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第二章 それぞれの地
大連へ 2
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船は大型の約五千トン級で、壱岐と対馬の間を抜け、朝鮮半島の南西端をかすめて黄海中央を大連に直進する予定だ。市たちの船室は一等で、専用の食堂とともに二階にあり、三階にはサロンや娯楽施設があった。
出港すると、市はさっそくデッキに立った。埠頭で働く人々や、曳船や荷役の船の動き回るさまは見ていて飽きない。彼は好奇心が旺盛なようだ。
しかし港を離れて玄界灘に出ると結構揺れ始めた。横に立つ隆政が注意した。
「おい、お前しっかりつかまっていろよ」
この程度なら、彼は本を読んでいても酔うことはない。市はどうかと注目していると、意外に大丈夫そうである。明子がとても乗り物に弱く、路面電車で少し揺れただけでも気分が悪くなるほどだったが、どうやらそれは遺伝しなかったようである。
波間には白い海鳥たちが飛びまわり、船べりの鉄枠に掴まった市は、ずっとそれを指で追っていた。彼は飛ぶものに非常な興味を持っているようだ。
(この分ならこいつは海軍でもやって行けるな‥‥‥)
市を見てうっかり隆政は考えてしまい、慌てて打ち消した。
(いやいや、こいつまで軍隊にやるなどとんでもないわ)
こうして二人はしばらくデッキにいたが、疲れてきたので船室に戻った。夏の日は長く、先もまだ長い。救いは、直射日光は酷くても、船の上では地上ほど暑く感じないことだった。
「お前、汽車の旅は面白かったか?」
隆政が尋ねると市はこっくりうなずく。
「船はどうだ?」
再びこくり。
「でもな、慣れると飽きるぞ、これは。ただな、退屈になっても一人で外に出たら駄目だぞ。海に落ちたら一巻の終わりだからな。もしどこか行きたくなったら俺を起こせ」
市は素直にうなずいた。
隆政が一寝入りして起きて見ると、市もあどけない姿で寝ていた。やはり寝台車で疲れたのだろうと思った。
夕食は洋食のコース料理だった。
市は子供用メニューを大人と同じナイフとフォークを使い、平気な顔で食べている。
(ほう、市三のやつ、なかなかの教育をしていたのだな)
しかし、そうして思い出すたびに彼は残念でならなかった。
「奴にも何か武術の心得があれば、むざむざやられはしなかったろうに‥‥‥」
あれからいつも出てくる愚痴である。彼は食べながら頭の中で反芻した。
(‥‥‥奴は俺と違って穏やかな優しい子供だった。勉強はできたが、運動の方はからっきし駄目だったな。不幸にもそれが裏目に出たのかもしれない。俺が士官学校に入ったとき、奴は小学校の何年だったかな? 何しろこっちが勘当同然だったから分からなくなってしまった。しかしこいつは奴の子供なのだ。運動神経は大丈夫だろうか? それが少し心配だが、とにかくこれからいろいろ仕込まんといかんな...)
彼は、市が類まれな運動神経を持っていることを知らなかった。
若いころ血の気が多かった隆政は、今もぎらぎらして脂ぎった印象を与える。柔和な市三とはまさに正反対の兄弟だった。
彼自身は柔道が得意である。一方、剣(軍刀)を扱うのは不得手で、むしろ銃剣術の突きのような直線的な動作が好きだった。
(そういえばよく兵隊の小銃を奪って稽古したな)
昔を思い出しながら市の方を見ると、デザートのオレンジをナイフとフォークで器用に食べている。
(ほう。こいつは、なかなかのもんかもしれんぞ)
彼は思わずニヤリとした。
食堂では何か催し物が続くようだが、二人は見ないで引き上げた。部屋に戻ると隆政は聞いた。
「お前、そろそろ話できるんじゃないか? 何か言ってごらん」
市はうなずいて、口をぱくぱくさせた。かすれ声がした気がする。
旅に出てから市が好くなっているように感じられたが、この様子から確信を深めた。もし言葉が戻ったら、まずは陽蔵氏に報告せねばと思う。
(なにしろあの御仁には随分と世話になったからな。その分、礼もはずんだが‥‥‥)
話合いで最後に残った懸案事項は、濠医院の土地と家屋をどうするかだ。
後見人たる隆政は、売却して市の教育費用などに充てたいと思ったが、陽蔵は「(市三の)同僚などで、事件を知った上で借りたい人がいるなら、貸してみたらどうかの」と言った。
陽蔵は、市之進から続いた医院の存続に価値を感じ、誰か(将来、もしかすると市?)が看板を受け継いでくれれば良いと考えたようだ。
結局隆政は彼の意を汲み、市が成人した暁に本人に処分を任せることに決めた。それまでの管理や金銭の出納は陽蔵が代行し、事後に報告することになった。そのための費用もたっぷり前払いした。
ちなみに市が言葉を失ったのは、おそらく失語と呼ばれる症状だろう。
彼は言われたことや周囲の状況は理解でき、うなずいたりするまではできたが、何か言おうとすると言葉が出ない。彼の感覚では頭に霧が掛かっており、話そうとすると言葉が消えて出てこなかった。
しかしこの旅行中に、その霧は次第に晴れていった。壊れた心を治すには旅も一つの手段であった。
