上 下
123 / 162

意知、若年寄就任前夜 一橋家の反応 ~治済は清水家と田安家に「スパイ」を送り込んでいた~ 3

しおりを挟む
「されば西之丸にしのまる大奥おおおく対策たいさく岡村おかむらにおめいじあそばされましては如何いかがでござりましょうや…」

 岡村おかむらとはここ一橋ひとつばしやかたにてつかえる老女ろうじょであり、岡村おかむらかいして西之丸にしのまる大奥おおおく対策たいさくを、つまりは一橋ひとつばし裏切うらぎり、田安たやす清水しみずはしるような、あるいは田安たやす清水しみずむすけるような不埒ふらちなる奥女中おくじょちゅうあらわれぬよう、そのためのめをやらせてはとの久田ひさだ縫殿助ぬいのすけのその提案ていあんに、治済はるさだおなじことをかんがえていたので、うなずいた。

 すると頃合タイミング見計みはからっていたかのように、


おそれながらもうげまする…」

 障子しょうじしからそのこえこえた。

 こえぬし鷹方たかがた内山うちやま傳内でんない永富ながとみであった。

 鷹方たかがたとは鷹匠たかじょうのことであり、すなわち、内山うちやま傳内でんない鷹匠たかじょうとしてここ一橋ひとつばしやかたつかえていたのだ。

 この鷹方たかがただが、一橋ひとつばしやかたにのみかれている役職やくしょくではなく、田安たやすやかた清水しみずやかたにもかれていた。将軍家の「ファミリー」である御三卿ごさんきょうもまた、将軍や、あるいは次期じき将軍と同様どうよう鷹狩たかがりをするであろうと、そこで御三卿ごさんきょうやかたには鷹匠たかじょう相当そうとうする鷹方たかがたかれていたのだ。

 だが治済はるさだはこの鷹方たかがたもとい鷹匠たかじょうをも「スパイ」として利用りようしていたのだ。

 この時代じだい、スマホのような便利べんり通信つうしん手段しゅだんはない。いや、これで例えばスマホでもあれば、治済はるさだそだげた、田安たやすやかた清水しみずやかたにてつかえる「スパイ」からスマホでもって、勤務先きんむさきである田安たやすやかたや、あるいは清水しみずやかたにおける情報じょうほう治済はるさだへとながすことも可能かのうであっただろう。

 だがそれは不可能ふかのうであり、畢竟ひっきょう人力じんりきたよらざるをないが、しかし、彼等かれら「スパイ」がたとえば田安たやすやかたあるいは清水しみずやかたからし、そしてここ一橋ひとつばしやかたへとあしはこんでは、治済はるさだへとそれら情報じょうほうつたえようものなら、

「いやでもく…」

 というものであろう。どんなに注意深ちゅういぶかく、それこそ、

だれにもさとられぬよう…」

 ひそかにやかたしたとしても、回数かいすうかさねればどうしても周囲しゅうい気付きづかれる。

 そこで治済はるさだ通信つうしん手段しゅだんとしてたか使つかうことにしたのだ。

 すなわち、田安たやすやかたや、あるいは清水しみずやかたにてつかえる「スパイ」が入手にゅうしゅした情報じょうほう書付かきつけにしてもらい、そしてその書付かきつけたかくくけて、一橋ひとつばしやかたへと、それも一橋ひとつばしやかたにてつね待機たいきしている鷹方たかがたへとはこばせるのであった。

 それには田安たやすやかたや、あるいは清水しみずやかたにてつかえる鷹方たかがたをもやはり「スパイ」にそだげねばならなかった。

 それと言うのもたか書付かきつけくくけてはここ一橋ひとつばしやかたへと、それも鷹方たかがたもとへとその書付かきつけはこばせるなどと言った芸当げいとうたかあつかいにれている鷹匠たかじょうをおいてほかにはいない。

 そのために治済はるさだ田安たやすやかたおよ清水しみずやかたにて各々おのおの鷹方たかがたとしてつかえている鷹匠たかじょうをもやはり「スパイ」にそだげたのであった。

 そしてさきほどまで治済はるさだとおしていた書付かきつけ…、治済はるさだの「スパイ」として、つ、清水しみずやかたにて小十人こじゅうにんがしらとしてつかえていた黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんしたためた治済はるさだての書付かきつけおなじく清水しみずやかたにて鷹方たかがたとしてつかえる、それも治済はるさだの、

いきのかかった…」

 仙波せんば市左衛門いちざえもん永昌ながまさによってとどけられたものであった。

 具体的ぐたいてきには黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん治済はるさだてのその書付かきつけしたためるや、仙波せんば市左衛門いちざえもんにその書付かきつけ手渡てわたし、そして仙波せんば市左衛門いちざえもんみずからが大事だいじ飼育しいくしているたかにその書付かきつけくくけて一橋ひとつばしやかたへと、それもやかたにてつね待機たいきしているおなじく鷹方たかがた仙波せんば孫左衛門まござえもん種敷たねのぶへとばしたのであった。

 この一橋ひとつばしやかたにて鷹方たかがたとしてつかえる仙波せんば孫左衛門まござえもん清水しみずやかたにておなじく鷹方たかがたとしてつかえる仙波せんば市左衛門いちざえもんじつ親子おやこであった。

 ちょうど仙波せんば孫左衛門まござえもん市左衛門いちざえもん父子ふしたる仙波せんば彌市左衛門やいちざえもん永清ながきよ鷹匠たかじょうであったのだ。

 五代将軍・綱吉つなよしがまだ館林たてばやし藩主はんしゅであったころに、仙波せんば彌市左衛門やいちざえもん鷹匠たかじょうとして召出めしだされたのであった。

 当時とうじ江戸えどにあった館林たてばやし藩の神田かんだ御殿ごてんにてらしていた綱吉つなよし召抱めしかかえられた仙波せんば彌市左衛門やいちざえもん書院しょいんばん格式かくしきにて鷹匠たかじょうとしてつかえるようになったのであった。

