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福井藩主・松平重富は若年寄に内定した田沼意知の排除について実弟・一橋治済と相談する。1

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 重富しげとみいかりと屈辱くつじょくはらめたまま、常盤ときわばし御門ごもんないにある上屋敷かみやしき辿たどいたのはまだ昼前ひるまえであった。

 重富しげとみはしかし、昼餉ひるげらず、着流きながしに着替きがえると、一橋ひとつばし御門ごもんないにある一橋ひとつばしやかたへとあしはこんだ。

 重富しげとみ一橋ひとつばしやかたあるじである治済はるさだ実兄じっけいということもあり、やかたへの出入でいりは「フリーパス」であった。

 さいわい、治済はるさだ重富しげとみよりもはやくに家治いえはるへの拝謁はいえつませたこともあり、すで帰邸きていしており、やかたにその姿すがたがあった。実兄じっけい重富しげとみ来訪らいほう治済はるさだにとっては不意ふいであったものの、しかしこれを歓迎かんげいした。

 いや不意ふい来訪らいほうにはちがいないが、それでも治済はるさだ重富しげとみ来訪らいほう予期よきしていた。今日きょう月次つきなみ御礼おんれいかんがえたとき…、将軍・家治いえはるより「宣戦せんせん布告ふこく」をけたことからかんがえて、重富しげとみもまたなんらかのかたち家治いえはるより「宣戦せんせん布告ふこく」をけたのではあるまいかと、治済はるさだ御城えどじょう下城げじょうし、この一橋ひとつばしやかたへと帰途きとくその道中どうちゅう、その時分じぶんよりそう見当けんとうけていたので、それゆえ不意ふい来訪らいほうにもかかわらず、治済はるさだはそれほどおどろかなかった。

 ともあれ治済はるさだ重富しげとみかいうや、予期よきしたとおり、重富しげとみより伊達だて重村しげむらからけた「仕打しうち」をかされたのであった。

 重富しげとみはなしえた治済はるさだは、「成程なるほど…」とまずはそう反応はんのうしたうえで、

おそらくは上様うえさま差金さしがね相違そういありますまいて…」

 そうくわえた。

上様うえさま差金さしがねと?」

 重富しげとみがそうかえしたので、治済はるさだうなずくと、

「そうでなくば如何いか伊達だてとて、かる暴言ぼうげんには到底とうてい及びおよず…、なれど実際じっさいには兄上あにうえたいしてかる暴言ぼうげんに、それも御三家ごさんけ加州かしゅう、それに大広間おおひろまづめ帝鑑之間ていかんのまづめ諸侯しょこうらにもかせるがごとくにかる暴言ぼうげんおよんだと言うことは、上様うえさま御墨付おすみつきがあってのことに相違そういなく…」

 そう推量すいりょうべた。その推量すいりょうしくも意知おきとものそれと寸分すんぶんたがわぬものであった。

 ともあれ重富しげとみは「成程なるほど」と合点がてんがいった。

 それから治済はるさだ重富しげとみに対して将軍・家治いえはるよりけた「宣戦せんせん布告ふこく」をかたってかせると、重村しげむら暴言ぼうげんもまた「宣戦せんせん布告ふこく」の一環いっかん相違そういないと断言だんげんし、あに重富しげとみうなずかせた。

問題もんだいは、帝鑑之間ていかんのまづめ諸侯しょこうにも伊達だて暴言ぼうげんかれてしまったこと…」

 治済はるさだおもしたようにそうつぶやいたので、重富しげとみにはその言葉ことば真意しんいからずにくびかしげた。

 すると治済はるさだあに重富しげとみくびかしげたことからそうとさっすると、いまおのれ言葉ことば真意しんい解説かいせつしてみせた。

 すなわち、治済はるさだ当初とうしょおなじく御三卿ごさんきょうでありながら、いま当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたである田安たやす家につかえるもの使嗾しそうして、意知おきとも暗殺あんさつはかろうとしたことを重富しげとみけたのであった。
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