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埃まみれの床と青い宝石。

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 艶やかに微笑むその男は、たった今、人間に剣を突き刺したばかりとは思えないほど落ち着き払っていた。誰? と問うた俺は、こんなにも動揺しているのに。

 シュウさんの背中に庇われながら、ブチの顔をももに押し付けるように引き寄せる。こんな恐ろしい光景を、小さな子どもには見せたくない。⋯⋯もはや手遅れではあるけれど。

 ブルブル震えているブチの呼吸がおかしい。しゃっくりを堪えるようにヒッヒッと肩を揺すっている。こんな状況なのに、声を上げまいと頑張っている。

「⋯⋯治癒師を」
「もう死んでいるよ」

 男は笑みを深くした。若い男だ。ギィよりも幾つか若そうに見えるけれど、俺よりは断然年上だろう。背が高くて顔も整っている、とろりとした美形だ。毒がしたたっているようで背中が寒くなる。身なりから考えるに、おそらく貴族だ。躊躇ためらいなく山賊の生命を奪ったと言うのに、微笑んでいられる思考回路がおかしい。

「あんた、誰?」

 敵か味方かわからない。でも俺を聖女様って呼んだ。少なくとも、カリャンテ領の関係者じゃない。

さえずる声もいいね。哭かせてみたくなっちゃうよ。嬉しいな、僕の花嫁がこんなに可愛い人で」

 敵だ!

 コイツは宰相サイドの人間だ! それもボンクラじゃない。大人の男を一突きで絶命させる、知識と腕を持っている。見たくもない死体をチラ見すると、剣が刺さっている場所は心臓の裏側だ⋯⋯たぶん。

 この世界は日本と違うって、転移初日に身に沁みた。俺の背中の傷は、それを忘れさせてくれない。きっとギィやヤンジャンコンビだって、必要とあれば相手の生命を奪うだろう。けれどこの男みたいに微笑んだりしない。

 シュウさんがわずかに腰を落として、ひたりと男を睨み据えた。

「うわぁ、やっぱり聖女様には護衛がついているんだね。結構やりそうだなぁ。隙が見当たらない。ねぇ美人さん、名前を教えてよ」
「あなたに名乗る名はありません」
「つれないなぁ。僕のことはヌゥトと呼んで」

 おしゃれな街でナンパを楽しむように、ヌゥトは朗らかだ。

「後ろに下がって身をせてください。ブチを絶対に離さないで」

 言うが早いか、シュウさんの姿が消えた。いや、上体を下げて全身をバネのようにたわませて、ヌゥトに飛びかかったんだ。気づけばヌゥトの背後に立って武器を首に突きつけていた。なんて言う武器なのか知らないけれど、俺にはバーベキューの串に見えた。

「聖女様を妻にと仰るならば、それなりの身分のお方でしょう。人質くらいにはなっていただけますか?」

 シュウさん、台詞が悪役だよ! あと、聖女がどうのは一般論であって、俺がそうだってのは否定しないと面倒臭いことになるよ‼︎

「聖女様の護衛は少々短気だね。でも美人に蔑んだ目で見られるなんて、ゾクゾクするなぁ」

 おい、特殊な性癖は黙っておいたほうがモテるぞ。お前、顔だけはいいから。

 ヌゥトは首に突きつけられた凶器を恐れるそぶりを見せない。実に堂々としたものだ。シュウさんが背後から首に腕を絡めているが、ヌゥトのほうが背が高い。後ろに引かれて顎が上がっている。喉が晒されてとても無防備なんだけどな。

「美人さん、腕はいいようだけれどもっと冷酷にならなくちゃ。子どもを見捨てて聖女様だけを担げば、逃げられたんじゃないの? ふふふ、その子ども、もう薬が効いているんじゃない?」

 その言葉に、俺はブチを見下ろした。お風呂に入って清潔にした流民の子どもは、もともとの可愛らしさと肌の白さを取り戻しつつある。普段は薔薇色に染まっているほっぺたが、血の気を失って蒼白だった。

 ヌゥトはガタガタと震えながらしがみついてくるブチを見てまなじりを下げた。愛玩動物を愛でるような慈愛に満ちた表情だ。こんな状況でなければ見惚れていたかもしれない。だが弱者をいたぶりながらそれをするのは、常軌を逸した狂者だ。

