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井伊直幸は八代将軍・吉宗の血筋であることを周囲に吹聴しては周囲を屈服させる松平重富を嫌悪していた。

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 そして、重富しげとみ殺意さつい矛先ほこさき井伊いい直幸なおひでに対してもけられた。いや、直幸なおひでのみならず、その嫡子ちゃくしである直富なおとみにも、であった。そしてどちらかと言えば、直富なおとみに対する殺意さついの方がそのちち直幸なおひでに対するそれよりもふかいものであった。

 すなわち、井伊いい直幸なおひで前田まえだ治脩はるながに対しては深々ふかぶか平伏へいふくしてこれを出迎でむかえ、重富しげとみ意知おきとも案内あんないにて溜之間たまりのまあしれたさいにもまだ、平伏へいふくつづけており、それゆえ松平まつだいら頼起よりおきやそれに直富なおとみ松平まつだいら容詮かたさだといった「嫡子ちゃくしぐみ」もあたまげられず、つまりは平伏へいふくつづけざるをず、それに大して治脩はるながいささ困惑こんわくてい直幸なおひでらに、それもおも直幸なおひでに対してあたまげてくれるよううながした。いや、正確せいかくには懇願こんがんしていた。

 治脩はるなが直幸なおひでに対してあたまげてくれるよう懇願こんがんしたのはほかでもない、治脩はるなが直幸なおひでよりもひく官位かんいにあったからだ。

 治脩はるながいま官位かんいだが、

正四位下しょうしいのげ左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょう

 というもので、これは松平まつだいら頼起よりおきのそれとは同格どうかくであり、つまり直幸なおひでのそれよりも「ワンランク下」にたる。

 そうであれば理論的りろんてきには直幸なおひで治脩はるながに対して平伏へいふくする必要ひつようはなかった。いや、それどころか治脩はるながこそが直幸なおひでに対して平伏へいふくすべきであったやもれぬ。

 だが実際じっさいには直幸なおひで治脩はるながに対して平伏へいふくした。その理由わけたるやひとえに、

治脩はるなが当主とうしゅつとめる加賀かが前田まえだ家の極官ごっかん従三位じゅさんみ宰相さいしょうゆえ…」

 それにきるであろう。

 加賀かが前田まえだ家は外様とざまゆうとして御三家ごさんけじゅんずる殊遇しゅぐうけており、松之大廊下まつのおおろうか下之部屋しものへやにおいては最上席さいじょうせきにそのせきあたえられていた。

 つまり治脩はるながいまでこそ、正四位下しょうしいのげ左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょうと、直幸なおひでよりもした官位かんいにあるものの、しかしこのさき治脩はるなが健在けんざいであれば極官ごっかんである従三位じゅさんみ宰相さいしょうにまで昇叙しょうじょするやもれず、それに対して直幸なおひで官位かんいはと言うと、やはりいまでこそ正四位上しょうしいのじょう左近衛さこのえ権中将ごんのちゅうじょうと、治脩はるながのそれよりもたった「ワンランク上」にぎないものの、それでも「されどワンランク上」であり、しかし、同時どうじにそれが直幸なおひで極官ごっかんでもあった。

 すなわち、直幸なおひで当主とうしゅつとめる彦根ひこね井伊いい家の極官ごっかんは、

正四位上しょうしいのじょう中将ちゅうじょう

 であり、直幸なおひでいま官位かんいまさにそれであり、それゆえ直幸なおひで治脩はるながとはちがってこのさき昇叙しょうじょする可能性かのうせい金輪際こんりんざいありず、そうであればいつかは直幸なおひで治脩はるながかれるやもれず、そこで直幸なおひではその可能性かのうせいんで、治脩はるながに対していつまでも平伏へいふくつづけたのであった。

 さて、直幸なおひで治脩はるながつづいてもう一人ひとり松平まつだいら重富しげとみ溜之間たまりのまあしれたのをさっするや、それでようやくにあたまげた。

 そして重富しげとみ治脩はるながとなり着座ちゃくざするや、しかし直幸なおひではその重富しげとみに対してはいまがたまで治脩はるながに対して平伏へいふくしていたのとはまさに、

