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平蔵が家出をした理由
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家出をした金四郎が辿り着いた先は本所の裏長屋であった。当然、金四郎の母は大騒ぎしたが、父で夫の景晋はそんな錯乱する妻女を落ち着かせるのに苦労した。
妻女とは正反対に景晋が落ち着いていたのは他でもない、養嗣子と定めた義弟の九十郎景善の嫡男に遠山家を継いでもらいたいと願っていたからだ。
それゆえ金四郎の家出はそんな景晋には「渡りに船」であった。無論、景晋も人の親である。子である金四郎が可愛くないわけではなかったものの、それと家督相続とはまた別の話である。
金四郎には好きなように生きさせてやりたい…、景晋はそう思っていたので、金四郎が家出をして、市井で生きるというのであれば、景晋はそれを応援してやるつもりであった。
だが金四郎の「生みの親」である母親はまた別である。夫・景晋のようにそう簡単に割り切れるものではない。何としてでも屋敷に連れ戻すと、そう喚き散らして夫・景晋を大いに困らせた。
そこで景晋はそんな妻女に対して、金四郎の家出はあくまで、金四郎が九十郎景善の養嗣子としてこの遠山家を継ぐまでの間だけ、その上で、金四郎が苦労せぬようにと、衣食住を世話するからと、妻女をそう説き伏せて、金四郎が市井で生きることを何とか妻女に納得してもらったのだ。
だが金四郎自身が親の世話になったのは裏長屋を紹介してもらった程度であり、それから先はすべて独力で生きると、一切の援助を拒否したのであった。
事実、金四郎は大工の手伝いや棒手振、ドブ浚いなどをして生計を立てた。
そして金四郎が平蔵と出逢ったのは正にそのような頃であった。
この平蔵、平蔵宣昭もまた、家出をしたクチであった。平蔵宣昭はその時はまだ雄太郎を名乗っていたのだが、それはともかく、平蔵宣昭は金四郎と同い年であった。即ち、寛政5(1793)年生まれであり、但し、金四郎が8月生まれなのに対して、平蔵宣昭は6月生まれであり、僅かの差で平蔵宣昭の方が上であった。
そして平蔵宣昭には1歳上の兄がいた。平三郎宣茂がそうで、この平三郎にしろ平蔵宣昭にしろ、火附盗賊改方長官の長谷川平蔵の孫であり、長谷川辰蔵の子であった。
そして平三郎宣茂が長男であるので、長谷川家の家督は勿論、この平三郎宣茂が継ぐ筈であり、そうなると畢竟、平蔵宣昭は家を継げずに部屋住、居候をするか、あるいは他家に養嗣子として出されるかの二者択一をいずれ迫られることになる。
だが平蔵宣昭はそのどちらも採らずに、やはり金四郎と同じく家出をしたのであった。しかも、平蔵宣昭が尊敬してやまない祖父・平蔵…、平蔵宣以がその昔、暴れまわった本所を塒にしたのであった。
平蔵宣昭は父、辰蔵…、今は平蔵宣義を名乗るその父よりも祖父、平蔵宣以を尊敬していたのだ。
平蔵宣昭は父、辰蔵を軽蔑していた。軽蔑していたという言葉が強過ぎれば、その生き方が平蔵宣昭には到底、受け入れ難かった。
辰蔵は父、平蔵宣以とは違い、学問を能くした。それは平蔵が江戸町奉行を目前にして斃れたことに起因する。トラウマと言い換えても良いかも知れない。
即ち、父・平蔵が江戸町奉行はおろか、遠国奉行にさえなれなかったのはひとえに父・平蔵に学がなかったからだと、辰蔵はそう固く信じて疑わず、そこで学問を能くしたのだ。それこそ父、平蔵を出世させなかったご公儀…、幕府に対する「リベンジ」であるかのように。
ともあれそのお蔭か分からぬが、辰蔵は寛政8(1796)年2月には本丸の書院番士から将軍に近侍する小納戸に取り立てられた。小納戸は小姓と並ぶ、将軍の側近であり、ゆえに当然、中奥役人であった。
但し、小姓と小納戸では小姓の方が格上であった。それと言うのも小納戸が従六位の布衣役であるのに対して、小姓は従五位下の諸大夫役だからだ。
尤も、将軍への距離の近さという点では小納戸の方に軍配があがるかも知れない。小納戸の方が小姓よりも将軍に接する機会が多いからだ。そのためか分からぬが、小納戸頭取と小姓頭取とでは小納戸頭取の方が格上であった。
ともあれ書院番士であった辰蔵が小納戸に取り立てられたのはひとえに辰蔵が見込まれてのことであり、そして辰蔵が見込まれたのはやはりその学ゆえであろう。
それが証拠に辰蔵は間もなく、若君、即ち次期将軍たる家慶附の小納戸として、西之丸へと移った。若君こと次期将軍・家慶に学問を教えることを期待されての異動であり、これで辰蔵の前途はいよいよ開けたと言っても過言ではなかった。
何しろ次期将軍の側近役ともなれば、その次期将軍が晴れて征夷大将軍として本丸の盟主になった暁には、古くから…、西之丸時代より仕えてきてくれた側近を幕府の要職に取り立てられることが一般的であったからだ。
ともあれ今の 御代、出世するには学がなければとの辰蔵のその「読み」は当たったと言うべきであろう。
そして辰蔵は倅たちにもそれを…、「学」を要求したのであった。
それもこれも、ひとえに倅の将来を思えばこそであり、それに嘘はなかった。
