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九話 穴一つ
しおりを挟む――目隠亜蔵。
巨大な蝉の姿をした虫神。その虫継では目を失う。
緑の左目、その眼帯の下には……。
「やぁ緑ちゃんお待ちかねの月花先輩だよ」
バックをベットに投げ捨て、月花は緑の隣に座った。身体がくっついてしまいそうな程近くに座り、その瞳を至近距離でのぞき込む。
緑の弛緩しきった口元が少し強ばる。薄らとしたピンクの唇には以前の艶やかさなくかさついている。震える唇がゆっくりと形を変えた。
「せんぱい?」
「はーい、緑ちゃん。先輩だよ」
「ん」
頭をそっと撫でると緑が甘えた声を返した。
月花は今度は両手を頭に添えると、勢いよくわしゃわしゃした。犬にじゃれるような感じだ。
「わしゃわしゃー」
「……」
「わしゃわしゃわしゃー」
「……」
「わしゃー」
「……先輩?」
「わしゃわしゃわしゃー!」
「ちょっ。あの……ストップ、ストップ!」
叫ぶようにして月花のわしゃわしゃを遮り手を払いのけた。
「大人しく黙ってるからって好き勝手しないで下さいよ」
「おはよう、緑ちゃん」
手でボサボサになった髪を軽く解かしながら苦情を言う緑に月花がはにかむ。間違いなく今日一番の笑顔であった。
「私がブラッシングしてあげるよ」
月花はそう言うと強引に緑の背後に入り込んだ。ちょうど後ろから抱きかかえるような格好だ。
「ちょっと先輩何ですか?」
「ブラッシングは後ろからって相場は決まってるのだよ」
「いや、密着しすぎでしょ。あとブッラッシングって言わないで下さい、私は犬ですか」
月花は緑の言い分などまるで聞いていないといった様子で緑の背中に頬を埋めた。
「いやー緑ちゃん。温かいねー」
「せんぱーい。何が目的なんですか?」
月花は答えずにじっとしている。ただ緑に抱きつく手にぎゅっと力がこもる。
病室に沈黙が続く。
「先輩?」
静かになった病室で規則正しい呼吸音が聞こえる。緑の真後ろからだ。
「すーすーすー」
「先輩?寝てます?」
「すーすーすー」
「せんぱーい」
呼んでも起きそうに無い。緑は手を後ろに回しそっと月花の脇腹を撫でた。
「ひゃぁん!…………はっ」
予想以上の甲高い声を上げて月花は跳ね起きた。
「あれれ? もしかして私寝てた?」
「秒で寝てましたよ」
「おっとそうだ。緑ちゃんにブラッシングしてあげるんだった」
「だから。せめて毛繕いって言って下さいよ」
「そっちの方が獣っぽくない?」
月花は櫛で緑の髪を丁寧に解かし始めた。撫でるような手つきで優しく、丁寧に。少し表現が可笑しな気もするが、これが月花の思いやりなんだろうと緑は思う。
心地いい感触。しかし、それに身を委ねる事は今の緑には出来なかった。
「先輩、私……もうダメなのかも知れないです」
緑の指が月花の手を離れ左目に触れる。固く冷たい眼帯の感触。気が付けば緑の指はいつもそこに触れている。眼帯で閉ざされ、阻まれたその奥に開いた穴が酷く疼くのだ。
「私、しっかりしなきゃって思っているのに、すぐにぼぅっとしちゃうんです」
「いまはしっかりしてるよ」
「違うんです。気を張ってても急に夢に落ちるように私の意識は飛んで私の体を……」
「大丈夫だよ緑ちゃん」
月花は不安を断ち切るように断言する。
「今日は緑ちゃんにお土産があるんだ。きっと気に入ると思うよ」
月花は右手で緑の頭を抱え込んだ。左手で眼帯に触れる緑の手を握る。
「るか…せんぱい?」
その時、コンコンと病室をノックする音が響いた。
「先輩?」
ノックに応えようとした緑を月花が引っ張った。
呼びかけには答えない。
コンコン。
もう一度ノックの音が響いた。
月花は緑に抱きついたまま黙っている。そんな月花の態度に緑もどうしたらいいか戸惑う。
コンコン。
「どうぞ」
三度目のノックでようやく月花は返事を返した。
もう少し無視を続けようかとも思ったがそれはやめた。
月花は小さく溜息をつく。
「あんまり時間稼げてないよ愛ちゃん」
居留守は二人きりの時間をいいところで邪魔された腹いせだったが、どうもからかいがいが無い。
ドアの前で待ち続ける律儀な男は月花が許可を出すまで入ってこないだろう。
「入ります」
病室に入ってきたのは背の高い白衣の男。この診療所の主である中虫壁藍一郎だ。ひょろひょろとした例えるなら柳のような印象の男だった。痩せ気味の骨っぽい顔は男としても医者としても頼りなさげに見える。
「ダメじゃ無いですか月花さん。勝手に病室に入られては困りますよ、もう面会時間は終わってるのですから」
「あれ終わるの早すぎると思わない?学生に来させる気ないでしょ?」
学校が終わるのが四時として、学校から病院まで自力で行こうと一時間程かかる。
特に月花には家の都合がある。五時以降でないと自由に動けない。遊びたがりの学生とっては拷問のようなものだと思う。月花の鬱憤は日頃からの積もりだ。先ほどの居留守はその細やかな八つ当たりだった。
「一声かけて頂ければ融通は効かせます。無許可でやられると管理上問題があるんですよ」
「ケチケチしないでよ私とキミの仲じゃん」
藍一郎は深く溜息をついた。緑が入院してから度々行われたやりとりだった。
「所で、何してるんですか?」
何とは、月花達の今の状態を指している。月花と緑は一緒のベットの中。それも月花が後ろから抱きつくような形でだ。見舞いの様子には見えないだろう。
「えーと? メンタルケア?」
「先輩。そろそろ離れてくれませんか」
緑が繋いだ手を離すと月花はしぶしぶ布団から這い出た。緑は距離を詰めて座り直す。さっきまで月花が入っていた場所はまだ暖かかった。
「いいですか、いくら月花さんが彼女の友達でも彼女はとてもデリケートな状態なんです」
「はぁ、真面目だねぇ。それで、中虫壁君の治療の成果って奴は?聞かせてくれる?」
名残惜しそうに手を握ったり開いたりしながら月花はぶっきらぼうに言う。
見上げると藍一郎が困り顔をしていた。医者がそんな顔をしちゃだめだろ月花は苦笑を浮かべた。
「別室に行こうか」
手をひらひらさせて緑にばいばいする。光の欠けた右目が不安を訴えていた。月花はそれにウインクで応える。
「緑ちゃん。ちょっと行ってくるね」
「うん」
ほら見ろと月花は内心毒づいた。緑は口元だけの笑みを返し、月花を見送った。
月花が手を離した手は左眼の眼帯に触れていた。
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