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パン屋の倅が知らない話。
《閑話》パン屋の倅が知らない話。③
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宰相府は差し入れの焼き菓子の香りでいっぱいだった。宰相補佐官のランバートはお茶時間を楽しみにしてソワソワする同僚を尻目に、ひどく緊張していた。
それと言うのも、王弟付き侍従官のウィレムが宰相執務室に入ったまま、しばらく出てこないからである。侍従と言うと、貴人の身の回りの世話をする奥向きの人間として軽んじる輩も多いが、侍従官というれっきとした官職である。
武官、文官を差し置いて、侍従官や侍女官は最も貴人の側近くに侍り、いわば生殺与奪を握っていると言っても過言ではない。
その侍従官の次期長と目されるウィレムは、一見物柔らかな男性である。優しげな彼が宰相府に顔を出すときは、大抵王弟の叔父君からの差し入れを持ってくるので、宰相府の文官たちは浮き足立つが、ランバートの胃はキリキリと痛む。宰相補佐官と言う立場から、他の文官が知らないイロイロを知っているからだ。
執務室の扉が開いて、そのウィレムが顔を出した。
「ランバート、少しいいですか?」
否やと言えた試しはない。
執務室では部屋の主人である宰相閣下と、ランバートを呼びにきた侍従官、そして国王陛下が待っていた。この面子ということは、話しは王弟の叔父のことだろうと見当をつける。
心なし、陛下の表情が憂いているように思う。
「エルフィン様のことをお調べしたのは貴方でしたよね」
「はい」
王弟殿下の実の叔父君とは言え、無条件に城に迎えるわけにはいかないので、ある程度は略歴と為人を調べた。若すぎるということもあって、それはもう、綺麗なものだった。
パン屋のふたり目の子どもで十歳までは友人も多かった。その友人も姉が赤子を残して亡くなってからは、子守のために疎遠になって、残ったのは二~三人。親しかったのは同年代よりも、子育て世代のご婦人だったらしい。
「学問所は行ってるんですよね?」
「街の子どもは十歳になったら大抵行きますよ。読み書きと簡単な金勘定で一年間ほどですね。ただエルフィン様は後半、子守のためにほとんど顔を出していないみたいですけど」
「ふむ」
家庭教師でもお付けするんだろうかと、ランバートは内心で首を捻った。
「ではあの頭の良さは天性のものなんですね」
「一を聞いて、八を知りますからね」
閣下と侍従官が肩をすくめた。八を知る? そこは普通、一を聞いたら知るのは十ではないのだろうか?
疑問が顔に出たのか、陛下が苦笑混じりにおっしゃった。
「フィンは残りの二の部分で、私たちが思わぬ方向に考えを飛ばしてしまうのだよ」
「ひとりで解決することに慣れすぎて、誰かに頼るという考えがないので、修正が難しいのですよね」
「というわけで、ランバート。エルフィン様には歳の近いご友人が必要だと思うのですが、オススメの人材はいませんか?」
侍従官がにっこり微笑んだ。
「もちろん友人候補には知らせません。あくまでも本人たちの意思で親しくならなくてはいけませんから。エルフィン様は行動範囲が限られますから、新しい出会いのきっかけだけお作りしましょう」
城にいるのは皆、身元が保証されたものばかりとして、歳が近いとなると限られる。何しろ叔父君は未成年だから。
「年齢で言うなら、庭師のところにひとり、厨房にふたりですかね」
庭師の弟子に体格が良いのに手先が器用な、純朴そうなのが入ったばかりだ。厨房にいるのはひょろっとした大人しそうなのと、ちまっとした元気なのだった。
「出来れば受けいれる側の子がいいですね。性癖は分かりますか?」
「は?」
思わず変な声が出て、ランバートは慌てた。それは陛下も同様だったのか、白い頰をわずかに赤くして、侍従官を諫めた。
「ウィレム、そこまで探るのは相手に失礼ではないか?」
「格好つけても無駄です。陛下が一番気にしているのはそこでしょう?」
「ぐっ」
横から閣下が薄く笑って追い討ちをかける。
ランバートはなんとなく悟った。
陛下だけでなく、閣下と侍従官のふたりも叔父君を市井に帰す気がないことを。叔父君が心を許せる人々で囲って、帰る気を削ごうとしているのだろう。
