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意知、若年寄就任前夜 一橋家の反応 ~治済は清水家と田安家に「スパイ」を送り込んでいた~ 3
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「されば西之丸の大奥の対策は岡村にお命じあそばされましては如何でござりましょうや…」
岡村とはここ一橋館にて仕える老女であり、岡村を介して西之丸の大奥の対策を、つまりは一橋を裏切り、田安や清水に走るような、或いは田安と清水を結び付けるような不埒なる奥女中が現れぬよう、そのための引き締めをやらせてはとの久田縫殿助のその提案に、治済も同じことを考えていたので、頷いた。
すると頃合を見計らっていたかのように、
「畏れながら申し上げまする…」
障子越しからその声が聞こえた。
声の主は鷹方の内山傳内永富であった。
鷹方とは鷹匠のことであり、即ち、内山傳内は鷹匠としてここ一橋館に仕えていたのだ。
この鷹方だが、一橋館にのみ置かれている役職ではなく、田安館や清水館にも置かれていた。将軍家の「ファミリー」である御三卿もまた、将軍や、或いは次期将軍と同様に鷹狩りをするであろうと、そこで御三卿の館には鷹匠に相当する鷹方が置かれていたのだ。
だが治済はこの鷹方もとい鷹匠をも「スパイ」として利用していたのだ。
この時代、スマホのような便利な通信手段はない。いや、これで例えばスマホでもあれば、治済が育て上げた、田安館や清水館にて仕える「スパイ」からスマホでもって、勤務先である田安館や、或いは清水館における情報を治済へと流すことも可能であっただろう。
だがそれは不可能であり、畢竟、人力に頼らざるを得ないが、しかし、彼等「スパイ」が例えば田安館や或いは清水館から抜け出し、そしてここ一橋館へと足を運んでは、治済へとそれら情報を伝えようものなら、
「いやでも目に付く…」
というものであろう。どんなに注意深く、それこそ、
「誰にも悟られぬよう…」
密かに館を抜け出したとしても、回数を重ねればどうしても周囲に気付かれる。
そこで治済は通信手段として鷹を使うことにしたのだ。
即ち、田安館や、或いは清水館にて仕える「スパイ」が入手した情報を書付にして貰い、そしてその書付を鷹に括り付けて、一橋館へと、それも一橋館にて常に待機している鷹方へと運ばせるのであった。
それには田安館や、或いは清水館にて仕える鷹方をもやはり「スパイ」に育て上げねばならなかった。
それと言うのも鷹に書付を括り付けてはここ一橋館へと、それも鷹方の許へとその書付を運ばせるなどと言った芸当は鷹の扱いに慣れている鷹匠をおいて外にはいない。
そのために治済は田安館、及び清水館にて各々、鷹方として仕えている鷹匠をもやはり「スパイ」に育て上げたのであった。
そして先ほどまで治済が目を通していた書付…、治済の「スパイ」として、且つ、清水館にて小十人頭として仕えていた黒川久左衛門が認めた治済宛ての書付は同じく清水館にて鷹方として仕える、それも治済の、
「息のかかった…」
仙波市左衛門永昌によって届けられたものであった。
具体的には黒川久左衛門が治済宛てのその書付を認めるや、仙波市左衛門にその書付を手渡し、そして仙波市左衛門は自らが大事に飼育している鷹にその書付を括り付けて一橋館へと、それも館にて常に待機している同じく鷹方の仙波孫左衛門種敷へと飛ばしたのであった。
この一橋館にて鷹方として仕える仙波孫左衛門と清水館にて同じく鷹方として仕える仙波市左衛門は実は親子であった。
ちょうど仙波孫左衛門・市左衛門父子の祖に当たる仙波彌市左衛門永清が鷹匠であったのだ。
五代将軍・綱吉がまだ館林藩主であった頃に、仙波彌市左衛門は鷹匠として召出されたのであった。
当時、江戸にあった館林藩の神田御殿にて暮らしていた綱吉に召抱えられた仙波彌市左衛門は書院番の格式にて鷹匠として仕えるようになったのであった。
爾来、市左衛門永昌へと続く仙波家では代々、鷹匠の技術が父から子へと伝承されたのであった。
それゆえ市左衛門永昌が父・孫左衛門種敷もまた、父から鷹匠の技術を伝承され、それを我が子である市左衛門永昌へと伝えたわけであるが、孫左衛門種敷に鷹匠の技を教えたその父・仙波孫左衛門種勝は一橋治済が父・宗尹に仕えており、それゆえ子である孫左衛門種敷もまた、一橋家に出仕し、今では治済に仕えていた。
治済は親子して自らに、それも鷹方…、鷹匠として仕える仙波孫左衛門種敷・市左衛門永昌父子に目をつけ、そのうち一人を御三卿の館へと、無論、他家である田安家か清水家の何れかに送り込むことを思いついた。それと言うのも「スパイ」、それも、
