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第五章 ひな鳥乱舞
それぞれの転機 2
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「...隆次さんのこと、本当にごめんなさい。全然気づかなくて、ぼくのせいで‥‥‥」
「その件は分かったから、もういい。大体お前の責任ではないし、そもそも俺はあいつとは親子の縁を切ったのだ」
市の言う「ぼくのせいで」はもう一つの意味があったが、隆政には分からなかった。
彼は、敵の馬に並ばれたとき、機体を微妙に左に向けていれば隆次に当たらなかったのではないかと考えているのだ。しかしそれは機体が転覆するリスクを伴うため、そのときは実行できなかった。
「うん、でもあの人がぼくらを助けてくれたから。それに、もしかすると隆次さんはぼくのこと‥‥‥」
隆政は手を振って遮った。
「もういいと言っておる。奴もいまわの際に一つだけ善行を積んだのだろう。あいつが繋いだ命と言うなら、お前は絶対に無駄遣いするなよ」
「はい。‥‥‥分かりました」
「以後、隆次の話は二度としないでくれ」
「はい‥‥‥」
その後、社内でも隆次の話題はタブーとされた。
翌日市が登校すると校長に呼び出され、保証人宛の封筒を渡された。
それを見た隆政。
「お前、これを渡すとき校長は何か言ってなかったか?」
「うん、このままだと期末試験が受けられなくなるって言ってた」
「何だと? 試験はいつからだ?」
「十二月の十日あたりかな」
「そうか、あのタヌキめ、ようやく正体を現しおったということだな」
「え、どういうこと?」
「この紙にな、『寄附のお願い』と記されておる」
市はそれを読んだ。
「伯父さん、ごめんなさい。ぼくのためにいろいろと‥‥‥」
「いや、お前は悪くない。学校が寄附をつのるのは別におかしな事でもないしな。試験は受けられるから安心しろ」
隆政はニヤリと笑った。
その翌日、市たちはふたたび奉天に進出した。
十二月に入り、隆政は『寄附掛御中』として『金三百円』を送った。もちろん学校に寄附掛などというものはなく、職員のあいだで「なんだこれは、賄賂でも送ってきたのか?」などと騒ぎになった。
これが配属将校の丸山の知るところとなり、彼はまた隆政の会社に訪ねて来た。
「どうもご無沙汰しております。その後、甥御さんはまだご活躍中ですか?」
「ええ、相変わらず関東軍も大変なようです。うちの方にも飛行の依頼がひっきりなしに入っておる状況ですよ」
「そうですか、それはご苦労なことですな。ところで先日、当校にご寄附をなさったようですが、どういったご趣旨なのでしょうか?」
「いえ、特に含むところはありませんが、何しろ校長様より直々のご依頼があったので早速実行いたした次第です」
丸山の表情が険しくなった。
「そうでしたか。実は一昨日職員会議がありましてね。濠君の落第が決まりかかったのです。そこで自分が濠君のお国に対する貢献について述べ、まだ休学の既定日数にも達していないのに何事か、と一喝したのですよ。それで取り敢えずは再検討ということになったのですが‥‥‥」
意外な仕打ちに隆政はむっとした。
(チっ、あのタヌキめ、まだ足らぬというのか‥‥‥?)
しかし内心は表に出さず、丁寧に頭を下げた。
「そうでしたか‥‥‥。それは大変なお世話をお掛けしました。心より感謝申し上げます」
「いえいえ、その件は措きまして、実はこれからが本題なのです」
「はあ‥‥‥?」
隆政はけげんな表情になった。
「もし濠君に奉天の中学に転校する選択肢があったらいかがなさいますか?」
「‥‥‥奉天の中学ですか? とおっしゃいますと満鉄が経営母体の?」
「さようです。実はですね、あそこの配属将校は結構懇意でして。濠君のことを尋ねてみたのですが、そういう事情ならばいくらでも融通を利かせられるはずだというのですよ。これは一考に値すると思った次第で」
「なるほど、それは大変ありがたいお話です。奉天なら市之助にとっても近くて通いやすいですし、融通が利くというのも、私学らしく実に魅力的と思います。あ奴にとってはこれ以上ないお申し出と存じますが、転学について何か条件がありますか?」
「はい、編入試験は行うということです」
「なるほど、それも当然のことと存じます。さっそく市之助にも聞いてみたいと思いますが、もし本人が希望した場合は少佐殿にご連絡すればよろしいですか?」
「はい」
隆政はさらに丁重に頭を下げた。
その夕方、彼は奉天に長距離電話を架けた。市がいた。
「え、ぼくが奉天の中学に入れるの? それが本当なら非常に便利になるね。うん、ええと‥‥‥もし行きたい場合はどうしたらいいの?」
市は大連の中学に執着はない。
「編入試験を受けるそうだ」
「ふうん、それでいつから行けるのかな?」
「それはまだ聞いていない。しかしもしお前に異存がないなら善は急げだ」
「そうかあ。じゃあ伯父さん、是非よろしくお取り計らいをお願いします」
「よし。じゃあ先方に連絡してみるが、編入試験は大丈夫か?」
「うん、多分」
「よし。じゃあな」
