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参
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紅天が目覚めたとき、宇鳳はそこにいなかった。ティエンは見知らぬ場所には怯えなかったが、豪奢な調度に慄いた。
紅家の自室も贅を凝らした調度に囲まれていたがその比ではない。良いものに囲まれて育ったからこそわかる上質さに、身動きが取れなくなったのだ。
所用を終えてユーフォンがティエンのもとへ訪ったとき、白い小鳥は寝台の上でカチコチに固まっていた。
「ユー哥哥、ここどこ?」
「俺の部屋だ」
「なんで? って、あれ? 俺の髪……」
ぽやんと首を傾げた拍子に、短く刈られた白い髪が頬に落ちかかる。ティエンはそこに手をやって、自分の頭髪が短くなっていることに気づいた。
「饕餮に切られた? そんなわけないか」
ひとりでブツブツ言っているのが可哀想になって、ユーフォンは寝台に乗り上げてティエンを抱きしめた。
「うわぁ、どうしたの?」
「……ティエンは、奴らを守ったのだな」
ユーフォンの声音は地を這うようだ。
「一匹ずつは大したことがないとは言え、あれほどの数の饕餮だ。相当に体力を消耗したであろうに」
「全部狩ったつもりだったのに、まだ残ってた? 狩り損ないにやられるなんて格好悪いなぁ、俺。あそこに配備されてたおっさんたち、あんまり腕が立つ奴がいなかったんだよ。やられていなきゃいいけど」
成人したばかりのティエンよりも、あの場にいた兵士たちは経験があるはずだった。先輩であり上官であるはずの警備兵たちは一番歳若いティエンに嫉妬し、私怨から卑怯にも背後を襲った。それも自分たちを守って力尽きた相手を。そんなこととは微塵も考えない純粋なティエンが可愛くて愛おしい。
「大丈夫だ。紅笙鈴が剣を取った」
「え? 大姐が琵琶を置いてきたの? そりゃ大姐は緋伯父が舌を巻くほど強いけど、饕餮如きに出張るほどじゃないでしょ?」
紅家の楽人が楽器を捨てて武器を手にするのは、鳳凰族の王に大事があったときだ。ティエンが襲われたことはシァンリンにとってそれと同等の大事であったのだが、被害者はそれに気付かない。……襲われた事実にも気づいていないため当然である。
「それよりさ、哥哥。ひとつ聞いていい?」
「うむ。なんなりと」
「哥哥ってもしかして、とっても偉い人?」
「何故そう思う?」
小さな鳥が低い位置から窺うように見上げている。白い睫毛に縁取られた大きな瞳がくりくりとしていて、ユーフォンはとても可愛らしいと思いながら先を促した。
「調度に鳳凰紋が施されてる」
「良い観察眼だ」
「やっぱり……まさか、宇鳳様だったりしないよね」
おそるおそる訊ねられて、ユーフォンはニヤリと笑った。
「今、天宮にいる鳳凰族の中で、この部屋を使うことが許されているのは俺だけだな」
「うわぁ、なんてこった」
ティエンは短くなった髪に指を差し入れてぐちゃぐちゃと掻き回した。恐縮した様子はない。彼はなかなかの大物ぶりを見せつけながらしばらく「あー」とか「うー」とか言っていたが、やがて手櫛で髪の毛を整えると、寝台から滑り降りて臣下の礼をとった。
「なんの真似だ?」
「だってここ、王様の房ですよね。それなのに寝こけてるなんてないです、はい」
自分で何やら納得してうむうむ頷く仕草が可愛い。ユーフォンが王だと知って一応は敬語を使っているが萎縮した様子もない。
「俺が連れてきたんだ。堂々と寝ていろ。無理をすると発熱するやもしれんと医官が言っていたぞ」
「え? そんな感じはしないけど……」
それはそうだろう。医官はそんなことを言っていない。ユーフォンがこの房からティエンを出したくないだけだ。結局ティエンはユーフォンに押し切られて、しばらく彼の房に留め置かれることになったのだった。
ティエンは帰るべき職場を失った。所属していた部隊が解散してしまったのだ。ティエンは渾沌と饕餮が襲ってきたときに壊滅的な被害をうけたと説明されて、首を傾げつつも納得するほかない。彼は最後の最後で饕餮にやられてしまったと思い込んでいるし、実際に部隊はなくなっている。
そんな中でティエンは、紅家の血脈として無能ではなかったことが大々的に発表された。曰く小さな鳥はその肉体そのものを楽器として神力を放ち、楽器という媒体を介す必要がないという、緊急時の切り札足り得る存在だと。