ってわって…」

 会釈えしゃく程度ていどとどめ、しかも重富しげとみあたまげるよううながすまでもなく、ぐにあたまげたものだった。

 重富しげとみ官位かんい従四位上じゅしいのじょう左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょうと、直幸なおひでのそれよりもはるかにしたであり、それどころか頼起よりおきのそれよりもしたであるので、それゆえ直幸なおひでがその重富しげとみに対して会釈えしゃく程度ていどとどめたのもいたかたのないところではあった。

 いや、それどころか会釈えしゃくけられただけでおんと言えよう。なにしろ本来ほんらいならば重富しげとみの方こそ直幸なおひでに対して、いや、直幸なおひでのみならず、頼起よりおきに対しても会釈えしゃくしなければならない立場たちば官位かんいにあったからだ。

 なにしろ重富しげとみ当主とうしゅつとめる福井ふくい松平まつだいら家の極官ごっかんは、

従四位上じゅしいのじょう少将しょうしょう

 直幸なおひで当主とうしゅつとめる彦根ひこね井伊いい家のそれよりもひくく、しかも重富しげとみはその極官ごっかんにあり、それゆえ重富しげとみがこのさきさら昇叙しょうじょすることはありず、それゆえ直幸なおひで重富しげとみに対しては会釈えしゃく程度ていどとどめたのも至極しごく当然とうぜんのことであった。

 重富しげとみもそのてん十二分じゅうにぶん心得こころえており、しかしそれでもなお不快感ふかいかんおおかくすことが出来できなかった。それと言うのも、直幸なおひで治脩はるながに対するせっかたくらべてあまりに落差らくさがあったからだ。

 成程なるほど直幸なおひでがこのさき昇叙しょうじょつづけて直幸なおひでをも可能性かのうせいがある、ってみれば、

将来性しょうらいせいのある…」

 その治脩はるながに対して平伏へいふくするのは当然とうぜんのこととしても、それでも重富しげとみ溜之間たまりのまあしれるまで平伏へいふくつづけなくてもかろう。

 だが実際じっさいには直幸なおひで重富しげとみ溜之間たまりのまあしれるまで治脩はるながに対して平伏へいふくつづけたのだ。それはまるで、いや、まるでなどではなく、実際じっさいそうであろう、重富しげとみへの「あてつけ」にちがいない。すなわち、

重富しげとみに対しては会釈えしゃく程度ていど充分じゅうぶん…」

 直幸なおひではその「思惑おもわく」を重富しげとみ殊更ことさらに「アピール」すべく、そこでえて重富しげとみ溜之間たまりのままであしれるまで平伏へいふくつづけ、そして溜之間たまりのま重富しげとみあしれるのを見計みはからい、つまりは直幸なおひで治脩はるながに対しては深々ふかぶか平伏へいふくするそのさま重富しげとみせつけてからあたまげ、直幸なおひでつづけざま、重富しげとみに対してはそれとは正反対せいはんたい会釈えしゃく程度ていどとどめたにちがいないと、重富しげとみはそう見ており、「あてつけ」とはまさにこの点をしていた。

 そして重富しげとみのこの「見立みたて」はただしかった。

 直幸なおひで常日頃つねひごろ、八代将軍・吉宗の血筋ちすじであることをはなにかける重富しげとみ心底しんそこ嫌悪けんおしていたのだ。

 重富しげとみは八代将軍・吉宗よしむね四男よんなんにして御三卿ごさんきょうひとつ、一橋ひとつばし家の始祖しそである宗尹むねただちちつ。

 重富しげとみはその宗尹むねただ三男さんなん所謂いわゆる

三男坊さんなんぼう

 としてまれたために、一橋ひとつばし家をぐことは出来できず、そこでその当時とうじ福井ふくい松平まつだいら家の当主とうしゅであった重昌しげまさ養嗣子ようししとしてむかえられた。

 もっとも、重昌しげまさ養嗣子ようししとは言え、実際じっさいには重昌しげまさ重富しげとみ実兄じっけいたる。

 重昌しげまさ重富しげとみ実兄じっけい、それも宗尹むねただ嫡男ちゃくなんまれながらも何故なぜ一橋ひとつばし家をぐことはかなわず、福井ふくい松平まつだいら家の当主とうしゅであった宗矩むねのり養嗣子ようししとしてむかえられた。するとそれまで、