「それなら、厨房の見習いがいいです。ひとりは副料理長の恋人で、もうひとりは宰相府の書記官が絡めとっている最中です」
「書記官には全力でその子を落とせと伝えてください。良い情報源になってくれそうですね」
侍従官が柔らかく微笑んだ。全然安心できない微笑みだった。ランバートは巻き込んでしまった書記官に内心で詫びながら、肯定の返事を返す。
「ランバート、よく聞け」
直接の上司が眼鏡の奥から厳しい視線を向けてきた。
「先日、王太后殿下の私的な茶会の席での話しだ」
王弟の叔父君はスニャータの第四王子に求婚されて断ったのだそうだ。王子に対する好意もなかったらしい。それよりも三人を驚かせたのは、世界情勢と国民感情を鑑みての発言が、数ヶ月学問所に通った程度の子どものものではなかったと。
「陛下の大事な方です。お会いするまでは、陛下がひっそりと愛でられていればいいと思っていましたが、なんの、逸材です。私の未来の主人はエルフィン様以外にありません」
底の知れない侍従官に、そこまで言わせるとは。そう言えば閣下の姉である女官長も、張り切って教育に乗り出していると聞く。
「エルフィン様は鈍感でいながら、妙に聡い方です。最近は何かに悩んでおいでのようですが、決して我々には打ち明けてはくださらないのですよ」
「それで、ご友人ですか」
「それはついでです」
ついでのわりに、重大な話しだったように思う。未来の王配の友人って、背後関係も大事だろうに。
「何代か前に、后子を迎えた王がいましたよね。元老院は前例がお好きですから、詳しい資料を内密に揃えてください」
確かにこっちの方が話しの本命かも知れない。しかしなぜ、宰相を差し置いて侍従官から指示を受けているのだろうか?
だいたい何代かって何代前の陛下だ。まずは系譜を遡るところからじゃないか。
「よろしく頼む」
国の最高権力者にまで言われて、ランバートは深く頭を垂れた。胃が痛い⋯⋯。事務室で呑気に、焼き菓子の香りを楽しんでいる奴らを道連れにしたい! 内密のことでそれも叶わず、ランバートは胸の内で泣いたのだった。
遠乗りに出かけた陛下と王弟の叔父君が、そっと寄り添って帰ってきたのを見た文官たちが大騒ぎしたのは、それから数日後のこと。
それと言うのも、王弟付き侍従官のウィレムが宰相執務室に入ったまま、しばらく出てこないからである。侍従と言うと、貴人の身の回りの世話をする奥向きの人間として軽んじる輩も多いが、侍従官というれっきとした官職である。
武官、文官を差し置いて、侍従官や侍女官は最も貴人の側近くに侍り、いわば生殺与奪を握っていると言っても過言ではない。
その侍従官の次期長と目されるウィレムは、一見物柔らかな男性である。優しげな彼が宰相府に顔を出すときは、大抵王弟の叔父君からの差し入れを持ってくるので、宰相府の文官たちは浮き足立つが、ランバートの胃はキリキリと痛む。宰相補佐官と言う立場から、他の文官が知らないイロイロを知っているからだ。
執務室の扉が開いて、そのウィレムが顔を出した。
「ランバート、少しいいですか?」
否やと言えた試しはない。
執務室では部屋の主人である宰相閣下と、ランバートを呼びにきた侍従官、そして国王陛下が待っていた。この面子ということは、話しは王弟の叔父のことだろうと見当をつける。
心なし、陛下の表情が憂いているように思う。
「エルフィン様のことをお調べしたのは貴方でしたよね」
「はい」
王弟殿下の実の叔父君とは言え、無条件に城に迎えるわけにはいかないので、ある程度は略歴と為人を調べた。若すぎるということもあって、それはもう、綺麗なものだった。
パン屋のふたり目の子どもで十歳までは友人も多かった。その友人も姉が赤子を残して亡くなってからは、子守のために疎遠になって、残ったのは二~三人。親しかったのは同年代よりも、子育て世代のご婦人だったらしい。
「学問所は行ってるんですよね?」
「街の子どもは十歳になったら大抵行きますよ。読み書きと簡単な金勘定で一年間ほどですね。ただエルフィン様は後半、子守のためにほとんど顔を出していないみたいですけど」
「ふむ」
家庭教師でもお付けするんだろうかと、ランバートは内心で首を捻った。
「ではあの頭の良さは天性のものなんですね」
「一を聞いて、八を知りますからね」
閣下と侍従官が肩をすくめた。八を知る? そこは普通、一を聞いたら知るのは十ではないのだろうか?