そのことが王宮で明らかにされてすぐ、紅家に向けて黄帝よりティエンを側に侍らせるようにと声がかかった。鳳凰族の王であるユーフォンは、それに待ったをかけて自らの房に住まわせている。ティエンにはなにも知らせぬままに。
幸い争い事を嫌う麒である黄帝は特にユーフォンを咎め立てもせず、むしろ皇帝の勅令に逆らってまで大切にしている小鳥を凰と認めた。麒麟は鳳凰同様に番いで一対と呼ばれる種族のため、一度心に決めた相手を奪うのは上策でないと知っている。反対したのは二家。ティエンの実家である紅家と一族から朱雀王妃を出したい朱家である。
「大姐、俺の仕事場がなくなったのは聞いたけど、異動先が決まらないってどういうことか知ってる?」
ティエンは天宮の南の宮、池に面した朱雀王のための房で、長姉のシァンリンに訊ねた。王の許しを得て弟の無聊を慰めに来た彼女に茶が喫される。もてなしの茶は花の香りが芳しい最高級品だが、ティエンはそれを楽しむこともせずせっかちに身を乗り出す。元来槍を振り回す元気者の彼のこと、よくわからないまま、一族の長の房に押し込められるのが窮屈でならない。
「兵舎の宿坊を追い出されたって紅邸に帰ればいいんだから、ここにいる必要なくない?」
シァンリンの返事も待たず、矢継ぎ早に問いを重ねるのは何かを感じているせいかもしれない。全てを知っているシァンリンは、どう答えれば良いものか言葉を探した。彼女は可愛い末弟を辱めた者どもを残らず芥に返したが、それを知られて怖がられたくはない。
シァンリンが言いあぐねていると俄かに庭園の入り口あたりが騒がしくなり、押しとどめる女房を払い除けるようにして煌びやかに着飾った婦人が乗り込んできた。──朱家のルォシーである。正面からは入れてもらえなかったのか、庭から直接とは恐れ入る。
「紅笙鈴! ルーフォン様の房に入り浸るなど、淑女の風上にも置けませんわね‼︎ そっちの小童が出来損ないの小鳥ね。まぁ、貧相な白い姿だこと! やはり朱雀王妃に相応しいのは、燃える焔を纏った赤毛のこのわたくし!」
池の向こうから手にした扇を紅家のふたりに突き付けて、ルォシーは胸をそらした。豊かな膨らみを強調したのであろうが、同性のシァンリンの目には下品にしか見えなかったし、ティエンは突然現れた珍客に驚いて、胸に注目するどころではなかった。
「ほほほほほ! わたくしがあまりにも美しいので、なにも言い返すことができないようね‼︎ 饕餮ごときに遅れを取るような貧相な小鳥、ましてや男子がルーフォン様の妃になるなど、言語道断! 今は情けで側に置いておられるようだけど、すぐにかの方のお目も覚めますわ! さっさと荷物をまとめて、房から出てお行き‼︎」
一方的に捲し立て、ルォシーは元来た茂みに戻ろうと踵を返した。紅姉弟は呆然とそれを眺めていたが、ようやく番兵がふたり現れて、金切り声を上げるルォシーを引き摺っていった。切れ切れに聞こえてくる言葉によれば、ルォシーの神力があまりに弱すぎて、警備に引っ掛からなかったようだ。
「大姐。もしかして、俺がここに留め置かれているのって、今の騒ぎに関係ある?」
姉への問いかけの答えを明後日の方向から打ち込まれて、ティエンは呆然とした。シァンリンは自分の意図しない暴露に顳顬がひくつくのを感じて、歯軋りしそうな口元を優雅に扇で隠す。
「まだ、お話しが出ているだけよ。ユーフォン様に口説かれるかもしれないけれど、貴方の思うままにしていいのよ」
「……俺、『子衿』の意味もよくわからないのに、口説かれるとか言われても」
姑娘が恋しい人を想って歌う『子衿』は、音をなぞるだけなら完璧だ。しかし恋を知らないティエンの歌声は、美しいだけで艶がない。
「可愛い弟弟や。お前、自分が男子なのにとは言わぬのかえ?」
恋を知らぬと困惑するティエンに手を伸ばして、シァンリンは柔らかな頬をつついた。
「だって俺たち、地上の民と違って寿命が長いじゃないか。ずっと添うなら性別がどうこうより心が通った相手がいいよ。まぁ、王様はお世継ぎ問題があるからお妃様は女人がいいと思うけどね」
「ふむ、可愛い末弟は紅家の誰よりも頭が柔いらしいのぅ。爸爸など撥をへし折りそうな勢いで『嫁になどやらぬ』と怒っておられたに」