こうして船上生活は暮れていき、翌日も同じように続き、翌々日の午前十時頃に彼らは大連港の埠頭に到着した。
船を降りた隆政たちは、長いロビーを抜けて大きな広場に出ると、タクシーを拾って彼の会社に向かった。
出港すると、市はさっそくデッキに立った。埠頭で働く人々や、曳船や荷役の船の動き回るさまは見ていて飽きない。彼は好奇心が旺盛なようだ。
しかし港を離れて玄界灘に出ると結構揺れ始めた。横に立つ隆政が注意した。
「おい、お前しっかりつかまっていろよ」
この程度なら、彼は本を読んでいても酔うことはない。市はどうかと注目していると、意外に大丈夫そうである。明子がとても乗り物に弱く、路面電車で少し揺れただけでも気分が悪くなるほどだったが、どうやらそれは遺伝しなかったようである。
波間には白い海鳥たちが飛びまわり、船べりの鉄枠に掴まった市は、ずっとそれを指で追っていた。彼は飛ぶものに非常な興味を持っているようだ。
(この分ならこいつは海軍でもやって行けるな‥‥‥)
市を見てうっかり隆政は考えてしまい、慌てて打ち消した。
(いやいや、こいつまで軍隊にやるなどとんでもないわ)
こうして二人はしばらくデッキにいたが、疲れてきたので船室に戻った。夏の日は長く、先もまだ長い。救いは、直射日光は酷くても、船の上では地上ほど暑く感じないことだった。
「お前、汽車の旅は面白かったか?」
隆政が尋ねると市はこっくりうなずく。
「船はどうだ?」
再びこくり。
「でもな、慣れると飽きるぞ、これは。ただな、退屈になっても一人で外に出たら駄目だぞ。海に落ちたら一巻の終わりだからな。もしどこか行きたくなったら俺を起こせ」
市は素直にうなずいた。
隆政が一寝入りして起きて見ると、市もあどけない姿で寝ていた。やはり寝台車で疲れたのだろうと思った。
夕食は洋食のコース料理だった。
市は子供用メニューを大人と同じナイフとフォークを使い、平気な顔で食べている。
(ほう、市三のやつ、なかなかの教育をしていたのだな)
しかし、そうして思い出すたびに彼は残念でならなかった。
「奴にも何か武術の心得があれば、むざむざやられはしなかったろうに‥‥‥」
あれからいつも出てくる愚痴である。彼は食べながら頭の中で反芻した。
(‥‥‥奴は俺と違って穏やかな優しい子供だった。勉強はできたが、運動の方はからっきし駄目だったな。不幸にもそれが裏目に出たのかもしれない。俺が士官学校に入ったとき、奴は小学校の何年だったかな? 何しろこっちが勘当同然だったから分からなくなってしまった。しかしこいつは奴の子供なのだ。運動神経は大丈夫だろうか? それが少し心配だが、とにかくこれからいろいろ仕込まんといかんな...)
彼は、市が類まれな運動神経を持っていることを知らなかった。
若いころ血の気が多かった隆政は、今もぎらぎらして脂ぎった印象を与える。柔和な市三とはまさに正反対の兄弟だった。
彼自身は柔道が得意である。一方、剣(軍刀)を扱うのは不得手で、むしろ銃剣術の突きのような直線的な動作が好きだった。
(そういえばよく兵隊の小銃を奪って稽古したな)
昔を思い出しながら市の方を見ると、デザートのオレンジをナイフとフォークで器用に食べている。
(ほう。こいつは、なかなかのもんかもしれんぞ)
彼は思わずニヤリとした。
食堂では何か催し物が続くようだが、二人は見ないで引き上げた。部屋に戻ると隆政は聞いた。
「お前、そろそろ話できるんじゃないか? 何か言ってごらん」
市はうなずいて、口をぱくぱくさせた。かすれ声がした気がする。
旅に出てから市が好くなっているように感じられたが、この様子から確信を深めた。もし言葉が戻ったら、まずは陽蔵氏に報告せねばと思う。
(なにしろあの御仁には随分と世話になったからな。その分、礼もはずんだが‥‥‥)
話合いで最後に残った懸案事項は、濠医院の土地と家屋をどうするかだ。
後見人たる隆政は、売却して市の教育費用などに充てたいと思ったが、陽蔵は「(市三の)同僚などで、事件を知った上で借りたい人がいるなら、貸してみたらどうかの」と言った。
陽蔵は、市之進から続いた医院の存続に価値を感じ、誰か(将来、もしかすると市?)が看板を受け継いでくれれば良いと考えたようだ。
結局隆政は彼の意を汲み、市が成人した暁に本人に処分を任せることに決めた。それまでの管理や金銭の出納は陽蔵が代行し、事後に報告することになった。そのための費用もたっぷり前払いした。
ちなみに市が言葉を失ったのは、おそらく失語と呼ばれる症状だろう。
彼は言われたことや周囲の状況は理解でき、うなずいたりするまではできたが、何か言おうとすると言葉が出ない。彼の感覚では頭に霧が掛かっており、話そうとすると言葉が消えて出てこなかった。
しかしこの旅行中に、その霧は次第に晴れていった。壊れた心を治すには旅も一つの手段であった。
こうして船上生活は暮れていき、翌日も同じように続き、翌々日の午前十時頃に彼らは大連港の埠頭に到着した。
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