疑問が顔に出たのか、陛下が苦笑混じりにおっしゃった。
「フィンは残りの二の部分で、私たちが思わぬ方向に考えを飛ばしてしまうのだよ」
「ひとりで解決することに慣れすぎて、誰かに頼るという考えがないので、修正が難しいのですよね」
「というわけで、ランバート。エルフィン様には歳の近いご友人が必要だと思うのですが、オススメの人材はいませんか?」
侍従官がにっこり微笑んだ。
「もちろん友人候補には知らせません。あくまでも本人たちの意思で親しくならなくてはいけませんから。エルフィン様は行動範囲が限られますから、新しい出会いのきっかけだけお作りしましょう」
城にいるのは皆、身元が保証されたものばかりとして、歳が近いとなると限られる。何しろ叔父君は未成年だから。
「年齢で言うなら、庭師のところにひとり、厨房にふたりですかね」
庭師の弟子に体格が良いのに手先が器用な、純朴そうなのが入ったばかりだ。厨房にいるのはひょろっとした大人しそうなのと、ちまっとした元気なのだった。
「出来れば受けいれる側の子がいいですね。性癖は分かりますか?」
「は?」
思わず変な声が出て、ランバートは慌てた。それは陛下も同様だったのか、白い頰をわずかに赤くして、侍従官を諫めた。
「ウィレム、そこまで探るのは相手に失礼ではないか?」
「格好つけても無駄です。陛下が一番気にしているのはそこでしょう?」
「ぐっ」
横から閣下が薄く笑って追い討ちをかける。
ランバートはなんとなく悟った。
陛下だけでなく、閣下と侍従官のふたりも叔父君を市井に帰す気がないことを。叔父君が心を許せる人々で囲って、帰る気を削ごうとしているのだろう。
「それなら、厨房の見習いがいいです。ひとりは副料理長の恋人で、もうひとりは宰相府の書記官が絡めとっている最中です」
「書記官には全力でその子を落とせと伝えてください。良い情報源になってくれそうですね」
侍従官が柔らかく微笑んだ。全然安心できない微笑みだった。ランバートは巻き込んでしまった書記官に内心で詫びながら、肯定の返事を返す。
「ランバート、よく聞け」
直接の上司が眼鏡の奥から厳しい視線を向けてきた。
「先日、王太后殿下の私的な茶会の席での話しだ」
王弟の叔父君はスニャータの第四王子に求婚されて断ったのだそうだ。王子に対する好意もなかったらしい。それよりも三人を驚かせたのは、世界情勢と国民感情を鑑みての発言が、数ヶ月学問所に通った程度の子どものものではなかったと。
「陛下の大事な方です。お会いするまでは、陛下がひっそりと愛でられていればいいと思っていましたが、なんの、逸材です。私の未来の主人はエルフィン様以外にありません」
底の知れない侍従官に、そこまで言わせるとは。そう言えば閣下の姉である女官長も、張り切って教育に乗り出していると聞く。
「エルフィン様は鈍感でいながら、妙に聡い方です。最近は何かに悩んでおいでのようですが、決して我々には打ち明けてはくださらないのですよ」
「それで、ご友人ですか」
「それはついでです」
ついでのわりに、重大な話しだったように思う。未来の王配の友人って、背後関係も大事だろうに。
「何代か前に、后子を迎えた王がいましたよね。元老院は前例がお好きですから、詳しい資料を内密に揃えてください」
確かにこっちの方が話しの本命かも知れない。しかしなぜ、宰相を差し置いて侍従官から指示を受けているのだろうか?
だいたい何代かって何代前の陛下だ。まずは系譜を遡るところからじゃないか。
「よろしく頼む」
国の最高権力者にまで言われて、ランバートは深く頭を垂れた。胃が痛い⋯⋯。事務室で呑気に、焼き菓子の香りを楽しんでいる奴らを道連れにしたい! 内密のことでそれも叶わず、ランバートは胸の内で泣いたのだった。
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