だが生憎、平蔵宣昭は出世しようなどとは露ほどにも思わなかった。むしろ、祖父・平蔵宣以の若い時分の放蕩無頼な生き方に憧れ、それを望んだのであった。あれこそが男の生き方だと、孫の平蔵宣昭はそう固く信じて疑わなかった。
それゆえ平蔵宣昭はそれこそ「スパルタ」で教育を施そうとする父・辰蔵に嫌悪感を覚え、家出をしたのであった。
但し、辰蔵の方は金四郎の父・景晋とは違い、家出をした倅に対して一切の援助をしなかった。
尤も、平蔵宣昭とてそれを期待していたわけではなかった。それどころか父・辰蔵からの援助など死んでも受けるつもりはなかった。
妻女とは正反対に景晋が落ち着いていたのは他でもない、養嗣子と定めた義弟の九十郎景善の嫡男に遠山家を継いでもらいたいと願っていたからだ。
それゆえ金四郎の家出はそんな景晋には「渡りに船」であった。無論、景晋も人の親である。子である金四郎が可愛くないわけではなかったものの、それと家督相続とはまた別の話である。
金四郎には好きなように生きさせてやりたい…、景晋はそう思っていたので、金四郎が家出をして、市井で生きるというのであれば、景晋はそれを応援してやるつもりであった。
だが金四郎の「生みの親」である母親はまた別である。夫・景晋のようにそう簡単に割り切れるものではない。何としてでも屋敷に連れ戻すと、そう喚き散らして夫・景晋を大いに困らせた。
そこで景晋はそんな妻女に対して、金四郎の家出はあくまで、金四郎が九十郎景善の養嗣子としてこの遠山家を継ぐまでの間だけ、その上で、金四郎が苦労せぬようにと、衣食住を世話するからと、妻女をそう説き伏せて、金四郎が市井で生きることを何とか妻女に納得してもらったのだ。
だが金四郎自身が親の世話になったのは裏長屋を紹介してもらった程度であり、それから先はすべて独力で生きると、一切の援助を拒否したのであった。
事実、金四郎は大工の手伝いや棒手振、ドブ浚いなどをして生計を立てた。
そして金四郎が平蔵と出逢ったのは正にそのような頃であった。
この平蔵、平蔵宣昭もまた、家出をしたクチであった。平蔵宣昭はその時はまだ雄太郎を名乗っていたのだが、それはともかく、平蔵宣昭は金四郎と同い年であった。即ち、寛政5(1793)年生まれであり、但し、金四郎が8月生まれなのに対して、平蔵宣昭は6月生まれであり、僅かの差で平蔵宣昭の方が上であった。
そして平蔵宣昭には1歳上の兄がいた。平三郎宣茂がそうで、この平三郎にしろ平蔵宣昭にしろ、火附盗賊改方長官の長谷川平蔵の孫であり、長谷川辰蔵の子であった。
そして平三郎宣茂が長男であるので、長谷川家の家督は勿論、この平三郎宣茂が継ぐ筈であり、そうなると畢竟、平蔵宣昭は家を継げずに部屋住、居候をするか、あるいは他家に養嗣子として出されるかの二者択一をいずれ迫られることになる。
だが平蔵宣昭はそのどちらも採らずに、やはり金四郎と同じく家出をしたのであった。しかも、平蔵宣昭が尊敬してやまない祖父・平蔵…、平蔵宣以がその昔、暴れまわった本所を塒にしたのであった。
平蔵宣昭は父、辰蔵…、今は平蔵宣義を名乗るその父よりも祖父、平蔵宣以を尊敬していたのだ。
平蔵宣昭は父、辰蔵を軽蔑していた。軽蔑していたという言葉が強過ぎれば、その生き方が平蔵宣昭には到底、受け入れ難かった。
辰蔵は父、平蔵宣以とは違い、学問を能くした。それは平蔵が江戸町奉行を目前にして斃れたことに起因する。トラウマと言い換えても良いかも知れない。
即ち、父・平蔵が江戸町奉行はおろか、遠国奉行にさえなれなかったのはひとえに父・平蔵に学がなかったからだと、辰蔵はそう固く信じて疑わず、そこで学問を能くしたのだ。それこそ父、平蔵を出世させなかったご公儀…、幕府に対する「リベンジ」であるかのように。
ともあれそのお蔭か分からぬが、辰蔵は寛政8(1796)年2月には本丸の書院番士から将軍に近侍する小納戸に取り立てられた。小納戸は小姓と並ぶ、将軍の側近であり、ゆえに当然、中奥役人であった。
但し、小姓と小納戸では小姓の方が格上であった。それと言うのも小納戸が従六位の布衣役であるのに対して、小姓は従五位下の諸大夫役だからだ。
尤も、将軍への距離の近さという点では小納戸の方に軍配があがるかも知れない。小納戸の方が小姓よりも将軍に接する機会が多いからだ。そのためか分からぬが、小納戸頭取と小姓頭取とでは小納戸頭取の方が格上であった。
ともあれ書院番士であった辰蔵が小納戸に取り立てられたのはひとえに辰蔵が見込まれてのことであり、そして辰蔵が見込まれたのはやはりその学ゆえであろう。
それが証拠に辰蔵は間もなく、若君、即ち次期将軍たる家慶附の小納戸として、西之丸へと移った。若君こと次期将軍・家慶に学問を教えることを期待されての異動であり、これで辰蔵の前途はいよいよ開けたと言っても過言ではなかった。
何しろ次期将軍の側近役ともなれば、その次期将軍が晴れて征夷大将軍として本丸の盟主になった暁には、古くから…、西之丸時代より仕えてきてくれた側近を幕府の要職に取り立てられることが一般的であったからだ。
ともあれ今の 御代、出世するには学がなければとの辰蔵のその「読み」は当たったと言うべきであろう。
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