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将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 後篇 ~池原良明殺人事件~ 2

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 清水屋敷しみずやしきもまた、その門前もんぜんには門番所もんばんしょがあり、門番もんばんひからせていた。

 清水しみず門橋もんばしわたときには門橋もんばしまも門番もんばんもとい旗本はたもとから誰何すいかされることはなかった川副かわぞえ佐兵衛さへえであったが、本丸ほんまるとも言うべき清水屋敷しみずやしきへとあしれるにさいしては、流石さすが門番もんばんゆるしを必要ひつようがあった。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ門番所もんばんしょめる門番もんばんたいして身分みぶんかしたうえで、家老かろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみ昌忠まさただへの面会めんかい希望きぼう、そのむね昌忠まさただ取次とりついでくれるようたのんだ。

 この門番もんばん清水しみず番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのも勝明かつあきら組下くみか小長谷こながや友三郎ともさぶろう時殷ときはるなるものであり、小長谷こながや友三郎ともさぶろうはまずは直属ちょくぞく上司じょうしたる杉浦すぎうら頼母たのもにこのけんつたえた。

 それゆえ実際じっさい本多ほんだ昌忠まさただ取次とりついだのは番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのもであり、昌忠まさただより川副かわぞえ佐兵衛さへえおうとの返事へんじ杉浦すぎうら頼母たのも門番所もんばんしょにて川副かわぞえ佐兵衛さへえもとへとあしはこぶと、そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえたいして、おのれ小長谷こながや友三郎ともさぶろう直属ちょくぞく上司じょうしたる番頭ばんがしらであることをおしえたうえで、川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただ奥座敷おくざしきへと案内あんないした。

 こうして奥座敷おくざしきにて川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただ対面たいめんたすや挨拶あいさつもそこそこ、早速さっそく本題ほんだいはいった。

 本題ほんだいとはほかでもない、くだん印籠いんろうけんであり、川副かわぞえ佐兵衛さへえ印籠いんろうけん切出きりだすと、昌忠まさただほうから西川にしかわ伊兵衛いへえに50両にて印籠いんろうとそれに根付ねつけ注文ちゅうもんをしたことを打明うちあけたのであった。

 これでどうやら、昌忠まさただ西川にしかわ伊兵衛いへえ印籠いんろう根付ねつけ注文ちゅうもんしたことが完璧かんぺき裏付うらづけられたと言えよう。

 問題もんだいはここからであった。

「ときに…、その印籠いんろう根付ねつけは?」

 いま何処どこにあるのかと、川副かわぞえ佐兵衛さへえはそれをうた。

 そのうち、印籠いんろう池原いけはら良明よしあきら殺害さつがいされた現場げんば遺留いりゅうされていた事実じじつはまだ外部がいぶにはせられていたので、昌忠まさただ下手人げしゅにんでもないかぎりはらないはずであった。

 ともあれ川副かわぞえ佐兵衛さへえのそのいかけに昌忠まさただ表情ひょうじょうくもらせると、

「それが受取うけとってはおらんのだ…」

 そうこたえた。

 無論むろん、それが小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん盛宣もりよしより受取うけとっていないことを言っているのだと、川副かわぞえ佐兵衛さへえには即座そくざ理解りかい出来できたものの、ここは慎重しんちょうして、

「それは如何いかなる仕儀しぎにて?」

 えて素知そしらぬふうよそおった。本多ほんだ昌忠当人まさただとうにんくちから必要ひつようがあったからだ。

 すると昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえのその意図いとさっしてか、くわしい事情じじょう説明せつめいした。

 すなわち、印籠いんろう根付ねつけ完成かんせいしたのは4月3日のことであり、その西川にしかわ伊兵衛いへえ昌忠まさただもとへとつかいを寄越よこしてそのむね昌忠まさただつたえたそうな。

 それにたいして昌忠まさただ本来ほんらいならばその翌日よくじつの4日にみずから、西川にしかわ伊兵衛いへえもとへとあしはこんで印籠いんろう受取うけとりたいところであったが、しかし、4月4日はどうしてもはずせない用事ようじがあったのだ。

 はずせない用事ようじとはほかでもない、家基いえもと法会ほうえであり、ことに4日は御三家ごさんけ三卿さんきょうもとより群臣ぐんしん―、すべての幕臣ばくしん御城えどじょうへと登城とじょうまさそう登城とじょうしなければならず、三卿さんきょう家老かろう勿論もちろん、その例外れいがいではなかった。

 それゆえ、その4日はどうしても印籠いんろう根付ねつけりにはけず、そこで昌忠まさただ代理だいりとして小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんてたそうな。

「それは…、本多ほんださま黒川殿くろかわどのに、おめいじになられたことで?それとも…」

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんみずかのぞんだことなのか…、川副かわぞえ佐兵衛さへえがそうたずねようとすると、

「されば久左衛門きゅうざえもんみずから、申出もうしでたのだ…、いや、身共みども印籠いんろう根付ねつけけんなやんでいると…、ぐにでもりにきたいところ、それが出来できずになやんでおると、久左衛門きゅうざえもんがそれなればと、かせてくれたのだ…」

 昌忠まさただ先手せんて格好かっこうでそうこたえた。

 昌忠まさただはそのうえで、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんのその申出もうしで有難ありがた頂戴ちょうだいし、そこで引換ひきかえ伝票でんぴょうとも半金はんきんの25両を久左衛門きゅうざえもんたずさえさせたことをも打明うちあけたのであった。

「それで…、にもかかわらず印籠いんろう根付ねつけ黒川殿くろかわどのより受取うけとってはおられない、と?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえあらためて昌忠まさただにそのてんただした。

左様さよう…」

「されば…、黒川殿くろかわどの西川にしかわ伊兵衛いへえより半金はんきんの25両と引換ひきかえに印籠いんろう根付ねつけ受取うけとったのち、この屋敷やしきにはかえってはおられない、と?つまりはその、出奔しゅっぽんされたと?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ先回さきまわりしてそうたずねた。昌忠まさただ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんより印籠いんろう根付ねつけ受取うけとってはいないとすると、そうかんがえるよりほかになかったからだ。

 すると昌忠まさただ渋面じゅうめんとなりつつ、「左様さよう」とこたえた。

黒川殿くろかわどのさき心当こころあたりは…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえのそのいは探索たんさくにおける常道セオリーと言えた。

「うむ…、もしや実家じっかかとおもうて、そこで濱町はまちょうへと…」

 昌忠まさただ説明せつめいによると、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん新番組しんばんくみがしらつとめた旗本はたもと黒川くろかわ左門さもん盛章もりあきら三男さんなんであった。つまりは旗本はたもと次男じなん三男さんなん構成こうせいされる「附切つけきり」の身分みぶん清水しみずつかえていたのだ。

 その黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん実家じっかである旗本はたもと黒川くろかわ屋敷やしき濱町はまちょうにあり、しかも寺社じしゃ奉行ぶぎょう牧野まきの惟成これしげの「おとなり」とのことである。

 ともあれ清水しみずとしては濱町はまちょうにあるその黒川くろかわへとひとを、番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのもとその相役あいやく同僚どうりょう番頭ばんがしらである近藤こんどう助八郎すけはちろう義貫よしつらの2人を差向さしむけたそうな。

 そのとき黒川くろかわ当主とうしゅ黒川くろかわ内匠たくみ盛胤もりつぐで、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんおいたる。

 すなわち、久左衛門きゅうざえもん実兄じっけいにして先代せんだい黒川くろかわ左太郎さたろう盛武もりたけ嫡子ちゃくしがこの、内匠たくみ盛胤もりつぐであり、そのとき黒川くろかわ屋敷やしきには家臣かしんほかには隠居いんきょ左太郎さたろうとその妻女さいじょちく、そして当主とうしゅ内匠たくみとその妻女さいじょ山尾やまおの4人がらしていた。

 そこへ、杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの2人がおとずれ、久左衛門きゅうざえもん実兄じっけいにして隠居いんきょ左太郎さたろうと、そのそくにして当主とうしゅである内匠たくみ両名りょうめいに、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん出奔しゅっぽん事実じじつつたえたのであった。

 いや、一応いちおうは「行方ゆきかたれず」とオブラートにつつみはしたものの、その意味いみするところは出奔しゅっぽんしかありない。

 しかも番頭ばんがしらという、三卿さんきょう家臣かしんなかでも家老かろうそば用人ようにん幹部かんぶクラスが2人も直々じきじきあしはこんだからには、

「この黒川くろかわにて久左衛門きゅうざえもん身柄みがらかくまっているのではあるまいか…」

 2人を差向さしむけた清水しみず当主とうしゅたる重好しげよしがそううたがっているのを如実にょじつ物語ものがたっていた。

 それにたいして左太郎さたろうにしろ、内匠たくみにしろ、仰天ぎょうてんしたらしい。

 出奔しゅっぽんなど初耳はつみみであり、ましてやその身柄みがらかくまうなど、とんでもない…、左太郎さたろう内匠たくみ父子ふし杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの2人にたいして、

むまで家捜やさがししてもらって結構けっこう…」

 そうくちそろえたそうな。

 そんな2人の様子ようすから、杉浦すぎうら頼母たのもにしろ近藤こんどう助八郎すけはちろうにしろ、ここ黒川くろかわには久左衛門きゅうざえもんはいないだろうと、さっせられはしたものの、それでもねんため杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの2人は無駄むだであるのは承知しょうちうえで、家捜やさがしをさせてもらった。

 その結果けっかあんじょうと言うべきもので、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん姿すがたはどこにも見当みあたらず、そこで杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの2人は左太郎さたろう内匠たくみ父子ふし家捜やさがしさせてもらったことへの謝意しゃいべるとともに、もし黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんから連絡れんらくがあるようなら、あるいは姿すがたせたならば至急しきゅう、そのむねつたえてくれるようたのんで黒川くろかわ辞去じきょしたそうな。

 それが4月6日のはなしであった。重好しげよしとしてはぐにでも黒川くろかわへとひと差向さしむけるつもりのようであったが、それを昌忠まさただせいして、とりあえず、出奔しゅっぽん当日とうじつの4日と、その翌日よくじつの5日は猶予ゆうよあたえたそうな。そのかん黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんかえってくるかもれないからだ。

 だが結局けっきょく、4月6日になっても黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんかえってはず、そこで黒川くろかわひと差向さしむけることとし、番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの2人を差向さしむけたというわけだ。

「ときに…、印籠いんろう根付ねつけけん黒川くろかわものには…」

「いや、まだせてある…、それを打明うちあければ、久左衛門きゅうざえもん印籠いんろう根付ねつけぬすんだ下手人げしゅにんとなるからの…、いや、まだぬすんだとまったわけではあるまいによって…」

 それで黒川くろかわ人間にんげんには印籠いんろう根付ねつけけん打明うちあけなかったのだと、昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえおしえた。つまりは黒川くろかわへの配慮はいりょからであった。

「それでは印籠いんろう根付ねつけけん存知ぞんじなのは…」

「この身共みどものぞいてはあるじ宮内くないきょうさまと、それに相役あいやく吉川殿よしかわどの側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうだけで、用人ようにんらぬことぞ…」

左様さようで…」

「して、その印籠いんろう根付ねつけ如何いかがいたしたともうすのだ?」

 昌忠まさただはこのだんになってようやくに、印籠いんろう根付ねつけけんをクドクドと川副かわぞえ佐兵衛さへえ疑念ぎねんいた様子ようすであった。それが当然とうぜん反応はんのうと言えよう。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえもここでようやくに、池原いけはら良明よしあきら殺害さつがい現場げんば印籠いんろう遺留いりゅうされていたけん昌忠まさただ打明うちあけたのであった。

 すると昌忠まさただ流石さすがおどろいた様子ようすせた。

なんと…、それなる池原いけはら雲亮うんりょうが、身共みども受取うけとはずであった印籠いんろうにぎめててていたともうすのか…」

 昌忠まさただはそううめようたしかめた。

左様さようで…」

「いや…、それではまるで、身共みどもがそれな池原いけはら雲亮うんりょうあやめたかのようであるが…」

 昌忠まさただおのれ池原いけはら良明よしあきらごろしの下手人げしゅにんだとうたがわれているのではないかと、そうおもったらしい。

 被害者ひがいしゃである池原いけはら良明よしあきらにぎめていた印籠いんろうが、おのれ注文ちゅうもんしたそれであるとかされれば、成程なるほど、そうおもうのがこれまた当然とうぜんであった。

 だが実際じっさいには印籠いんろうにぎかたから、池原いけはら良明よしあきらみずかにぎめたものではなく、だれかににぎらされたことをも、川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただ打明うちあけたのであった。無論むろん昌忠まさただ安心あんしんさせるためであった。

「それでは…、下手人げしゅにん身共みども下手人げしゅにん仕立したてるべく、かる真似まねを…、池原いけはら雲亮うんりょうに、この身共みども受取うけとはずであった印籠いんろうにぎらせたともうすのか?」

 昌忠まさただおのれへの疑惑ぎわくれるとおもったのか、乗出のりだしてたしかめた。

おそらくは…、いや、そのためにも印籠いんろう行方ゆくえ大事だいじにて…、本多ほんださまはなしうかがいましたるところによれば、どうやらその印籠いんろう根付ねつけとも黒川殿くろかわどの所持しょじしている可能性かのうせいがかなりたかく…、いえ、無論むろん池原いけはら雲亮うんりょうころされるまえまで、でござりまするが…」

 それは、昌忠まさただ池原いけはら良明よしあきらごろしの下手人げしゅにん仕立したてようとしたのは、つまりは池原いけはら良明よしあきらごろしのまこと下手人げしゅにん黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんである…、そう示唆しさするものであった。

 昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえのその示唆しさ気付きづいたらしく、ふたた表情ひょうじょうくもらせると、「あの久左衛門きゅうざえもんが…」とうめいた。

「これはねんためうかがうのですが…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえくちにしたその口上こうじょうは、「現場不在証明アリバイ」をたずねるときの、おまりの文句フレーズであった。

一昨日おととい…、4月9日の暮六つ(午後6時頃)からよいの五つ半(午後9時頃)までのあいだ本多ほんださまはどこでなにをなされておりましたでござりましょうや…」

「さしずめ、それが池原いけはら雲亮うんりょうあやめられた刻限こくげんと?」

 昌忠まさただがそうたずねたので、川副かわぞえ佐兵衛さへえ素直すなおに「はい」と首肯しゅこうした。

 いや、実際じっさいには「死亡推定時刻しぼうすいていじこく」は暮六つ(午後6時頃)でほぼ間違まちがいないが、それでもねんため、「死亡推定時刻しぼうすいていじこく」をひろめにったのであった。

 ともあれ昌忠まさただもまた、川副かわぞえ佐兵衛さへえのそのいに素直すなおこたえた。

「そのなれば、暮六つ(午後6時頃)どころか、それ以前いぜんから夜更よふけまで、ずっとおとうと看病かんびょうをしておったわ…」

 これは意外いがい回答かいとうであり、川副かわぞえ佐兵衛さへえおもわず、「看病かんびょう?」と聞返ききかえしていた。

 すると昌忠まさただは、「しばて」とげてから川副かわぞえ佐兵衛さへえ一人ひとり奥座敷おくざしきのこして廊下ろうかると、それからしばらくして、一人ひとりおとこれて奥座敷おくざしきもどってた。

 そしてそのおとここそ、昌忠まさただおとうとこと本多ほんだ六三郎ろくさぶろう長卿ながのりであり、物頭ものがしらつとめているとのことであった。

「ああ、もうわすれておったが、この六三郎ろくさぶろうめも印籠いんろう根付ねつけけんぞんじておったわ…」

 昌忠まさただおもしたかのよう川副かわぞえ佐兵衛さへえにそうげると、そばでそれをいていた本多ほんだ六三郎ろくさぶろうは「印籠いんろう根付ねつけけん?」と聞返ききかえした。

 そこで昌忠まさただ六三郎ろくさぶろうにも川副かわぞえ佐兵衛さへえ紹介しょうかいしたうえで、これまでの川副かわぞえ佐兵衛さへえとのやりりをかたってかせた。

「されば一昨日おとといの9日は、そなたは歯痛はいたおそわれたのであったの…、親知おやしらずであったが…」

 昌忠まさただ実弟じってい六三郎ろくさぶろうにそうみずけると、六三郎ろくさぶろうも「ずかしながら…」とおうじた。

歯痛はいた、でござりまするか?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただ六三郎ろくさぶろう兄弟きょうだいあいだってはいようたずねた。

 するとそれにはあに昌忠まさただこたえた。

左様さよう…、9日の昼九つ(正午頃)よりきゅうくるしみはじめての…、いや、一昨日おとといの9日は今日きょう、11日とおなじく、身共みどもはこの屋敷やしきにて留守るすあずかっており…」

 三卿さんきょう家老かろう平日へいじつ交代こうたい登城とじょうする。

 この清水しみずれいれば、家老かろう本多ほんだ昌忠まさただ吉川よしかわ摂津守せっつのかみ從弼よりすけ交代こうたい御城えどじょう登城とじょうし、中奥なかおくにある三卿さんきょう家老かろう詰所つめしょめ、そのかん、もう一人ひとり家老かろう留守るすあずかることになる。

 本多ほんだ昌忠まさただ今日きょう、11日はこうして屋敷やしきにおり、つまりは留守るすあずかっていたからこそ川副かわぞえ佐兵衛さへえ出迎でむかえられたわけで、してみると昨日きのう、10日は登城とじょうたり、留守るすあずかっていたのは吉川從弼よしかわよりすけということになる。

 そしてさらにその前日ぜんじつの9日は今日きょう11日とおなじく、昌忠まさただ留守るすあずかっていたというわけだ。

「まぁ、昼九つ(正午頃)に歯痛はいた発症はっしょうしたとはもうせ、まだそれほどいたみではなかったようで…、なれど宮内くないきょうさま御城おしろよりおもどりあそばされてから…、昼八つ(午後2時頃)をぎてからきゅういたみがひどくなってな…」