「ブチ!」

 慌ててかがみ込んでブチの顔を覗き込む。信じられなほどの力でしがみついてくるのは、必死に苦痛から逃れているからじゃないのか? 手足を折られた次は、薬だって? 冗談じゃない。

「ブチ! ブチ!」

 抱き上げようとして、失敗した。かくんと腰が抜ける。

「⋯⋯なに?」

 舌が回らない。

「ルン様!」
「らいじょーぶ」

 言ってはみたものの、説得力はまるでない。噛み噛みの台詞は間抜けだ。ブチと同じように、俺にも薬が使われたんだろうか?

 いつだ?

 埃まみれの床に座り込んで、ブチを抱きしめる。さっきまですごい力で俺のズボンを握りしめていた子どもは、今はくったりと身を預けてくる。

「くっ」

 シュウさんが呻いた。俺たちを気にしながら、ヌゥトから離れられないようだ。

「僕を殺しちゃったら、解毒が出来なくなっちゃうよ。聖女様は全身の力が抜ける程度かもしれないけど、子どもはどうだろうねぇ。身体が小さいから、心の臓の力まで抜けちゃって、息をしなくなっちゃうかもよ」

 ヌゥトの声は歌のようだ。楽しげに軽やかに舌から毒を滴らせる。俺はそれを聞きながら、何も言えないでいた⋯⋯物理的に。口を開くことさえ億劫だ。

「ほら、美人さん。これを収めてくれないか?」

 余裕綽々。憎たらしいほど甘やかに、ヌゥトは要求した。串を優雅に指先で辿って、シュウさんの手をなぞる。

「チッ」

 シュウさんはあからさまな舌打ちをした。いつでも穏やかなシュウさんが、俺の知らない別の表情かおをしている。こんなときだが、呆気に取られた。

「解毒が先です」
「これじゃ解毒剤を持って来られないでしょ」
「身分のある方が、おひとりでこんなところへいらっしゃるわけがない」
「それはそうだけど、そろそろ君も薬が効いてくるころだよ」
「⋯⋯く」
「あ、もうキてるっぽいね」

 シュウさんは淡々としているけれど、凶器を手にする腕が細かく震えている。

「何をした?」
「入り口で香をちょっとね」

 香って、お線香みたいなのだろうか? 煙の臭いも薬の臭いもしないぞ?

「無臭の優れものだよ。もちろん僕は事前に中和剤を飲んでいるけれどね。もっともそれが効くまで時間がかかっちゃって、むさ苦しい男に君たちを好きにさせちゃった⋯⋯って、美人さん、頑張るね。でも、もう終わりだ」

 ヌゥトがシュウさんの手から、スルリと凶器を抜いた。それと同時にシュウさんの細い身体が崩折れる。

「しゅ⋯⋯さン」

 回らない舌で名を呼ぼうとしたけれど、うまく声が出ない。

「さぁ、僕の花嫁。お待たせしたね」

 山賊の死体を踏みつけて、ヌゥトはすぐ側までやって来た。言葉の綾なんかじゃなく、本当に踏んでいるんだよ。亡骸なきがらを冒涜するなんて、なんてヤツだ!

「ルンって、言うんだ? 可愛い人には可愛い名前が似合うね」

 ヌゥトが屈んだとき、胸元からシャラリと鎖がこぼれ落ちた。

 輝石⋯⋯。

 こいつ、魔術師だ!

 ゴツゴツとして研磨されていない青い宝石は、ミヤビンの聖蹟せいせき輝石きせきとよく似ている。アロンさんのは見たことないけれど、紅い宝石だと聞いたから、それぞれ色は違うんだろう。

 ここに魔術師が現れる意味は何だ?

 はっはっと変な呼吸が漏れる。いやな予想が胸に迫る。こいつ、俺たちをこの世界に引き摺り込んだ魔術師じゃないのか⁈

「ふふふ、そうだよ。馬鹿な父上を唆して、君を呼んだのは僕だよ」

 ヌゥトの美しい面貌を見ながら、俺の意識は黒く染まった。
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