「連絡要員」
としての「スパイ」に仕立てるためであった。
そこで治済は子である市左衛門永昌を清水館へと送り込み、この市左衛門永昌を「連絡要員」として活用していたのであった。
即ち、清水館の市左衛門永昌よりここ一橋館にて待機する父・孫左衛門種敷へと「書付」が届けられる「システム」を構築したのであった。
そして今、治済の許へと姿を見せた内山傳内永富はと言うと、田安家より届けられた「書付」を受け取る、つまりは田安館より放たれた、「書付」を括り付けられた鷹を受け取り、それをそのまま主たる治済へと手渡すのを任務としており、それゆえこの内山傳内永富もまた、鷹方、つまりは鷹匠として治済に仕えていたのだ。
内山傳内永富の場合、兄である七兵衛永清より鷹匠の技を教え込まれた。
内山七兵衛永清は鷹匠頭として将軍・家治に仕えており、七兵衛は弟である傳内に鷹匠の技を教えたのであった。
つまり内山傳内は「附切」として一橋家に仕えていたのだ。それも宗尹が当主であった頃よりであった。
内山七兵衛が実弟の傳内に鷹匠の技術を教え込んだのは偏に、家を継げない傳内のためであった。
この時代、武家においては家を継げない次男以下は他家へと養子に出されるか、さもなくば一生部屋住の身、つまりは実家に居候の身となるしかなかった。
そこで内山七兵衛は弟・傳内に鷹匠の技を教えたのであった。鷹匠という技能を持っていれば、謂わば、
「手に職を…」
それを持っていれば養子縁組の際に有利に働くやも知れず、仮に養子縁組が整わずとも、「附切」として御三卿の館に召抱えられるという道もあり、内山傳内の場合が正にそうであった。
一橋治済が父・宗尹が内山傳内の鷹匠としての腕を買い、「附附」として、それも鷹匠としての腕が活かせる鷹方として召抱えたのであった。
そしてそれから時が経ち、内山傳内の主君は宗尹から治済へと代わり、治済は傳内を田安館より放たれた鷹の受け取り役に任じたのであった。
その内山傳内が治済の許へと姿を見せたということは、それはとりもなおさず、
「田安館に潜り込ませたスパイからの情報…」
それが認められた「書付」が鷹を介して内山傳内の元へと届けられたことに外ならない。
実際、内山傳内は治済に対して恭しく書付を差し出し、その場を後にした。
一方、内山傳内より「書付」を受け取った治済はと言うと、その「書付」に目を走らせるなり、
「これは…」
思わずそんな呻き声を上げたかと思うと、それっきり絶句した。
岡村とはここ一橋館にて仕える老女であり、岡村を介して西之丸の大奥の対策を、つまりは一橋を裏切り、田安や清水に走るような、或いは田安と清水を結び付けるような不埒なる奥女中が現れぬよう、そのための引き締めをやらせてはとの久田縫殿助のその提案に、治済も同じことを考えていたので、頷いた。
すると頃合を見計らっていたかのように、
「畏れながら申し上げまする…」
障子越しからその声が聞こえた。
声の主は鷹方の内山傳内永富であった。
鷹方とは鷹匠のことであり、即ち、内山傳内は鷹匠としてここ一橋館に仕えていたのだ。
この鷹方だが、一橋館にのみ置かれている役職ではなく、田安館や清水館にも置かれていた。将軍家の「ファミリー」である御三卿もまた、将軍や、或いは次期将軍と同様に鷹狩りをするであろうと、そこで御三卿の館には鷹匠に相当する鷹方が置かれていたのだ。
だが治済はこの鷹方もとい鷹匠をも「スパイ」として利用していたのだ。
この時代、スマホのような便利な通信手段はない。いや、これで例えばスマホでもあれば、治済が育て上げた、田安館や清水館にて仕える「スパイ」からスマホでもって、勤務先である田安館や、或いは清水館における情報を治済へと流すことも可能であっただろう。
だがそれは不可能であり、畢竟、人力に頼らざるを得ないが、しかし、彼等「スパイ」が例えば田安館や或いは清水館から抜け出し、そしてここ一橋館へと足を運んでは、治済へとそれら情報を伝えようものなら、
「いやでも目に付く…」
というものであろう。どんなに注意深く、それこそ、
「誰にも悟られぬよう…」
密かに館を抜け出したとしても、回数を重ねればどうしても周囲に気付かれる。
そこで治済は通信手段として鷹を使うことにしたのだ。
即ち、田安館や、或いは清水館にて仕える「スパイ」が入手した情報を書付にして貰い、そしてその書付を鷹に括り付けて、一橋館へと、それも一橋館にて常に待機している鷹方へと運ばせるのであった。
それには田安館や、或いは清水館にて仕える鷹方をもやはり「スパイ」に育て上げねばならなかった。