こうして紅家の姉弟は、茶会を終えた。弟は久しぶりにユーフォン以外の者と話をして満足した。姉は──短慮な朱家の娘が馬鹿なことをしでかさないかと不安を抱えて房を後にしたのだった。
紅家の自室も贅を凝らした調度に囲まれていたがその比ではない。良いものに囲まれて育ったからこそわかる上質さに、身動きが取れなくなったのだ。
所用を終えてユーフォンがティエンのもとへ訪ったとき、白い小鳥は寝台の上でカチコチに固まっていた。
「ユー哥哥、ここどこ?」
「俺の部屋だ」
「なんで? って、あれ? 俺の髪……」
ぽやんと首を傾げた拍子に、短く刈られた白い髪が頬に落ちかかる。ティエンはそこに手をやって、自分の頭髪が短くなっていることに気づいた。
「饕餮に切られた? そんなわけないか」
ひとりでブツブツ言っているのが可哀想になって、ユーフォンは寝台に乗り上げてティエンを抱きしめた。
「うわぁ、どうしたの?」
「……ティエンは、奴らを守ったのだな」
ユーフォンの声音は地を這うようだ。
「一匹ずつは大したことがないとは言え、あれほどの数の饕餮だ。相当に体力を消耗したであろうに」
「全部狩ったつもりだったのに、まだ残ってた? 狩り損ないにやられるなんて格好悪いなぁ、俺。あそこに配備されてたおっさんたち、あんまり腕が立つ奴がいなかったんだよ。やられていなきゃいいけど」
成人したばかりのティエンよりも、あの場にいた兵士たちは経験があるはずだった。先輩であり上官であるはずの警備兵たちは一番歳若いティエンに嫉妬し、私怨から卑怯にも背後を襲った。それも自分たちを守って力尽きた相手を。そんなこととは微塵も考えない純粋なティエンが可愛くて愛おしい。
「大丈夫だ。紅笙鈴が剣を取った」
「え? 大姐が琵琶を置いてきたの? そりゃ大姐は緋伯父が舌を巻くほど強いけど、饕餮如きに出張るほどじゃないでしょ?」
紅家の楽人が楽器を捨てて武器を手にするのは、鳳凰族の王に大事があったときだ。ティエンが襲われたことはシァンリンにとってそれと同等の大事であったのだが、被害者はそれに気付かない。……襲われた事実にも気づいていないため当然である。
「それよりさ、哥哥。ひとつ聞いていい?」
「うむ。なんなりと」
「哥哥ってもしかして、とっても偉い人?」
「何故そう思う?」
小さな鳥が低い位置から窺うように見上げている。白い睫毛に縁取られた大きな瞳がくりくりとしていて、ユーフォンはとても可愛らしいと思いながら先を促した。
「調度に鳳凰紋が施されてる」
「良い観察眼だ」
「やっぱり……まさか、宇鳳様だったりしないよね」
おそるおそる訊ねられて、ユーフォンはニヤリと笑った。
「今、天宮にいる鳳凰族の中で、この部屋を使うことが許されているのは俺だけだな」
「うわぁ、なんてこった」
ティエンは短くなった髪に指を差し入れてぐちゃぐちゃと掻き回した。恐縮した様子はない。彼はなかなかの大物ぶりを見せつけながらしばらく「あー」とか「うー」とか言っていたが、やがて手櫛で髪の毛を整えると、寝台から滑り降りて臣下の礼をとった。
「なんの真似だ?」
「だってここ、王様の房ですよね。それなのに寝こけてるなんてないです、はい」
自分で何やら納得してうむうむ頷く仕草が可愛い。ユーフォンが王だと知って一応は敬語を使っているが萎縮した様子もない。
「俺が連れてきたんだ。堂々と寝ていろ。無理をすると発熱するやもしれんと医官が言っていたぞ」
「え? そんな感じはしないけど……」
それはそうだろう。医官はそんなことを言っていない。ユーフォンがこの房からティエンを出したくないだけだ。結局ティエンはユーフォンに押し切られて、しばらく彼の房に留め置かれることになったのだった。
ティエンは帰るべき職場を失った。所属していた部隊が解散してしまったのだ。ティエンは渾沌と饕餮が襲ってきたときに壊滅的な被害をうけたと説明されて、首を傾げつつも納得するほかない。彼は最後の最後で饕餮にやられてしまったと思い込んでいるし、実際に部隊はなくなっている。
そんな中でティエンは、紅家の血脈として無能ではなかったことが大々的に発表された。曰く小さな鳥はその肉体そのものを楽器として神力を放ち、楽器という媒体を介す必要がないという、緊急時の切り札足り得る存在だと。
そのことが王宮で明らかにされてすぐ、紅家に向けて黄帝よりティエンを側に侍らせるようにと声がかかった。鳳凰族の王であるユーフォンは、それに待ったをかけて自らの房に住まわせている。ティエンにはなにも知らせぬままに。