 三卿さんきょう溜間たまりのまづめ雁間がんのまづめ菊間きくのまづめ諸侯しょこう同様どうよう平日登城へいじつとじょうゆるされており、そこが御三家ごさんけとのちがいであった。

おそらくは宮内くないきょうさま帰邸きていむか申上もうしあげたことでゆるみ、それゆえにそれまでおさえられていたいたみがひどくなったのやもれぬな…」

 その気持きもちは川副かわぞえ佐兵衛さへえにも理解りかい出来できた。主君しゅくん無事ぶじかえってると、家臣かしんならば本能的ほんのうてきにホッとするものである。

「それでもこの六三郎ろくさぶろうめは我慢がまんいたしおってな…、ほうっておけばなおるなどともうして…」

 昌忠まさただはそのとき様子ようすおもしたのであろう、苦笑くしょうかべた。

 成程なるほど六三郎ろくさぶろう我慢がまんをしたのも川副かわぞえ佐兵衛さへえにはまた理解りかい出来できた。武士ぶしたるもの歯痛はいた程度ていど一々いちいち医師いしになどにはたよれまい。それもまた本能的ほんのうてきなものと言えよう。

「だが、夕七つ(午後4時頃)には高熱こうねつまではっして…、ついにはうめごえまでげる始末しまつにて…、それを…、その見苦みぐるしき有様ありさまに、お気付きづきあそばされし宮内くないきょうさまかねて医師いし往診おうしんを…、歯科医しかい往診おうしんを、おめいじあそばされて…」

 そこで出張でばってたのが医官いかん、それも将軍しょうぐん家治いえはる側近そばちかくにつかえるおく医師いしにして法眼ほうげん安藤安仙正朋あんどうあんせんまさともとのことであった。

「この屋敷やしきにもおく医師いしがおられましょうに…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ当然とうぜん疑問ぎもんはっした。

 三卿さんきょう屋敷やしきにも御城えどじょう中奥同様なかおくどうようおく医師いし常駐じょうちゅうしており、それゆえ

態々わざわざ安藤安仙あんどうあんせんばずとも、この屋敷やしき常駐じょうちゅうするおく医師いし本多ほんだ六三郎ろくさぶろうさせればかったのではあるまいか…」

 それが川副かわぞえ佐兵衛さへえいの趣旨しゅしであった。

「いや、たしかにおく医師いしはいるが、なれど本道ほんとう(内科)と金創きんそう(外科)のほかには婦人科ふじんか眼科がんか、そしてはりのみにて、生憎あいにくこうはおらなんだ…」

 成程なるほどこう―、歯科医しかいそんしないのなら、往診おうしんたのむよりほかにはないだろう。

 それにしても将軍しょうぐん家治いえはる側近そばちかくにつかえるおく医師いし往診おうしんたのむとは、中々なかなか度胸どきょうをしている。

 見様みようによっては、将軍しょうぐんあなど行為こういとも受取うけとられかねないからだ。

 すると昌忠まさただもそうとさっしたのか、

「いや、安藤安仙あんどうあんせん失礼しつれいがあってはならぬと、そこで身共みども側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんともない、小川丁おがわちょう神保じんぼう小路こうじへと…」

 そう「言訳いいわけ」した。成程なるほど将軍しょうぐん側近そばちかくにつかえるおく医師いしむかえるものとして、従五位下じゅごいのげ諸大夫しょだいぶやく三卿さんきょう家老かろう従六位じゅろくい布衣ほいやくおなじく三卿さんきょう側用人そばようにんの2人がつとめれば、

将軍しょうぐんあなど行為こうい…」

 その批判ひはんすこしくはかわせるであろう。

小川丁おがわちょう神保じんぼう小路こうじ…、そこに安藤殿あんどうどの屋敷やしきかまえられているので?」

左様さよう…」

 流石さすが将軍しょうぐん側近そばちかくにつかえるおく医師いしともなると一等地いっとうちめるものだと、川副かわぞえ佐兵衛さへえ内心ないしん感嘆かんたんさせられた。

「して、安藤安仙殿あんどうあんせんどのがこの屋敷やしきかれましたのは…」

身共みども側用人そばようにん本目ほんめ安藤安仙あんどうあんせん屋敷やしきいたがゆうの七つ半(午後5時頃)をぎたころにて、それから安仙あんせん往診おうしんため支度したくをして…、それゆえ安仙あんせん身共みどもらとともにこの屋敷やしきいたは暮六つ(午後6時頃)をぎたころであったかの…」

 昌忠まさただは「暮六つ(午後6時頃)」の部分フレーズにアクセントをいた。

 おのれには池原いけはら良明よしあきら殺人さつじん事件じけんにおいて「現場不在証明アリバイ」がある…、そう示唆しさするためであろう。

 昌忠まさただのその思惑おもわくかくいま証言しょうげんがあれば成程なるほどたしかに完璧かんぺきな「現場不在証明アリバイ」と言えた。

 同時どうじにそれは側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんなにがしの「現場不在証明アリバイ」でもあった。

 無論むろんうら必要ひつようはあるだろうが、川副かわぞえ佐兵衛さへえ直感ちょっかんからして、昌忠まさただウソいているとはおもえなかった。

 つまりは昌忠まさただの「現場不在証明アリバイ」は完璧かんぺきというわけだ。

 一方いっぽう昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえ様子ようすからそうとさっしたのであろう、

「おうたがいなれば、清水しみず門番所もんばんしょにてたしかめられては如何いかがかな?」

 成程なるほど清水しみず門橋もんばしわたって、つまりは清水しみず門番所もんばんしょ通過つうかして、ここ清水しみず屋敷やしき辿たどいたのならば、昌忠まさただが言うとおり、清水しみず門番所もんばんしょにてうらるのが探索たんさく常道セオリーと言えた。

 所謂いわゆる三十六さんじゅうろく見附みつけは暮六つ(午後6時頃)にそのもんじられ、以後いご翌朝よくちょうの明六つ(午前6時頃)までの12時間、もんかたじられた状態じょうたいとなり、それゆえ、そのかんはしわたろうとおもえば、門番所もんばんしょめる門番もんばんゆるしをなければならぬ。

 昌忠まさただ場合ばあい側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんぜもんともに、安藤正朋あんどうまさともともない、ここ清水屋敷しみずやしき辿たどいたのは暮六つ(午後6時頃)をぎた時分じぶんとのことで、だとするならば清水しみず門橋もんばしわたったのはぎりぎり暮六つ(午後6時頃)か、それよりもすこおくれたあたりであろう。

 いや、昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえに、

清水しみず門番所もんばんしょにてたしかめられては…」

 そうすすめたことから、もんじられる暮六つ(午後6時頃)にはわなかったものとおもわれる。

 そしてその場合ばあい―、もんじられているかんはしわたろうとおもえば門番所もんばんしょ門番もんばんゆるしをなければならないのは前述ぜんじゅつしたとおりだが、そのさい身許みもとを、所謂いわゆる

住所じゅうしょ氏名しめい年齢ねんれい職業しょくぎょう

 それを門番所もんばんしょ備付そなえつけの台帳だいちょうしる必要ひつようがあり、かりに暮六つ(午後6時頃)をぎてから清水しみず門橋もんばしわたろうとおもえば、安藤正朋あんどうまさとももとより、ここ清水屋敷しみずやしきにてつかえる家老かろう本多ほんだ昌忠まさただ側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんでさえも、門番所もんばんしょ門番もんばんゆるしをうえで、くだん台帳だいちょう記帳きちょうしないことにははし通行つうこうすることはゆるされなかった。

「して、安藤安仙殿あんどうあんせんどの治療ちりょうえられたのは…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえかさねてそううた。

「されば…、宵五つ(午後8時頃)であったかの…、結局けっきょく親知おやしらずとのことで、親知おやしらずをくのに時間じかんがかかり…、なれど親知おやしらずを引抜ひきぬいたのちにはねつがり、ほおれもき…」

 昌忠まさただおとうと六三郎ろくさぶろう横目よこめつつ、そうこたえた。

「それで…、安藤安仙殿あんどうあんせんどの治療ちりょうえられましたのちにはぐにかえられましたので?」

 池原いけはら良明よしあきらの「死亡推定時刻しぼうすいていじこく」は暮六つ(午後6時頃)からよいの五つ半(午後9時頃)までの間であり、それも暮六つ(午後6時頃)直後ちょくごおもわれるが、よいの五つ半(午後9時頃)である可能性かのうせいもあった。

 そうであればかり安藤正朋あんどうまさともが宵五つ(午後8時頃)に治療ちりょうえた直後ちょくご清水屋敷しみずやしきたとして、その直後ちょくご昌忠まさただにしろ、六三郎ろくさぶろうにしと、清水屋敷しみずやしきれば、「死亡推定時刻しぼうすいていじこく」の範囲内はんいないであるよいの五つ半(午後9時頃)までには「犯行はんこう現場げんば」であるしば愛宕山あたごやま権現社ごんげんしゃ總門そうもんはしにギリギリう。

 いや、「犯行はんこう現場げんば」にうというだけで、ぐにそれと殺人さつじんとがイコールでむすびつくわけではない。

 なにしろ、池原いけはら良明よしあきら市谷いちがや土取つちとりにある学友がくゆう戸田とだ要人かなめ屋敷やしきたのはゆうの七つ半(午後5時頃)であり、何事なにごともなければ暮六つ(午後6時頃)には池原いけはら良明よしあきらは「犯行はんこう現場げんば」とははなさき愛宕下あたごした廣小路ひろこうじ屋敷やしきいたはずであり、しかし実際じっさいには屋敷やしきくことはなく、「犯行はんこう現場げんば」で無念むねん最期さいごげたとなれば、池原いけはら良明よしあきら屋敷やしきもんくぐまえ下手人げしゅにんこえでもかけられ、そして「犯行はんこう現場げんば」へとおびせられたとかんがえるのが自然しぜんであり、それこそが、

死亡推定時刻しぼうすいてじこくは暮六つ(午後6時頃)の直後ちょくご相違そういない…」

 その根拠こんきょであった。

 だがそれでも、「もしかしたら…」、がありた。すなわち、

「いったん屋敷やしきいた池原いけはら良明よしあきらそとから下手人げしゅにん呼出よびだされ、そしてそのまま犯行はんこう現場げんばへとおびせられた…」

 その「もしかしたら」も完全かんぜんにはれない段階だんかいでは、「死亡推定時刻しぼうすいていじこく」がよいの五つ半(午後9時頃)である可能性かのうせい視野しやれておくべきであろう。

 だがその、「もしかしたら」も結局けっきょく昌忠まさただによって完全かんぜん否定ひていされることになる。

「いや、そのままかえしたのでは安仙あんせん申訳もうしわけないでな…」

申訳もうしわけない、とは?」

夕餉ゆうげらせずにかえしたのでは申訳もうしわけないということよ…」

 ああ、と川副かわぞえ佐兵衛さへえ合点がてんがいった。

 成程なるほど安藤正朋あんどうまさとも夕食ゆうしょくまえ昌忠まさただ本目ほんめ権右衛門ごんえもんによって自邸じていより連出つれだされ、ここ清水屋敷しみずやしきにて昌忠まさただおとうと六三郎ろくさぶろう治療ちりょうたらせられた、となれば夕食ゆうしょく時間じかんもなかったであろう。

「それでは安藤安仙殿あんどうあんせんどの夕餉ゆうげ差上さしあげたので?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ先回さきまわりしてたずねると、昌忠まさただは「左様さよう」とこたえたうえで、

「されば簡単かんたん茶漬ちゃづけ振舞ふるまい…、いや、本来ほんらいなれば、もそっとましな馳走ちそう振舞ふるまいたかったのだがな、それでは時間じかんがかかり…、いや、すで門限もんげんぎてはいたが…」

 旗本はたもと門限もんげんは宵五つ(午後8時頃)であり、安藤正朋あんどうまさとも六三郎ろくさぶろう治療ちりょうえたのがまさにその宵五つ(午後8時頃)であるので、成程なるほど安藤正朋あんどうまさとも帰宅きたく畢竟ひっきょう門限もんげんぎることになる。

 いや、安藤正朋あんどうまさとも場合ばあい幕府ばくふ医官いかん、それも将軍しょうぐん家治いえはる側近そばちかくにつかえるおく医師いしとして旗本はたもとじゅんずる家格かかくほこるが、その役目やくめがら厳格げんかくには門限もんげん概念がいねんはない。つまりは門限もんげんおくれたとしても、それほど問題もんだいになることはない。

 ましてや、天下てんが三卿さんきょう清水しみず重好しげよしわれて往診おうしん出向でむいたからこそ、門限もんげんおくれたもあらば、もとより、門限もんげんやぶったところで問題もんだいになり様筈ようはずもない。

 だが、そうは言っても一応いちおう門限もんげんがあるうえは、安藤正朋あんどうまさともとしては一刻いっこくはやかえりたいところであっただろう。

 仮令たとえいまからいそいで清水屋敷しみずやしきて、神保じんぼう小路こうじにある自邸じていへとかえったところで、門限もんげんには最早もはやわないとしてもだ。

 そこで昌忠まさただはそんな安藤正朋あんどうまさともたいして、用意ようい時間じかんのかからない簡単かんたん茶漬ちゃづけだけを振舞ふるまったとのことであった。

「それでは結局けっきょく安藤安仙殿あんどうあんせんどのがこの屋敷やしきられましたのは…」

「さればよいの五つ半(午後9時頃)であったかの…、そのおりには六三郎ろくさぶろうめもすっかり恢復致かいふくいたして、もんまで安仙あんせん見送みおくったわ…」

 昌忠まさただ苦笑くしょうまじりにそう証言しょうげんした。

 昌忠まさただのこの証言しょうげん本当ほんとうだとすれば、これですくなくとも昌忠まさただとそのおとうと六三郎ろくさぶろうの「現場不在証明アリバイ」が完全かんぜん裏付うらづけられたことになる。

 無論むろんうら必要ひつようはある。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえ早速さっそく清水しみず門番所もんばんしょにてたしかめてみよう、門番所もんばんしょ備付そなえつけの台帳だいちょうってみようと、そうおもったところで、屋敷やしきあるじ重好しげよし還御かんぎょ帰宅きたくしたことをげるこえ屋敷やしきじゅうひびいた。

 重好しげよし家老かろう吉川從弼よしかわよりすけとも帰宅きたくしたのであった。すなわち、今日きょう重好しげよし吉川從弼よしかわよりすけとも御城えどじょうへと登城とじょうしたわけで、明日あす昌忠まさただ登城とじょうするばんであった。

 さて、昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえに、「しばたれよ」とげてからふたたび、中座ちゅうざした。これで川副かわぞえ佐兵衛さへえせきうしなってしまった。勝手かってせきって門番所もんばんしょへとあしけては無作法ぶさほうだからだ。

 そしてそれからしばらくしてから昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえもとへともどってるなり、あるじ重好しげよし御座所ござしょにて川副かわぞえ佐兵衛さへえ意向いこうであることをげたのであった。

 これにたいして川副かわぞえ佐兵衛さへえ当然とうぜんおどろいた。川副かわぞえ佐兵衛さへえ寺社じしゃやくとは言え、そのはあくまで大名だいみょう陪臣ばいしんぎないからだ。

 そのようおのれ天下てんがの、御三家ごさんけをもしの三卿さんきょうたる清水しみず重好しげよしってくれるともなれば、川副かわぞえ佐兵衛さへえおどろくのも至極しごく当然とうぜんであった。

 ともあれ川副かわぞえ佐兵衛さへえとしてはことわ理由りゆうもなければ、そのすべすらなかったので、重好しげよしからの申出もうしで有難ありがた拝受はいじゅし、かくして川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただ案内あんないにより重好しげよし御座所ござしょへとあしけた。

 御座所ござしょにて川副かわぞえ佐兵衛さへえ上段じょうだんにて鎮座ちんざする重好しげよし対面たいめんたすと、当然とうぜんながら重好しげよしたいして平伏へいふくしようとした。

 すると重好しげよしはそれをせいしたうえなん上段じょうだんからりてて、川副かわぞえ佐兵衛さへえ近距離きんきょりかいった。

おおまかなはなし昌忠まさただよりいた…」

 重好しげよしはそう切出きりだすと、

「さればこの重好しげよし行動こうどうも…、池原いけはら良明よしあきらがいされたとおぼしき暮六つ(午後6時頃)からよいの五つ半(午後9時頃)までの行動こうどうあきらかにせねばならぬの…」

 なんと、重好しげよしみずからの「現場不在証明アリバイ」を申告しんこくしようとしたのだ。

 これには川副かわぞえ佐兵衛さへえおおいに恐縮きょうしゅくさせられ、

「そのばかりは何卒なにとぞ、ご容赦ようしゃ…、ご無用むようを…」

 そうこたえるなり、重好しげよしからせいされたにもかかわらずおもわず平伏へいふくしていた。

 事実じじつ重好しげよしの「現場不在証明アリバイ」など無用むようであった。

 天下てんが三卿さんきょうたる重好しげよし一介いっかいおく医師いしあやめるなど、到底とうていかんがえられず、百歩ひゃっぽゆずって、あやめてしまったところで、つみうことなど出来できない。

 それでも重好しげよしかず、

「されば一昨日おとといの9日は暮六つ(午後6時頃)まえより、宵五つ(午後8時頃)までのあいだ、この重好しげよしみずか見舞みまいのつかいの相手あいてをしておったわ…」

 そう「現場不在証明アリバイ」を申告しんこくしたのであった。

 それゆえ川副かわぞえ佐兵衛さへえも、まずは重好しげよしに「現場不在証明アリバイ」があることにホッとさせられると同時どうじに、しかしそれとは裏腹うらはらに、疑問ぎもんいた。