従四位下じゅしいのげ少将しょうしょう

 福井ふくい松平まつだいら家の極官ごっかんであったそれが、宗矩むねのり養嗣子ようししとして八代将軍・吉宗よしむねまごたる重昌しげまさむかれたことで、福井ふくい松平まつだいら家のそれは、

従四位上じゅしいのじょう少将しょうしょう

 ワンランク上に昇叙しょうじょたしたのであった。そしてそれは、

「八代将軍・吉宗よしむねこう重昌しげまさ従四位下じゅしいのげ少将しょうしょうまでしか昇叙しょうじょ出来できぬとあっては、重昌しげまさ当人とうにんもとより、吉宗よしむねこうをもかろんずることになる…」

 幕府ばくふ当局とうきょくのそのような思惑おもわくからはっせられたものであった。

 ともあれそのような経緯いきさつから、あに重昌しげまさ養嗣子ようししとしてむかえられた重富しげとみもまた、その極官ごっかんである、

従四位上じゅしいのじょう左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょう

 それにじょされたわけであるが、しかし、それが極官ごっかんであるために重富しげとみはそれ以上いじょう昇叙しょうじょすることはなかった。

 重富しげとみ宗尹むねただ三男坊さんなんぼうまれながら、いや、八代将軍・吉宗よしむねきながらも、いま官位かんいである従四位上じゅしいのじょう左近衛さこのえ権少将ごんのしょうしょうよりも昇叙しょうじょすることはかなわぬその鬱屈うっくつから、おのれは八代将軍・吉宗よしむねまごであることを、

いんように…」

 周囲しゅうい吹聴ふいちょうしては周囲しゅうい屈服くっぷくさせることで、その鬱屈うっくつしたおもいを解消かいしょう発散はっさんしていた。

 そして重富しげとみ直幸なおひでをも屈服くっぷくさせようとしたものの、しかし、直幸なおひで屈服くっぷくすることはなかった。

 成程なるほどおのれ血筋ちすじほこりをつことは良い、それが八代将軍・吉宗よしむね血筋ちすじともなれば尚更なおさらであろう。

 だがその血筋ちすじ周囲しゅうい屈服くっぷくさせる道具どうぐ使つかうなどまさしく、

言語道断ごんごどうだん振舞ふるまい…」

 それにほかならず、

もっと唾棄だきすべき振舞ふるまい…」

 直幸なおひでひとみにはそううつった。

 なにしろ鬱屈うっくつという点では一橋ひとつばし家の嫡男ちゃくなんまれながら、一橋ひとつばし家をげなかった重昌しげまさのその鬱屈うっくつの方が重富しげとみのそれよりもはるかにおおきいはずであった。

 だが重昌しげまさ重富しげとみとはちがい、その血筋ちすじってして周囲しゅうい屈服くっぷくさせるようなことはしなかった。

 にもかかわらず、重富しげとみはと言うと、そんな養父ようふ、いや、あにである重昌しげまさとはちがい、おのれのその血筋ちすじってして周囲しゅうい屈服くっぷくさせるのをつねとしていた。

 直幸なおひで重富しげとみのそのようなくさった性根しょうね常日頃つねひごろ嫌悪けんおしており、そして「定溜じょうだまり」たる彦根ひこね井伊いい家を背負せおものとしてはだんじて屈服くっぷくするわけにはゆかず、実際じっさい直幸なおひで重富しげとみ屈服くっぷくすることはなかった。

 直幸なおひではその上で、重富しげとみおのれ分際ぶんざいおもらせるべく、えて治脩はるながに対してはなが平伏へいふくつづけるという過分かぶんせっかたをし、一方いっぽう重富しげとみに対してはそれとは好対照こうたいしょう会釈えしゃく程度ていどとどめるという、簡素かんそせっかたをしたのだ。

 いや、直幸なおひでとしては本来ほんらいならば重富しげとみ平伏へいふくさせたいところであったが、しかし、それでは重富しげとみ血筋ちすじである八代将軍・吉宗よしむねをも平伏へいふくさせることにもつながりかねず、つまりは吉宗よしむねかろんずることになり、そこで直幸なおひで流石さすが重富しげとみ平伏へいふくさせるような真似まねは、そこまではしなかった。
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