幸い争い事を嫌う麒である黄帝は特にユーフォンを咎め立てもせず、むしろ皇帝の勅令に逆らってまで大切にしている小鳥を凰と認めた。麒麟は鳳凰同様に番いで一対と呼ばれる種族のため、一度心に決めた相手を奪うのは上策でないと知っている。反対したのは二家。ティエンの実家である紅家と一族から朱雀王妃を出したい朱家である。
「大姐、俺の仕事場がなくなったのは聞いたけど、異動先が決まらないってどういうことか知ってる?」
ティエンは天宮の南の宮、池に面した朱雀王のための房で、長姉のシァンリンに訊ねた。王の許しを得て弟の無聊を慰めに来た彼女に茶が喫される。もてなしの茶は花の香りが芳しい最高級品だが、ティエンはそれを楽しむこともせずせっかちに身を乗り出す。元来槍を振り回す元気者の彼のこと、よくわからないまま、一族の長の房に押し込められるのが窮屈でならない。
「兵舎の宿坊を追い出されたって紅邸に帰ればいいんだから、ここにいる必要なくない?」
シァンリンの返事も待たず、矢継ぎ早に問いを重ねるのは何かを感じているせいかもしれない。全てを知っているシァンリンは、どう答えれば良いものか言葉を探した。彼女は可愛い末弟を辱めた者どもを残らず芥に返したが、それを知られて怖がられたくはない。
シァンリンが言いあぐねていると俄かに庭園の入り口あたりが騒がしくなり、押しとどめる女房を払い除けるようにして煌びやかに着飾った婦人が乗り込んできた。──朱家のルォシーである。正面からは入れてもらえなかったのか、庭から直接とは恐れ入る。
「紅笙鈴! ルーフォン様の房に入り浸るなど、淑女の風上にも置けませんわね‼︎ そっちの小童が出来損ないの小鳥ね。まぁ、貧相な白い姿だこと! やはり朱雀王妃に相応しいのは、燃える焔を纏った赤毛のこのわたくし!」
池の向こうから手にした扇を紅家のふたりに突き付けて、ルォシーは胸をそらした。豊かな膨らみを強調したのであろうが、同性のシァンリンの目には下品にしか見えなかったし、ティエンは突然現れた珍客に驚いて、胸に注目するどころではなかった。
「ほほほほほ! わたくしがあまりにも美しいので、なにも言い返すことができないようね‼︎ 饕餮ごときに遅れを取るような貧相な小鳥、ましてや男子がルーフォン様の妃になるなど、言語道断! 今は情けで側に置いておられるようだけど、すぐにかの方のお目も覚めますわ! さっさと荷物をまとめて、房から出てお行き‼︎」
一方的に捲し立て、ルォシーは元来た茂みに戻ろうと踵を返した。紅姉弟は呆然とそれを眺めていたが、ようやく番兵がふたり現れて、金切り声を上げるルォシーを引き摺っていった。切れ切れに聞こえてくる言葉によれば、ルォシーの神力があまりに弱すぎて、警備に引っ掛からなかったようだ。
「大姐。もしかして、俺がここに留め置かれているのって、今の騒ぎに関係ある?」
姉への問いかけの答えを明後日の方向から打ち込まれて、ティエンは呆然とした。シァンリンは自分の意図しない暴露に顳顬がひくつくのを感じて、歯軋りしそうな口元を優雅に扇で隠す。
「まだ、お話しが出ているだけよ。ユーフォン様に口説かれるかもしれないけれど、貴方の思うままにしていいのよ」
「……俺、『子衿』の意味もよくわからないのに、口説かれるとか言われても」
姑娘が恋しい人を想って歌う『子衿』は、音をなぞるだけなら完璧だ。しかし恋を知らないティエンの歌声は、美しいだけで艶がない。
「可愛い弟弟や。お前、自分が男子なのにとは言わぬのかえ?」
恋を知らぬと困惑するティエンに手を伸ばして、シァンリンは柔らかな頬をつついた。
「だって俺たち、地上の民と違って寿命が長いじゃないか。ずっと添うなら性別がどうこうより心が通った相手がいいよ。まぁ、王様はお世継ぎ問題があるからお妃様は女人がいいと思うけどね」
「ふむ、可愛い末弟は紅家の誰よりも頭が柔いらしいのぅ。爸爸など撥をへし折りそうな勢いで『嫁になどやらぬ』と怒っておられたに」
こうして紅家の姉弟は、茶会を終えた。弟は久しぶりにユーフォン以外の者と話をして満足した。姉は──短慮な朱家の娘が馬鹿なことをしでかさないかと不安を抱えて房を後にしたのだった。
応援ありがとうございます!
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