見舞みまいのつかい、でござりまするか?」

 それが川副かわぞえ佐兵衛さへえ疑問ぎもんであった。

 すると重好しげよしも「左様さよう…」とおうずるや、「見舞みまいのつかい」について川副かわぞえ佐兵衛さへえくわしく説明せつめいした。

 すなわち、ここ清水屋敷しみずやしき清水しみず門番もんばんによってまもられており、そこで重好しげよし門番所もんばんしょめる門番もんばん朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょく、それに夕食ゆうしょく夜食やしょくまで差入さしいれるのをつねとしていた。

 無論むろん重好しげよしみずか差入さしいれるのではなく、重好しげよし名代みょうだいとして本多ほんだ六三郎ろくさぶろう食事しょくじ差入さしいれるのであった。

 それが9日にかぎって、六三郎ろくさぶろう歯痛はいたため…、親知おやしらずのいたみから、朝食ちょうしょく昼食ちゅうしょくこそみずか差入さしいれたものの、夕食ゆうしょく差入さしいれられず、そこで用人ようにん本目ほんめ平七へいしち親平ちかひら夕食ゆうしょくと、それに夜食やしょく差入さしいれたのであった。

 夕食ゆうしょく大抵たいてい、夕七つ(午後4時頃)に差入さしいれられ、9日もそうであった。

 いや、門番所もんばんしょ差入さしいれるぜんだが、門番所もんばんしょめる全員分ぜんいんぶん差入さしいれることになるので、結構けっこうりょうとなり、たりまえだが、一人ひとりれるものではない。

 そこで六三郎ろくさぶろう清水しみずもん門番所もんばんしょ食事しょくじとどけるとは言っても、実際じっさいぜん持運もちはこぶのは小者こもの中間ちゅうげんであり、六三郎ろくさぶろうがその先頭せんとうって門番所もんばんしょおとずれるのであった。

 それが9日にかぎって、それも夕七つ(午後4時頃)にかぎって、いつもの六三郎ろくさぶろうではなく、見慣みなれないものが、すなわち、用人ようにん本目ほんめ平七へいしちおとずれたことから、門番所もんばんしょめていた旗本はたもと鈴木數馬すずきかずま安節やすときくびかしげたそうな。

 それにたいして本目ほんめ平七へいしちもそうとさっして、六三郎ろくさぶろう歯痛はいた夕食ゆうしょくとどけられず、そこでわりにおのれとどけにたことを鈴木數馬すずきかずまおしえたそうな。

 それで鈴木數馬すずきかずま合点がてんがいき、同時どうじに、「それなれば…」と六三郎ろくさぶろう見舞みまうことをおもいつき、しかし、みずからは門番もんばんとしての仕事しごとがあるので、そこで配下はいか家臣かしんめいじて六三郎ろくさぶろう見舞みまわせたそうな。

 そのおり重好しげよしみずから、見舞みまいにおとずれたかるつかいのもの接遇せつぐうつとめたそうな。

 いや、重好しげよし接遇せつぐうつとめたのは鈴木數馬すずきかずまつかいのものだけではない、田安たやす門番もんばん竹橋たけばし門番もんばんより差向さしむけられたつかいのもの接遇せつぐうにもつとめたのであった。

 ここ清水屋敷しみずやしき清水しみず門番もんばんもとより、田安たやす門番もんばんやそれに竹橋たけばし門番もんばんによってもまもられていたと言える。

 ここ清水屋敷しみずやしき田安屋敷たやすやしきとは真向まむかいで、清水屋敷しみずやしき田安屋敷たやすやしきはさまれる格好かっこう田安たやす門番もんばんがあった。

 それゆえ清水屋敷しみずやしき田安たやす門番もんばんによってまもられていたとも言える。

 いや、ほかにも、もうひとつ、竹橋たけばしもんによってもまもられており、清水屋敷しみずやしきは言うなれば、田安たやすもん清水しみずもん、そして竹橋たけばしもんかこまれており、各々おのおの門番所もんばんしょによってまもられていた。

 そこで重好しげよし清水しみずもん門番所もんばんしょだけではなく、田安たやすもん竹橋たけばしもん、このふたつの門番所もんばんしょにも差入さしいれをおこなうのをつねとしていたのだ。

 ちなみに田安たやすもん門番所もんばんしょへの差入さしいれは蔭山かげやま新五郎しんごろう久廣ひさひろが、竹橋たけばしもん門番所もんばんしょへの差入さしいれは小野おの四郎五郎しろうごろう言貞のりさだ夫々それぞれになった。

 蔭山かげやま新五郎しんごろう小野おの四郎五郎しろうごろうも、本多ほんだ六三郎ろくさぶろうとは相役あいやく同僚どうりょう物頭ものがしらであり、やはり小者こもの中間ちゅうげんぜんはこばせ、おのれはその先頭せんとうって門番所もんばんしょへとあしはこぶのを日課にっかとしていた。

 そして夫々それぞれ門番所もんばんしょへと食事しょくじはこんで蔭山かげやま新五郎しんごろうにしろ、小野おの四郎五郎しろうごろうにしろ、自然しぜん門番所もんばんしょめている門番もんばんとは顔馴染かおなじみとなり、雑談ざつだんわす間柄あいだがらともなる。

 それは本多ほんだ六三郎ろくさぶろうにもまることだが、ともあれ、9日の夕七つ(午後4時頃)に夫々それぞれ門番所もんばんしょへと夕食ゆうしょくはこんでさいにもそうであり、すなわち、蔭山かげやま新五郎しんごろう田安たやすもん門番もんばんに、小野おの四郎五郎しろうごろう竹橋たけばしもん門番もんばんに、夫々それぞれ雑談ざつだんにおいて本多ほんだ六三郎ろくさぶろう歯痛はいたけん打明うちあけたらしいのだ。

 すると田安たやすもん竹橋たけばしもん夫々それぞれ門番所もんばんしょもまた、清水しみずもん門番所もんばんしょ同様どうよう反応はんのうしめした。

 その当時とうじ田安たやす門番もんばんつとめていたのは下総しもうさ多古たこ藩主はんしゅ松平まつだいら豊前守ぶぜんのかみ勝全かつたけであり、一方いっぽう竹橋たけばし門番もんばんつとめていたのは伊勢崎いせざき藩主はんしゅ酒井さかい駿河守するがのかみ忠温ただはるであった。

 本来ほんらいならば見舞みまいのしな持参じさんするのが礼儀れいぎであったが、何分なにぶん家基いえもと喪中もちゅうということもあり、松平まつだいら勝全かつたけにしろ酒井さかい忠温ただはるにしろ、あま派手はでなことも出来できず、そこでわずかばかりの見舞金みまいきんつつんで、とも門番もんばんつとめる家老かろうたせた。ちなみにそれは鈴木數馬すずきかずまにしても同様どうようであった。

 一方いっぽう重好しげよし鈴木數馬すずきかずま名代みょうだい見舞みまいのつかいのものたいしてのみならず、松平まつだいら勝全かつたけ酒井さかい忠温ただはる夫々それぞれ名代みょうだい家老かろうたいしてもみずからその接遇せつぐうつとめたのだ。

 具体的ぐたいてきには彼等かれら名代みょうだいをまずは安藤正朋あんどうまさとも治療ちりょうけている本多ほんだ六三郎ろくさぶろうもとへと案内あんないし、そこでかされている六三郎ろくさぶろう対面たいめんたさせたそうな。

 六三郎ろくさぶろうがることが出来できず、しかしそれでも安藤正朋あんどうまさともには治療ちりょう中断ちゅうだんしてもらい、名代みょうだいにはたままの状態じょうたい対面たいめんする無作法ぶさほうびたらしい。

 こうして名代みょうだい六三郎ろくさぶろうとの対面たいめんたさせた重好しげよしいで夕食ゆうしょく振舞ふるまったそうな。

 無論むろん、やはり家基いえもと喪中もちゅうということもあり、さけこそ振舞ふるまえなかったものの、山野河海さんやかかい珍味ちんみ振舞ふるまったそうな。

 その宴席えんせきには主催者しゅさいしゃとも言うべき重好《しげよし》をはじめとし、家老かろう吉川從弼よしかわよりすけ側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん|、それに6人の用人ようにん所謂いわゆる、「ホストやく」として陪席ばいせきしていた。

 ちなみにもう一人ひとり家老かろう本多ほんだ昌忠まさただおとうと六三郎ろくさぶろう付添つきそい、つまりは安藤正朋あんどうまさとも治療ちりょう立会たちあったそうな。

 そして見舞みまいきゃくへの接待せったいえたのは安藤正朋あんどうまさとも六三郎ろくさぶろう治療ちりょうえた宵五つ(午後8時頃)よりすこまえとのことであった。

 ちなみに2人の番頭ばんがしらはそのかん―、邸内ていないにて見舞みまいきゃくへの接待せったいおこなわれていた暮六つ(午後6時頃)から宵五つ(午後8時頃)までのあいだ清水屋敷しみずやしき門番所もんばんしょにて警衛けいえいたっていたそうな。

「いや、ほかにもはた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょう、それに物頭ものがしらこおり奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうらの動静どうせいについても、あきらかにせねばならぬかの…」

 重好しげよしいささか、むずかしげな表情ひょうじょうでそうつぶやいた。

 はた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょうこおり奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうもまた、物頭ものがしらおなじく「八役はちやく」であった。

「いえ、それにはおよびませぬ…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ即答そくとうした。

 これまでのながれから、池原いけはら良明よしあきら刺殺さしころしたのは小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんでほぼ間違まちがいないだろう。

 それも態々わざわざ家老かろう本多ほんだ昌忠まさただにそのつみかずくべく、昌忠まさただ代理だいりとして西川にしかわ伊兵衛いへえより受取うけとった印籠いんろう根付ねつけのうち、印籠いんろう被害者ひがいしゃである池原いけはら良明よしあきら右手みぎてにぎらせたであろうことからもそれはあきらかであった。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん昌忠まさただ代理だいりとして、西川にしかわ伊兵衛いへえより印籠いんろう根付ねつけ受取うけとった4月4日をさかい逐電ちくでん清水屋敷しみずやしきより失踪しっそうしたこともその傍証ぼうしょうとなる。

 無論むろんすべては本多ほんだ昌忠まさただ仕組しくんだわなともかんがえられ、それゆえ昌忠まさただと、あるいはその実弟じってい六三郎ろくさぶろうの「現場不在証明アリバイ」は必要ひつようかもれないが、それでも、「現場不在証明アリバイ」が必要ひつよう対象たいしょうはそこまでである。

 ほかものについてまで「現場不在証明アリバイ」は必要ひつようないようおもわれた。

 かりすべては本多ほんだ昌忠まさただ仕組しくんだわなだとしても、それにおとうと六三郎ろくさぶろうのぞいてはほかものがこの清水屋敷しみずやしきにいるとはおもえなかったからだ。

 それでも重好しげよしおのれの「現場不在証明アリバイ」はもとより、家老かろう吉川從弼よしかわよりすけ側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん、それに2人の番頭ばんがしらと6人の用人ようにんの「現場不在証明アリバイ」まで申立もうしたてたのだ。

 このうえはた奉行ぶぎょう長柄ながえ奉行ぶぎょう物頭ものがしらこおり奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうの「現場不在証明アリバイ」までは必要ひつようない。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえがそうかんがえていると、「宮内くないきょうさま…」という從弼よりすけこえがその思考しこうってはいった。

「されば小笠原おがさわら主水もんどけんにつきましても、川副殿かわぞえどのみみれましたほうよろしいのでは?」

 家老かろう從弼よりすけのその「進言アドバイス」にたいして、重好しげよしまえよりも一層いっそうむずかしい顔付かおつきとなった。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ当然とうぜん反応はんのうとして、「小笠原おがさわら主水もんどけんとは?」と問返といかえしていた。

 すると重好しげよしこたえあぐね、それをった從弼よりすけ重好しげよしわり、

「されば用人ようにん小笠原おがさわら主水もんど逐電ちくでんせしけんぞ…」

 そう断定だんてい口調くちょうこたえた。

 これには重好しげよしも、「まだそうとまったわけではあるまいによって…」とさえぎろうとした。

 だが從弼よりすけはそれでくっすることはなく、

「なれど…、久左衛門きゅうざえもんめが逐電ちくでんせしおな…、4日に小笠原おがさわら主水もんどめもまた、行方ゆくえくらましたとなれば…、これは最早もはや逐電ちくでんとしかほかには…」

 そう反論はんろんしたのであった。重好しげよし從弼よりすけのこの反論はんろんにはぐうのなかったらしく、くちつぐんでしまった。

 一方いっぽう重好しげよし從弼よりすけとのやりりをいていた川副かわぞえ佐兵衛さへえ重好しげよしくちつぐんだところで、

おなに?」

 そうくちはさんだ。

 すると從弼よりすけ川副かわぞえ佐兵衛さへえほういて、「左様さよう…」とこたえると、おどろくべき註釈ちゅうしゃく付加つけくわえた。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんど守惟もりこれ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんしたしい間柄あいだがらだと言うのである。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん逐電ちくでん失踪しっそうしたとおもわれる4月4日にその、小笠原おがさわら主水もんどもまた、行方ゆくえくらましたとなれば、成程なるほど從弼よりすけの言うとおり、逐電ちくでんかんがえるのが自然しぜんであろう。

 いや、そればかりではない。

 三卿さんきょう家老かろう本多ほんだ昌忠まさただおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶそく良明よしあきら殺害さつがいぎぬせる…、小笠原おがさわら主水もんどがそれを黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんそそのかした可能性かのうせいすらありた。

 じつを言えば、川副かわぞえ佐兵衛さへえ今回こんかい一件いっけん―、池原いけはら良明よしあきら殺害さつがい事件じけんについて、これを黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん一人ひとり仕業しわざかんがえるには躊躇ちゅうちょするものがあった。

 なにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん三卿さんきょう家臣かしんなかでも小十人こじゅうにんがしらぎないのである。

 三卿さんきょう小十人こじゅうにんがしらと言えば、幹部かんぶクラスの「八役はちやく」のした、それもおなじくしたである代官だいかん普請支配ぶしんしはい目付めつけ徒頭かちがしらのそのした位置付いちづけられる。

 そうであれば、そのよう小十人こじゅうにんがしら風情ふぜい、と言っては言葉ことばようが、その程度ていど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん一人ひとり、「八役はちやく」の頂点ちょうてん位置いちする家老かろう殺人さつじんぎぬようとするとは、どうしてもかんがにくかった。

 だが、背後はいご用人ようにんがいるとなればはなしべつである。

 用人ようにんは「八役はちやく」のなかでは家老かろう番頭ばんがしら重職じゅうしょくであった。

 その小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんそそのかした…、それならおおいにありた。

 いや、もしかしたら小笠原おがさわら主水もんど背後はいごにもまた、大物おおものひかえている可能性かのうせい充分じゅうぶんにありた。

 三卿さんきょう家老かろうめる、それも殺人さつじんぎぬせるとは、つまりはそういうことであった。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえがそうかんがえをめぐらしていると、從弼よりすけもそうとさっしたのか、さらなるおどろくべき事実じじつ打明うちあけた。

 小笠原おがさわら主水もんどなんと、旗本はたもとではないと言うのだ。

 三卿さんきょう用人ようにんと言えば、「八役はちやく」のなかでも家老かろう番頭ばんがしら重職じゅうしょくだけあって、番頭ばんがしら同様どうよう従六位じゅろくい布衣ほいやくであった。

 また、役高やくだかは400石であり、そのうえ役料やくりょうとして200俵までがく。

 それゆえ三卿さんきょう用人ようにんと言えば、旗本はたもと当主とうしゅか、あるいはその嫡子ちゃくしが「附人つけびと」として、しくは次男じなん三男さんなんが「附切つけきり」として、くものであった。

 この清水家しみずけれいるならば、福村ふくむら理大夫りだゆう正慰まさやす旗本はたもと福村ふくむら当主とうしゅであり、一方いっぽう本目ほんめ平七へいしち側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん嫡子ちゃくし、つまりは旗本はたもと嫡子ちゃくしであった。

 ちなみに側用人そばようにん用人ようにん筆頭ひっとう直属ちょくぞく上司じょうしであると同時どうじに、番頭ばんがしらうえ位置いちする非常置ひじょうち役職ポストであった。

 それゆえ三卿さんきょうなかでも田安たやすおよ一橋ひとつばしには側用人そばようにんかれておらず、ここ清水家しみずけだけにかれていた。

 それだけに三卿さんきょう側用人そばようにんともなると、従六位じゅろくい布衣ほいやくであるのは当然とうぜんとして、役高やくだか千俵せんひょうであった。

 その側用人そばようにんポストにある本目ほんめ権右衛門ごんえもん禄高ろくだかは700ひょうであるので、役高やくだか禄高ろくだか差額さがくの300ひょう権右衛門ごんえもん支給しきゅうされる。

 ともあれ、用人ようにんなかでも旗本はたもと当主とうしゅである福村ふくむら理大夫りだゆうおよ旗本はたもと嫡子ちゃくし本目ほんめ平七へいしちが「附人つけびと」として、そのポストつとめているのにたいして、井戸いど茂十郎もじゅうろう弘道ひろみち根来ねごろ茂右衛門もえもん長方ながかた近藤こんどう小八郎こはちろう義端よしただ、そして大久保おおくぼ半之助はんのすけ忠基ただもとみな旗本はたもと次男じなん三男さんなん以下いかであり、「附切つけきり」としてそのポストつとめていた。

 ちなみに以上いじょうの6人の用人ようにんには確固かっこたる「現場不在証明アリバイ」があった。

 そんななか小笠原おがさわら主水もんどだけは御家人ごけにんだと言うのである。

 御家人ごけにん従六位じゅろくい布衣ほいやく取立とりたてられるなど、

絶対ぜったいに…」

 ありない、とまでは言わないにしても、きわめてレアなケースと言えよう。

 それが小笠原おがさわら主水もんど一体いったい如何いかなる理由わけで、御家人ごけにんでありながら、従六位じゅろくい布衣ほいやく三卿さんきょう用人ようにん地位ちいにおさまったのか、川副かわぞえ佐兵衛さへえくびかしげた。