一週間後、市は奉天の中学に試験を受けに行った。彼の感触では、学科試験は単なる形式で簡単だった。おそらく満点である。続いて面接を受けた。
向かいには校長、教頭、配属将校が並んでいる。
「その件は分かったから、もういい。大体お前の責任ではないし、そもそも俺はあいつとは親子の縁を切ったのだ」
市の言う「ぼくのせいで」はもう一つの意味があったが、隆政には分からなかった。
彼は、敵の馬に並ばれたとき、機体を微妙に左に向けていれば隆次に当たらなかったのではないかと考えているのだ。しかしそれは機体が転覆するリスクを伴うため、そのときは実行できなかった。
「うん、でもあの人がぼくらを助けてくれたから。それに、もしかすると隆次さんはぼくのこと‥‥‥」
隆政は手を振って遮った。
「もういいと言っておる。奴もいまわの際に一つだけ善行を積んだのだろう。あいつが繋いだ命と言うなら、お前は絶対に無駄遣いするなよ」
「はい。‥‥‥分かりました」
「以後、隆次の話は二度としないでくれ」
「はい‥‥‥」
その後、社内でも隆次の話題はタブーとされた。
翌日市が登校すると校長に呼び出され、保証人宛の封筒を渡された。
それを見た隆政。
「お前、これを渡すとき校長は何か言ってなかったか?」
「うん、このままだと期末試験が受けられなくなるって言ってた」
「何だと? 試験はいつからだ?」
「十二月の十日あたりかな」
「そうか、あのタヌキめ、ようやく正体を現しおったということだな」
「え、どういうこと?」
「この紙にな、『寄附のお願い』と記されておる」
市はそれを読んだ。
「伯父さん、ごめんなさい。ぼくのためにいろいろと‥‥‥」
「いや、お前は悪くない。学校が寄附をつのるのは別におかしな事でもないしな。試験は受けられるから安心しろ」
隆政はニヤリと笑った。
その翌日、市たちはふたたび奉天に進出した。
十二月に入り、隆政は『寄附掛御中』として『金三百円』を送った。もちろん学校に寄附掛などというものはなく、職員のあいだで「なんだこれは、賄賂でも送ってきたのか?」などと騒ぎになった。
これが配属将校の丸山の知るところとなり、彼はまた隆政の会社に訪ねて来た。
「どうもご無沙汰しております。その後、甥御さんはまだご活躍中ですか?」
「ええ、相変わらず関東軍も大変なようです。うちの方にも飛行の依頼がひっきりなしに入っておる状況ですよ」
「そうですか、それはご苦労なことですな。ところで先日、当校にご寄附をなさったようですが、どういったご趣旨なのでしょうか?」
「いえ、特に含むところはありませんが、何しろ校長様より直々のご依頼があったので早速実行いたした次第です」
丸山の表情が険しくなった。
「そうでしたか。実は一昨日職員会議がありましてね。濠君の落第が決まりかかったのです。そこで自分が濠君のお国に対する貢献について述べ、まだ休学の既定日数にも達していないのに何事か、と一喝したのですよ。それで取り敢えずは再検討ということになったのですが‥‥‥」
意外な仕打ちに隆政はむっとした。
(チっ、あのタヌキめ、まだ足らぬというのか‥‥‥?)
しかし内心は表に出さず、丁寧に頭を下げた。
「そうでしたか‥‥‥。それは大変なお世話をお掛けしました。心より感謝申し上げます」
「いえいえ、その件は措きまして、実はこれからが本題なのです」
「はあ‥‥‥?」
隆政はけげんな表情になった。
「もし濠君に奉天の中学に転校する選択肢があったらいかがなさいますか?」
「‥‥‥奉天の中学ですか? とおっしゃいますと満鉄が経営母体の?」
「さようです。実はですね、あそこの配属将校は結構懇意でして。濠君のことを尋ねてみたのですが、そういう事情ならばいくらでも融通を利かせられるはずだというのですよ。これは一考に値すると思った次第で」
「なるほど、それは大変ありがたいお話です。奉天なら市之助にとっても近くて通いやすいですし、融通が利くというのも、私学らしく実に魅力的と思います。あ奴にとってはこれ以上ないお申し出と存じますが、転学について何か条件がありますか?」
「はい、編入試験は行うということです」
「なるほど、それも当然のことと存じます。さっそく市之助にも聞いてみたいと思いますが、もし本人が希望した場合は少佐殿にご連絡すればよろしいですか?」
「はい」
隆政はさらに丁重に頭を下げた。
その夕方、彼は奉天に長距離電話を架けた。市がいた。
「え、ぼくが奉天の中学に入れるの? それが本当なら非常に便利になるね。うん、ええと‥‥‥もし行きたい場合はどうしたらいいの?」
市は大連の中学に執着はない。
「編入試験を受けるそうだ」
「ふうん、それでいつから行けるのかな?」
「それはまだ聞いていない。しかしもしお前に異存がないなら善は急げだ」
「そうかあ。じゃあ伯父さん、是非よろしくお取り計らいをお願いします」
「よし。じゃあ先方に連絡してみるが、編入試験は大丈夫か?」
「うん、多分」
「よし。じゃあな」
一週間後、市は奉天の中学に試験を受けに行った。彼の感触では、学科試験は単なる形式で簡単だった。おそらく満点である。続いて面接を受けた。
向かいには校長、教頭、配属将校が並んでいる。
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