 爾来じらい市左衛門いちざえもん永昌ながまさへとつづ仙波せんば家では代々だいだい鷹匠たかじょう技術ぎじゅつが父から子へと伝承でんしょうされたのであった。

 それゆえ市左衛門いちざえもん永昌ながまさが父・孫左衛門まござえもん種敷たねのぶもまた、父から鷹匠たかじょう技術ぎじゅつ伝承でんしょうされ、それをである市左衛門いちざえもん永昌ながまさへとつたえたわけであるが、孫左衛門まござえもん種敷たねのぶ鷹匠たかじょうわざおしえたその父・仙波せんば孫左衛門まござえもん種勝たねかつ一橋ひとつばし治済はるさだが父・宗尹むねただつかえており、それゆえ子である孫左衛門まごさえもん種敷たねのぶもまた、一橋ひとつばし家に出仕しゅっしし、今では治済はるさだつかえていた。

 治済はるさだ親子おやこしてみずからに、それも鷹方たかがた…、鷹匠たかじょうとしてつかえる仙波せんば孫左衛門まござえもん種敷たねのぶ市左衛門いちざえもん永昌ながまさ父子ふしをつけ、そのうち一人を御三卿ごさんきょうやかたへと、無論むろん他家たけである田安たやす家か清水しみず家のいずれかにおくむことをおもいついた。それと言うのも「スパイ」、それも、

連絡れんらく要員よういん

 としての「スパイ」に仕立したてるためであった。

 そこで治済はるさだは子である市左衛門いちざえもん永昌ながまさ清水しみずやかたへとおくみ、この市左衛門いちざえもん永昌ながまさを「連絡れんらく要員よういん」として活用かつようしていたのであった。

 すなわち、清水しみずやかた市左衛門いちざえもん永昌ながまさよりここ一橋ひとつばしやかたにて待機たいきする父・孫左衛門まござえもん種敷たねのぶへと「書付かきつけ」がとどけられる「システム」を構築こうちくしたのであった。

 そしていま治済はるさだもとへと姿すがたせた内山うちやま傳内でんない永富ながとみはと言うと、田安たやす家よりとどけられた「書付かきつけ」をる、つまりは田安たやすやかたよりはなたれた、「書付かきつけ」をくくけられたたかり、それをそのままあるじたる治済はるさだへと手渡てわたすのを任務にんむとしており、それゆえこの内山うちやま傳内でんない永富ながとみもまた、鷹方たかがた、つまりは鷹匠たかじょうとして治済はるさだつかえていたのだ。

 内山うちやま傳内でんない永富ながとみ場合ばあいあにである七兵衛しちべえ永清ながきよより鷹匠たかじょうわざおしまれた。

 内山うちやま七兵衛しちべえ永清ながきよ鷹匠たかじょうがしらとして将軍・家治につかえており、七兵衛しちべえおとうとである傳内でんない鷹匠たかじょうわざおしえたのであった。

 つまり内山うちやま傳内でんないは「附切つけきり」として一橋ひとつばし家につかえていたのだ。それも宗尹むねただ当主とうしゅであったころよりであった。

 内山うちやま七兵衛しちべえ実弟じってい傳内でんない鷹匠たかじょう技術ぎじゅつおしんだのはひとえに、いえげない傳内でんないのためであった。

 この時代じだい武家ぶけにおいてはいえげない次男じなん以下いか他家たけへと養子ようしされるか、さもなくば一生いっしょう部屋住へやずみ、つまりは実家じっか居候いそうろうとなるしかなかった。

 そこで内山うちやま七兵衛しちべえおとうと傳内でんない鷹匠たかじょうわざおしえたのであった。鷹匠たかじょうという技能ぎのうっていれば、わば、

しょくを…」

 それをっていれば養子ようし縁組えんぐみさい有利ゆうりはたらくやもれず、かり養子ようし縁組えんぐみととのわずとも、「附切つけきり」として御三卿ごさんきょうやかた召抱めしかかえられるというみちもあり、内山うちやま傳内でんない場合ばあいまさにそうであった。

 一橋ひとつばし治済はるさだが父・宗尹むねただ内山うちやま傳内でんない鷹匠たかじょうとしてのうでを買い、「附附つけきり」として、それも鷹匠たかじょうとしてのうでかせる鷹方たかがたとして召抱めしかかえたのであった。

 そしてそれからときち、内山うちやま傳内でんない主君しゅくん宗尹むねただから治済はるさだへとわり、治済はるさだ傳内でんない田安たやすやかたよりはなたれたたかやくにんじたのであった。

 その内山うちやま傳内でんない治済はるさだもとへと姿すがたせたということは、それはとりもなおさず、

田安たやすやかたもぐませたスパイからの情報じょうほう…」

 それがしたためられた「書付かきつけ」がたかかいして内山うちやま傳内でんないもとへととどけられたことにほかならない。

 実際じっさい内山うちやま傳内でんない治済はるさだに対してうやうやしく書付かきつけし、その場を後にした。

 一方いっぽう内山うちやま傳内でんないより「書付かきつけ」をった治済はるさだはと言うと、その「書付かきつけ」にはしらせるなり、

「これは…」

 おもわずそんなうめごえげたかと思うと、それっきり絶句ぜっくした。
しおりを挟む

処理中です...