 すると、川副かわぞえ佐兵衛さへえのこの疑問ぎもんにはそれまでだまっていた側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんが「絵解えとき」をしてみせた。

「されば、小笠原おがさわら主水もんどじつ御三家ごさんけ紀州きしゅうこうつかたてまつりし小笠原おがさわら庄左衛門しょうざえもん至武ゆきたけせがれにて、それがこの江戸えど宮内くないきょうさまつかえるようになったのだ…」

 本目ほんめ権右衛門ごんえもんはそう切出きりだすと、小笠原おがさわら主水もんどについて、さらくわしい履歴キャリアについて川副かわぞえ佐兵衛さへえかたってかせた。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんどにはつねなる実姉じっしがおり、この実姉じっし旗本はたもとにして本丸ほんまる小姓こしょう組番ぐみばん日根野ひねの一學高榮いちがくたかよしもととつぎ、五男五女ごなんごじょをもうけたそうな。

 そのうち、三男さんなん一左衛門いちざえもん守吉もりよし本郷ほんごう名乗なのり、重好しげよしつかえていたのだが、この本郷ほんごう一左衛門いちざえもんが宝暦3(1753)年にくなり、しかし、一左衛門いちざえもんには当時とうじはまだ、妻子さいしすらおらず、このままでは本郷ほんごう名跡めいせき途絶とだえてしまということで、急遽きゅうきょ一左衛門いちざえもんはは実弟じっていすなわち、叔父おじ小笠原おがさわら主水もんど白羽しらはてられた。

 ただし、小笠原おがさわら主水もんど本郷ほんごう一左衛門いちざえもん叔父おじたるので、一左衛門いちざえもん養嗣子ようししとなり、本郷ほんごう名跡めいせきぐ、という使つかえない。

 そのため小笠原おがさわら主水もんどは「抱入かかえいれ」、つまりは重好しげよし当時とうじ萬次郎まんじろう個人的こじんてき雇入やといいれたうえで、本郷ほんごう名乗なのらせたのであった。

 それと同時どうじ小笠原おがさわら主水もんどこと本郷ほんごう主水もんど御家人ごけにん身分みぶんをも獲得かくとくしたのであった。

 そして小笠原おがさわらこと本郷ほんごう主水もんど清水家臣しみずかしんとして御家人ごけにん取立とりたてられてから3年後ねんごの宝暦6(1756)年のくれ当時とうじ本丸ほんまるにて九代くだい将軍しょうぐん家重いえしげひらそばとしてつかえていた小笠原おがさわら若狭守わかさのかみ信喜のぶよし実妹じつまいめとったそうな。

 これは小笠原おがさわら信喜のぶよしじつ紀伊家きいけ家臣かしん大井おおい武右衛門ぶえもん政周まさちかせがれであることに由来ゆらいする。

 すなわち、信喜のぶよし実父じっぷ大井おおい武右衛門ぶえもん本郷ほんごう主水もんど実父じっぷ小笠原おがさわら庄左衛門しょうざえもんとも紀伊家きいけ家臣かしんであり、そのうえ竹馬ちくばともであったからだ。

 その大井おおい武右衛門ぶえもん末娘すえむすめにして、小笠原おがさわら信喜のぶよし実妹じつまいそうがこのときまで…、宝暦6(1756)年まで婚家こんかつからず、そこで大井おおい武右衛門ぶえもんじつせがれ小笠原おがさわら信喜のぶよしかいして、本郷ほんごう主水もんどそうとの結婚けっこん打診だしんしたそうな。

 本郷ほんごう主水もんどにしても、このときまでずっと独身ひとりみであり、このままでは婚期こんきのがしかねず、信喜のぶよしからの打診だしんまさに「わたりにふね」であった。

 そのうえそう結婚けっこん出来できれば、ひらそばとして将軍しょうぐん家重いえしげ側近そばちかくにつかえる小笠原おがさわら信喜のぶよし義兄弟ぎきょうだい間柄あいだがらになれるというものであり、本郷ほんごう主水もんどはそのよう打算ださんはたらいて、そうとの結婚けっこん快諾かいだくしたのであった。

 こうして宝暦6(1756)年のくれ本郷ほんごう主水もんど小笠原おがさわら信喜のぶよし実妹じつまいそう祝言しゅうげんげたのであった。

 そうとの結婚けっこん本郷ほんごう主水もんど多大ただい恩恵おんけいもたらすことになった。

 その最大さいだいのものはなんと言っても、御家人ごけにんでありながら従六位じゅろくい布衣ほいやく用人ようにん取立とりたてられたことであろう。

 本郷ほんごう主水もんどは「抱入かかえいれ」ので、つまりは重好しげよし個人的こじんてきやとわれたとは言え、いきなり用人ようにん取立とりたてられたわけではない。

 まずは近習きんじゅうからのスタートであり、それが3年後の宝暦6(1756)年にひらそば小笠原おがさわら信喜のぶよし実妹じつまいめとったことから、本郷ほんごう主水もんど翌年よくねんには従六位じゅろくい布衣ほいやく用人ようにん取立とりたてられたのであった。

 そして結婚けっこん、6年目にして待望たいぼう嫡子ちゃくしである楠五郎くすごろう守玄もりはる誕生たんじょうしたのをに、主水もんどせい本郷ほんごうから旧姓きゅうせい小笠原おがさわらへともどすことにした。

 いや、それは旧姓きゅうせいふくすると言うよりは、妻女さいじょそう実家じっかせいである小笠原おがさわらへと改名かいめいする、との意識いしきであったやもれぬ。

 ともあれ主水もんどそうとのあいだ嫡子ちゃくし楠五郎くすごろう守玄もりはるをもうけたその翌年よくねんの宝暦13(1763)年に小笠原おがさわらへとせいあらためたのであった。

 これには日根野家ひねのけからも多少たしょうの、と言うよりは大変たいへん苦情クレームがあったそうな。なにしろ本郷ほんごう名跡めいせきてるも同然どうぜんであったからだ。

 しかし、それも小笠原おがさわら信喜のぶよし威光いこうもってして、日根野家ひねのけ苦情クレームせたそうな。

 このとき―、宝暦13(1763)年の時点じてんでは信喜のぶよしげん将軍しょうぐんである家治いえはるひらそばつとめていたからだ。

かる次第しだいで、本郷ほんごう、いや、小笠原おがさわら主水もんど当家とうけにて用人ようにんつとめる次第しだい相成あいなったのだ…」

 本目ほんめ権右衛門ごんえもんはそうくくった。

 御家人ごけにんでありながら従六位じゅろくい布衣ほいやくである三卿さんきょう用人ようにんつとめる…、本来ほんらいならば到底とうていかんがえられないことも、背後はいご小笠原おがさわら信喜のぶよしひかえているとなれば不思議ふしぎではなかった。

 そしてその信喜のぶよしはつい先頃さきごろまでは「大納言だいなごんさま」こと次期じき将軍しょうぐん家基いえもとそば用取次ようとりつぎとしてつかえていた。

 もしかしたら小笠原おがさわら主水もんど背後はいごにも、小笠原おがさわら信喜のぶよしひかえている可能性かのうせいすらありた。つまりは、

小笠原おがさわら信喜のぶよしこそが三卿さんきょう、それも清水しみず徳川家とくがわけ家老かろう本多ほんだ昌忠まさただめようとはかったしん黒幕くろまく…」

 というわけである。

 信喜のぶよしならば…、次期じき将軍しょうぐん家基いえもとそば用取次ようとりつぎとしてつかえていた小笠原おがさわら信喜のぶよしならば、黒幕くろまく相応ふさわしいだろう。

 だが、問題もんだい動機どうきであった。

 かり信喜のぶよし黒幕くろまくだとして、その動機どうきなんなのか、それが川副かわぞえ佐兵衛さへえにも皆目見当かいもくけんとうもつかなかった。

「やはり…、小笠原おがさわら主水もんどれい一件いっけんで、昌忠まさただうらんでいたのやもれませぬな…」

 從弼よりすけおもしたかのようにそうげた。それは、川副かわぞえ佐兵衛さへえ疑問ぎもんこたえるものでもあった。

れい一件いっけんとは?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ從弼よりすけうながした。

 それにたいして從弼よりすけはまずは重好しげよしつづいて昌忠まさただへと視線しせんけた。

川副かわぞえ佐兵衛さへえかせてもかまわないな…」

 從弼よりすけのその視線しせんはそう物語ものがたっており、一方いっぽう重好しげよしにしろ昌忠まさただにしろ、そうと気付きづいてもなにこたえなかった。つまりは黙認もくにんである。

 從弼よりすけ重好しげよし昌忠まさただ二人ふたりの「黙認もくにん」をられたと判断はんだんし、川副かわぞえ佐兵衛さへえに「れい一件いっけん」を打明うちあけることにした。

「されば小笠原おがさわら主水もんどいま用人ようにんより、側用人そばようにんへの昇格しょうかくのぞんでいたのだ…」

 從弼よりすけがそう切出きりだすと、川副かわぞえ佐兵衛さへえにはそれだけで、見当けんとうがついた。

「もしや…、それに本多ほんださま反対はんたいされた、と?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ先回さきまわりしてそうたずねると、從弼よりすけうなずいたうえで、

身共みどもとしては小笠原おがさわら主水もんど側用人そばようにんへとすすませてやってもいとおもっておったのだが…、いや、小笠原おがさわら主水もんどおのれ側用人そばようにんへの昇格しょうかく一件いっけんにつき、まずは家老かろうたる身共みども昌忠まさただとに願出ねがいで、そのむね宮内くないきょうさま取次とりついでくれるようにと、たのんだのだ…」

 そう当時とうじ様子ようす回想かいそうした。

 成程なるほど用人ようにんから側用人そばようにんへの昇格しょうかくともなれば、三卿さんきょうより公儀こうぎ幕府ばくふへとそのむねたの必要ひつようがあった。つまりは三卿さんきょう推挙すいきょ推薦すいせん必要ひつようであった。

 そこで小笠原おがさわら主水もんどとしては、三卿さんきょうたる清水しみず重好しげよし推挙すいきょ推薦すいせんるべく、まずは家老かろうはなしとおしたということだろう。

 こういうことはいきなり、「お目当めあて」の三卿さんきょうたる重好しげよしはなし持掛もちかけても、うまくいかない。

 当人とうにんよりはなし持掛もちかけられた重好しげよしとしては、どう判断はんだんしたらいのか、困惑こんわくするばかりだからだ。

 それよりは、三卿さんきょう家臣かしんなかでもその頂点ちょうてん家老かろうより、重好しげよしへと、

小笠原おがさわら主水もんど側用人そばようにんへと昇格しょうかくさせては…」

 そう取次とりついでもらったほう確実かくじつにうまくいく。

家老かろうがそうもうしておるのなら…」

 重好しげよしかならずや、そう判断はんだんしてくれるにちがいないからだ。

 もっと言えば、公儀こうぎ幕府ばくふへと推挙すいきょ推薦すいせんしてくれるにちがいない。

 それゆえ、まずは家老かろうおのれ昇格しょうかくを「陳情ちんじょう」した小笠原おがさわら主水もんど判断はんだん間違まちがってはいなかった。

 だがそこで、從弼よりすけ賛同さんどうこそられたものの、昌忠まさただには反対はんたいされてしまったということらしい。

「されば、川副殿かわぞえどのぞんじておろうが、用人ようにん役高やくだかは400石、役料やくりょうは200俵、小笠原おがさわら主水もんどは250俵取であるゆえに、いま足高分たしだかぶん150俵に役料やくりょう200俵をくわえて350俵をておる…、それが側用人そばようにんともなると、用人ようにんごと役料やくりょうこそかぬものの、その役高やくだか千俵せんひょうであるゆえに、かり小笠原おがさわら主水もんど側用人そばようにんへと昇格しょうかくたさば、足高分たしだかぶんだけでも750俵にて…」

小笠原おがさわら主水もんど殿どの側用人そばようにんへと昇格しょうかくたさば、これまでのばい以上いじょう手当てあてられると…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえあたまなか算盤そろばんはじいてみせた。

左様さよう…、そしてそれこそが昌忠まさただ反対はんたいした理由わけでもあるのだ…」

「ともうされますと?」

「されば、小笠原おがさわら主水もんどへの手当てあてすということは、それだけ、公儀こうぎ負担ふたんすことと相成あいなれば…」

 成程なるほど、と川副かわぞえ佐兵衛さへえいのれた。

 如何いかにもそのとおりであった。

 三卿さんきょう家臣かしんなかでも、「附人つけびと」と「附切つけきり」の身分みぶんにてつかえているものの「お手当てあて」、給料きゅうりょう公儀こうぎ幕府ばくふよりまかなわれる。

 そこで側用人そばようにんだが、三卿さんきょう家臣かしんなかでも家老かろう重職じゅうしょくであり、

附人つけびとちゅう附人つけびと…」

 そうんでも差支さしつかえなかろう。

 それゆえ側用人そばようにん給料きゅうりょうもまた、幕府ばくふ負担ふたんする。

 その側用人そばようにん小笠原おがさわら主水もんど昇格しょうかくさせたために、主水もんど支払しはらわれる給料きゅうりょうえるとなれば、それだけ幕府ばくふ財政ざいせい負担ふたんすことになる。

「いや、身共みどもはそこまでおもいがいたらずに、安易あんい主水もんど願出ねがいでりょうとしたのだが、ひるがえって昌忠まさただ流石さすが小納戸こなんど頭取とうどりつとめただけあって…」

 小納戸こなんど頭取とうどり将軍しょうぐんの「手許金てもときん」、つまりは小遣こづかいを管理かんりする役職ポストであり、昌忠まさただはその小納戸こなんど頭取とうどりつとめただけあって、

かね勘定かんじょう得意とくいである…」

 從弼よりすけはそう示唆しさしたのであった。いや、そこまで言ってしまっては、昌忠まさただたいする侮辱ぶじょくとなる。

かね勘定かんじょう得意とくい…」

 それはあくまで町人ちょうにん、それももっといやしい商人あきんどにとっての言葉ことばであり、武士ぶしにとっては侮辱ぶじょく、それも最大さいだい侮辱ぶじょく以外いがいなにものでもない。

 それゆえ從弼よりすけは、「小納戸こなんど頭取とうどりつとめただけあって…」とそこでめたのであった。

「いや、昌忠まさただしぶ主水もんどたいして、どうしてもおの昇格しょうかくを…、側用人そばようにんへの昇格しょうかくのぞむのであらば、先任せんにん側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん賛同さんどうるべきであろうぞ、そのうえで、本目ほんめ権右衛門ごんえもんより宮内くないきょうさまへと、おの昇格しょうかく取次とりついでもらうのがすじもうすものであろうぞ…、左様さよう追撃おいうちをかけ、つい主水もんど昇格しょうかく断念だんねんさせたのであった…」

 三卿さんきょうへの取次とりつぎにかんして言えば、家老かろうよりも側用人そばようにん適任てきにんであろう。なにしろ、三卿さんきょうへの取次とりつぎこそが側用人そばようにんおもたる職掌しょくしょうと言っても過言かごんではないからだ。

 それゆえ昌忠まさただのその主張しゅちょうまさしく正論せいろんであると同時どうじに、小笠原おがさわら主水もんどおのれ昇格しょうかく断念だんねんさせるには充分じゅうぶんであった。

 それと言うのも、本目ほんめ権右衛門ごんえもん小笠原おがさわら主水もんど側用人そばようにんへの昇格しょうかくみとめるとは到底とうていおもわれなかったからだ。

 なにしろそれは、先任せんにん側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんにしてみれば、対抗相手ライバル一人ひとりやすことにほかならないからだ。

側用人そばようにんとして、宮内くないきょうさま寵愛ちょうあいけるのはおのれ一人ひとり充分じゅうぶん…」

 そのうえあらたにもう一人ひとり側用人そばようにん誕生たんじょうさせる必要ひつようはどこにもない…、本目ほんめ権右衛門ごんえもんならばかならずや、そうかんがえるにちがいなく、小笠原おがさわら主水もんどもそれがかっていたからこそ、おのれ昇格しょうかく断念だんねんしたのであろう。

 だが、小笠原おがさわら主水もんどはそのわりに、側用人そばようにんへの昇格しょうかく断念だんねんさせた昌忠まさただうらようになったということらしい。

 そしてそれがこうじて、昌忠まさただ人殺ひとごろしのぎぬせることをおもいつき、そこでその手先てさきとして、小十人こじゅうにんがしら黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん使嗾しそうさせたということか…。

 だとしても、川副かわぞえ佐兵衛さへえには小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん関係かんけいからなかった。

 かりに、小笠原おがさわら主水もんど昌忠まさただ人殺ひとごろしのぎぬせることをおもいたとして、そのようだいそれた姦計かんけい黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん協力きょうりょくさせるとなれば、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとは余程よほどつよ紐帯ちゅうたいむすばれていなければならないだろう。

 そうでなければ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんへと姦計かんけい打明うちあけたが最期さいご昌忠まさただへと密告みっこくされるおそれがありたからだ。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえはそのてんただそうとした。

 するとそれまでは、川副かわぞえ佐兵衛さへえむねのうちをまるで忖度そんたくするかのように、むねのうちの疑問ぎもん先回さきまわりしてこたえてくれていた從弼よりすけが、何故なぜ今回こんかいかぎってだまんでしまった。

 從弼よりすけのことである。川副かわぞえ佐兵衛さへえむねかんだ疑問ぎもん気付きづかぬはずはない。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえ從弼よりすけから昌忠まさただへと視線しせんけた。

