ひな鳥たちは楽園をさがす

文鳥亮

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第六章 さらなる飛翔

灯台下暗し 1

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 開けて昭和七年(一九三二)。

 市は隆政とともに奉天で正月を過ごした。
 ここは清の始祖ヌルハチが眠る地でもあり、史蹟の多い古都である。異国情緒たっぷりだが、奉天には約二万人の日本人が住んでおり、新正月はいつもながらの大賑わいだった。

 二人は市政夫婦と合流して元旦の街を楽しみ、午後に宿の日本旅館に戻った。
「ところでお前、家はどうするんだ? 市政のところは嫌なのか?」
 それまで市は、行く先々の軍関係の施設で起居していた。こちらに転校となれば奉天に住家がある方が良いだろう。

「うん、伯父さんが『おいでよ』って言ってくれたんだけど、ちょっと狭いんだよ。別に嫌じゃないけど、遠慮しようかなって思う」
 隆政は支所の二階を思い浮かべた。部屋が三つに台所と風呂、トイレがあるぐらいで確かにあまり広くない。ましてや三月には乳飲み子が増える予定だ。
 事変以降、奉天も活動の中心になっているので、彼は支所の周辺に社宅や寮を整えていた。

「そうか、じゃあ寮に入れ。お前の名義でいいぞ。金は足りてるな?」
「うん」
「城内に一人では行くなよ」
「うん、分かってる」
 市には月に二百円の小遣いを渡している。これは中学生には破格の額だが、それだけのことをやっていると隆政は考えていた。

 定期便の方は一往復六百円に値切られてしまったが、市たちの飛行は一日に七、八百円は軽く稼いでいる。しかも十月の事故のときに発動機を買わずに済んだので、大幅な黒字が出ていた。

 二日には荒木や佐竹のほか若手リーダー格も奉天に出て来た。濠運輸のチームは三が日を休むはずだったが、三日は飛んでくれと要請があったためだ。これは関東軍による錦州攻略との絡みであろう。

 三日の朝は、隆政や市政も奉天飛行場(東塔)の格納庫に入り、市や荒木、佐竹ほか整備員一同とともに仕事始めの挨拶と簡単な儀式を行った。
 この日、市之助十一号機は未明から整備が行われ、発動機の調子も万全で早速医薬品その他の補給物資を満載して錦州に向けて飛び立った。操縦は市で右席に荒木、後ろに整備員二名が同乗した。

 錦州に定針してまもなく、荒木が市に話し掛けた。飛行中にこの二人が用務以外の話をするのはめずらしい。
「機長、任務とは関係ない話ですが、ちょっといいですか」

 それまでも荒木などは市を機長と呼んでいたが、慰労会のときに隆政が改めて示達した。正確には機体オーナーであろうが、「オーナー」では少しおかしいので、取り敢えず機長と呼ぶようである。

「はい、もちろん。何ですか?」
「昨年の慰労会の折は、娘がまとわりついてしまい申し訳ありませんでした。さぞやご迷惑だったと思い、恐縮しておりました」
「いえ、全然そんなことはないですよ。結構会話が弾みました。彼女はものをはっきり言うところが良いですね。ぼくは物事をはっきり言ってもらう方が良いので」
「そうでしたか‥‥‥。では、また同じようなとき、もしお邪魔と思ったら遠慮なく言ってください」
「分かりました」
「余計なことを言って済みませんでした。任務に専念します」
「了解」
 こんな短いやりとりだが、荒木は思いを振り払い、航空図に目を落とした。

 これには以下のようないきさつがあった。

 荒木は一男二女を持つが、長女は恵子といい、市と同い年で今は大連市内の女学校に通っている。その恵子が妻の代わりに年末の慰労会に出たいと言いだした。

「お父さんお願い。あたしお母さんの代わりに行きたいの。いいでしょ?」
「おいおい、いきなりどうしたのだ、お前」
「あなた、私からもお願いします。ちょっと体の具合が悪くて行けそうにないから‥‥‥」

 べつに断る理由もないので彼は娘を連れて参加した。
 ところが、会の最中に恵子は市に付きまとって離れなかったのだ。彼は市が迷惑しているだろうと、苦々しい思いでそれを見た。それとなく引き離したりもしたが、またすぐにくっついてしまう。それで初めて娘の目的に気づいた。

 その晩は久しぶりに大連の家に戻ったので、妻に問いただした。そこで妻からとんでもないことを聞かされた。つまり恵子は市に懸想しているという。
「なんだとお前、それは本当か‥‥‥?」

 荒木は記憶をたどった。考えてみれば、彼の一家は総出で市に入れ込んでいる。そもそも彼自身が市に心酔しており、妻も市の大ファンだ。市が小学生の頃はしょっちゅう家に招いて歓待したもので、妻は市の飛行服を何度となく縫っている。今着ているものも含めてだ。
(恵子がそうなったのも無理はないか‥‥‥)

 確かに、市が大連で飛行するときは、頻繁に娘が見に来ていた。今にして思えばそれは理由があることだった。
(ううむ。今の今まで気づかぬとは‥‥‥俺はなんと迂闊なのだ。だが、なんにしてもこれは筋が悪すぎる。坊ちゃんには涼子さんという十年来の婚約者がいるのだからな‥‥‥)
 彼はそう思ったが、何もできなかった。

 彼はその後、正月休みに次のようなやり取りをして娘と喧嘩した。なんとか諦めさせようと無駄な努力をしてしまったのだ。
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