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第二章 それぞれの地
人攫いと市政 2
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涼子は「ヒーっ」と声にならない悲鳴を上げ、玄関まで走った。ガラッと開けて入るやいなや、戸が壊れそうなほど力を込めて閉めた。
バーン! と大きな音がしたが、震える手で鍵を閉め、靴をほっぽり出して階段をダーッと駆け上がる。
すりガラスの向こうではゆっくりと人影が近づいていた。
二階では、音を聞いた孝子が何事かと出て来るところで、ちょうど二人は鉢合わせしそうになった。そのとたん、涼子はへなへなと座り込み「お母さま~」と泣き出してしまった。
その様子に孝子は少し驚き、しゃがんで尋ねた。
「あなた、いったいどうしたの? 乱暴に戸を閉めて。また悪い子たちに何かされたの?」
「あ、あ、あのね、人攫いに追っかけられたの。その人ここまで来たの」
「何ですって!」
顔面蒼白になった涼子は鳥肌まで立てて震えており、只事ではない。
(しかし、こんな真昼に人攫いが出るものかしら‥‥‥でも、ここまで追って来たなら穏やかではないわね)
彼女は何か武器になるものはないかとあたりを見回したが、長柄の箒しかない。
「あなた立てる? 怖かったらここで隠れていても良いわよ」
涼子は立った。孝子は箒を持ち、涼子を従えて階下に降りると、エツと道子が向こうで恐々覗いている。間の悪いことに、頼りの陽蔵は外出から戻っていなかった。
見ると鍵が閉めてあり、確かに外に人影がある。
(これはかなりしつこい男かもしれない!)
彼女は箒を後ろ手に持ちながら片手で鍵を開け、悲壮な決意でガラっと戸を開けた。
「どちらさまでしょうか!」
目が合って男がニッと笑った。
「孝子さん、お久しぶりです。いやあ、なつかしいなあ。お隣の市政です」
汗を拭きながら彼はあたりを見回している。
え? っと思ってまじまじ見ると、確かに市政だ。少し雰囲気が変わっているが、ああと思った瞬間、孝子はこらえきれずに吹き出した。もちろん口を覆っている。
「あ、あの、市政さんでしたか、お久しぶりです。ああ、済みません。これは、どうも。うちの娘が粗相をしたようですね。ごめんなさい、ちょっと可笑しくて」
まだ笑い止まない。箒など隠し持った自分が滑稽だろう。
「ああ、今さっき門のところで、お嬢さんをびっくりさせてしまったようです。悪漢と間違えられましたかね? いやはや、どうも失礼しました」
「いえいえ、あの、大分ご無沙汰しておりましたが‥‥‥、そういえば、市政さんは急に満洲にいらっしゃったんですよね」
「ええ、そうなんですよ。そのせつはご挨拶もせずに失礼しました。こちらの皆さんも、お元気そうで何よりです」
孝子は急に真顔になった。
(この人は以前に奥さんを亡くし、今また弟夫婦を亡くしたのだ)
「ええ、お陰様で。ですが、市政さんは四十九日法要にいらっしゃると伺っていましたが、随分早く内地に戻って来られたのですね」
「ええ、そうなのです。実は向こうを首になりましてね、お払い箱です。それで舞い戻ってきたのです。もちろん、市三夫婦の弔いもしっかりやってやろうと思っておりますが」
「まあ、そうなのですか、何と言うか‥‥‥あ、済みません、気が利かなくて、どうぞ、お上がりください」
「それが、ついお嬢さんの後を付いて来てしまったので‥‥‥ちょっと向こうに忘れた物を取りに行ってからまいりますね」
「そうですか、ではお待ちしています」
孝子は家に上がったが、戸を開けておく。
「お義母さま、お隣の市政さんでした。お騒がせして申し訳ありません。またすぐ見えるそうです」
「はい、はい、聞こえてましたよ。なつかしいのう」
道子もほっとした様子で引っ込んだ。
「ねえ、市政さんて誰?」
後ろから涼子が尋ねた。
「ああ、可笑しかった。つい笑ってしまって、失礼なことしたわ。あのね、あの人は市三さんの真ん中のお兄さんよ。お隣は男の三人兄弟なの。この間いらした隆政さんが長男で、今の市政さんが次男で、亡くなった市三さんが三男って言えば分かる?」
「うん、分かる。ああ、でも怖かったよ。良かった、あの人、人攫いじゃなかったんだ」
「そうね、でもあなたったら、いったい何を勘違いしたの?」
看板のことは秘密にするつもりだったので、涼子は少し躊躇してから説明した。
「あのね‥‥‥、横の道をずーっと行ったところで、『将棋』っていう看板があって、それを見てたら変なおじさんに声掛けられたの...」
門までのことを順番に話す。
(なるほど、そういうことか)
「ふーん、将棋の看板があったの。それであなた、ここで声掛けられたとき、市政さんの顔見たの?」
「ううん、見てなかったかも。でも、声が同じだったの」