 だが昌忠まさただ川副かわぞえ佐兵衛さへえのその視線しせん気付きづくと、うつむいてしまい、從弼同様よりすけどうよう川副かわぞえ佐兵衛さへえ疑問ぎもんこたえることはなかった。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえ今回こんかいは、はっきりと疑問ぎもんくちにした。

小笠原おがさわら主水もんど殿どの黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん殿どのとは如何いか間柄あいだがらにて?かりに、小笠原おがさわら主水もんど殿どの家老かろう本多ほんだ讃岐守さぬきのかみさま逆怨さかうらみ…、それがこうじて人殺ひとごろしのぎぬせることをおもいついたとして、かるはかりごと黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん殿どのほどしたしき間柄あいだがらにて?小笠原おがさわら主水もんど殿どの黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん殿どのとは…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえは、はっきりとうた。

 だが、それでも從弼よりすけにしろ昌忠まさただにしろ、こたえあぐねていた。

 どうやら余程よほどこたにくいものらしい。

 いや、そんな二人ふたり態度たいどからして、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとの間柄あいだがらが、

「ただならぬもの…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえにはそうさっせられたが、だとしたらなおのこと、たしてどのよう間柄あいだがらなのか、たださないわけにはゆかなかった。

 やがて、重好しげよし從弼よりすけ昌忠まさただ二人ふたり家老かろうわって、川副かわぞえ佐兵衛さへえのそのいにこたえた。

 家老かろうまかすことなく、三卿さんきょうみずから、寺社じしゃやく風情ふぜい役人やくにんいにこたえようとは、それだけでもこと重大性じゅうだいせいがこれまたさっせられた。

「されば…、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんもまた、小笠原おがさわら主水もんどともに、昌忠まさただうらんでいたのだ…」

黒川殿くろかわどのまでが家老かろう本多ほんださまを?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえおもわずそう問返といかえし、重好しげよしうなずかせた。

「そは…、また一体何故いったいなにゆえに?」

「されば黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんは、おのれ降格こうかく昌忠まさただ所為せいちがいあるまいと、左様さよう逆怨さかうらみをしおっておったのだ…」

 つまりはこういうことであった。

 本多ほんだ昌忠まさただが明和8(1771)年12月に新番頭しんばんがしらより清水家老しみずかろうへと異動いどう栄転えいてんたした直後ちょくご、それとは裏腹うらはらに、清水家しみずけにて目附めつけつとめていた黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小十人こじゅうにんがしらへと異動いどうさせられたのだ。

 三卿さんきょう目附めつけから小十人こじゅうにんがしらへの異動いどう、それは左遷させんと言えた。

 三卿さんきょう屋形やかたにおける目附めつけ小十人こじゅうにんがしらとでは、目附めつけほう小十人こじゅうにんがしらよりも格上かくうえであったからだ。

 元来がんらい上昇じょうしょう志向しこうつよ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん目附めつけ皮切かわきりに、幹部かんぶである「八役はちやくりを目指めざしていた。

 それがふたけてみれば、「八役はちやくりどころか、小十人こじゅうにんがしらへの左遷させんであり、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんおおいに落胆らくたんしたことは想像そうぞうかたくない。

 だが、それだけならば黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ昌忠まさただ逆怨さかうらみすることもなかったやもれぬ。

 問題もんだい当時とうじ…、本多ほんだ昌忠まさただ清水家老しみずかろう着任ちゃくにんした直後ちょくごまで、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん相役あいやく同僚どうりょう目附めつけであった本多ほんだ六三郎ろくさぶろう長卿ながのりが「八役はちやく」である勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたしたことであった。

 本多ほんだ六三郎ろくさぶろう昌忠まさただ実弟じっていであるのだ。それゆえ

おな目附めつけでありながらおのれ小十人こじゅうにんがしらへと左遷させんさせられたのとは対照的たいしょうてきに、本多ほんだ六三郎ろくさぶろうめが八役はちやく末席まっせきとはもうせ、勘定かんじょう奉行ぶぎょうへと栄転えいてんたしたは、ひとえ兄貴あにき威光いこう賜物たまもの相違そういあるまい…」

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんがそうかんがえたのもまた、想像そうぞうかたくない。

 いや、事実じじつ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん周囲しゅういにそう吹聴ふいちょうしていたらしいのだ。

もっとも、事実じじつちがう。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんの「左遷させん」、および、本多ほんだ六三郎ろくさぶろうの「栄転えいてん」は昌忠まさただ清水家老しみずかろう着任ちゃくにんするまえ、それも一月程前ひとつきほどまえの11月のすえすでまっていたことであった。

 すなわち、昌忠まさただ前任ぜんにん清水家老しみずかろうであった永井ながい主膳正しゅぜんのかみ武氏たけうじ言出いいだしたことであった。

 永井ながい武氏たけうじ二人ふたり目附めつけ―、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ六三郎ろくさぶろうはたらきぶりをつぶさ観察かんさつするうちに、

黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん到底とうてい目附めつけにんあらず…」

 そうだんくだしたのとは対照的たいしょうてきに、本多ほんだ六三郎ろくさぶろうたいしては、

八役はちやく相応ふさわしいうつわ…」

 そう好意的こういてき評価ひょうかくだしたのであった。

 そこで永井ながい武氏たけうじ相役あいやくであった―、すでに明和8(1771)年の時点じてん清水家老しみずかろうであった吉川從弼よしかわよりすけとこのけん相談そうだんうえ重好しげよし上申じょうしんしたのであった。

 重好しげよしじつ武氏たけうじまった同意見どういけんであり、かねてより黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんはたらきぶりについてはまゆひそめるものがあり、ひるがえって本多ほんだ六三郎ろくさぶろうのそれにはおおいに感心かんしんさせられていた。

 この時点じてん永井ながい武氏たけうじ体調たいちょうくずしており、死期しきせまっていることをさとっていたのであろう、そこで置土産おきみやげとばかり、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ六三郎ろくさぶろう両名りょうめい人事じんじについて、相役あいやく吉川從弼よしかわよりすけはかったうえで、重好しげよし上申じょうしんしたのであった。

 ともあれ重好しげよしがその上申じょうし、こと人事案じんじあんれ、公儀こうぎ幕府ばくふ相談そうだんしたのであった。

 三卿さんきょう家臣かしんなかでも幹部かんぶクラスの「八役はちやく」ともなると、三卿さんきょう勝手かって発令はつれいするわけにはゆかず、公儀こうぎ幕府ばくふより発令はつれいしてもら必要ひつようがあったからだ。

 そこで重好しげよし具体的ぐたいてきには腹違はらちがいのあにである将軍しょうぐん家治いえはる相談そうだんし、それにたいして家治いえはるも「そういうことなれば…」と、これを受容うけいれ、そば用取次ようとりつぎであった松平まつだいら因幡守いなばのかみ康郷やすさとめいじて、康郷やすさとよりその人事案じんじあん発令はつれいさせたのであった。

 三卿さんきょう家臣かしん所謂いわゆる、「邸臣団ていしんだん」はそば用取次ようとりつぎ支配下しはいかにあったからだ。

 その当時とうじ―、明和8(1771)年の時点じてんそば用取次ようとりつぎ松平まつだいら康郷やすさとほかに、稲葉いなば正明まさあきら白須しらす甲斐守かいのかみ政賢まさかたがおり、家治いえはるはそのなかでも松平まつだいら康郷やすさとえらんでくだん人事案じんじあん発令はつれいさせたのであった。

 それはこのとき松平まつだいら康郷やすさともまた、隠退いんたいかんがえており、そのむね家治いえはるつたえていたので、そこで家治いえはる康郷やすさと最後さいご一仕事ひとしごとをしてもらおうとかんがえて、人事案じんじあん発令はつれいめいじたのであった。

 それが11月の晦日みそかのことであり、ちょうど永井ながい武氏たけうじ病歿びょうぼつしたであった。

 そこで家治いえはる永井ながい武氏たけうじ後任こうにんとして、本多ほんだ昌忠まさただてることにもした。

 すでに、永井ながい武氏たけうじ歿ぼっするまえ内々ないないにだが、そば用取次ようとりつぎ松平まつだいら康郷やすさとたいしておのれ後任こうにんめてくれるようたのんでいたのだ。

 三卿さんきょう家老かろう一応いちおう老中ろうじゅう支配しはい役職ポストではあったが、実際じっさいにはやはりそば用取次ようとりつぎ支配下しはいかにあった。

 そのため永井ながい武氏たけうじおのれ後任こうにん人選じんせんそば用取次ようとりつぎたのむことにしたわけだが、そのなかでも松平まつだいら康郷やすさとえらんだのはほかでもない、79とおなどしであったからだ。

 このとき武氏たけうじおのれ後任こうにんには六三郎ろくさぶろう実兄じっけい本多ほんだ昌忠まさただいのではないか、とも康郷やすさとつたえていたのだ。

 そこで康郷やすさと家治いえはるたいして、この武氏たけうじ言葉ことばいまとなっては遺言いごんをそのままつたえたのであった。

 それは家治いえはるおとうと重好しげよしより、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ六三郎ろくさぶろう両名りょうめい人事案じんじあんの「おねがい」をされるまえはなしであり、そこで家治いえはる康郷やすさとくだん人事案じんじあんめいじたその武氏たけうじくなり、そのことが翌日よくじつの12月朔日ついたち家治いえはるつたえられるや、家治いえはるは、

「これもなにかのえん…」

 そうかんがえて、康郷やすさとよりつたえられていた永井ながい武氏たけうじの「遺言いごん」にしたがい、武氏たけうじ後任こうにん清水家老しみずかろうには本多ほんだ昌忠まさただてる人事案じんじあん家治いえはる一存いちぞんにてめたのであった。

 それゆえ、まずはじめに本多ほんだ昌忠まさただ人事案じんじあんが、すなわち、12月8日に本多ほんだ昌忠まさただ清水家老しみずかろうとする人事案じんじあん発令はつれいされ、その翌日よくじつの12月9日―、昌忠まさただ家老かろう着任ちゃくにん家老かろうとして清水屋敷しみずやしきあしれたその翌日よくじつに、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんの「左遷させん」と本多ほんだ六三郎ろくさぶろうの「栄転えいてん」、この好対照こうたいしょうをなす人事じんじ発令はつれいされたのであった。

 それゆえ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんの「左遷させん」はだんじて、本多ほんだ昌忠まさただ責任せきにんではなく、ひとえに、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん自身じしんせめする。

 だがこの場合ばあい事実じじつはどうでもかった。

おのれ左遷させん本多ほんだ昌忠まさただ所為せい…」

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんかたくそうしんみ、昌忠まさただ逆怨さかうらみした事実じじつ大事だいじ、いや、問題もんだいであった。

 側用人そばようにんけんでやはり本多ほんだ昌忠まさただうらみをいていた小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん急接近きゅうせっきんしたのであった。

「いや、ただ急接近きゅうせっきんしただけなれば、それほどがいはなかったやもれぬな…」

 重好しげよしおもわせぶりにそうげた。

「とおおせられますると?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ乗出のりだして、そのさきうながした。

「されば黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんだがの、この重好しげよし目附めつけより小十人こじゅうにんがしらへと格下かくさげするまえはなしだが…、それも三月みつき程前ほどまえの9月頃…、9月の下旬げじゅんであったか…、久左衛門きゅうざえもんめがおい黒川くろかわ内匠たくみ岩本いわもと内膳ないぜんむすめめとったのだ…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえはそれをいておもわずまるくしたものである。

 するとその様子ようすった重好しげよしが、

岩本いわもと内膳ないぜんなれば、そなたもぞんじておろう?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえにそうみずけたことから、佐兵衛さへえ勿論もちろんうなずいてせた。

 岩本いわもと内膳ないぜんこと内膳正ないぜんのかみ正利まさとし一橋ひとつばし治済はるさだ愛妾あいしょうとみかた実父じっぷである。

 それだけではない、一橋ひとつばし嫡子ちゃくし豊千代とよちよ外祖父がいそふにもたる。とみ治済はるさだとのあいだ豊千代とよちよしたからだ。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえがそれにおもいをいたすと、重好しげよしもそうとさっしたのであろう、

「いや…、このときはまだ、富殿とみどの民部みんぶ殿どの側妾そくしょうとなられたばかりにて、豊千代とよちよぎみしてはおらなんだ…」

 重好しげよしはそう補足ほそくした。

 たしかにそうであったと、川副かわぞえ佐兵衛さへえはそうと気付きづいた。

 豊千代とよちよまれたのは安永2(1773)年10月のことであり、してみると、とみ家斉いえなり愛妾あいしょうとなってから2年後ねんごであった。

「いや…、小笠原おがさわら主水もんどめは昌忠まさただうらみをく、さしずめ同士どうしとももうすべき黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんさら親交しんこうふかめようとでもおもうたのであろうな…、主水もんどめは久左衛門きゅうざえもんめととも度々たびたびとう屋形やかた抜出ぬけだしてはおの屋敷やしきに…、牛込うしごめ門外もんそと逢坂おうさか屋敷やしきまねいては、おそらくはさかずきでもわしていたのであろうぞ…」

「そはまことでござりまするか?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえけっして天下てんが三卿さんきょう清水しみず重好しげよし言葉ことばうたがわけではなかったが、しかしそれでもあまりに詳細しょうさい証言しょうげんであったので、どうして二人ふたり行動こうどうをそこまでっているのか、そのてんたださずにはおれなかった。

 一方いっぽう重好しげよしにしても川副かわぞえ佐兵衛さへえのこの反応はんのう予期よきしていたのであろう、

「されば目附めつけ小笠原おがさわら主水もんどめと黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんめの動静どうせい探索さぐらせていたのだ…、いや、以前いぜんより主水もんどめが久左衛門きゅうざえもんめをともない、度々たびたびとう屋形やかた抜出ぬけだしていることは目附めつけあいだ問題もんだいになっていたゆえに…」

 そのわけ解説かいせつしてみせた。

目附めつけ…、とおおせられますると、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん殿どのおよ本多ほんだ六三郎ろくさぶろう殿どの後任こうにん目附めつけにて?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえはやはり、たしかめるようたずねた。

 すると重好しげよし満足気まんぞくげに、「如何いかにもそのとおりぞ」と首肯しゅこうするや、それまで番頭ばんがしらもと組頭くみがしらつとめていた伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう勝平かつひら栗原くりはら金四郎きんしろう利直としなお二人ふたり後任こうにん目附めつけ抜擢ばってきしたことを川副かわぞえ佐兵衛さへえおしえた。

 三卿さんきょう屋形やかたつかえる「八役はちやく」のなかでも番頭ばんがしら番方ばんかた武官ぶかんの|最上位《トップに位置いちし、定員ていいん家老かろうおなじく二人ふたりであった。

 明和8(1771)年までは、ここ清水屋敷しみずやしきにて番頭ばんがしらつとめていたのはいま側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもんいまでも番頭ばんがしら近藤こんどう助八郎すけはちろう二人ふたりであり、その番頭ばんがしらもとには二人ふたり組頭くみがしらはいされ、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりはこのうち、本目ほんめ権右衛門ごんえもん配下はいか組頭くみがしらであった。

 それゆえ、明和8(1771)年に本目ほんめ権右衛門ごんえもん側用人そばようにんへと栄転えいてんたしたのと前後ぜんごして、その配下はいか組頭くみがしらである伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりもまた、目附めつけへと栄転えいてんを、それも大栄転だいえいてんたしたというわけだ。

 重好しげよし伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう両名りょうめい才能さいのう評価ひょうかして目附めつけ取立とりた手他のであり、それにたいして伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうにしろ、栗原くりはら金四郎きんしろうにしろ、そんな重好しげよし期待きたいこたえるべく、目附めつけとしての職務しょくむすなわち、屋形やかたつかえるもの監察かんさつ綱紀こうき取締とりしまりに邁進まいしんし、その過程かてい二人ふたり小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん急接近きゅうせっきんし、のみならず、清水屋敷しみずやしき度々たびたび抜出ぬけだしてはどこぞへと繰出くりだしている事実じじつ二人ふたり突止つきとめ、そこでこれからどうすべきか、まずは重好しげよし判断はんだんあおいだ次第しだいであった。

 三卿さんきょう目附めつけ三卿さんきょう屋形やかたつかえる家臣かしん監察かんさつ職掌しょくしょうとしているとは言え、徹底的てっていてき監察かんさつこうとすれば、そのまえ三卿さんきょう諒承りょうしょう必要ひつようがあったからだ。

 そこで伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりもまた、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい徹底的てっていてき監察かんさつくにさいして、三卿さんきょうたる重好しげよし諒解りょうかいもとめたのであった。

 ことに小笠原おがさわら主水もんどは「八役はちやく」のなかでも家老かろう番頭ばんがしらぐ、従六位じゅろくい布衣ほいやくである用人ようにんという要職ようしょくにあり、慎重しんちょう対応たいおうもとめられた。

 それにたいして重好しげよし勿論もちろん小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい徹底的てっていてき監察かんさつくことに異存いぞんはなく、

仮令たとい用人ようにんであろうとも遠慮えんりょはいらぬ。仮借かしゃくなく監察かんさつせよ…」

 重好しげよし伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう両名りょうめいにそうげて、その背中せなかしたそうな。

 こうして伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい徹底的てっていてき監察かんさつき、その結果けっか小笠原おがさわら主水もんどゆるしもなく黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんともない、清水屋敷しみずやしき抜出ぬけだしては牛込うしごめ門外もんそと逢坂おうさかにある自邸じていまねいてはもんまる夕方ゆうがたまで酒盛さかもりにきょうじていたらしいのだ。

 牛込うしごめ門外もんそと逢坂おうさかにある小笠原おがさわらてい町屋まちやである船河原ふながわらちょうまさはなさきにあり、そこで町屋まちや一角いっかく蕎麦屋そばや二階にかい借切かりきり、そこを「見張所みはりじょ」とした。そこからだと小笠原おがさわらてい見渡みわたせたからだ。

 伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりはその「見張所みはりじょ」から、小笠原おがさわらてい様子ようすうかがい、結果けっか夕方頃ゆうがたごろ千鳥足ちどりあしてくる小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん姿すがたとらえたのだ。それも一度いちど二度にどではない、度々たびたびわたって、であった。

 これで最早もはや二人ふたり日中にっちゅうから酒盛さかもりきょうじていたのはうたがようがなかった。

 日中にっちゅう本来ほんらいならば三卿さんきょう屋形やかためて仕事しごとをしなければならない用人ようにん小十人こじゅうにんがしら勝手かって屋形やかた抜出ぬけだしては酒盛さかもりきょうじる…、これだけでも厳罰げんばつあたいすると言えるであろう。

 もっとも、それだけなら重好しげよし大目おおめることにした。と言うよりは、

最早もはや、どうでもい…」

 小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり見限みかぎることにしたのだ。

 だが、それが安永2(1773)年をさかいに、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとの関係かんけい変化へんかきざしがえてたと言うのである。

 それまでは小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんまわすことがおおかったのだが、それが安永2(1773)年をさかいに、それも10月をさかいに、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小笠原おがさわら主水もんどまわすことがおおくなったのだ。

 具体的ぐたいてきには牛込うしごめ門外もんそと逢坂おうさかにある小笠原おがさわら主水もんど屋敷やしきまねかれるばかりであった黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんが、安永2(1773)年10月をさかいに、今度こんどぎゃく濱町はまちょうにある久左衛門きゅうざえもん実家じっかへと小笠原おがさわら主水もんどまねようになったのだ。

 そのころ…、安永2(1773)年10月にはいっても、目附めつけ伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたり流石さすが頻度ひんどらしたものの、それでも相変あいかわらず小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん動静どうせいには注意ちゅういはらっていた。

 そこで今度こんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん小笠原おがさわら主水もんど濱町はまちょうにある実家じっかへとまねようになったことが判明はんめいした。

 この変化へんか伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうにしろ、栗原くりはら金四郎きんしろうにしろ、なにかるものをおぼえた。

 いや、そのよう生易なまやさしいものではない、重大じゅうだい危機感ききかんおぼえた。それは目附めつけとしての本能ほんのうからるものであった。

 そこで伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたり重好しげよしたいしてふたたび、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい徹底的てっていてき監視かんしくことを進言アドバイスしたのであった。

 伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんへの監視かんしゆるめたのはひとえに、重好しげよしめいによるものであった。

最早もはや、どうでもい…」

 重好しげよし小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりをそう見限みかぎると、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりたいしても、

「このうえ監察かんさつ最早もはや不要ふよう…」

 そう申渡もうしわたしたのであった。

 それゆえ伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたり小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめいへの徹底的てっていてき監視かんしこそ解除かいじょしたものの、それでも完全かんぜん監視かんし解除かいじょしたわけではなく、

おりれ…」

 その動静どうせい注意ちゅういはらつづけ、どうやらそれがこうそうしたようである。

 重好しげよし伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう先見せんけんめいめると同時どうじに、あらためて小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめい徹底的てっていてき監視かんしめいじたのであった。

 だが、今回こんかいむずかしいものであった。それと言うのも、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん実家じっかがある濱町はまちょうあた一面いちめん武家ぶけ屋敷やしきであり、それゆえ、「見張所みはりじょ」をもうけるのはむずかしかったからだ。

 そして「見張所みはりじょ」をもうけられないことには、徹底的てっていてき監視かんし不可能ふかのうであった。

 そうである以上いじょう、これまでどおり、二人ふたりあとをつけるのが精一杯せいいっぱいであった。

 伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろうはそのてん重好しげよし上申じょうしんし、それにたいして重好しげよしも、そうである以上いじょう伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたり無理むりをさせられずに、それでしとした。

 こうして、徹底的てっていてき監視かんしには程遠ほどとおい、つまりはいままでどおりのゆる監視かんしつづけられたわけだが、それでもこれもまた、こうそうした。

 すなわち、としけた安永3(1774)年、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん別行動べつこうどうようになったのだ。

 小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ相変あいかわらず勝手かって屋形やかた抜出ぬけだすことにわりはないものの、それでも小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんともなわれて、濱町はまちょうにある黒川くろかわ屋敷やしきへとあしはこぶのではなく、単身たんしん表六番町おもてろくばんちょうへとかった。

 一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんもまた、単身たんしん実家じっかがある濱町はまちょうへとあしばしたかとおもうと、虎ノ御門とらのごもんないへとあしけることもあった。

 小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんとが別行動べつこうどうることから、そこで伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう主水もんどの、栗原くりはら金四郎きんしろう久左衛門きゅうざえもんの、夫々それぞれ、そのあとをつけて判明はんめいした事実じじつであった。

 いや、判明はんめいしたのはそこまでであった。

 たとえば伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう場合ばあい小笠原おがさわら主水もんど表六番町おもてろくばんちょうにある屋敷やしきはいるところまでは見届みとどけたものの、その屋敷やしきだれ屋敷やしきであるかまではからなかった。

 これで屋敷やしき門前もんぜん表札ひょうさつでもかっていれば、だれ屋敷やしきか、すくなくとも苗字みょうじぐらいは把握はあく出来できたところだが、生憎あいにく武家ぶけ屋敷やしき表札ひょうさつかっていなかった。

 おなじことは栗原くりはら金四郎きんしろうにもまり、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん虎ノ御門内とらのごもんないにある屋敷やしきはいるところまでは見届みとどけたものの、そこまでであった。

 これで周囲しゅうい町屋まちやでもあれば、町人ちょうにんだれ屋敷やしきかと、聞込ききこみをかけることも可能かのうであったが、やはりこちらも生憎あいにくと、表六番町おもてろくばんちょうにしろ、虎ノ御門内とらのごもんないにしろ、周囲しゅうい町屋まちやはなく、あた一面いちめん武家地ぶけちであった。これでは町人ちょうにん聞込ききこみをかけるという使つかえない。

 そこで伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろうはとりあえず、夫々それぞれ屋敷やしき位置いち地図ちずとしてしたためたのだ。

 そして伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう夫々それぞれ、その地図ちず重好しげよし捧呈ほうていしたそうな。

 結果けっか、それがこうそうした。

 すなわち、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうしたためた地図ちずだが、表六番町おもてろくばんちょうどおりでも、さら禿小路かむろこうじ突当つきあたりであり、それで重好しげよしにはピンとるものがあった。

「これは…、小笠原おがさわら若狭わかさ屋敷やしきではあるまいか…」

 小笠原おがさわら若狭わかさこと若狭守わかさのかみ信喜のぶよしはこのとき…、安永3(1774)年には小笠原おがさわら信喜のぶよし本丸中奥ほんまるなかおくにて、ひらそばとして将軍しょうぐん家治いえはるつかえていたのだ。

 三卿さんきょうである清水しみず重好しげよし将軍家ファミリー一員いちいんとして、平日へいじつ毎日まいにち登城とじょうゆるされているであり、しかも中奥なかおく詰所つめしょがあるために、中奥なかおく事情じじょういやでもつうずる。

 中奥なかおくを「職場しょくば」とする役人やくにんの「住所じゅうしょ」についてもその延長線上えんちょうせんじょうにあり、しかもひらそばと言えば、中奥役人なかおくやくにん筆頭ひっとうである。

 そのひらそばの「住所じゅうしょ」とあらば、重好しげよしとて把握はあくしていた。

 しかも小笠原おがさわら信喜のぶよし小笠原おがさわら主水もんど義兄ぎけいたるのだ。

 これで最早もはや小笠原おがさわら主水もんどあしはこんだ屋敷やしき小笠原おがさわら信喜のぶよしのそれであるのは間違まちがいない。

 一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんあしはこんだ屋敷やしきだが、虎ノ御門内とらのごもんないなかでも潮見しおみざかうら霞ヶ関かすみがせき中間ちゅうかん地点ちてんにあるとのことで、

「これは…、岩本いわもと主膳しゅぜん屋敷やしきではあるまいか…」

 重好しげよしはそうたりをつけた。

 このとき―、安永3(1774)年の時点じてんでは岩本いわもと内膳ないぜんこと内膳正利ないぜんまさとし本丸中奥役人ほんまるなかおくやくにんなどではなく、西之丸にしのまる目附めつけであった。

 それゆえ本来ほんらいならば、そのよう岩本正利いわもとまさとしの「住所じゅうしょ」などよしもないはずであった。

 だが、正利まさとしちち岩本帯刀正房いわもとたてわきまさふさ重好しげよしの、と言うよりは家治いえはる重好しげよし兄弟きょうだい祖父そふにして八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねの「おり」であり、

「それゆえに、虎ノ御門内とらのごもんないという一等地いっとうち屋敷やしきあたえられたのであろう…」

 というのがもっぱらの評判ひょうばんであった。

 虎ノ御門内とらのごもんないと言えば、おも大名だいみょう屋敷やしき立並たちなら空間エリアであり、それが一介いっかい旗本はたもと、それも紀州きしゅうより吉宗よしむね付随つきしたがって江戸えどては旗本はたもと取立とりたてられた、わば新参しんざん旗本はたもとぎない岩本正房いわもとまさふさに、その一等地いっとうちともぶべき虎ノ御門内とらのごもんない屋敷やしきあたえられたのは成程なるほど噂通うわさどおり、ひとえとき将軍しょうぐん吉宗よしむね寵愛ちょうあいによるものであろう。

 岩本正房いわもとまさふさ虎ノ御門内とらのごもんない屋敷やしきあたえられたのは享保9(1724)年のことであり、まだその時分じぶんには重好しげよしまれてはいない。

 だが、かるうわさ代々だいだい本丸中奥ほんまるなかおくにて語継かたりつがれており、それゆえ重好しげよしみみにしたことがあり、そこで重好しげよしには地図ちずてピンと来るものがあった。

 虎ノ御門内とらのごもんない立並たちなら屋敷やしきなかでも、潮見しおみざかうら霞ヶ関かすみがせき中間ちゅうかん地点ちてんと言うだけでは、手掛ヒントけていた。

 だが、栗原くりはら金四郎きんしろうはその地図ちずに、

大名だいみょう屋敷やしきにしてはいささせまく、旗本はたもと屋敷やしきか…」

 との手掛ヒントをも書込かきこんでくれていたので、それで重好しげよしは、岩本いわもと屋敷やしき相違そういあるまいと、ピンと次第しだいである。

 岩本正房いわもとまさふさ虎ノ御門内とらのごもんないあたえられた屋敷やしきひろさはおおよそ、950坪程度ていどであり、成程なるほど大名だいみょう屋敷やしきとしては手狭てぜまと言えよう。それよりは旗本はたもと屋敷やしきかんがえるのが自然しぜんであった。

 そして、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんおい黒川くろかわ内匠たくみ岩本正利いわもとまさとし三女さんじょ山尾やまおめとっていることも、その傍証ぼうしょうとなる。

 ともあれ、こうして小笠原おがさわら主水もんど義兄ぎけい小笠原おがさわら信喜のぶよしもとへと、一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんおい内匠たくみしゅうとたる岩本正利いわもとまさとしもとへと、それぞれあしはこんでいることが判明はんめいしたわけだが、問題もんだいはその目的もくてきであった。

 小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん一体いったいなん目的もくてきがあって、夫々それぞれ義兄ぎけいや、あるいはおいしゅうともとへとあしはこんでいるのか、それが重好しげよしにはからず、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろうにしてもそれは同様どうようであった。

 ともあれ重好しげよし引続ひきつづき、小笠原おがさわら主水もんどおよ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめいの「動向どうこう監視かんし」を伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろうめいじたのであった。

 するとそれから一週間後いっしゅうかんごうごきがあったそうな。

 なんと、小笠原おがさわら主水もんど小笠原おがさわら信喜のぶよし黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん岩本正利いわもとまさとし一堂いちどうかいしたのであった。

 そのもいつものように、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう小笠原おがさわら主水もんどの、栗原くりはら金四郎きんしろう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんの、夫々それぞれそのあとをつけていたのだが、小笠原おがさわら主水もんど小笠原おがさわら信喜のぶよしを、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん岩本正利いわもとまさとしを、夫々それぞれともない、深川ふかがわ船宿ふなやどにて落合おちあったのだ。

 畢竟ひっきょう伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう落合おちあうことになったわけで、まさか落合おちあうことになろうとはと、伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうにしろ、栗原くりはら金四郎きんしろうにしろ、たがいにそうおもったそうだ。

 さて、小笠原おがさわら主水もんどら4人は船宿ふなやど屋形船やかたぶね仕立したてて、川面かわもへとえた。

 こうなっては伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろうつべき手当てあてがつからない。

 やはり屋形船やかたぶね仕立したてて、小笠原おがさわら主水もんどらをせた屋形船やかたぶね近付ちかづくというもあったが、それで屋形船やかたぶねなか様子ようすかるわけではない。

 もっと一般的オーソドックス手法しゅほうとして、船頭せんどうかねにぎらせるというがあった。

 船頭せんどうならば、屋形やかたなかでどのよう会話かいわわされたのか、完全かんぜんにではないにしても、断片的だんぺんてきにはみみにしているものとおもわれるからだ。

 だがこれも、現実的げんじつてきではなかった。それと言うのも船頭せんどうがいして自尊心じそんしんたかく、かねではころばない。下手へたかねにぎらせようとすれば、そのことを船宿ふなやどあるじに、あるいはおのれせたきゃくにそのことをぶちまけるともかぎらない。

 そこで伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりはとりあえず、小笠原おがさわら信喜のぶよしおよ岩本正利いわもとまさとし人相にんそう描写スケッチした。

 伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうにしろ、栗原くりはら金四郎きんしろうにしろ、小笠原おがさわら信喜のぶよしおよ岩本正利いわもとまさとし両者りょうしゃとはったことがないのでそのかおらず、それゆえ可能性かのうせいとしてはかぎりなくひくいだろうが、それでもねんため船宿ふなやどまで小笠原おがさわら主水もんどともなったもの伊丹いたみ六三郎ろくさぶろうが、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんともなったもの栗原くりはら金四郎きんしろうが、夫々それぞれその人相にんそう描写スケッチし、重好しげよしにその描写スケッチ画をもらうことにしたのだ。重好しげよしならば、信喜のぶよしかおも、正利まさとしかおっているはずであったからだ。

 たして伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたり重好しげよしたいして、船宿ふなやど一件いっけんつたえたうえで、描写スケッチ画をもらった。

 すると重好しげよしはそれが小笠原おがさわら信喜のぶよし岩本正利いわもとまさとしであるとたしかめられ、これで完全かんぜんに、信喜のぶよし正利まさとしであることが裏付うらづけられた。

 だが屋形船やかたぶね如何いかなる会話かいわわされたのか、そこまではからず、そのてんについて伊丹いたみ六三郎ろくさぶろう栗原くりはら金四郎きんしろう二人ふたりちからおよばなかったことを重好しげよしびたのであった。

 それにたいして重好しげよし勿論もちろん二人ふたり力不足ちからぶそくめるよう真似まねはせず、それどころかその「健闘けんとうぶり」をたたえたものであった。

 それに、屋形船やかたぶね如何いかなる会話かいわわされたのか、それはもなく見当けんとうくことになった。

 それからしばらくして、重好しげよしはいつものよう登城とじょうし、中奥なかおくにある三卿さんきょう詰所つめしょ所謂いわゆるひかえ座敷ざしきめるとぐに将軍しょうぐん家治いえはるばれ、そして家治いえはるより家臣かしん小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめいの「転職とらばーゆ」について打診だしんけた。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり清水しみずより一橋ひとつばしへと、「転職《とらばーゆ》」したいと言うのである。

 重好しげよし家治いえはるよりそうかされて、屋形船やかたぶねなかわされた会話かいわ中身なかみについて見当けんとうがついたそうな。

 三卿さんきょう家臣かしん人事じんじそば用取次ようとりつぎ専管せんかんであり、しかし、小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、そば用取次ようとりつぎとの「パイプ」があるわけもなく、そこで小笠原おがさわら主水もんど義兄ぎけい小笠原おがさわら信喜のぶよしたよることにしたのであろう。

 信喜のぶよしひらそばであり、そのひらそば筆頭ひっとうこそがそば用取次ようとりつぎであるので、信喜のぶよしよりそば用取次ようとりつぎへと「転職とらばーゆ」のけん取次とりついでもらおうというわけである。

 一方いっぽう清水しみずより一橋ひとつばしへと実際じっさいに「転職とらばーゆ」をたすにさいしては、そば用取次ようとりつぎともに、三卿さんきょう意向いこうもかなり反映はんえいされる。

 つまり、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりがどんなに、清水家しみずけより一橋ひとつばしへと「転職とらばーゆ」をのぞんでいたとしても、そのうえそば用取次ようとりつぎもその要望ようぼう聞届ききとどけてくれたとしても、受容うけいさき一橋ひとつばしが、この場合ばあい当主とうしゅ治済はるさだ小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり受容うけいれるつもりがなければ、そば用取次ようとりつぎとしても、「転職とらばーゆ」を実現じつげんしてやることはむずかしい。

 そこで一橋ひとつばしの「工作こうさく」を黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんになうことになったのであろる。

 黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんおい内匠たくみ、その妻女さいじょ山尾やまお、そして山尾やまお実父じっぷ岩本正利いわもとまさとしかいせば、一橋ひとつばしとパイプをきずくことが可能かのうであったからだ。

 なにしろ正利まさとし次女じじょにして、山尾やまおうえあねとみこそは、治済はるさだ愛妾あいしょうであり、そのうえ治済はるさだとのあいだ嫡子ちゃくし豊千代とよちよまでもうけていたからだ。それも安永2(1773)年の10月に、である。