それと言うのも鷹に書付を括り付けてはここ一橋館へと、それも鷹方の許へとその書付を運ばせるなどと言った芸当は鷹の扱いに慣れている鷹匠をおいて外にはいない。
そのために治済は田安館、及び清水館にて各々、鷹方として仕えている鷹匠をもやはり「スパイ」に育て上げたのであった。
そして先ほどまで治済が目を通していた書付…、治済の「スパイ」として、且つ、清水館にて小十人頭として仕えていた黒川久左衛門が認めた治済宛ての書付は同じく清水館にて鷹方として仕える、それも治済の、
「息のかかった…」
仙波市左衛門永昌によって届けられたものであった。
具体的には黒川久左衛門が治済宛てのその書付を認めるや、仙波市左衛門にその書付を手渡し、そして仙波市左衛門は自らが大事に飼育している鷹にその書付を括り付けて一橋館へと、それも館にて常に待機している同じく鷹方の仙波孫左衛門種敷へと飛ばしたのであった。
この一橋館にて鷹方として仕える仙波孫左衛門と清水館にて同じく鷹方として仕える仙波市左衛門は実は親子であった。
ちょうど仙波孫左衛門・市左衛門父子の祖に当たる仙波彌市左衛門永清が鷹匠であったのだ。
五代将軍・綱吉がまだ館林藩主であった頃に、仙波彌市左衛門は鷹匠として召出されたのであった。
当時、江戸にあった館林藩の神田御殿にて暮らしていた綱吉に召抱えられた仙波彌市左衛門は書院番の格式にて鷹匠として仕えるようになったのであった。
爾来、市左衛門永昌へと続く仙波家では代々、鷹匠の技術が父から子へと伝承されたのであった。
それゆえ市左衛門永昌が父・孫左衛門種敷もまた、父から鷹匠の技術を伝承され、それを我が子である市左衛門永昌へと伝えたわけであるが、孫左衛門種敷に鷹匠の技を教えたその父・仙波孫左衛門種勝は一橋治済が父・宗尹に仕えており、それゆえ子である孫左衛門種敷もまた、一橋家に出仕し、今では治済に仕えていた。
治済は親子して自らに、それも鷹方…、鷹匠として仕える仙波孫左衛門種敷・市左衛門永昌父子に目をつけ、そのうち一人を御三卿の館へと、無論、他家である田安家か清水家の何れかに送り込むことを思いついた。それと言うのも「スパイ」、それも、
「連絡要員」
としての「スパイ」に仕立てるためであった。
そこで治済は子である市左衛門永昌を清水館へと送り込み、この市左衛門永昌を「連絡要員」として活用していたのであった。
即ち、清水館の市左衛門永昌よりここ一橋館にて待機する父・孫左衛門種敷へと「書付」が届けられる「システム」を構築したのであった。
そして今、治済の許へと姿を見せた内山傳内永富はと言うと、田安家より届けられた「書付」を受け取る、つまりは田安館より放たれた、「書付」を括り付けられた鷹を受け取り、それをそのまま主たる治済へと手渡すのを任務としており、それゆえこの内山傳内永富もまた、鷹方、つまりは鷹匠として治済に仕えていたのだ。
内山傳内永富の場合、兄である七兵衛永清より鷹匠の技を教え込まれた。
内山七兵衛永清は鷹匠頭として将軍・家治に仕えており、七兵衛は弟である傳内に鷹匠の技を教えたのであった。
つまり内山傳内は「附切」として一橋家に仕えていたのだ。それも宗尹が当主であった頃よりであった。
内山七兵衛が実弟の傳内に鷹匠の技術を教え込んだのは偏に、家を継げない傳内のためであった。
この時代、武家においては家を継げない次男以下は他家へと養子に出されるか、さもなくば一生部屋住の身、つまりは実家に居候の身となるしかなかった。
そこで内山七兵衛は弟・傳内に鷹匠の技を教えたのであった。鷹匠という技能を持っていれば、謂わば、
「手に職を…」
それを持っていれば養子縁組の際に有利に働くやも知れず、仮に養子縁組が整わずとも、「附切」として御三卿の館に召抱えられるという道もあり、内山傳内の場合が正にそうであった。
一橋治済が父・宗尹が内山傳内の鷹匠としての腕を買い、「附附」として、それも鷹匠としての腕が活かせる鷹方として召抱えたのであった。
そしてそれから時が経ち、内山傳内の主君は宗尹から治済へと代わり、治済は傳内を田安館より放たれた鷹の受け取り役に任じたのであった。
その内山傳内が治済の許へと姿を見せたということは、それはとりもなおさず、
「田安館に潜り込ませたスパイからの情報…」
それが認められた「書付」が鷹を介して内山傳内の元へと届けられたことに外ならない。
実際、内山傳内は治済に対して恭しく書付を差し出し、その場を後にした。
一方、内山傳内より「書付」を受け取った治済はと言うと、その「書付」に目を走らせるなり、
「これは…」
思わずそんな呻き声を上げたかと思うと、それっきり絶句した。
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