「あら、そうなの‥‥‥でも違ってたわけね。またいらっしゃるから、ちゃんとご挨拶なさい」
「はーい」
先に声を掛けた男は怪しいが、さすがに人攫いではなさそうだ。その将棋の看板とやらを後で見ておこうと孝子は思った。
バーン! と大きな音がしたが、震える手で鍵を閉め、靴をほっぽり出して階段をダーッと駆け上がる。
すりガラスの向こうではゆっくりと人影が近づいていた。
二階では、音を聞いた孝子が何事かと出て来るところで、ちょうど二人は鉢合わせしそうになった。そのとたん、涼子はへなへなと座り込み「お母さま~」と泣き出してしまった。
その様子に孝子は少し驚き、しゃがんで尋ねた。
「あなた、いったいどうしたの? 乱暴に戸を閉めて。また悪い子たちに何かされたの?」
「あ、あ、あのね、人攫いに追っかけられたの。その人ここまで来たの」
「何ですって!」
顔面蒼白になった涼子は鳥肌まで立てて震えており、只事ではない。
(しかし、こんな真昼に人攫いが出るものかしら‥‥‥でも、ここまで追って来たなら穏やかではないわね)
彼女は何か武器になるものはないかとあたりを見回したが、長柄の箒しかない。
「あなた立てる? 怖かったらここで隠れていても良いわよ」
涼子は立った。孝子は箒を持ち、涼子を従えて階下に降りると、エツと道子が向こうで恐々覗いている。間の悪いことに、頼りの陽蔵は外出から戻っていなかった。
見ると鍵が閉めてあり、確かに外に人影がある。
(これはかなりしつこい男かもしれない!)
彼女は箒を後ろ手に持ちながら片手で鍵を開け、悲壮な決意でガラっと戸を開けた。
「どちらさまでしょうか!」
目が合って男がニッと笑った。
「孝子さん、お久しぶりです。いやあ、なつかしいなあ。お隣の市政です」
汗を拭きながら彼はあたりを見回している。
え? っと思ってまじまじ見ると、確かに市政だ。少し雰囲気が変わっているが、ああと思った瞬間、孝子はこらえきれずに吹き出した。もちろん口を覆っている。
「あ、あの、市政さんでしたか、お久しぶりです。ああ、済みません。これは、どうも。うちの娘が粗相をしたようですね。ごめんなさい、ちょっと可笑しくて」
まだ笑い止まない。箒など隠し持った自分が滑稽だろう。
「ああ、今さっき門のところで、お嬢さんをびっくりさせてしまったようです。悪漢と間違えられましたかね? いやはや、どうも失礼しました」
「いえいえ、あの、大分ご無沙汰しておりましたが‥‥‥、そういえば、市政さんは急に満洲にいらっしゃったんですよね」
「ええ、そうなんですよ。そのせつはご挨拶もせずに失礼しました。こちらの皆さんも、お元気そうで何よりです」
孝子は急に真顔になった。
(この人は以前に奥さんを亡くし、今また弟夫婦を亡くしたのだ)
「ええ、お陰様で。ですが、市政さんは四十九日法要にいらっしゃると伺っていましたが、随分早く内地に戻って来られたのですね」
「ええ、そうなのです。実は向こうを首になりましてね、お払い箱です。それで舞い戻ってきたのです。もちろん、市三夫婦の弔いもしっかりやってやろうと思っておりますが」
「まあ、そうなのですか、何と言うか‥‥‥あ、済みません、気が利かなくて、どうぞ、お上がりください」
「それが、ついお嬢さんの後を付いて来てしまったので‥‥‥ちょっと向こうに忘れた物を取りに行ってからまいりますね」
「そうですか、ではお待ちしています」
孝子は家に上がったが、戸を開けておく。
「お義母さま、お隣の市政さんでした。お騒がせして申し訳ありません。またすぐ見えるそうです」
「はい、はい、聞こえてましたよ。なつかしいのう」
道子もほっとした様子で引っ込んだ。
「ねえ、市政さんて誰?」
後ろから涼子が尋ねた。
「ああ、可笑しかった。つい笑ってしまって、失礼なことしたわ。あのね、あの人は市三さんの真ん中のお兄さんよ。お隣は男の三人兄弟なの。この間いらした隆政さんが長男で、今の市政さんが次男で、亡くなった市三さんが三男って言えば分かる?」
「うん、分かる。ああ、でも怖かったよ。良かった、あの人、人攫いじゃなかったんだ」
「そうね、でもあなたったら、いったい何を勘違いしたの?」
看板のことは秘密にするつもりだったので、涼子は少し躊躇してから説明した。
「あのね‥‥‥、横の道をずーっと行ったところで、『将棋』っていう看板があって、それを見てたら変なおじさんに声掛けられたの...」
門までのことを順番に話す。
(なるほど、そういうことか)
「ふーん、将棋の看板があったの。それであなた、ここで声掛けられたとき、市政さんの顔見たの?」
「ううん、見てなかったかも。でも、声が同じだったの」
「あら、そうなの‥‥‥でも違ってたわけね。またいらっしゃるから、ちゃんとご挨拶なさい」
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