 かる次第しだいで、安永2(1773)年10月をさかい小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりきゅう別行動べつこうどうようになったのは転職とらばーゆため地均じならしであり、屋形船やかたぶねなかでもそれについて具体的ぐたいてき話合はなしあいがたれたのであろうと、重好しげよしはこのときになってようやくに合点がてんがいったそうな。

 と同時どうじに、重好しげよし家治いえはるたいして、

小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり一橋ひとつばし鞍替くらがえしたいのなら、どうぞ随意ずいいに…」

 ようきにしてくれと、そんなげやりな態度たいどしめしたのだ。

 重好しげよしとしては、すで小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり完全かんぜん見限みかぎっており、そんな二人ふたり一橋ひとつばしへと「転職とらばーゆ」をのぞんでいるとあらば、重好しげよしにしても好都合こうつごうであったからだ。

 だがさと家治いえはる重好しげよしのそのげやりな態度たいどかりをおぼえたのであろう、

小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん、この両名りょうめいとのあいだなにかあったのではあるまいか?」

 家治いえはる重好しげよしにそうただしたそうな。

 さと家治いえはるである。誤魔化ごまかしはきかないだろうと、もとよりそう観念かんねんした重好しげよし正直しょうじき打明うちあけた。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんどについては用人ようにんから側用人そばようにんへの昇進しょうしんのぞんでいたにもかかわらず、それをはばまれ、現状げんじょう維持いじ用人ようにんとどまらざるをなかったことで、一方いっぽう黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん目附めつけより「八役はちやくりをのぞんでいたものの、それがふたければ小十人こじゅうにんがしらへの左遷させんであり、かる次第しだい小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり清水家しみずけでの奉公ほうこう嫌気いやけし、「新天地しんてんち」である一橋ひとつばしでやりなおそうとしているつもりではと、重好しげよしあに家治いえはるにそう打明うちあけたのであった。

 すると家治いえはる小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめいおのれ人事じんじかんして不満ふまんっているであろうことは薄々うすうすだがさっしてはおり、こうしてあらためて重好しげよしよりはっきりとかされたことで、

かる次第しだい他家たけ奉公ほうこうしようなどとはしからん…」

 家治いえはる小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん両名りょうめいの「転職とらばーゆ」をみとめなかったのである。

 だがそれで問題もんだい解決かいけつしたわけではない。いや、それどころか問題もんだいかえってこじれたと言うべきか。

 なにしろ小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、この清水家しみずけにてつかえようとの意欲モチベーションにはけていたからだ。はっきり言って、やるがゼロであった。

 そのよう二人ふたり無理むりにこの清水家しみずけとどまらせてもいことは何一なにひとつない。

 それどころか悪心あくしんこす危険性きけんせいすらありた。

「いや、その危惧きぐ的中てきちゅうしたのやもれぬな…」

 重好しげよしとお目付めつきをしてポツリとそうらした。

「それこそが、家老かろう本多ほんださま人殺ひとごろしのぎぬせることだと?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえたしかめるようたずねると、重好しげよしうなずいた。

 たしかにそうかんがえれば辻褄つじつまう。

 だが問題もんだい動機どうきである。

 小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、おのれ境遇きょうぐう不満ふまんき、しかもそれが、

家老かろう本多ほんだ昌忠まさただ所為せい…」

 そうかたしんじてうたがわず、そこで昌忠まさただ一矢いっしむくいようと、いや、実際じっさいにはそのような、「お上品じょうひん」なものではなく、いやがらせをしようとしたのは理解りかい出来できる。

 しかし、その「いやがらせ」にも程度レベルがある。

 人殺ひとごろしのぎぬせるともなると、完全かんぜんに、「いやがらせ」の程度レベルえていた。

 たしかに、ねらどおり、昌忠まさただ人殺ひとごろしのぎぬせることが出来できれば、昌忠まさただ決定的けっていてき打撃だげきあたえることが出来できるであろう。

 それこそ比喩ひゆではなしに、その命脈めいみゃく断切たちきることが出来できる。

 なにしろ、被害者ひがいしゃ池原いけはら良明よしあきら将軍しょうぐん家治いえはる寵愛ちょうあいあつおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶせがれなのである。

 そのよう良明よしあきらころしたとなれば、仮令たとえ三卿さんきょう家老かろういえど無事ぶじではむまい。

 厳密げんみつには刑罰けいばつではない切腹せっぷくゆるされればほうで、下手人げしゅにん、いや、埋葬まいそうさえもゆるされぬ死罪しざい獄門ごくもんしょされる危険性リスクさえありた。

 だが、危険性リスクと言えば、

昌忠まさただ人殺ひとごろしのぎぬせる…」

 その姦計かんけいそのものが失敗しっぱいする危険性リスクもありいままさにその危険性リスクひんしていた。

 そしてその場合ばあいには小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、間違まちがいなく切腹せっぷくゆるされず、それどころか埋葬まいそうすらもゆるされない死罪しざい獄門ごくもんあるいははりつけ最悪さいあく鋸挽のこぎりびきしょされる危険性リスクさえありた。

 小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、

昌忠まさただ人殺ひとごろしのぎぬせる…」

 その姦計かんけいには、そのよう危険性リスクがあることぐらいは充分じゅうぶん承知しょうちしていよう。

 にもかかわらず、かる姦計かんけい実行じっこううつしたとなれば、

昌忠まさただへのいやがらせ…」

 それだけでは動機どうきとしては不十分ふじゅうぶんであろう。

 それに時間とき問題もんだいもある。

 すなわち、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん昌忠まさただうらみを確固かっこたるものにさせたのは、一橋ひとつばしへの「転職とらばーゆ」の希望きぼうくだかれた安永3(1774)年のこととおもわれる。

 だとしたら、おそくとも安永4(1775)年にはかる姦計かんけいめていなければおかしいだろう。

 かりに、種々しゅじゅ仕掛しかけ時間ときがかかるとしてもだ。

 にもかかわらず、何故なにゆえいま―、安永8(1779)年まで時間ときいたのか、それもまた、川副かわぞえ佐兵衛さへえには疑問ぎもんであった。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえがそんなことをかんがえていると、そのおもいがとう昌忠まさただつうじたのであろうか、

「もしや…、民部卿みんぶのきょうさまそそのかされたのやもれぬ…」

 昌忠まさただはサラリとした口調くちょうじつ重大じゅうだいなことをくちにした。

 民部卿みんぶのきょうさま…、それが三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだしているのはあきらかであったが、しかし、川副かわぞえ佐兵衛さへえ理解りかい追付おいつかず、

「えっ?」

 おもわずそう聞返ききかえしていた。

 すると昌忠まさただは、

小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさまそそのかされたのやもれぬ…、身共みども人殺ひとごろしのぎぬせよ…、とでも」

 丁寧ていねい言直いいなおした。

 するとこれには重好しげよしも、「これ、ひかえよ」とせいしたものの、しかしその口調くちょうつよいものではなかった。

 昌忠まさただもそうとさっして、主君しゅくん重好しげよし言葉ことば一応いちおう叩頭こうとうして恐縮きょうしゅく態度ポーズってはせたものの、それはあくまで態度ポーズぎず、めることなくさきつづけた。

先頃さきごろおそおおくも大納言だいなごんさま薨去こうきょあそばされた…」

 昌忠まさただはそう切出きりだした。

 たしかに、これより2ヶ月程前ほどまえの2月に大納言だいなごんさまこと次期じき将軍しょうぐんであった家基いえもと歿ぼっした。

「されば大納言だいなごんさまわる次期じき将軍しょうぐんめねばならぬが…」

 昌忠まさただはそこで言葉ことば区切くぎると、重好しげよしほうへと視線しせんけた。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえもその視線しせん意味いみするところは容易よういさっせられた。

「されば次期じき将軍しょうぐん最右翼さいうよく宮内卿くないきょうさまでござりまするな…」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ昌忠まさただのその視線しせん的確てきかく代弁だいべんしてみせた。

 すると昌忠まさただは、如何いかにも「そのとおりだ」と言わんばかりにふかうなずいた。

 いや、昌忠まさただばかりではない、川副かわぞえ佐兵衛さへえのぞいて、そのにいたすべてのものが、それも同時どうじうなずいた。重好しげよしでさえもそうであった。

 それはけっして追従ついしょうではない。

 なにしろ、重好しげよし将軍しょうぐん家治いえはる腹違はらちがいとはもうおとうとであり、先頃さきごろくなった次期じき将軍しょうぐん家基いえもと叔父おじたるのだ。

 それゆえ血筋ちすじからかんがえれば、家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんと言えば、重好しげよしいてほかにはかんがえられなかった。

「だが、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさまもやはり次期じき将軍しょうぐんねろうておるよしにて…」

 それなら川副かわぞえ佐兵衛さへえうわさとしてだが、みみにはしていた。

 一橋ひとつばし治済はるさだもまた、重好しげよしおなじく三卿さんきょうであり、しかも家治いえはる重好しげよし兄弟きょうだいおなじく、八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねまごである。

 それゆえ、これで重好しげよしがいなければ治済はるさだ次期じき将軍しょうぐんの「おはち」がまわってたことであろう。

「そのよう一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさまにとって宮内卿くないきょうさままさうえなんとやら…、さりとてまさかに宮内卿くないきょうさま闇討やみうちするわけにもまいらず…、なれど宮内卿くないきょうさまたとえばだが、おおきな不祥事ふしょうじでもこさばはなしべつだがの…」

 昌忠まさただにそこまで言われ、川副かわぞえ佐兵衛さへえも、ハタと気付きづいた。

「まさかに…、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさま清水宮内しみずくない卿様きょうさま追落おいおとすべく、此度こたび事件じけん画策かくさくしたと?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえこえふるわせつつ、そうたずねた。

 三卿さんきょうたるおのれ家老かろうとしてつかえる昌忠まさただが、

「こともあろうに…」

 将軍しょうぐん寵愛ちょうあいあつおく医師いしせがれ斬殺ざんさつおよんだとなれば、下手人げしゅにんたる昌忠まさただもとより、昌忠まさただ主人しゅじんたる重好しげよしもその「管理かんり責任せきにん」がわれる事態じたい相成あいなろう。

 いや、厳密げんみつには三卿さんきょう家老かろうとは主従しゅじゅう関係かんけいにはない。家老かろうはあくまで公儀こうぎ幕府ばくふより三卿さんきょう屋形やかたへと派遣はけんされたであり、そうであれば三卿さんきょう家老かろう公儀こうぎ幕府ばくふ主従しゅじゅう関係かんけいにあり、してみると家老かろう不始末ふしまつ不祥事ふしょうじへの「管理かんり責任せきにん」はあくまで公儀こうぎ幕府ばくふうべきものであろう。

 だが、それはあくまで理屈りくつはなしであり、一般的いっぱんてきには三卿さんきょう家老かろう三卿さんきょう家臣かしんられがちであった。

 ましてや、最終的さいしゅうてき次期じき将軍しょうぐんめるけん将軍しょうぐん家治いえはるにしてみれば、清水家老しみずかろう昌忠まさただおのれ寵愛ちょうあいするおく医師いしせがれったとあらば、理屈りくつわすれて一般的いっぱんてき見方みかたをするであろう。すなわち、

重好しげよし管理かんり不行届ふゆきとどき…」

 そう看做みなし、そうなれば次期じき将軍しょうぐん選考せんこうにも重大じゅうだい影響えいきょうおよぼすのは間違まちがいない。

 はっきり言えば、

次期じき将軍しょうぐんには重好しげよしではなく、一橋ひとつばし治済はるさだよう…」

 家治いえはるがそうかんがえても不思議ふしぎではない。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえのその見立みたてにたいして、昌忠まさただも「左様さよう」と首肯しゅこうした。

 成程なるほど、それならばすべての説明せつめいがつくというものである。

 一橋ひとつばし治済はるさだの「うしだて」があれば、成程なるほど小笠原おがさわら主水もんどにしろ、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんにしろ、「危険リスク」をおかすのもやぶさかではないだろう。

 また、安永8(1779)年まで時間ときいたことにも説明せつめいく。

「さればいま…、小笠原おがさわら主水もんど殿どの黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん殿どの二人ふたりはもしや、一橋ひとつばし民部卿みんぶのきょうさまもとにてかくまわれているやも?」

 川副かわぞえ佐兵衛さへえはその可能性かのうせいにもれた。

 かりに、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりの「雇主やといぬし」が一橋ひとつばし治済はるさだだとして、そんな二人ふたりたよさきと言えば、「雇主やといぬし」たる治済はるさだいてほかにはいないだろう。

 小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん前後ぜんごして…、4月4日に逐電ちくでん、この清水屋敷しみずやしきより出奔しゅっぽんした事実じじつからもそれはうかがわれよう。

 4月4日に黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん本多ほんだ正忠まさただ代理だいりとして、西川にしかわ伊兵衛いへえより印籠いんろう受取うけとってから、4月9日に池原いけはら良明よしあきら斬殺ざんさつされるまで、6日間もの空白ブランクがある。

 そのかん黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもんもとより、小笠原おがさわら主水もんど自宅じたくかえった形跡けいせきがないとすると、一橋ひとつばし屋敷やしきにてごしていたとかんがえるよりほかにはないだろう。そして、目的もくてきげたあとも…。

おそらくはのう…、いや、いまでもかされておるのか、そこまではからぬが…」

 昌忠まさただじつおそろしいことをくちにした。

 すでに、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり治済はるさだにとっては用済ようずみであり、くちふうじられたのではあるまいか…、昌忠まさただはそう示唆しさしたのであった。

 たしかに治済はるさだにしてみれば、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたりは「爆弾ばくだん」のよう存在そんざいであり、そうであれば爆発ばくはつするまえに「処理しょり」しようとかんがえるのが普通ふつうであろう。

 ともあれ川副かわぞえ佐兵衛さへえはこれまでの「うら」をるべく清水屋敷しみずやしき辞去じきょすると、まずは清水しみずもん門番所もんばんしょへとかった。

 そのとき門番所もんばんしょにて門番もんばんつとめていたのは6000石の大身たいしん中根なかね日向守ひゅうがのかみ正均まさただとその家来けらいたちであり、今日きょう4月11日より10日間、つとめる。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ中根なかね正均まさただおのれ身許みもとかしたうえ来意らいいげた。

 すると中根なかね正均まさただこころよく、備付そなえつけ台帳だいちょう川副かわぞえ佐兵衛さへえ差出さしだした。

 川副かわぞえ佐兵衛さへえ中根なかね正均まさただ協力きょうりょく感謝かんしゃすると、早速さっそく台帳だいちょうった。

 お目当めあてのページである一昨日おととい、4月9日のじょうにはたしかに、暮六つ(午後6時頃)をすこぎたころに、清水家老しみずかろう本多ほんだ昌忠まさただ側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん二人ふたりおく医師いしにして、歯科医しかい安藤正朋あんどうまさともれて清水しみずもんくぐり、門内もんないはいったとの記録きろくがあった。

 それからよいの五つ半(午後9時頃)までのあいだ清水しみずもんくぐって門外もんそと清水家臣しみずかしん誰一人だれひとりとしていなかった。

 いや、清水しみずもんくぐらずとも、門外もんそとへと方法ほうほうはある。

 すなわち、田安たやすもんおよ竹橋たけばしもんくぐって門外もんそとへと方法ほうほうであった。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえはそれもたしかめることにしたが、そのまえに、小笠原おがさわら主水もんど黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん二人ふたり逐電ちくでん失踪しっそうした4月4日より、今日きょう4月11日までのじょうあらためてページをってみた。

 そのかん小笠原おがさわら主水もんど名前なまえも、黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん名前なまえつけることは出来できなかった。

 無論むろん、|明六つ(午前6時頃)から暮六つ(午後6時頃)までのあいだもんひらかれており、そのかんもん通行つうこうするものかんしては記録きろくとして台帳だいちょうにその通行つうこう書込かきこまれることはないので、4月4日から今日きょう4月11日までのあいだくだり小笠原おがさわら主水もんどおよ黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん、この両者りょうしゃ名前なまえつからなかったとしても、この清水しみずもんくぐらなかった証明しょうめいにはならないだろう。

 つまりはいましがたまでの清水家しみずけサイドの証言しょうげん裏付うらづけるものはなにもなく、逐電《ちくでん》、失踪しっそううそである可能性かのうせいもありた。

 だがすくなくとも、4月4日に黒川くろかわ久左衛門きゅうざえもん家老かろう本多ほんだ昌忠まさただ代理だいりとして西川にしかわ伊兵衛いへえより印籠いんろう根付ねつけ受取うけとったのは事実じじつである。それは第三者だいさんしゃとも言うべき西川にしかわ伊兵衛いへえ証言しょうげんにより裏付うらづけられていた。

 だとするならばいまのところは清水家しみずけサイドの証言しょうげん軍配ぐんばいげざるをない。

 それから川副かわぞえ佐兵衛さへえ田安たやすもん竹橋たけばしもんにもあしはこび、夫々それぞれ門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうってみたものの、結果けっかおなじであった。

 すなわち、池原いけはら良明よしあきら斬殺ざんさつされたとおぼしき、|暮六つ(午後6時頃)よりよいの五つ半(午後9時頃)にかけて、田安たやすもんおよ竹橋たけばしもんくぐって門外もんそとへと清水家臣しみずかしん名前なまえつけることは出来できなかった。

 ちなみに、門外もんそとへと方法ほうほうとしてはさらにもうひとつ、べつルートがあり、それは、

かど番所ばんしょくぐって、代官だいかんちょうどおりをけて半蔵はんぞうもんより門外もんそとへとる」

 というものであった。

 だがこれも、暮六つ(午後6時頃)をぎれば不可能ふかのうであった。暮六つ(午後6時頃)をぎると、かど番所ばんしょ完全かんぜん閉切しめきられ、三十六さんじゅうろく見附みつけように、門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうに、

