き上がった。狷が自分達を逃した。体が粒子になっていく中、狷の表情を見た気がする。彼は痛みを耐えるような、辛そうな顔をしていた。その真意は分からないが、今まで見た彼の表情の中で一番寂しそうなものだった。そんなことを思い出しながら辺りを見渡す。今自分がいるのはごくごく普通の日本家屋のようだった。少々年季の入った布団に寝かされていたようで、畳の感覚が敷布団越しに伝わってくる。床の間には花瓶と掛け軸が飾られており、何ともありふれた和な空間に気分が拍子抜けしそうになる。
 と、部屋のふすまが開けられる。廊下から顔を覗かせたのは優しい雰囲気の老婦ろうふだった。老婦は日和が起きていることに驚いたようだったが、すぐにふにゃりと表情を緩める。

「よかった、目が覚めたのね。うちの前で倒れていたからびっくりしたのよ」
「あ……」
「お茶を持ってきましょうか。少し待っていて」
「あの」

 日和が言葉を発する前に老婦はまた廊下の方に消える。ここはどこなのか。いつから自分はここにいたのか。聞きたいことは山ほどある。そわそわと落ち着かないまま待っていると、老婦は存外早く戻ってきた。老婦が手に持つお盆の上の湯呑みは、ほかほかと湯気を立てている。

「さっきお茶を沸かしたところだったの。いい頃合いだったわね」
「あ、あの……助けていただいてありがとうございます。私、いつからここに……?」
「そうね……一時間くらい前からかしら? そろそろ門灯もんとうを切ろうと思って外に出た時にあなたがいたから」
「そ、うですか……あの、他に誰かいませんでしたか?」
「ええ、あなた一人だったわ」

 老婦の答えに日和は布団を握り締めた。鳳凰と正影はどこに行ってしまったのだろう。自分一人だけここに飛ばされてしまったのだろうか。二人は一緒だろうか。色々な思考が脳裏に浮かんでは消える。不安に押し潰されそうになっていると、老婦が日和に優しく声をかけた。

「こんなところで倒れているなんて、本当にびっくりしたのよ。何せここはふもとからとても遠い山中だもの。ご近所さんは二時間かけて山を下りなきゃいけないような場所よ」
「え……」
「迷ったのね。随分前にもあなたと同じくらいの子が遭難していてね。あたしの家に駆け込んで来たの」

 老婦は落ち着いた様子でくすくすと笑いながら話している。——こんなことをしている場合ではない。早く鳳凰と正影を探さなければ。狷のことも心配だ。日和は布団から出ると老婦に頭を下げた。

「すみません、私、もう行かないと」
「あら、外はもう真っ暗よ。危ないわ。この山は街灯もないし熊も出るから、明日の朝まではここでゆっくりしなさいな」
「そんな……」

 打ちひしがれる日和に老婦は心配そうな表情を浮かべる。

「急ぎの用事? でも女の子が山道を一人で歩くのは危険すぎるわ。急ぎたい気持ちは分かるけど……」
「……はい」

 素直に分かりましたと言えず、日和は黙り込む。こうしている間にも狷は。鳳凰は、正影は——。不安だけが募っていく。そんな日和の様子を見つめていた老婦は、ふと目元を緩めると日和に笑いかけた。

「おばあちゃんね、ここに一人で住んでいるの。お客さんも訪ねてくることもほとんどないから、寂しくてね。よかったらあたしの相手をしてくれないかしら」
「え……?」

 老婦にそう言われ、日和は戸惑った。助けてくれたのはこの老婦だろうが、急にそう言われても少し構えてしまうところはある。しかし老婦の人懐っこい笑みに、日和はぐっと口をつぐんだ。この人の言う通りだ。円窓まるまどの外は真っ暗で何も見えない。今外へ出るべきではないだろう。でもどうしても、いてもたってもいられないのだ。日和の考えていることが分かっているのか、老婦は日和の肩にぽん、と手を置いた。

「落ち着きなさいな。大丈夫よ、明日になれば麓まで送ってあげるわ。とりあえずお茶を飲みなさい」

 お茶。その言葉に日和は目を伏せる。今まさにお茶が飲みたいところだ。悪い癖。混乱している時にお茶が欲しくなる癖。最初鳳凰を家に招いた時も、その癖が出たのだった。

「はい、どうぞ」

 老婦は笑顔でお盆を差し出す。日和はおずおずと手を伸ばして湯呑みを受け取り、温かいお茶を口に含んだ。広がる緑茶の匂い。ため息がこぼれる。

「落ち着いた?」
「……はい。ありがとうございます」
「ふふ、いいのよ」
「……私、槻尾つきお日和って言います。あなたは……」

 日和の問いかけに目を瞬かせていた老婦は、顔のしわを深めて微笑んだ。

「あたしは小林琴子ことこ。よろしくね、日和ちゃん」
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