住所じゅうしょ氏名しめい年齢ねんれい職業しょくぎょう…」

 それらを書込かきこんで通行つうこうゆるしてもらわけにはいかなかった。

 つまり、暮六つ(午後6時頃)より明六つ(午前6時頃)までのあいだは、清水屋敷しみずやしき出入ではいりするには清水しみずもん田安たやすもん、そして竹橋たけばしもんくぐるよりほかはなく、そのかん清水屋敷しみずやしきは、あるいは真向まむかいの「おとなりさん」である田安屋敷たやすやしきにもまることだが、さしずめ密室みっしつ状態じょうたいとなる。

 そのかんもんくぐろうとおもえば、かなら門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょう記録きろくとしてのこされるからだ。

 だが清水しみずもん門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうもとより、田安たやすもんおよ竹橋たけばしもん夫々それぞれ門番所もんばんしょ備付そなえつけ台帳だいちょうにも清水家臣しみずかしん通行つうこう記録きろくはなかった。

 いや、4月9日の暮六つ(午後6時頃)前に清水しみず田安たやす竹橋たけばしいずれかのもんより門外もんそとて、犯行はんこう、どこぞにて一泊いっぱくしてその翌朝よくちょう、つまりは4月10日の明六つ(午前6時頃)以降いこうふたたび、いずれかのもんより門内もんないへと|入《はいり、そして清水屋敷しみずやしきへとかえれば、台帳だいちょう記録きろくとしてのこることはない。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえ無駄足むだあしむことは承知しょうちうえで、清水家しみずけサイド、それも重好しげよし証言しょうげん申告しんこくした「現場不在証明アリバイ」のうらることにした。

 そのため川副かわぞえ佐兵衛さへえかったさきはまずは小石川こいしかわ富坂上とみさかうえであった。そこに、多古たこはん上屋敷かみやしきがある。

 4月1日より10日までの10日間、田安たやすもん門番所もんばんしょにて門番もんばんつとめていたのは多古たこ藩主はんしゅ松平まつだいら豊前守ぶぜんのかみ勝全かつたけであり、その勝全かつたけは4月9日の暮六つ(午後6時頃)以降いこう歯痛はいたくるしんでいた本多ほんだ六三郎ろくさぶろう見舞みまうべく、おのれ名代みょうだいとして家老かろうつかわしたとのはなしであり、そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえとしてはその家老かろうじかって、重好しげよしの「証言しょうげん」のうらるつもりであった。

 多古たこはん上屋敷かみやしきでも川副かわぞえ佐兵衛さへえ寺社じしゃやくという肩書かたがきかげであろう、藩主はんしゅ勝全かつたけ歓待かんたいされると、川副かわぞえ佐兵衛さへえのぞとおり、家老かろうを、それも村瀬むらせ茂兵衛もへえなる家老かろう川副かわぞえ佐兵衛さへえもとへとれてさせた。

 そこで川副かわぞえ佐兵衛さへえ家老かろう村瀬むらせ茂兵衛もへえに4月9日のけんたずねた。

 すると村瀬むらせ茂兵衛もへえからかえって返答へんとうたるや、重好しげよしの「証言しょうげん」のただしさを裏付うらづけるものであった。

 いや、それどころか補強ほきょうするものであった。

「暮六つ(午後6時頃)ぎに清水宮内しみずくないきょうさまやしきへとまいりますと、丁度ちょうど物頭ものがしら本多ほんだ六三郎殿ろくさぶろうどの安藤安仙殿あんどうあんせんどの治療ちりょうけられていた最中さなかにて、それゆえ手前てまえ本多ほんだ殿どのに…、六三郎殿ろくさぶろうどの挨拶あいさつするのはひかようおもうた次第しだいにて…、なれどそれでは申訳もうしわけないと、家老かろう本多ほんださまが…、そこで本多ほんださまおとうと六三郎殿ろくさぶろうどのに…、治療ちりょうちゅう六三郎殿ろくさぶろうどのこえをかけられ、手前てまえ見舞みまいにまいりましたことをつたえられ…、安藤安仙殿あんどうあんせんどのかせられて治療ちりょうめ…、すると六三郎殿ろくさぶろうどの起上おきあがろうとなされ、流石さすが手前てまえもそれにはおよびませぬと…、すると六三郎殿ろくさぶろうどのも、斯様かようなる見苦みぐるしきていにて申訳もうしわけござらぬと、びられまして…」

 これで本多ほんだ昌忠まさただ六三郎ろくさぶろう兄弟きょうだいの「現場不在証明アリバイ」が裏付うらづけられた格好かっこうであった。

 いや、昌忠まさただかんして言えば、側用人そばようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん共々ともども安藤正朋あんどうまさともともない、暮六つ(午後6時頃)ぎに清水しみずもんくぐって門内もんないへとはいったことがくだん台帳だいちょう記録きろくとしてとどめられていることからも、「現場不在証明アリバイ」は完璧かんぺきであった。

 池原いけはら良明よしあきら死亡推定時刻しぼうすいていじこくである暮六つ(午後6時頃)からよいの五つ半(午後9時頃)までのあいだ昌忠まさただ本目ほんめ権右衛門ごんえもん清水しみずもんもとより、田安たやすもん竹橋たけばしもんいずれのもんからも記録きろくはないからだ。

 あるのはよいの五つ半(午後9時頃)をぎたころ安藤正朋あんどうまさとも清水しみずもん記録きろくだけである。

 いや、安藤正朋あんどうまさともだけではない、もう一人ひとり家老かろう吉川從弼よしかわよりすけと、それに二人ふたり番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのも勝明かつあきら近藤こんどう助八郎すけはちろう義種よしたねもあった。

 どうやら、安藤正朋あんどうまさとも屋敷やしきへとかえるにさいして、家老かろう番頭ばんがしら屋敷やしきまで見送みおくりにったものとおもわれる。

 それゆえ家老かろう從弼よりすけと、番頭ばんがしら杉浦すぎうら頼母たのも近藤こんどう助八郎すけはちろうの「現場不在証明アリバイ」も裏付うらづけられた。

 かり從弼よりすけたちのいずれかが池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつした下手人げしゅにんだとして、その場合ばあいよいの五つ半(午後9時頃)ぎに清水しみずもんくぐって門外もんそとへとるには、そのまえ、それも三十六さんじゅうろく見附みつけじられる暮六つ(午後6時)からよいの五つ半(午後9時頃)まえ清水しみずもんあるいは田安たやすもんしくは竹橋たけばしもんいずれかのもんくぐって門内もんないへとはいり、清水屋敷しみずやしきへともどらねばならない。

 だが、その場合ばあいかなら台帳だいちょう記録きろくとしてのこり、しかしそのかん清水しみずもんもとより、田安たやすもん竹橋たけばしもんくぐって門内もんないへとはいった清水家臣しみずかしん誰一人だれひとりとしておらず、そのため從弼よりすけたちもまた、池原いけはら良明よしあきら刺殺しさつされたとおぼしき死亡推定時刻しぼうすいていじこくには清水屋敷しみずやしきにいたとかんがえざるをない。

「その手前てまえはた奉行ぶぎょう倉橋くらはし武右衛門ぶえもん殿どの長柄ながえ奉行ぶぎょう戸田とだ可十郎かじゅうろう殿どの案内あないにて座敷ざしきへといざなわれ、そこでおそおおいことに清水宮内しみずくないきょうさま拝謁はいえつし…」

 これで重好しげよしはた奉行ぶぎょう倉橋くらはし武右衛門ぶえもん景平かげひら長柄ながえ奉行ぶぎょう戸田とだ可十郎かじゅうろう格誠まさのぶの「現場不在証明アリバイ」も裏付うらづけられた。

「それから手前てまえは…、ほかの、酒井さかいさま鈴木すずきさま家中かちゅうともに、盛大せいだいなるもてなしをけまして…」

 酒井さかいさまとは竹橋たけばし門番もんばんつとめていた伊勢崎いせざき藩主はんしゅ酒井さかい忠温ただはるであり、鈴木すずきさまとは清水しみず門番もんばんつとめていた鈴木數馬すずきかずまのことであった。両者りょうしゃとも、松平まつだいら勝全同様かつたけどうようおのれ名代みょうだいとして家中かちゅう家老かろう清水屋敷しみずやしきへと差向さしむけたとの重好しげよしはなしであり、いま村瀬むらせ茂兵衛もへえ証言しょうげんにて、それもまた裏付うらづけられた。

「されば手前てまえ用人ようにん福村ふくむら理太夫りだゆう殿どの本目ほんめ平七へいしち殿どの両人りょうにん給仕きゅうじけましてな…」

 村瀬むらせ茂兵衛もへえ如何いかにも恐縮きょうしゅくていのぞかせた。

 それはそうだろう。なにしろ三卿さんきょう用人ようにんと言えば、従六位じゅろくい布衣ほいやくである。

 一方いっぽう村瀬むらせ茂兵衛もへえと言えば、名門めいもん久松ひさまつ松平まつだいらながれ多古たこ藩主はんしゅ松平まつだいら勝全かつたけもと家老かろうつとめるものである。

 とはもうせ、そのはあくまで大名家だいみょうけ陪臣ばいしんぎず、身分みぶんで言えば、従六位じゅろくい布衣ほいやくである三卿さんきょう用人ようにんほう圧倒的あっとうてきうえであった。

 その用人ようにんから、それも二人ふたり用人ようにんから給仕きゅうじけたのだから、村瀬むらせ茂兵衛もへえ恐縮きょうしゅくするのも当然とうぜんであった。

 ともあれこれで、用人ようにん福村ふくむら理大夫りだゆう正敏まさとし本目ほんめ平七へいしち親平ちかひらの「現場不在証明アリバイ」もたしかめられた。

 ちなみに、村瀬むらせ茂兵衛もへえ証言しょうげんにより、伊勢崎いせざき藩主はんしゅ酒井さかい忠温ただはる家老かろう速見はやみ九兵衛くへえには大久保おおくぼ半之助はんのすけ忠基ただもと近藤こんどう小八郎こはちろう義端よしただが、鈴木すずき數馬かずま家老かろう鈴木すずき求馬もとめには根来ねごろ茂右衛門もえもん長方ながかた井戸いど茂十郎もじゅうろう弘道ひろみち夫々それぞれ給仕きゅうじになったとのことである。

 無論むろん川副かわぞえ佐兵衛さへえとしてはあと当人とうにんよりうらるつもりではあるが、村瀬むらせ茂兵衛もへえうそをついているともおもえず、これでほぼ、小笠原おがさわら主水もんどのぞいた6人の用人ようにんの「現場不在証明アリバイ」も裏付うらづけられたと言えるだろう。

「そうそう…、かえりにはまた、過分かぶん土産みやげ頂戴ちょうだいいたしましてな…」

 村瀬むらせ茂兵衛もへえおもしたかのようにそうげたので、川副かわぞえ佐兵衛さへえおもわず、「土産みやげ?」と聞返ききかえした。

左様さよう…、されば料理りょうり切手きって反物たんもの頂戴ちょうだいいたしましてな…」

 たしかに土産みやげとしてはいささか、過分かぶんであろう。

 それらの土産みやげだが、村瀬むらせ茂兵衛もへえ証言しょうげんによると、小姓こしょうらが手分てわけして、くばっていたとのことであった。

 流石さすがにその小姓こしょうまでは村瀬むらせ茂兵衛もへえにもかりかねるとのことであり、それゆえ、その小姓こしょうらの「現場不在証明アリバイ」をたしかめるすべはなく、しかし、川副かわぞえ佐兵衛さへえとしては最早もはや、それも不要ふようようおもえた。

 なにしろ「八役はちやく」のうち、家老かろう番頭ばんがしら用人ようにんはた奉行ぶぎょう、そして長柄ながえ奉行ぶぎょうの「現場不在証明アリバイ」がほぼたしかめられたのである。このうえの「現場不在証明アリバイ」は不要ふようであろう。

 かり家老かろう本多ほんだ昌忠まさただが、いや、三卿さんきょう清水しみず重好しげよしすべ仕組しくんだことだとしても、その場合ばあいヒラ小姓こしょうや、あるいは近習きんじゅうなどにころしをめいじるともおもえない。

 その場合ばあいには幹部かんぶクラスである「八役はちやく」をいてほかにはありないだろう。

 いや、「八役はちやく」ではなくとも、目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらならば、ありるやもれぬ。

 三卿さんきょう目附めつけ徒頭かちがしら小十人こじゅうにんがしらならば、「八役はちやく」に幹部かんぶであり、ころしをめいずる相手あいてとして不足ふそくはないであろう。

 それに「八役はちやく」のうちでもまだ、物頭ものがしらこおり奉行ぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょうの「現場不在証明アリバイ」は裏付うらづけられてはいなかった。

 だが、これももなく、

「いとも容易たやすく…」

 その「現場不在証明アリバイ」が裏付うらづけられることとなる。

 まず物頭ものがしらだが、すでに「現場不在証明アリバイ」が成立せいりつしている本多ほんだ六三郎ろくさぶろうのぞいて、蔭山かげやま新五郎しんごろう小野おの四郎五郎しろうごろうがいた。れいの、毎日まいにち門番所もんばんしょへと食事しょくじ差入さしいれる面子めんつである。

 そのうち、田安たやすもん門番所もんばんしょへと食事しょくじ差入さしいれていた蔭山かげやま新五郎しんごろう村瀬むらせ茂兵衛もへえ門番所もんばんしょまで見送みおくったというのである。

宮内くないきょうさまより頂戴ちょうだいつかまつりましたる土産みやげ品々しなじな、とても一人ひとりでは持切もちきれず…」

 そこで蔭山かげやま新五郎しんごろう村瀬むらせ茂兵衛もへえため土産みやげ品々しなじな門番所もんばんしょまでってやったというのである。

 そればかりではない。村瀬むらせ茂兵衛もへえ清水屋敷しみずやしきときすでに宵五つ(午後8時頃)をまわっており、あた一面いちめん暗闇くらやみということで、足許あしもとらす提灯ちょうちん不可欠ふかけつであり、重好しげよしなんと、村瀬むらせ茂兵衛もへえため提灯ちょうちんちまでつけてくれたと言うのである。

「さればこおり奉行ぶぎょう杉本すぎもと理右衛門りえもん殿どの提灯ちょうちんちに…」

 杉本すぎもと理右衛門りえもん愷利やすとし安井やすい甚左衛門じんざえもん保狡やすとし二人ふたりこおり奉行ぶぎょうつとめていた。

 ちなみに、村瀬むらせ茂兵衛もへえ証言しょうげんによれば、伊勢崎いせざき藩主はんしゅ酒井さかい忠温ただはる家老かろう速見はやみ九兵衛くへえため土産みやげ品々しなじなかかえたのは小野おの四郎五郎しろうごろうであり、提灯ちょうちんちをつとめたのは勘定かんじょう奉行ぶぎょう酒井さかい外記げきであったそうな。

 いや、それまで―、4月1日から10日までの10日間、竹橋たけばしもん門番もんばんつとめていた酒井さかい忠温ただはるとその家臣かしんため食事しょくじとどけていたのは小野おの四郎五郎しろうごろうであるので、その小野おの四郎五郎しろうごろう酒井さかい忠温ただはる家老かろう速見はやみ九兵衛くへえため土産みやげ品々しなじなかかえてやるのは当然とうぜんとしても、それならば提灯ちょうちんちにしても、こおり奉行ぶぎょう安井やすい甚左衛門じんざえもんつとめるのが自然しぜんではあるまいか…、川副かわぞえ佐兵衛さへえはそう疑問ぎもんおもった。

 するとその疑問ぎもん村瀬むらせ茂兵衛もへえこたえてくれた。

「いや、本来ほんらいなれば今一人いまひとりこおり奉行ぶぎょう安井やすい甚左じんざ提灯ちょうちんちをつとめさせるべきところ、生憎あいにく安井やすい甚左じんざ久方ひさかたぶりにやすみをり、宿下やどさがりをしているによって…、と宮内くないきょうさま斯様かようおおせられて、そこで安井やすい殿どのわりに、勘定かんじょう奉行ぶぎょう酒井さかい殿どのを…、酒井さかい外記げき殿どの提灯ちょうちんちにつけられたよし…」

 成程なるほど、そういうことかと、川副かわぞえ佐兵衛さへえ合点がてんがいった。

 そういうことならこおり奉行ぶぎょう安井やすい甚左衛門じんざえもんではなく勘定かんじょう奉行ぶぎょう酒井さかい外記げき提灯ちょうちんちをつとめたことにも合点がてんがゆく。

 だがそうなると、酒井さかい外記げきに「現場不在証明アリバイ」がないことになる。

 三卿さんきょう家臣かしん基本的きほんてきには「住込すみこみ」が原則げんそくであり、清水家しみずけれいれば、清水しみず邸内ていないにある長屋ながや、さしずめ組屋敷くみやしきにて家族かぞくとも起居ききょするのが原則げんそくであった。

 それでもたまに、やすり、実家じっかへともどる、つまりは「宿下やどさがり」をすることも可能かのうであった。

 安井やすい甚左衛門じんざえもん場合ばあいはそれがどうやら、池原いけはら良明よしあきらころされた4月の9日であったようだ。

 そしてそのために、安井やすい甚左衛門じんざえもんには「現場不在証明アリバイ」の存在そんざいたしかめられなくなってしまった。

 いや、「現場不在証明アリバイ」がないからと言って、下手人げしゅにんまったわけではない。「現場不在証明アリバイ」がないからすなわち、下手人げしゅにんだとかんがえるのは短絡的たんらくてきよう

 それにころしともなれば、こおり奉行ぶぎょうよう役方やくかた文官ぶんかんにやらせるともおもえない。

 やはり武官ぶかん番方ばんかたにやらせようとかんがえるのが自然しぜんであった。

 それゆえ川副かわぞえ佐兵衛さへえとしては、安井やすい甚左衛門じんざえもんにはいまのところ、「現場不在証明アリバイ」がたしかめられないからと言って、下手人げしゅにんであるとはおもえなかった。
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